第19話 夏祭


01


 夏の空気は碧い硝子瓶の色をしている。


      ☆


 梅雨が上がると、毎日毎日、空は刷毛で絵の具を塗ったように晴れ上がり、暑い夏がはじまった。

 七月も中盤を過ぎ、学期末試験が終わって、やっと夏季休暇らしくなってきた、ある日のことである。

「せっかくだからさー。夏祭りにでも行きたいよなあ? なあ? 柚真人君」

 そんなことを言い出した企画者は、当然の如く橘飛鳥氏だった。

「あたし行く。夕方、花火大会あるし、お祭りも行きたいわ」

「そうですわね……。柚真人さま次第ですけど、そういうのもたまにはいいですわね」

「嫌だよ。欝陶しい。おれは行かないよ。行かないったら行かないからな」

 飛鳥の目論見をにべもなくつっぱねた柚真人ではあったが、

「ええーっ。なんでだよー、行こうよー、行こ行こ。なあー?」

「あー、うるさいっ。いやだっての。絶対いやだからな」

「そおんなあ。いやん、司ちゃん、お兄ちゃんが冷たいっ」

「お前、な……」

「まあ。飛鳥さんたら」

「強気ね……」

 七月の終わりの週末、そんなことから彼らは夏祭りに繰り出した。

 嫌がる少年神主を無理やり拉致するように車に詰め込み、都会を離れた大きな神社の例大祭に向かったのだ。

 そこまではよかったのだけれど――真夏の夕立は案の定、突然だった。


      ☆


「うわ、すごい雷!」

「ほらこっちだ。来い!」

 その声も、天空を割って轟く雷鳴にかき消される。

 水浸しの参道を走り抜け、二人はその奥の社の軒下に駆け込んだ。

 まだ陽の沈む時間までにはだいぶ間があったが、あたりは雷雲の下に入ってひどく薄暗い。夜とも昼ともつかぬ薄い闇の中に、時折眩しい閃光が走る。

 その眼を灼くような光と、それに続く轟音に、司は小さく肩を竦めた。

 そうして、おずおずと辺りを見渡してみる。

 小さな、そして寂れた神社だった。もう、社の主もいなくなって久しいことがひと目で見て取れるほどに荒れ、雑草が辺りに生い茂り、木々も伸び放題に枝を生やし、放り出されたままのような様相だ。

 雑木林に囲まれた社殿はひっそりとしており、いまは空から叩き付けてくる凄まじいまでの雨の音が、ただうるさい。

 境内にも人気が無かった。

 それでも、どうやらこれで、この雷雨をやり過ごせそうだ。

「柚真兄。……ここ、神社だよね?」

 社殿の軒下から紫電輝く空を見遣り、湿ってしまった藍色の浴衣の襟を何となくかき寄せつつ、司は呟いた。

「でも廃屋みたい……? 本殿と違う神社かな」

「いや、例大祭の神社と同じ神社だろうけど……古い社殿か……分社なんじゃないかな」

 と答えるのは司の一歳年上の兄――柚真人である。

 こちらもすっかり濡れてしまった髪の水気を、申し訳程度に払い除けながら、続いて忌々しげに言う。

「ああ、ったく飛鳥のやつ……」

 真夏でも長袖の服しか着ない彼だから、服が肌に張り付いて、いささか暑苦しそうだ。

 司は、階に軽く腰を下ろして不満げにごちる兄を見上げた。

「……天気は飛鳥君のせいじゃないよ」

「わかってるよ……。でも、それにしたって大した例大祭じゃないか。さんざんだ」

「別にいいじゃない。夏だし、雷も」

「……こうやってずぶぬれるのも、真夏の風物詩だとでも?」

 確かに、夏祭りに行こう、などと言い出したのは従兄の橘飛鳥だった。それで、こんな片田舎くんだりまでやってきたのだ。夕方には花火大会もあって、帰りは皇の一番上の兄・卓史が車で迎えに来てくれる予定だったし、それはそれでよかった。

 だが、さすがにこうまでひどい夕立に襲われるとはついていないというべきだろう。それもいきなりだったから、人込みの中でどうにも動きが取れないまま、あっと言う間に全身濡れ鼠になってしまった。おまけに、そのごった返す人込みの中で、一緒に来た飛鳥や、もうひとりの従妹――緋月とはぐれてしまったのだ。

