第20話 皇の巫女

 SCENE 01



 皇司は、皇神社の『巫女』である。

 お化けが嫌いで、幽霊も怖い。


      ☆


 神社の鳥居の前に立った時――ふいに目眩がした。

 頭蓋の奥の深いところ、脳髄の芯を鋭い針で指されるように不快な頭痛を感じて、司は幾度か深呼吸を繰り返す。

 ――毎日暑い……。

 鳥居にもたれて額を押さえ、そんなことを思ったが、次の瞬間――司はなんだか滑稽になって唇を噛んだ。

 ――暑いから、だけじゃ、ない……か。

 けれど、それを認めたくないことは事実だ。

 鳥居を仰ぐと注連縄の向こうに夏空が見えた。

 傾きはじめた太陽からなだれ落ちてくる光が眩しくて、司は一瞬目をすがめたが、すぐに身を起こす。そして、一歩境内に踏み出した。

 鳥居と注連縄が結界する黄泉の女神の聖域へ。

 司は、巫の血を受け継いでいる。

 夏、――というのは嫌な季節だ。

 彼岸から、此岸へと死者が還る季節だ。

 古来より。世には、憑坐として生まれつきし者がある。

 ただ人には閉ざされた、異界を識る者がある。

 自分は――。



 玉砂利を蹴って、参道を抜けてゆく。

「あ、司ちゃん。おかえりなさァい」

 その途中で、竹箒をもったバイト巫女が司の姿を認めて手を上げた。長く艶やかな黒髪を束ねた、いかにもな風情の女性だ。

 足を止め、司は軽く頭を下げた。

「ミサトさん。こんにちは」

「今日もあついわよねえっ。夏休みなのに制服なんか着ちゃって、なあに、部活?」

「そお。暑くて大変だったよ。休み中、は教室の空調止まってるんだもん。レイカさんは?」

「柚真人君がいま、社殿で『お祓い』で。レイカはそのお手伝いよ」

 ミサトが肩を竦めて微笑み、社殿を示すので、司は参道の奥の社殿を見遣った。

 言われてみると、今日は七月の――三十一日。

 ――『晦日祓』の日――だ。

 皇神社では、処分に困るような曰付きの物や心霊写真、供養が必要と思われる道具などを、世間一般の人々から委託のもとに預かって、浄化鎮魂の祝詞を上げ、しかるべき処置をして処分している。

 それもまた『死者祓』の一部なのである。月末に行うのでこれを『晦日祓』と称し、大概の神社で――もちろん皇神社でも――行われる、『夏越の大祓』とはまた異なった意味合いを持つ。

 皇神社の神事だ。

「あ、じゃあ、緋月ちゃんも来てるんだ?」

 参道で立ち止まった司は、社殿を横目に見ながら尋ねた。

 晦日祓は皇神社が伝承する正式な儀式だから巫女も必要なのだが、司はその勤めを拒否している。そのため、柚真人が神主となってからはバイト巫女と暁緋月が柚真人を手伝っているのだ。

 ミサトは軽く頷いた。

「ええ、暁のお嬢様ね。いらしてますよ。あの可愛らしい方ね」

 司は頷いた。

「そうそう。緋月ちゃんは、可愛いって、嬉しくないみたいだけれどね」

「あれでしょ。当たり前のことは言わないで下さる? ってやつ」

「そうそう、それ」

 司は微笑むミサトにふたたび会釈し、参道を歩きだした。

 社殿の前の鳥居をくぐって斎庭を横切り、参道を逸れ、林の奥へ続くかのように見える細い道を少しゆくと、神社と皇の屋敷との敷地を隔てる格子門。

 司は、もういちど足を止めて――肩越しに社殿を見ながら、格子門の扉を開けた。


      ☆


 夏休みの間は、皇邸に家政要員はいない。

「学校がない時は、身の回りの世話ぐらい自分達でやりなさいね」、とは家政要員の雇主たる長兄・卓史の言葉だ。

 その言葉に従って兄と家事を分担した結果、料理と掃除以外が、司の担当だった。

 西日に照らし出された庭を見ながら、干してある洗濯物を入れなくては、と思う。

 玄関から家に上がると、家はしんとしていて、涼しい空気に満たされていた。

やたらめったら古いこの木造純日本建築の邸宅は、まわりを雑木林や竹林に囲まれていることもあってか、真夏でもかなり過ごしやすい。

 玄関から真っ直ぐ伸びた薄暗い廊下をずっと行くと、司の部屋だ。けれど司は、自室に行く前に、右手にある応接間を覗いた。

 たった今まで人が――誰かがいたような気配があったからだった。応接間は廊下に面した襖が開け放たれ、部屋中央のテーブルには急須と、飲み残したお茶の入った湯飲みが二つ置かれていた。それと――。

 ――写真?

 数枚の写真のようなものが在るのがわかった。

 兄の『仕事』の関係での、来客が、あったのだろう。すると、察するにその写真もまたそれにかかわるものであるはず。

 すなわち司にとって好ましいものではない。

 写真からは、不吉な感じがした。

 いうなればそれは――。

 回避すべき悪寒、忌避すべき寒気。

 よくないものである。

 司には、それがわかる。全身に鳥肌が立つつような、冷たい不快感。

 ――これは……見ちゃ、駄目だ。触っちゃ駄目。

 司は嘆息し、写真はそのまま置いておいて――これは柚真人が管理すべきものだから、触ってはいけない――急須と湯飲みを取り上げた。それらを台所の流しへ持ってゆき、応接間の襖を閉め、そして自分の部屋へ向かった。

 鞄を置いたら制服を着替え、洗濯物を取込んでたたんで――。

 柚真人と緋月が晦日祓をしている間に、司にもしなくてはならないことは在った。

 けれど、でも。

 そう思う時、胸によぎるのは何だろう。

 罪悪感――。

 自己嫌悪、にも似た、喉の奥につっかえるような、気持だ。

 これは、現実逃避だろうか。

 司は、この社を兄と二人で守るべきつとめを負う、巫女である――だが。

 神社の神事のすべてを、投げ出して兄やほかの人間に任せてしまうのは――皇の家にその血を受け継いで生まれたからには、目を背けてはいけないことなのかもしれない。

 死者の魂に触れることのできるこの巫の力。

 巫女の力。

 それが己の裡に宿っていることは、知っている。

 知ってはいるが。

 ――認めたくは、無い。 

 それは、存外におぞましいものだ。司には、どうしたって受け入れられない。

異能を授かったからといって、それを黙って受け入れなくてはならないというのは、不条理なことだ。理不尽なことだ。

 怨嗟、呪詛、苦悶、悲嘆、悔恨、哀願――人の魂の闇。

 そんなもの――知りたくない。

 司はそれらからできうるかぎり目を背けてきた。これは現実のものでない。

幻――夢――妄想――何でもいい、とにかく受け入れたくなかった。視たくなかった。聴きたくなかった。

 ――夏は、嫌な季節だ。

 司は、制服を脱ぐ手をとめて、軽く、横に頭を振った。

 二人が儀式と禊を終えてくるころには、お茶ぐらい用意しよう。柚真人は、絶対に台所をいじるなというが、お茶をいれるぐらいのことはいくら何でも許されるだろう。



 柚真人と緋月が仕事を終えて、皇邸へ戻ったのは、それから程なくのことだった。





 SCENE 02



 翌日も朝から青空が広がり、とても暑かった。


      ☆


 その日の部活は午後からで、暁緋月は、教室に荷物を置くと胴着と竹刀を携えて、教室を出た。更衣室で着替えて、防具を身に付けたら、これから三時間半の鍛練だ。

 一年校舎の廊下の窓からは、西の空が見える。

 陽はまだ高かったが、青い空に湧き出す入道雲が見えた。

 ――あら……。

 真っ白な雲は、西から東にせり出すように、空の天涯を浸蝕している。積乱雲は、見ている間にも高く高く育っていくように見えた。

 ――今日は、夕立がくるかしら……?

 天気予報ではそんなことをいっていたかもしれない。夕方は、いくらか涼しくなるだろうか。

 道場の暑さを思いながら、緋月は足を速めた。



 開け放った窓の向こう、今は緑の桜並木を抜けたところにある道場体育館からは、遠く、かすかに、喚声や、竹刀の弾ける音。そして校庭の方からは、運動部のおざなりな掛け声や、笛の音が、聞こえる。

 教室の時計は午後四時半をまわって、本日の部活動の終了が間近いことを告げていた。

「ね。なんだか凄い曇ってきてない?」

 誰かが言い、教室にいた生徒達は、その声につられるように窓を見遣った。

「あ、ほんとだな」

「真っ暗だね」

 隣で作業にいそしんでいた佐原彩も顔を上げた。

「……皇ちゃん、傘持ってきた?」

訊かれた司は友人に肩を竦めて見せる。

「全然。でも夕立だったら、傘は役に立たないと思う」

「……そりゃそうか」

「降りそ?」

「うん、かなりね。向こうの空、真っ黒だもの」

 言われて、司も顔を上げた。窓から空を見る。

 司が級友の笹原彩と所属しているのは、『美術部』だ。美術部といっても、絵を描くことをもっぱらの目的とする、典型的な美術部ではない。

 西陵高校では、そのような部は『絵画部』と呼ばれ、『美術部』とは別に存在する。司の

所属する部は、絵画を描くことはしない。活動内容は、木版画や七宝焼の作成、判子の篆刻、などで――どちらかというと工芸に近いのである。そのせいか、『絵画部』より、男子の比率がいくらか高かった。

 現在の司たちは、夏休み期間中に製作するステンドグラスの下書作業中だった。ステンドグラスといってもそんなに大袈裟な物ではなくて、画用紙ほどの大きさだ。図柄はそれぞれだったが、司は鳥を、彩は数学的幾何学模様をテーマにしていた。

 予定では、文化祭に展示することになっている。

 彩が作業を止めて、定規で肩を叩きながら鼻を鳴らした。

「……夕立が通り過ぎるのを待つべきかしら」

 ステンドグラスにしては斬新な、彩のデザイン画を覗き込みながら、司も頷く。司の方はといえば、あまり絵は得意でなくて、図書館から拝借してきた鳥の図鑑が机の上に広がっていた。下書用の紙は、白いままだ。

 嘆息し、司も彩に習った。両手を延ばして伸びをする。

「微妙なところだなあ。今なら走れば、降り出す前には駅に着くかも」

「今年は、夕立が多いわね」

「そうだね……」

 窓からの風は湿度を帯び、遠くの雨の匂いを運んでくる。

 遠雷が聞こえた。

 司と彩が、どうしようかと顔を見合わせた――その時。

「じゃあ、今日はこの辺にしておきましょうか。各自、後片付けをして、解散していいわ」

 教壇に立った部長が、にこやかに宣言した。

 美術部の現部長は、背が高くて髪の長い、綺麗な女生徒だった。この制作を最後に引退する、三年生だ。

「当番の人は、軽くでいいから、教室の清掃をしてから鍵を閉めて、顧問の先生に返却してから帰ってね」



 教室掃除の当番は司で、彩は彼女を待って一年校舎の昇降口にいた。

 校庭への扉の前にたたずんで空を見上げる。

 空は鈍色のものものしい雨雲に覆われつつあったが、まだ雨が降り出す様子はない。

 ――先、帰っていいよ、彩ちゃん。

 雨が降ったら濡れてしまうから、と言った司の言葉を思い出して、ひとり、小さく微笑む。

 彩は、待っていると言った。

「びしょ濡れで電車に乗る羽目になったら、お互いひとりはきついでしょ」と言ったら、司は困ったような表情で目を伏せたて何度も頭を下げた。

 ――ごめん、じゃ、すぐ! すぐすませる。ごめんね。

 今日、掃除当番なのは何もあんたのせいじゃないでしょ、と言ったのだが、どうしても、なんでも自分のせいにしてしまうきらいがあるようだ。あの友人は。

 数か月のつき合いで、彼女にはやたらと謝る癖があること、物静かで落ちついているのに粗忽で不器用だということを、彩は知った。

 ただそこにいれば、神社の娘だというのがしっくりくるくらい超然としていて、いっそ神秘的な感じさえするというのに、びっくりするようなへまっぷりを披露してくれるときもあるのだ。