「だから……おれは嫌だといったんだよまったく……」

 とは、無理やり強引に引きずりだされた少年にしてみれば致し方ない言い分ではあるかもしれない。けれど妹の司はにべもなく、肩をすくめてみせたりする。

「お前たち、三人で行きゃよかったんだ。だいたい、例大祭なら毎年うちの神社でもやってるだろ。あれで充分じゃないか。こっちはただでさえ忙しいのに……。引っ張りまわさないでほしいんだよな……」

「ほんっと呆れた根性だよね。ここまで来ておいて何いってんの、往生際悪い。協調性とか皆無?」

 確かに言っても詮なきことではあった。柚真人もそれは承知している。

 再び、辺りが真っ白になり、直後に轟音がとどろいた。びりびりと、あたりの空気が震えているのが伝わってくる。

「……こりゃ、真上だな。しばらくは動けないぞ」

 呆れたように、柚真人が言う。

 司も、それに頷いた。

 さすがに、こうも雷が近いと、少し不安だ。

「飛鳥君と緋月ちゃん、大丈夫かなあ……」

「ま、同じようにどっかでやり過ごすだろ。いくら飛鳥でもこの雨の中走り回ったりはしないよ」

「うん……」

「ところでお前……。こういうのは、怖くないわけだ」

「こういうって……雷? うん。別に、雷は怖くない」

「普通さ、ちょっと怖がってみたりしない? お前、つくづくかわいくないね」

「何? だって普通の天気だよ。太陽が昇るのと一緒でしょうが。危険はあるかもしんないけどさあ、理解はできる。怖くはないでしょ」

「お前、理屈が無いと物事受け入れられないってわけだ」

 司は軽く肩をすくめた。

「当たり前」

「言い切るね、きっぱりと。理屈っていうのが、そんなに大事?」

「そんなの訊くまでもないと思わない?」

「なんで?」

「正体のわからないものには対処のしようがないでしょ? だからいやなの」

「ふうん」

「何よ」

「じゃあ、物理的にとか、科学的にとか、説明がつけばいいんだ? 神様をいちばん信じているのは科学者だっていうけどな」

「あたりまえ。説明出来ないものが気持ち悪いから学者なんでしょ?」

「循環論法」

「うるさいなあ、屁理屈だよ、それ」

「とかなんとかいいつつ無条件に怖がる辺りが、現実主義者のようでいて、そうじゃないよな、お前」

 柚真人が笑ったようだった。

「なによ、それ?」

「怖い、の理屈が、違うんじゃないかってことだよ。お前のは、言い訳」

 激しい雨脚は少しも衰える様子がなかった。

 降りしきる驟雨の音がが響けば響き渡るほど、辺りの静けさが妙に際立つものである。

 ふたりとも、おかげでびしょ濡れではあったが、さすがに真夏、寒くはない。

かえって湿気が増し、蒸し暑さも倍増といった感じでさえあった。

 遠く、近く、空を渡る雷鳴を聞きながら、柚真人と司は空を仰ぐ。


      ☆

 

 降りしきる雨の音と、雷鳴。

 他に音はなく、二人の他に何の気配もなく、いっそ閑寂をさえ感じる。

 茂る葉を叩く雨。

 視界を遮る水。

 


 軒先から滴る雨の滴を見つめながら、司は呟く。

「……止まないね」

「そうだな」

「お祭りも花火も中止になりそうな勢いだよ……」

「……子供……。そっくりだな、お前と飛鳥」

「どうせね。子供よね。大人で出来のよろしいお兄様とは違いますから」

 司が言う。

 柚真人は、彼女の拗ねたような呟きにほんの少し肩を落した。

 どう――答えてやればよいのやらわからない。けれど結局、口から出るのは意地の悪い憎まれ口だったりするのだ。だから、彼は黙っていた。

 それでなくてもこの状況では、あまり喋りたくはなかった。

 びしょ濡れで人気のない場所に二人きりという状況で、実はひどく動揺しているのだ。けれどもそれを隠そうとして口から迸る言葉は、心とは裏腹で、妹を無意味に傷つけてしまうに決まっている。