 ――見てられないっていうか目がはなせないって言うか。

 彼女が来る前に、雨は降り出すだろうか――彩は、曇天を見上げ、近づいてくる雷鳴を聞きながら、ぼんやりとそんなことを思った。

 それなら二人で、雨宿りだ。


      ☆


 部活で使用した教室の清掃として、生徒に義務付けられているのは、床を掃き清めておくことだけだ。

 ひとり教室に残った司は、手早く清掃を済ませて、箒と塵取を教室の隅のロッカーにしまった。誰もいない教室、というのはあまり好きではない。

 例によって例のごとく、あわてて急げばそのぶんだけ、あちこちぶつけたり、ごみ箱をひっくり返したりと間の抜けたことをしてしまうのだが、それもなんとか片づけて立ち上がって照明を消し、教室前後の扉に鍵を掛け、司は職員室へと急いだ。

 そして鍵を返却すると、昇降口へ向かって廊下を掛け降りる。



 照明のない廊下は、空を覆う雷雲のせいで、薄暗かった。

 夏季休暇中の学校は、午後の部活動も終了して、ひと気がない。

 彩が待っている。雨が降り出さないうちに――そう思って、司が足を速めた。

 その時だ。

 頭の奥が、ぴりっと――かすかに痛んだのは。

 その感覚には覚えがあった。

 全身に鳥肌が立つ――いやな感覚。

「や……」

 足許から冷たい気配が這い上り、皮膚を撫で上げてゆく。

 唐突に全身を急襲した悪寒に戸惑う。

 司は――思わず立ち止まってしまった。

 ――駄目だ。駄目。

 止まってしまうと、足がすくむ。

 振り返ってはいけないのだと、わかっていた。

 だが。

 逆らえない。

 逆らえないということに愕然とした。

 こんなことは――滅多にない。

 強く、明確な、意思を感じる。それはもはやこの世の者ではない、存在の、確たる気配。

 ――な、なに、これ……?

 どくんどくんどくん。

 胸の奥の何かをぎゅっと握り締められたような窒息感に喘ぐ。恐怖に、心臓が暴れる。

 ――どう、して……?

 拒絶できない――そのことの事実が、恐怖を煽った。

 ――っ……。

 歯を食いしばって――司は。

 ゆっくり振り向く。

 振り向くと、真っ直ぐに、廊下が伸びていた。

 いま、自分が歩いてきた廊下。奇妙なのは――本当に真っ直ぐ伸びていて、ずっと、ずっと消失点まで廊下が続いている――ことだった。

 おかしい。学校の校舎の廊下がこんなにどこまでも長いはずはない。物理的に不可解だ。

 消失点と、司との、間ぐらいに――なにかが在った。

 影の凝り。人影だ。

 男? 女? 子供? ――わからない。

 ――コッチ。

 その、人影が『言』った。

 ――コッチ。

 するりと、すくんだはずの司の足が動いた。――前へ。

 雷鳴が聞こえた。

 空が、光った。



 緋月は、鞄を取り上げて教室を出た。

 教室には、まだ二・三、鞄や荷物が残っている。帰りは、剣道部の副主将・皇柚真人と一緒だったから、緋月は急いだ。柚真人が二年校舎の昇降口まできてくれる約束だったけれど、待たせるわけにはいかない。

 弾む足取りで階段を駆けおりる。

 そうして昇降口へと廊下を歩きだした時――だった。

 ふいにぞくっ――と嫌な感じがした。

 ――これは――。

 皇の血が感じる、不穏な空気。

 緋月には、覚えがあった。

 ――これは、昨日の――!!


      ☆


 七月末日の『晦日祓』のことだ。

 儀式の前、皇邸にひとり、来客があった。『晦日祓』の準備をしていた緋月は、柚真人の許しを得て、その来客との交渉に立ち会った。

 客の依頼は、いわゆる『心霊写真』の処分。

 通常、月末日の儀式前に預託された物の『祓』は、一括してその日の儀式に付されることになっている。

 だが、その時、緋月の隣に端座していた皇の巫は渋い顔をした。

 ――これは無理だ。簡単にはいかないよ。

 依頼主が退出したのち、写真を卓に並べて、柚真人が言った。

 写真を持ってきた依頼人のいうところのいわくは、こうだ。

 ――写真は、今年の七月の初めに、旅行先で撮影されたものだった。写っているのは、雑木林と、沼とも池とも着かない場所。それが何処かというと、正確にはわからないのだそうである。車で走っていると中、ふと車を止めてシャッターを切っただけだから、なんとなくは思い出せるが――例えば走っていた道路が県道だったことや、夕方陽が傾きかけたころだったとか、山道を抜ける途中だったことなどだが  正確な所在地がわからないという。それ自体は、単に、景色を撮影しただけの写真数枚だった。世間でもてはやされているような、いかにもそれらしい写り込みなどは、みられない。

 それゆえ依頼人も、気にはしていなかったというのだけれど、しかし。

 その後――夏休みに入って依頼主の息子が学校のプールで溺死しかけた。浅い、普通のプールで、である。子供は一時重篤な状態に陥ったらしい。救急車で病院に運ばれたのだが、治療に当たった糾明医は奇妙なことをいった。子供の肺には、泥水が流れ込んでいたと。有り得ないことだった。子供が溺れたのは、普通のプールだ。泥水など、いったいどうして?