 だいたいこんな降って湧いたようなおあつらえの状況で、どうしろというのだ。

 彼女の顔を見ないように、視線を合わせないように、離れてそっぽを向くしかないではないか。

「柚真兄って。……本当、思えば子供のときから老成してたよね」

 一方の司は、ささやかな意趣返し、とでもいうような口調で唇を尖らせる。

「……老成?」

「そう。わかる? 大人っていうんじゃなくてさ。練れてる? ……少し違うか。人を喰ってる。達観? あっ、老獪かな?」

「おいおい、老獪はないだろ。それほど経験値は高くない」

 ふいに振り返った柚真人が珍しく、嫌そうな、それでいて困ったような苦笑を浮かべていたので司は少しはっとした。

 はっと――?

 違う。たぶん、そう、どきりとしたのだ、その表情に。

 兄の顔の造作はそういう、少し刺のある表情がよく似合う。

 司は密かにそう思っている。

 柔らかい表情や、優しいという表情を、この少年があまりしないせいかもしれなかったが、それでも確かに――斜め上から見下ろす目、そして歪めた唇が彼には似合っていた。

 他方の柚真人はというと、いささか不満顔である。

「だいたい、ぴっちぴちの青少年様に向かってそうことを言うかね?」

 柚真人は司に向き直ると、無造作に濡れた前髪を掻き上げて、それから小さく嘆息した。

 細められた瞳が階に座る司を見下ろすので、司は――ふっと目を逸らした。

「だって昔からいつもおとなしくてさ。子供のくせに、人生何が楽しいのかって感じだったし。だから……いいじゃない、こういうお祭りぐらい、つきあったって」

「あのね司。おれだって人並みに楽しいことは楽しいですよ。だから付き合ってるんだろ、飛鳥に」

 目を合わせられないまま、司も溜め息をつく。

「飛鳥君には弱いんだよね、兄貴。結局大抵、付き合っちゃうよね」

「うっ……」

「でも感心だな。飛鳥君だけだから、兄貴引きずりまわしてこんなことさせられるの。ま、飛鳥君も根っからお祭り体質だけど……」

「まったくな。なんとかならないものかねあれは」

「まったくってね。兄貴もちょっとは見習うといいのよ。ほんと、飛鳥君と柚真人って昔から――」

 轟音が天空を裂いたのは、その瞬間。



 辺りが一瞬真っ白に照らし出されて直ぐだった。

 すべてを灼く天上の光。



「……っ」

 残響が消えてゆく。

 その空が砕け散るような音。

 目も眩む閃光。

 光の――瞬き。

 司の中で、その脳裏で、何かが乱れた。

 そう思った。

 交錯する――記憶? 憶い出?

 柚真人と、飛鳥と、緋月と、そして司。

 光の残像の中に見える赤い色が、記憶と混ざり合って。

 ――この色、どこかで……どこかで……。

 ――子供の頃――?

 ――この色、なにかと……維がって……。

 ――昔――?

 ずきん、と頭の奥が痛んだ。

 ぎしり、と頭の隅が軋んだ。

 何か。何かがそこに。

 ――なに?

 ふいに。

 ぞくり、と何かが背中を駆け上った。

 じわり、と何かが頭蓋から染み出す。

 ――あれ……? 前にも、こんなことがあったよね? これ、……何……?

「……司?」

 柚真人の声がした。

 兄の――兄の、声だ。

 一瞬、それがひどく遠くから聞こえたもののように感じた。物理的な距離ではなくて、だけど何処か遠く。

 そう――記憶の片隅から。

 それは現在じゃない。過去だ。

 そう、過去に。ずっと前に、聞いた気がして。

 いつか、どこかで。

 懐かしい――。

 なぜかそう感じた。だから少し、胸が痛んだ。

 ――懐か……しい?

「司?」



 ――その声で、司はふっと我に返った。



「あ……、ごめん」

「どうした。大丈夫か? いまの雷、近くに落ちたみたいだけど……」

「うん。……平気」

 といいながら、けれど一瞬だけ、司は息を飲む。

 額に張りつく髪を払って顔を上げると、柚真人が、司の顔を覗き込んでいたから。

 だから、視線を宙に漂わせる。

「ちょっと、頭が痛いかなっ……て。うん、それだけ」

「また風邪か? だから言わんこっちゃないんだよ……。ったく」

「うん……」

 もう、一瞬の閃光の中で自分が何を思ったか、司にはわからなかった。ただ、少し頭が痛んだような気がした。

 司は、頭を振って立ち上がろうとした。

 かくん、と腰が抜けたように足許がふらついたのはその刹那。

「あ、おい――」



 抱き留める柚真人の手が、転ぶ司の手に触れる。



「うわっ」

「ばかっ、危ない……っ」



 その瞬間――柚真人は、うつむく彼女の首筋を流れ落ちていく雨の滴を見ていた。

 その唇から洩れる、小さな溜め息に、鳥肌が立つのを意識する。

 濡れて走り回って着崩れた浴衣を彼女は気にするふうでもなかったが、よく見ればはだけた胸元に乱れた裾、足は水溜まりを歩き回ったせいで泥だらけだ。

でも、それさえも全然気に掛けないあたりが無頓着な彼女らしいというべきなのだけれど。

 「びっくりした……」

 などと小さく呟いて、彼女は前髪を掻き上げる。首を振ると、飛び散る水滴。

彼女が柚真人を仰ぐと見える、滑らかな頸が、閃光に白く浮き上がる。

 彼女に触れている、自分の手が、ぴくりと震えるのを自覚する。

 そして。

 その刹那――司は。

 彼の眼差しを隠す前髪から落ちてくる雨の滴を見ていた。

 顔を上げて、深い色彩の瞳を見返す。

 けれど、そこに感情は読み取れなかった。でもたぶん、苛立っているか、怒っているか、そのどっちかなのだろう。その内にどんな感情を宿しても滅多なことでは素直に表情にしないのが兄の常だけれど、容貌がべらぼうに端正なのがまた鉄面皮に拍車を掛ける。

「具合悪いなら、おとなしく座ってろ」

 といって、彼が嘆息した。声は、少し厳しかった。まっすぐに見下ろされるとまともに目が合って、逃げられないようで少し戸惑う。

「うん。……ごめん」

「……別に、謝ることじゃない」

「あ……うん」

 不機嫌そうに瞼を伏せる彼のまなざしに、自由を奪われる。

 呼吸が止まりそうになる。甘い痛みが肺を押し潰す。

 手を放せない。目が離せない。

 何処かで硝子の――。

 硝子の砕ける音が――。

 自分の中の何処かに、ぴしりとひびのはいった音を、確かに聞いたのは、兄だったのか、妹だったのか。

 微かな体温と、微かな吐息。

 指先とまなざし。

 触れているのはたったそれだけでも。

 