 異変はそれが皮切りだった。やがて自宅の水道から出る水が濁り、異臭を放つようになった。水道管の奥からしじゅう、ごぼごぼという気持の悪い音が聞かれるようになった。ところが、点検しても設備に異常はない。それなのに、水道という水道から、悪臭を放つ水が流れ出る。幾度検査をしても、状況に変化はないという。今では、風呂にも入れず、水道水は完全に使用不能となった。

 依頼主は、その時になって、ふとこの写真が気になったのだという。

 そして、いったん思うと、気になって、気になって、どうにもしようがないのだという。

 何か、悪い災いをもたらすものが、この『写真』にうつり込んだのではないかと。

 子供はいまだ回復せず、妻は気味悪がって転居の検討を始めた。

 依頼主は、青い顔で、そのように語った。

 その写真が、いかなるモノを宿してしまったのか、ということまでは緋月にはわからなかった。だが柚真人には当然、すべてが見通せたはずだ。

 緋月にわかったことといえば、その写真が写し出している――禍々しい気配、だけ。

 その写真が凶兆を孕むものであることだけ。

 ただ、水の匂いがすると――思った。澱んで濁った、ともすれば吐き気を催すほどの鼻につく水の匂いが。

 ――こいつは別件で取り扱おう。簡単な『お祓い』では手にあまる。

 厳しい目をして、その時、柚真人は言ったのだ。



 その、――とても耐えがたい臭気を纏った気配だ。

 ――どうしてですの!?

 目線を上げると――女生徒の後ろ姿が目に入った。

 そして緋月ははっとした。

 あれは――司だ。

 咄嗟にそう思った。それは直感――だったろう。

 その瞬間、緋月は舌打ちする。

 そういえば昨日、柚真人とふたりで皇邸を訪れた時、司が帰宅していたではないか。

 開け放しておいた応接間の襖が閉まっていて、来客をもてなした茶器一式が片付けてあった。

 ――迂闊な!

 司が、あの応接間に入ったのだ。

 他でもない、皇司が!

 希代の巫女、至上の憑坐――皇司が。


「司っ!」



 緋月は声を張り上げた。

 その後ろ姿に漠然と不安を感じた。

 司の身に、よくないことがおこりかけている。そう思ったのだ。

 張った声に載せた意思で、なんらかの呪縛を裁てたらと――そう期待したが。

 一瞬のまばたきの合間に。

 彼女の後ろ姿が消えた。

 緋月は目をしばたたいた。

 なんどもなんども、まばたきを繰り返す。

 幻覚? 見間違い? いや、確かにいたはずだ。あれは間違いなく司だった。

「……つ……かさ?」

 もはや廊下に人影はない。

「つかさ!?」

 緋月は咄嗟に四囲を見渡す。だが、いない。いま、その先にいたはずの、皇司の姿がない。見当たらない。

 ――消えた? そんな……馬鹿な!!

「つかさ、どこですの!! 司!」

 返答はない。

 暗い廊下に稲妻の白い光が交錯し、轟音が空気を震わせる。



 緋月は、再び舌打ちし、廊下を駆け出した。


      ☆


「遅かったね、緋月」

 昇降口の外では、皇柚真人が人待顔でたたずんでいた。

 柚真人は緋月の姿を認めると柔らかく微笑んで手を上げかけたが、その血相変えた形相にすぐさま異変を悟ったようだ。

「どうした?」

「こちらへいらして!」

 緋月はかまわず柚真人の手を掴んで校舎の中へ引きずり込む。

「おい、緋月!?」

「お気付きになりませんの!」

 と言いかけて、緋月はさっきまでの嫌な空気がすっかり消えていることに気付く。

「緋月?」

「……柚真人さま、司が」

「……司?」

 ――なんといったらいいだろう? 

 焦って、緋月は一瞬口ごもった。言葉が上手く出てこない。

「あの、その――たったいまここの――ここの廊下で、消えてしまったのです!

 信じられませんわ! 消えたんですのよっ! わたくし――! 司、――司

が!」

 人の心配を余所に、凡人を決め込んできるあの危なっかしい幼馴染みが恨めしい。

 身を守る術さえ持とうとしないから、心配で仕方ないというのに――この様だ。

「緋月、ちょっと落ち着いて」

「落ち着いてなんていられませんわよ! 司……、昨日あの部屋に――『写真』をおいてあった、あの部屋に入ったのですわ!」

 途端。

 柚真人の表情が変わった。

「なに――?」 

 緋月の肩を抑えながら、すっと目を細めて視線を流す。

 緋月は黙ってそれを見ていた。

「――柚真人さま……」

「まずいな。それと知らず、憑かれたわけか」

「申し訳ありません、……わたくし、きちんと片付けておくべきでしたわ」

「『消えた』といったな?」

「ええ……その……信じられないのですけれど、でもそうとしか思えません。

一瞬で見失ったのですわ。どこにも行けるはずかありませんのに……」

「なるほど」

 緋月は目を瞠って柚真人を見た。

「そういうことも、ありえるのか……」

「柚真人さま……?」

 彼はすでに何か思案している。

 そういう瞳の色をしていた。

「司は……一体どうなってしまいましたの?」

 柚真人はそれには答えなかった。

「こちらとしては、巫女は取り戻したいな」

「ええ――ええ、当然ですわ」

 的を得た端的な応えに、緋月は大きく何度も頷いた。それだけは確かなこと。

緋月にはわからなくとも、皇柚真人は一瞬で理解したのだろう。何が起こったのか。

 それがまざしでわかる。

 十七歳の高校生は、瞬間で、氷の気配を漂わせる皇神社の神主になる。

 まなざしは厳しく、声音は鋭く。

「……おれの失態だ」

 低く、鋭く、彼は囁く。

 己を叱責するが如く。

 顔を上げて柚真人を見た緋月は次の瞬間、身が竦む畏怖を覚えた。

「柚真人さま……」

「優麻に連絡を。緋月、頼めるか?」

 緋月は頷いた。

 鞄から携帯電話を取り出して、記録されている番号を呼び出す。

「くそっ……どこだ。あの写真の場所は……っ」

 柚真人が鋭く呟いた。

「――」 

 その時の、皇の巫の表情を――しばらくは忘れられないだろう――そう思った。





 SCENE 03


 