     ☆


 騒がしい声が聞こえてきたのは、その時のことだった。

「あー、おー、いたいたっ」

 雨雲も雷鳴も払い除ける脳天気な声は、橘飛鳥のそれだとすぐわかる。

 その時に、安堵したのは柚真人だったのか、司だったのか。

 そして同時に、落胆したのはどちらだったのか。

「おーい、つっかさちゃーん。ゆーまとーっ」

 ばしゃばしゃと水溜まりを飛び跳ねるように、浴衣姿の少年がやってきた。

といっても、やはり浴衣は着崩れてぐちゃぐちゃだし、帯も緩めているのか解けているのかわからないほどの乱

れようで、おまけに長髪茶髪なものだから、一見すると完璧に怪しい男である。

そんな男が手を振りながら近付いてくる様は、知り合いとわかっていても怖かった。

 そのありさまに、柚真人は言葉を失っていたが、飛鳥は二人のそばまで来ると、まるで大型犬のようにぶるぶるぶると水気を払った。

「わっ、――おまえなっ」

「あ、ごめんごめん。やー、探した探した。携帯、忘れるんじゃなかったな」

「ってお前……、緋月はどうした?」

「ああ、お嬢様なら神社の社務所で待ってるよ。家名濫用。同業者の誼」

「……で。お前はこの雷雨の中を走り回っていたと、そいういうわけだ?」

「いやせっかくの雷様じゃない」

「せっかく?」

 頷く飛鳥はどこからみでもすこぶる上機嫌で愉しそうであった。

「飛鳥君てさ……雷とか、台風とか、大雪とか、大っ好きでしょ……」

「うん。好き」

「……子供……」

 先刻司にも言った言葉を、今度は飛鳥に贈呈する柚真人である。その様子を見ていたら、こいつなら嵐も雷雨も呼びかねないように思えてくる。

「いやあねっ。君がじじむさいんですよう、柚真人君」

「いってろ……」

「まっ。冷たいわね、本当」


      ☆


「まあ……。それでそんなにお時間がかかりましたのねえ」

 と空調の効いた涼しい社務所の座敷の隅で、抹茶など啜りながら緋月が言った。

 おかげで、柚真人と司が宮司に挨拶をすることになって、結局四人ともがタオルを借りたり何だりして迷惑を掛ける始末となった次第である。

 緋月が優雅にお茶を楽しんでいる間に、夕立にずぶ濡れた三人が何とか衣服の水気を払い、柚真人が天才的詐欺ぶりでもって大変愛想よく社務所を辞した頃には、大鳥居の向こうに夕日が沈み掛けていた。



「まったく……。散々でしたわね」

 涼しい顔で、緋月が言う。

「君がいうなっての。一人で社務所に逃げ込んじゃってさー」

 と飛鳥。

「やっぱり今度は二人で行こうねえ、司ちゃん」

「うーん……」

「そうして下さいます? わたくし、疲れましたわ。飛鳥さんて、なんでそう、年中無駄に元気なんですの?」

「失礼な。人を化け物のように言わないでくれる?」

 雨を浴びてなけなしの冷気を放つ石畳を歩きながら、参道を下ってゆく四人である。

 夜に予定されていた花火大会はやはり中止になってしまったが、参道の両脇では様々な露店が活動を再開し始めていた。店先を覆っていた青や橙のビニールシートが次々と片付けられてゆく。それとともに、祭りの混雑も復活しつつあった。

「焼きそばでも買うかなあ」

 のほほんと飛鳥は言う。その両手には既にトウモロコシとタコ焼きと大判焼、口の中にはあんず飴。背中には、わけのわからないビニール製の人形を背負っている。

 緋月はりんご飴を、司は青い星形のべっ甲飴を買った。

「あっ、おっにいちゃん。あの五色わたあめ買ってえ」

「……それを! 喰い尽くしてからにしろっ」

 このうえさらに食物をねだる飛鳥を、柚真人は一蹴した。

「それと。おれはお前の『お兄ちゃん』じゃ、ないっ」



 血色の、夕焼け。

 鳥居の向こうのその紅を見つめながら、司はまた軽い頭痛を感じていた。

 ――嫌だな。

 司は、そう思った。

 ――嫌な、色。

 そして、その感触の正体にふいに気付く。

 ――そう、か。

 ――これは、あたしの何処かにある、何かの記憶とつながっている色だ。

 ――あたし、この色を見て何かを思い出しそうになった――?



「司ちゃん?」

「大丈夫なのか。夏風邪は厄介だぞ」

「えっ、なになに、またまた風邪ひいちゃったの? 司ちゃん」

 飛鳥と柚真人がぼうっとしている司の横顔を覗き込む。緋月も司を見ていた。

「ううん。違うの。なんでもない」

 司は幼馴染みの従兄弟たちに笑顔をつくって見せた。

 ――そうだ。柚真人は――?

 兄なら、兄に訊けば、この記憶の正体がわかるだろうか。

 一瞬そう思ったが、なぜかそれはしてはならないことのように思えた。

 それだけは絶対に駄目だと思った。否、嫌だと思ったのかも知れない。それは得体の知れない嫌悪感だった。その透明で美しいはずの茜が、わけもなく嫌だった。

 ――嫌。嫌だ……。嫌い。この色は、嫌い。

 嫌だと思う気持ちは自己嫌悪に重なり、駄目だという想いは禁忌に重なる。

 赤い色は、血を連想させる罪の色。それに触れると、きっとすべてが崩れ去る。

 その時、何処かで確かに、司は理解していた。

 覗いてはいけない。見てはいけない。

 その記憶を、甦らせてはいけない。

 ――夕立の閃光の中で見た柚真人の瞳の色。

 ――触れた指。

 ――聞いた声。

 拘束される。縛られる。

 鮮やかに、刻まれる。

 消せない。

 心臓が踊る。鼓動が乱れる。

 泣きそうな気持ちで、唇を噛み締める。息苦しい。

「司、ちゃん……?」

「なんでもないの……」

 脳裏をちらつく緋色は不吉で。

 それは――確かに何時かの憶い出につながり、その日、司の中の封印には。


 確かに、ひびが入った。


 



02


 祭のあと。

 司は、闇を見ていた。


      ☆


 その夜は、なぜか寝付けなかった。

 熱帯夜ではあったが暑いわけではなかったし、寝苦しいというほどでもなかった。

 司は、暑さにも寒さにも弱い方ではない。それに、幼い頃から空調設備などを一切利用せずにいかなる季節も過ごすよう習慣づけられていたから、夏の夜の暑さなど、たいした問題ではないのだ。

 それでも、どうしても眠れなかった。

 夜中におきだしたくなかったから、なんとか眠ろうと努力した。

 だが、どうにも眠気が訪れない。

 司は、どうしようもなくなって寝台を抜け出した。

 ――水……でも飲んでこよう。

 枕元の時計を見ると、午前二時を少し過ぎた頃だった。

 家の中かがしんとしていて、夏の蝉の聲も途絶えるこの時間が、司はあまり好きでは無い。

 ――いやな時間だな。

 そう、思った。



 司は、部屋を出ると廊下を歩いて、台所へ向かった。

 板張りの廊下が、足をのせて歩をすすめるたびにぎしぎしと軋んだ。

 部屋を出て、客間の前の廊下を通り過ぎ、居間の向こうが台所だ。

 静かだった。

 どこか遠くで家鳴が聞こえる。

 そして、居間の前を通り過ぎようとしたとき――そのとき、判開きの襖の向こうに――司は、人影をみた。居間の、ソファに座る人影を。

 おもわずびっくりして足を止め――固唾を飲む。

 全身硬直させて司は身構えたが、ややあってそれが柚真人であることに気が付いた。

 それは、司の兄の柚真人だった。

 思えば当たり前のことだ。この古い屋敷には、たいていの夜は、柚真人と司の二人しかいないのだから。

 柚真人はというと、ソファに身を投げだして、天井を仰いでいる様子がうかがえる。

 起きているようだ。

 暗闇の中で。

 中庭に面した大きな窓からさしこむ、淡い月の光のほかには――明かりも点けずに。

 夜中の二時だ。

 不可解な思いに囚われた司は、その場で暗闇に目を凝らした。

 ――柚真人……?

 司は少し目を凝らした。

 そしてややあって、さらに不可解な違和感に気付く。

 闇のなかにおぼろげに見える体躯の輪郭や、髪の感じはまちがいなく柚真人のものだった。

 それは確かだ。

 そもそも司をのぞけば彼以外の人間が、いるはずが無い。

 だから、たしかにそれは兄であることに間違いはなかった。

 ――でも……。

 やけにはっきり冴えた目を凝らして、闇をうかがう。

 そして司は口にしていた。

「……誰……?」

 と。



 思えばそれば奇妙な問いだった。

 目の前にいるのは兄・皇柚真人以外の何者でもあるはずが無いというのに。

 けれど何故か、その者が柚真人とは、違う誰かであるような気がしたのだ。

 根拠は、と問われれば明確には堪えられない、けれど、たとえていうならその場を支配する空気の色が、違うように思えた――ということになるだろう。

 司の知る皇柚真人は、峻烈なまでに透明な空気を放つ少年だ。

 けれどそこに司の馴染んだ空気はなく――蒼藍色のような、紺青色のような、深い澱があるように感じられた。

 夜――のせいかも知れなかったけれど、どうしてか、それが不可解に思えた。

 違う。

 柚真人じゃ、ない――?