 雨が降っていた。



 さああああ――。

 気がついた時には、全身が湿っていた。髪も衣服も肌に張りつき、至極不快だ。

 さああああ――。

 ――そうだ――夕立が――。

 ぼんやりと思った瞬間、いっきに意識が覚醒した。

 さああああ――。

  ――こ……ここっ、……どこ!?

 なまぐさい臭いが鼻についた。土と、朽ちた葉と、水の匂い。

 四囲に首を回らすと、あたりは一面の雑木林。足許に、冷たい水を感じて、ハッと目線を落とす。それからゆっくり目線を上げていって、やっと司は自分の状況を理解した。

 司は雑木林に囲まれた、沼の水際に立っていたのだ。沼の水は澱み、ぬるぬるとした感触で、水面は、雨がいくつもの波紋を描き、陰鬱な空の群青をうつして暗かった。

 夜になりかけているみたいだ。

 あたりはすでに薄暗かったが、それでも緑は深く色濃く、鬱蒼と茂り、水苔と葉の匂いが混じり合い、噎せるようないきれとなって濃密に漂っている。何処もかしこも湿っていた。

 葉を叩く雨の音だけが、静かに静かに空気を満たす。

 四方雑木林は奥まで見通せないほど深い。そして、昏い。

 ――ツカマエタ。

 ふいに声が響き、司は全身を硬直させた。

 目をやれば、対岸に人影がある。それに気付いて司はぞっとした。

 辺りが暗くて、その人影ははっきりとは認識できなかったけれど、間違いない。得体の知れないそのぼんやりとした朧な人影が、司に語り掛けているのだ。

 ――ツカマエタヨ。

 耳障りな音だった。ぎりぎりと耳もとで鋸の刃をこすり合わせるような音。  

 ――ツカマエタ。

 人影のようなものが、再度、言った。

 それは選択の余地など微塵も与えない、意思。司の耳には、『逃がすものか』と聞こえた。

 影のような像なのに、その人影が確かに、嗤ったと思える。

 不思議だと思った。雨が降っているのに、濡れているのに、温度を感じない。

 自分の体温、空気の温度を感じない。

 ――それよりあたし、どうしてこんなところにいるわけ? ここ……どこなの?

 茫然とただ、立ち尽くす。首筋に、湿気を孕んだ空気がそっと触れてゆく。

 対岸の人影は、にやにやと確かに嗤っているように感じられる。

 悪意、害意のようなものが、あわだつ気配とともに伝わってくる。背筋を、砕けた氷の破片がたくさん滑り降りてゆくような、おぞけを感じた。吐気が喉もとまでせり上がってくる。

 ――コッチニオイデ。

 

      ☆


 閃光の如く雷がひらめき、雷鳴が轟いた。

 優麻にはすぐに連絡がついた。車で来い、との柚真人の言葉に二つ返事で応じ、電話は切れた。

「……間に合えばいいが」

「……え?」

 柚真人は、緋月の戸惑いの表情を、あの厳しい表情のまま一瞥したが、説明はしなかった。

「司を探しに行く。……あの写真の場所が何処か。それが問題だ」

「写真の、場所ですって? まさか……」

「覚えているか? 依頼者の話」

 緋月は困惑して首を傾げた。柚真人は続けた。

「溺れた依頼者の子供の肺に、泥水が溜まっていたと言う話だ」

「ああ……」

「あの写真は質が悪いといったろう。おれが感じたのは、あれが、人を呼んでいる、と云うことなんだ」

「……呼んで……?」

「そう。それと、害意を通り越えた殺意だ。写真に何かが写り込んだわけじゃない。あの場所から、それを感じた。ひどく淋しいような怨念だったが、際限なく人を捕り殺すほど強烈な殺意と憎悪の塊だ。だからあの写真を始末するだけでは駄目だ、といったんだ。依頼者自身の問題は解決するが、根本的には解決になりはしない。だから少しばかり考えていたんだが……」

 ふいに緋月は悟った。

 柚真人が写真の場所を気にかけたわけが。

 だがそれは同時に有り得ない事実を示唆していることになる。

「でも……そんなことが……」

「意味の無いことを気にするな」

 ありえるのか、との緋月の問いを、最後まで聞かずに柚真人はあっさり一蹴した。

「写真を取りに戻っている時間はないし、あれから場所を辿るのは危険だ。あれを見た時のことを憶い出せ。手遅れになれば――司は文字通り命を奪われる」

「わ……かりました」

 緋月は、ぎゅっと――その場で目を瞑った。

 雷鳴なり響く校舎の中で、司のことを思った。いや――罵った、と言うべきだろうか。

 ――どうしてこうもど無防備なんですの、あなたは。

 ――危なっかしいったらないわ!

 ――すこしは反省すると良いんだわ!

 ――もう! もう! 気を揉ませないで頂戴!

 ――返事をなさって、司! どこにいるの!?





 SCENE 04



 ――オイデヨ。

 それは、さらに言い募った。

 嫌だ、と司は思った。けれど、意に反して司の足は一歩、沼の水に囚われてゆく。いうことをきかない自身の四肢。全身の毛穴から、冷たい汗が吹き出す。

 司は全身に、込められるだけの力を入れた。けれど、感覚が失われたかのように、手応えがない。心臓が、恐怖のために肋骨のしたで早鐘のような鼓動を刻み、胸が痛い。息が苦しい。

 これ以上逆らう術を、司は知らない。

 力任せに抵抗する術しか。だが、それはあながち間違いではないはずだ。柚真人は、言う。すべては『意思』の力、己の心を信じる強さがあればよいのだと。世のあらゆる事象は、意思が生み出し支配するのだと。

 恐怖に飲み込まれれば、司の意思は負ける。拒絶を思うのだ。強く。

 ――オマエモ死ネバイイ。

 膝まで水に漬かった。

 


 その、――瞬間。

 


 司の脳裏に何かが流れ込んできた。

 音。映像。声。感覚。感触。

 水。濁った水の匂い。澱んだ沼の臭い。冷たい。寒い。

 ひとりの少年。首に圧迫感。

 げっ、と喉が詰まった。

 ごふ、と咳をする。

 ぐぇ、と喉が鳴った。

 これはまるで、首を締められているみたい。

 鼻から口から侵入してくる臭い水。

 何度も何度も水面にたたきつけられる、顔。

 その度に肺から逃げてゆく空気。

 苦しい。苦しい。

 苦悶に頭を激しく振って、司は屈み込んだ。両膝に手をつく。

 その光景に圧倒される。正気が保てない。

「やめてっ」

 司は、潰されたような圧迫感を感じる喉からしぼりだすように悲鳴を上げた。

「いや! あたしのなかに、勝手にはいってこないで!」

 瞠目して両手で頭を抱え、首を振る。

「やめてやめて!」

みんなしんじゃえばいいんだ。

「いやよ! いや! 聞きたくない、見たくない、やだっ」

 ――死ンジャエヨ……。

 ――ボクミタイニ……。

 水の中に沈んでゆく体。

 遠くなる意識。

 死への恐怖。奪われる命への執着。

 怨嗟、憎悪、呪詛。

 ――ボクダケ死ヌナンテイヤダヨ。狡イヨ。

「嫌!」

 


 その刹那。

 


 あたりの空気が――流れて乱れた。

「――おい、そこな低俗霊」

 すぐ側で、聞き覚えのある声がして――。

「そのへんに、しておくんだな」

 司は顔を伏せたまま、目を、瞠る。

 ――この声。

 だがすぐには身体を起こせなかった。

「こいつはな。我が皇家の大切な巫女だ。傷物にされちゃあ困るんでね」

 声の主は、傲岸不遜な調子で続ける。

 司は――戸惑いながらも安堵を感じた。

 先刻から己の置かれていた状況はさっぱりわからないし、現状で一体何がおきつつあるのかもわからなかった。でも、それでも、もうそんなことはどうでもよかった。

 彼が、ここにいるのだから。

 柚真人の声――それが司の窮地を救った。兄の声を耳にした途端、全身の力がのこらず抜けている。

 ――でも何故、ここに、柚真人が。

 どうやら、事情が飲み込めていないのは自分だけのようだ。

 だがそれより先に、もう大丈夫だと、安堵してよいのだと、理解することはできた。

 死者がいなかる無念怨嗟を遺そうとも、皇の神主に敵は――無い。

 安心していい。もう平気だ。

 司は今にも倒れそうな身体を支えながら、うつむいたまま大きく息をする。

 柚真人が司の傍らまでやってきて、透明なよく通る声で言い放つ。

「おれの不興を買ってくれたことは理解できるか、死に損ない?」

「そうですわ! 許しませんわよっ」

 憤然たる、緋月の声も聞こえた。

 柚真人に緋月ちゃん――。

 ――一体……何が、どうなって――。

「司。ここで祓うから耐えろよ」

「つかさっ」

 視界が霞む。

 俯いたままうなずいたつもりではあったが。

 躯に力が入らない。

 意識が朦朧としてきて、膝から崩れ落ちるに任せようとすると――誰かの手が、――緋月ちゃん? ――躯を抱き留めた。

 司は呻いた。

「さァあ、覚悟はいいかな?」

 ――ナンダオマエ。邪魔……スルナ。

「……聞く耳もてませんわね」

「そういうことだ。お前の事情など、知ったことじゃあないんでね」

 ――イヤダ。イヤダイヤダ。……邪魔スルナ!

 途端、頭蓋の奥を裡から粉砕するが如き激痛が司の頭を襲った。

 みぞおちを鷲掴みされたようにひきつる胃。気持ち悪い。込み上げる吐気。一瞬後に、口から溢れるくぐもった悲鳴と、吐瀉物。

「柚真人さまっ、司がっ」

「大丈夫だ」

 すぐ近くで聞こえる冷静な兄の声は、いっそ冷徹と思えた。己の身を襲う苦しみが、一体何に起因するのか正しく理解できないまま、司は身を捩った。

「耐えろっ」

 叱責。 

 だが、それさえ。

 兄のものなら。

 耐えられる。

 目が霞む。頭が痛い。

 それでも。

「司!」

 緋月の心配そうな声を、耳もとに感じながら。



 司は――意識を失った。

 

      ☆


 遠くで、声がする。

 ――ああ、それはどうも。ごめんね、全然知らなくて――。

 柚真人の声だ。穏やかな、外面よそゆきの声。

 ――そう。突然倒れてね。貧血みたいで。ええ、もう大丈夫。ありがとう。

 誰と、話を?

 ――伝えておきます。はい。

 ――笹原彩さん、ですね。

 あ、あやちゃん?

 ――ありがとう。今日は本当にすみませんでしたね。

 ええと、あたし……?