 自分が感じている違和感をすら、不可解に思う。

 そんなはずは、ない。

「……誰……?」

 もういちどはっきり訊くと――闇がわずかに揺れた。

「……」

 司はかすかに身動ぎする。どうしよう、と思った。自分が不条理なことを言っているという自覚はあった。目の前にいるのは確かに柚真人だ。それ以外の誰でもないはずだ。でなければ誰だというのだ。ばかげてる。

 だが。

 だが、彼は――。

 柚真人が少し身体を起こして、それからこちらを見た。

「誰って、……おれだよ? どうした、司?」

 その声、その言葉に硬質を感じた。硝子のように固く無機質で抑揚が無く、まったく温度を感じさせない音色だった。それゆえ、司は怯んだ。

 深く低い声色は、柚真人のそれではない。聞いたこともない、声だ。

 司は躯を硬くした。

 どくん、と自分の心臓が飛び跳ねるような鼓動を刻む。

 少年の、その声は――司が耳に聞き覚えた、兄の、柚真人のそれとは明らかに印象の違うものだったのだ。

 どう説明したらよいだろう。声が違うのでは無い。だがはっきりと、印象が違う。

 司の動揺が更に増し、夜の澱をかすかに震わせた。

「眠れないのか?」

 司は咄嗟に言葉を続けられなかった。

 自分が感じているこの感覚の、意味が、わからない。

 闇をみつめすぎた目の奥で、目眩がおこる。

 司は、次の言葉を捜した。

 どういうこと?

 疑問符ばかりが脳裏を交錯し、言葉は喉の奥で紡がれること無く押しつぶされてゆく。

 冷たくいやな汗が全身を包む。いたたまれない心地だった。

 けれど、目の前にいる少年の姿形は、紛れもなく柚真人である。司は困惑した。

 身が竦み、足が硬直する。

 生理的に、頭のどこかで不快な警鐘が鳴っていた。柚真人じゃない。柚真人と違う。

 なぜそんなことを感じるのか、それこそが不可解だったが、今このとき、彼を目の前にして確かにそう思えるのだ。

 闇の中で、少年が、動く。

 司は大きな空気の塊をのみくだした。喉が詰まって、息が苦しい。

「ゆ……柚真人……だよね……?」

 問い掛けに反応した少年が、ゆるりと滑らかに振り向くのがわかった。

「そうだよね……?」

「そうだよ」

 その言葉が、ふたたび司の耳奥に不快な響きを刻む。

「おかしなことをいう。おれが柚真人でなければ、いったい誰だっていうんだ?」

 ――違う。

 やはり司は思った。

 柚真人じゃない。

「誰だと?」

「……っ」

 司は重ねて、問い質そうとした。

 そしてこの不可思議な出来事を理解しようとした。

 けれど。

 少年が、顔を不意に上げ――まなざしが触れ合って、司はそれに射抜かれた。

 動けない。

 言葉も、出ない。

「……ゆ……」

 その時、柚真人が静かに立ち上がった。そして司の方を見る。

 わずかに明るい窓を背にしているため、表情がわからない。

 司は、それをみていた。

 柚真人は、しばらくの間、だまっていたが、やがてふいに言った。

「まだ駄目だ」

 ――何――?

 その瞬間――ぐらり、と視界が傾いだ、と思う。

 ――どういうこと?

 たったそれだけの言葉が、強い催眠のように司の自由を奪った。

 ――駄目?

 柚真人はいま、確かにそう言った。

 ――まだ駄目だ、って。

「おやすみ、司」

 視界が急速に暗転する。

 漆黒の布が降りてきて、司を包み込んだみたいに足下がふらついた。

 どういうことだ、と司の意識は混乱していた。

 これは一体何なのだ。

 何なのだ。

 駄目だ  。

 全身の力が抜けてゆく。

 意志に逆らって、体がくずおれてゆく。強烈な睡魔が、司の自由を奪う。

「……ゆ……まと……」

 意識が、とぎれる。

 その刹那――闇の中だというのに、司ははっきりとその少年の顔を――表情を見たと思った。

 整い過ぎた完璧な造作の顔容。ひとえの鋭い目、その瞳に浮かぶまなざしは微塵も感情を映すこと無く、また虚ろでも無く、何か強い意志に彩られていた。

唇は、ほんのかすかに笑みを刻んでいただろうか。

 それは見たこともない表情だった。司の知っている、柚真人の表情ではありえ無かった。

 感情の波立ちの無い、ひたすら静謐な、そう、どこまでも磨き抜かれた鏡のように。

 司の意識は、彼の顔を確かに見たと思った次の瞬間――とぎれた。


      ☆


 ――……夢……。



 瞼を上げると天井があった。

 闇と、空気と。

 まだ心臓が飛び跳ねている。

 ――いまの、夢なの……?