「ああ、……司。気がつきました?」

 瞼を上げると、緋月の顔が傍らにあった。

 部屋は暗い。だが、天井も部屋も、そこにある空気も、馴染みあるものだった。

 自宅だ。自室で、自分の布団に横たわっているのだ。

「大丈夫ですの? 具合の悪いところはありませんこと?」

 言われてみると、躯が全身打撲したみたいに鈍く痛んだ。

「ええと……?」

「ほんっとに! 心配しましたのよ!」

 緋月が畳に握り拳を叩きつけた。

「もう少しで、連れていかれてしまうところでしたのよっ!」

「緋月ちゃん……」

「でも……ごめんなさい、司。わたくしが、迂闊でしたの……」

「……どういう、こと?」

「昨日、わたくしたちが『晦日祓』をしている間に、応接間を片づけて下さいましたでしょう? わたくしたち、そのお部屋に、柚真人さまがお祓いするはずの『写真』を放置してしまいましたの。司は、その『写真』に宿っていたモノ、に……」

「ああ。なんだ……そう、いうこと。そうだったんだ……」

「ええ。ごめんなさい。きちんと片付けておくべきでしたわ」

「……もう、……その……いないの?」

「柚真人さまがきちんと処分して下さいました。司は途中で気を失ってしまいましたけれど……。もう大丈夫なはずですわ……」

 司は大きく息を吸った。

「そう……兄貴が……。それで、あのとき……」

「はい」

「どうして、……あそこが? あたし、何処にいたわけ……」

「柚真人さまと私で、探しましたの。優麻さんに車を飛ばしていただいて……。

近くでよかったわ。相模の方でしたのよ」

「そう……」

 司には、それでも一体自分の身に何が起こってどういう事態に陥っていたのかいまいちよくわからなかった。

「あれ……やっぱり、『死者』、なんだよ、ね。……池……だから、そう、あそこで殺された人なんだと思う……」

「わかりますの?」

「うん……。そんな光景が、視えた。何処で視てるのかわからないけど目じゃなくて。頭なのかな。瞼の奥。……殺される感覚がね。わかったし。まったく同じようにあたしの躯の五感全部に刻まれるから。あれは殺された死者で……。そこからずっと動けないでいたみたい……」

 司の呟きを、緋月はその傍らで黙って聞いていた。

「わかってる、の……。恐いって思ったらいけないんだっていうことは。だけど、あたし『死者』に触れる度に感じるそれが、嫌いなのよ。だって……あたしはこうやって、確かにちゃんと生きてるのに、何度も死んだみたいな気がしてくる……」

「司……」

 それは、緋月には到底わからない感覚だった。

 憑坐たる資質を持つ、本家の巫女にしか、それはわからない。

 同じ皇の者でも、柚真人と司の違いはそこにあるのかもしれない。巫女である司の全身には、死者の、念いそのものが宿るため、まったき同じものが、鮮明に刻まれるのだ。

 憑依を許すがゆえ。

 司にとって、受け入れられないのはその恐怖なのだ――。

「怖い、と思っちゃいけないの、は、わかってんだけど……どうして、も……」

「もう……いいですわ、司」

「ごめん、緋月ちゃん。あたし……どうしてこうなのかなあ。ホント、駄目ね」

 緋月は、困った顔をして、微笑んだ。

 それは司以外には背負うことが出来ないもので、そこまで分かち合うことは、誰にも出来ない。

 緋月にも――きっと柚真人にも。

「人には、……得て不得手がありますから。……でも、司がもうちょっとしっかりしてくれると、わたくしもこんなに心配することがなくて、たすかるんですれど、ね」

「……うん。……それも、わかってる」

「無理はなさらなくてもよろしいですけれど」

「うん……」

「しかたありませんわよ……司にとっては、本当に、怖いのでしょう。それはわたくしにはわかりませんけど、恥じる必要はありませんわ。誰だって、怖いものは怖いし、嫌いなものは嫌いですもの。司はなにもかも闇雲に放り出そうとしているのではありませんもの。わかっていて、苦しいのですものね。どうしても受け入れられないものは、誰にでもありますわ」

「……責められた方が楽なのんだけど、緋月ちゃん」

「誰に責める権利がありまして?」

「そりゃ……きまっているじゃない、兄貴」

「柚真人さま?」

「……怒ってる、よね……」

 司が渋面をつくったので、緋月はくすくすと笑った。

「柚真人さまはいつでも落ち着いていらっしゃいましてよ」

「そう見えても、怒ってるときは、怒ってる」

「でも、自分の失策を認めていらっしゃいましたわよ?」

 緋月は、そういうと、ふいに優雅な所作で立ち上がった。

「そうですわ。いま、柚真人さまを呼んでまいりますわね。お待ちになって」

「ええ?」

「大丈夫ですわよ。もとはといえば、わたくしと柚真人さま、双方の失態なのですもの。司に悪いところがありまして? 違うでしょう?」

「いやっ、でも……」

「大丈夫です」

 請け負うように言って柔らかく微笑むと、緋月は部屋から退出していった。


 足音が遠ざかるのを聞きながら、司は再び目を閉じる。

 ほどなくして、再び襖の開く音がしたので、司はまた、ゆっくり目を開けた。

 制服を着たままの柚真人が、柱にもたれて司を見下ろしていた。

「柚真人……」

「笹原さん、という子から電話があったぞ。帰り、待ち合わせていたんだって?」

「……」

 記憶を辿り、順をおってことの次第を思い出そうとつとめた。だが、柚真人は待たずに続ける。

「上手く言っておいたから。次に会ったら、話を合わせること」

「ああ……。彩ちゃん。そうだあたし、彩ちゃん……放ってきちゃったんだ」

 柚真人は、いったん天井を仰ぐと、大仰に嘆息した。

「放るも何もなかっただろ。おまえ、相模原の山奥にいたんだぞ」

「あたし……『何処』にいたのかな……?」

「……『写真の場所』だよ。たぶんね。どうしてか、といわれればわからないよ、そんなことは。理屈では割り切れない。だから嫌なんだと、お前、いうだろう?」

「うん……」

「だがよくある話でもある。昔からな。実際、こうして起こった出来事に理屈なんて不要だ。それにお前は連れ戻した。だから気にすることはない。お前は、ここにいるんだから」

 そう言える彼の強さが、痛かった。

 司は力なく微笑んだ。

「…あ。ねえ、……それで優麻さんは?」

「いるよ。台所で飯の支度を手伝ってもらってる。お前、食べられそうか? さっきだいぶ吐いたけど気分は?」

「平気。……と、思う」

「……委細は、緋月から聞いたか?」

「うん。……ええと……。ごめん、なさい」

「謝る必要はない。お前は悪くないんだ。おれのほうこそ……悪かったな」

 ため息混じりに柚真人が呟いた。

 司は――少しだけ驚いた。

「じゃあ……大丈夫そうなら起きておいで」

 兄は、踵を返しながら肩越しに、そう言った。





 SCENE 05



「ああ、緋月ちゃん。こちらのお皿を食卓に並べて下さい」

「わかりましたわ」

 優麻の言葉に頷くと、緋月は、食器棚から指定されたものを取り出した。

 二人の会話は、いつどんな時でもごく丁寧かつ柔らかい言葉で取り交わされるので、まるで執事とメイドのようである。

「司、起きてくるって」

 台所に顔を出した柚真人が言うと、優麻が顔を上げて、微笑む。

「ああ、それはよかったですね」

「おう。それはよかった。問題は、請け負った『仕事』自体をどうするか、だ」

「どういうことですの?」

 緋月は、渋い口調の柚真人を見て、首を傾げる。

「だから。おれ、勢い余ってアレを昇天させちゃったろ」

「そのおつもりだったんではありませんの?」

「どうしようか考えていた、と言ったろう」

「それで、どうしようと思っていらっしゃいましたんですの?」

「とりあえず料金に見合わない仕事はしない主義だ」

「……」

「ま、しょうがないか。不測の事態だったし」

「不測ですか」

「フソクだろうよ。司の馬鹿が、ああもあっさり不用心にとっ憑かれやがって」

「柚真人さま、それは私たちにも手落ちがありましたのですわ。司は責められません」

「そうですよ、柚真人君」

「予定としては、本来なら依頼人の前で、もっともらしい儀式でもかまそうかと思ってだな」

「あらそうでしたの」

「まあ、とにかくだ。はやいとこ依頼人呼びつけて、形だけでもやっとくか。

お祓いだの除霊だのってのは、目に見える形でやらないと、どうも一般には納得できないみたいだからな」

「……柚真人君、それは……詐欺なのでは……」

「ああ? なわけないだろ。やることはやったんだよ、おれは。何が詐欺だってんだ? ん?そもそも儀式や呪文祝詞のたぐいは、死者のためだけにあるんじゃない。生きている人間が、己を納得させるためにも存在するんだ。おれはどっか間違ってるか?」

「はあまあ……。そうですが……」



 緋月は、優麻と言い合う皇柚真人の横顔を、ふと、見つめた。

 呆れるほどに端整な顔立ちと、その怜悧な横顔。

 人目を奪い惹きつけるその秀麗なかんばせを、緋月ももちろん美しいと思うし、彼の魅力のひとつであるとは思う。だが、面の皮一枚なんて瑣末な代物だ。

 本質は、その内側にこそある。

 柚真人が刻んだ表情を、緋月は再び脳裏に思い描く。

 ――司は、命を、奪われる。

 その唇が、言葉の内実とは裏腹に、ひどくおちついた声音で、そう語ったときの――表情を。

 ――こいつはな。わが皇家の大切な巫女だ。

 そんなとき、きまって緋月が確かに覚えるのは畏怖なのだろう。たぶん。

 沈着な少年が瞬間に垣間見せた、全身に漲る敵意と露な殺気。それを目の当たりにするときはいつも、全身すくむほどの畏敬と恐怖を覚えるのだ。

 同じだけの感情を、己の顔に刻むことのできる人間は、そうはいまい。

 そう、柚真人は笑っていた。

 否――瞳は笑ってはいなかったが、歪められた唇は笑みを刻んでいたのだ。

いかなるものを前にしても、怯まない気迫で、確かに見えない何かを見据え。

 己に対する、揺るがないまっすぐな確信をもって。

 ――皇の巫に敵は無い。

 それが何者であろうと、容赦なく。必ずや。そうしてみせると。

 冷徹な光を宿した瞳はそう、云っていた。

 それは――硝子の透明度ではない。 金剛石の硬度だ。

 硝子の硬さには脆さがともなう。だが、彼の心には、脆さが無い。

 もちろん彼も人の身なれば、迷いもするだろう。悩みもするだろう。けれど、彼は必ず自分の行くべき道を探り出す。そして、そこへたどり着いたからには、二度と後ろを振り返りはしない。省みても悔やまない。

 それを持っている人だからこそ、緋月は、皇柚真人に恋をするのだ。

 宝石を愛でる少女のように。

 人によって、恋という気持のかたちは違うだろう。けれど――緋月のなかでは、それは確かに恋だった。惹かれ、焦がれる気持ち、だ。

 唯一と思い、大切と思う。

「柚真人さま」

 振り返った彼は、驚くほど優しい瞳をしていた。

「なに? 緋月」

「いいえ。あ、ほら、司がきましたわ」

 イトコが、廊下の向こうから、あくびをしながらやってくる。

 すると柚真人は、また笑った。

 今度は、少し呆れたような、困ったような、複雑な――。


      ☆


 もうかなり前から――その笑顔をみるたびに、緋月は思うことがある。

 あの厳しい表情を、向ける相手が、殺気と敵意の標的なら、この複雑な表情を、向ける相手は、彼にとってどんな存在なのだろう――と。

 無防備な笑顔。彼がそれを他の誰にも向けないことを緋月は知っている。

 本当に大切なのは、『巫女』なのか『家族』なのか――それとも――。

 それとも――。

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