 時計をみると、三時すぎだった。真夏は、もうすぐ夜が明けて、あかるくなってくる。

 昨日と明日の狭間の時間。

 司は、まだ呆然としていた。

 おかしな夢を見た。

 それから、どういうわけか急に泣きたくなった。

 ものすごく悲しくなったのだ。

 だから司は、少し泣いた。

 泣きながら、ひどく戸惑っていた。

 どうして、あんな夢を見たのかわからなかったし、どうして泣きたくなったのかもわからなかった。

 不思議な気持ちだ。

 胸が苦しい。

 ――柚真人……。



 その年の七月の、最後の週末だった。




03


 ――もうすぐ夜が明ける。


      ☆


 初夏の月光の下で――中庭に面した自室の縁側でいささかばかりしどけなく胡座で座り、月光を浴びるみたいに、夜空に向かって白い頸を延ばす。

 その右手には、紫煙くゆらす細身のメンソール煙草。

――こうゆう姿をあいつが見たら、なんて云うかねえ? やっぱ怒るかね?

 くつくつと、少年は喉を鳴らしてひとり嗤った。

 血相変えて憤慨する彼女の顔が容易に想像できた。

 妹は、自分の兄がよもや煙草を喫うなんて思うまい。



「つらいな……」



 月下の巫は、月を仰いでひとりごちる。

 夏祭り――夕立の中で、彼女に触れた指先に、仄かに残る温度と痛みを憶う。

――お前が、妹でさえなかったら。

 躯を浸食する痺れに、感じる目眩。

――おれが、偽物でさえなければ。

 ためらいはしなかった。

 未来を願うことが許される想いなら、罪悪感なんてものは捩じ伏せ、たとえ全世界を敵に回しても絶対に堕とす覚悟で、彼女と真向かうことに迷いはなかった。

 けれど。

 ――できるわけねえしな……。

 目をすがめて、想いを馳せる。 

 ――おれは所詮偽物だ。ここに還るのはおれじゃない。

 彼女は永遠に妹で――そしてこの心も、記憶も、きっと跡形もなく消えてしまう。

 それを知っているからこそ。できるはずがない。



 いままで、周りの人間すべてを欺いてきた。

 しかし自分に残された時間は少ない。

 その兆を感じる。だがそれは、わかっていたことだ。

 そう――この体躯に宿る魂の奥には、自分とは違う人格が眠っているのだから。

 この躯のなかには。

 ここに在るべき『本来の人格』は、事件後十年間、ずっと眠ったままの、別の少年がいる。



 ――十年前。

 


 この心は二つに砕け。

 以来、――壊れた心はそのまま。

 自分という存在は、十年前この少年の裡に生まれた。

 そしてふたつの人格は封印の日を境に完全に隔てられたまま時を刻んだ。

 素顔を知るのは、あの事件の共犯者であり、己の後見人を勤めるあの青年だけ。

 なぜ彼にだけそれを語ったのかと己に問えば、胸のうちより即座に答えが返る。

 重かったのだ。

 たぶん。

『偽物』であることが。

 今の自分は『彼』を守るために存在する、『彼』とは違う存在。彼の覚醒とともに、自分の存在は失われ、消滅する。自分にとってのこの記憶も意識も、すべて行き場なく消えてしまうことが約束されている。

 そのことが、重かった。

 自分はそんなに強い人間じゃない。潰れてしまいそうな軋轢を、誰かに伝えたかった。

 それだけのこと。



 おれは。

『皇柚真人』では――ないから。



 確かに痛む想いが、ここに在るというのに。

 ――なにも伝えられない。

 鎖につながれ、身動きできない。

 ――いつかここに還るべき存在が、あるからから。

 そしてそれは、そんなに遠い日のことじゃない。

 


 消滅することは怖くない。

 ただ。

 ――喪失が怖い。

 消滅より、この想いをすべて失うことの方が。

 怖い。

 いつか、その時が来ても。

 ――お前は……覚えていてくれるだろうか。

 ――おれがお前を忘れてしまっても。


      ☆


 少年は――月光注ぐ青白い月景を睨む。

 そして夜の底で、瞼を伏せる。

 感じるのは、底の無い絶望。

 無明の闇、残された先の無い未来。

 それだけが――いまは心を支配する。



 七月が終わろうとしていた。

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