第18話 intermission Days 02

「……あら、飛鳥さん」

 そんな声がしたので、飛鳥は振り向いた。

 階段から屋上への、白い鉄製扉の前に、息を弾ませた少女が立っていた。

 柔らかな曲線を描く髪が、肩で揺れている。なんだかとても楽しそうに、彼女は笑っていた。


      ☆


「おやまあ。緋月ちゃん」

 ひとつ年下のいとこの名を呼んで、飛鳥はふと嘆息した。

 校舎屋上の白い手摺にもたれて少し仰向き、よく晴れた六月の空を眺める。

梅雨が近いせいか、風は少し湿っていた。

 昼休みなので、校庭や校舎のそここここから、かすかに賑やかな声が聞こえる。開放されたこの屋上にも、昼食に勤しむ生徒達の姿がちらほらあった。

「どうしたの?」

 尋ねると、緋月は何故か胸を反らし、張り切ったようすで答えた。

「柚真人さまがときどき二年校舎の屋上にいらっしゃるっておっしゃってたので、きてみたの。でも、今日はいらっしゃらないようですわね……」

「悪かったねえ、僕で。あー……そういやあいつ、今週は委員会の仕事で忙しいよ。昼は会議があるみたいでね」

「まあ……そうでしたの……」

「で、柚真人に何か? 急な用事でもあった?」

「いいえ特には。その……少し、お話がしたかったんですの。……ご迷惑でなかったら」

 暁緋月は悪戯っぽく首を傾げて、そんなことを言った。

 だから飛鳥もあいまいに頷いた。


      ☆


 彼女は、不思議な娘だ。

 何せ、いつでもどこでも、自分の気持ちの赴くままに、人目をはばかることもなく、皇柚真人に懐く。

 そのうえ、柚真人のことが好きなのだと広言して、譲らない。たとえ本人を目の前にしても、である。

 これはたいていの気合いではできない行動だと、飛鳥は評価する。なりふり構わず、と言った言葉が正しくぴったりするが、それは意外と難しいものだ。

 それでいて、緋月が、彼に交際を求めたことは一度も無いという。

 彼女自身がそういっているし、柚真人からも、そう聞いている。

 ――緋月ちゃんって、柚真人をどうしたいの?

 そんなふうなことを飛鳥が尋ねたことが、あった。けれど――緋月は。

 その時、きょとんとして、飛鳥に尋ね返したものである。

 ――どうって、どうにかしなくてはいけませんの? 

 と。

 ――それに一体、どんな意味がありますの。私の気持ちを、柚真人さまに押しつけるつもりはまったくありませんのよ?

 ――でもその……柚真人は……何て? 

 相手の少年の気持ちについて尋ねてみても、それは変わらなかった。

 ――おかしなことをおっしゃいますのね。これは、私の気持ち。柚真人さまの気持ちは奪えるものではありませんし……柚真人さまの心がどこにむいてても、私の気持ちが変わるわけありませんでしょ?

 ――……あいつが君を……『好き』でなくても? 誰か、他の誰かが『好き』でも?

 ――そうですわね。それでも私はあの方が『好き』なのですわ。

 穏やかな表情で、緋月はそう語った彼女には。

 どうやら、彼女には、独特の恋愛観とでも呼ぶべきものがあるらしかった。

 ――私、柚真人さまが大好きですわ。でも、それだけですの。大切なのは、この気持ちで、私は他のことを望みません。私にとって、それは意味の無いことなんですもの。だから、柚真人さまは、私の気持ちだけ知っていて下さればいいんですの。

  お互いに、恋愛感情というものを漠然と理解し意識するようになり始めた頃――あれは――中学に上がったばかりの頃のことだったろうか。

 彼女の幼い、それでいてどこかしら大人びた笑顔に衝撃を受けたのを、飛鳥ははっきり覚えている。

 その時から、柚真人と緋月は、奇妙な均衡で不可思議な人間関係を形作っていた。もっとも、緋月にしてみれは不可思議でも不自然でもなんでも無いことなのかもしれないのだけれど――。


      ☆


 飛鳥は、空を仰いだ首を戻して、緋月を見た。緋月は、ちょっとの思案のあと、また、首を傾げる。

「じゃあ、……少し、ご一緒させていただいてよろしいかしら?」

「僕でよければ。別段かまわないけど」

 苦笑が洩れる。

 緋月は、階段へ続く扉を後ろ手に閉めて、飛鳥の方へやってくると、その傍らにすとんと腰を下ろした。その所作は、果てしなくお嬢様然としているのだった。

 それが、なんだか可愛くもあり、可笑しくもある。

「昼は?」

「私は、いただきません。五限六限が眠くなりますし。……柚真人さまにお弁当でも用意しようかとも思うのですけれど、私なんかよりずっとお料理が上手ですものね、柚真人さま」

 困ったように、微笑んで、小さく首を傾げる。

「こまったものですわ」

「んー。でも朝は忙しいんじゃない? 柚真人、もっぱら購買組だよ?」

「あら、そうなんですの。それは……存じませんでしたわ」

「てゆうか……。毎日毎日おれが柚真人の分まで買ってんだ、無理やり。そうでもしないと、あいつ毎日食事抜くもんね。育ち盛りの青少年が信じられない暴挙だと思わない?」

「そうですわねえ。それは心配ですわ。でも、クラスも違っていらっしゃるのに飛鳥さんも面倒見がよろしくてね」

「他に誰が出来るって思うの? 僕しかいないでしょ、まったく」

「そうかもしれませんわね」

 緋月は、ころころと笑った。

 それから軽く、空に向かって伸びをする。

「ああ……今日はよいお天気ですこと。午後の授業は、本当に眠くなってしまいそうですわ……」

 初夏の空を見上げ、欠伸を噛み殺しながら、呟く。

 飛鳥は、彼女を見下ろして訊いた。

「次、何?」

「古典と……地理ですわ。退屈だとおもいますでしょう?」

「……そうだあねえ。特に古典はおれも嫌いだねえ」

「飛鳥さんは、理系ですものね。やはりそちらへおすすみになるの?」

「まあね。三年次は理系組に行くつもりだし、大学もね」



 他愛ない会話でも、柚真人が相手だったなら、緋月にとってはよいのだろう。

 いま彼女の前にいるのは飛鳥だが、それでも緋月自身が大変楽しげによく笑うので、なんとなく彼女に答えてしまう。

 けれども、そんな彼女の――彼女曰くの恋心のかたちを、飛鳥はいまひとつ理解できずにいた。

 いまでも、このひとつ年下の従妹の語る恋というものには、心底の戸惑いを禁じえない。

 理由はといえば、飛鳥にはそんなふうには思えないからだろう。それでいいなんて、何も欲しくないなんて、静かに微笑むことなんて、到底できないと思えるからだ。

 人それぞれ、様々な形があるのだと理解してはいても、それでも緋月の気持ちに理解は及ばなかった。

 そして――柚真人の気持ちにも。

 皇柚真人は言う

 彼女の気持ちは重荷にならない、と。

 彼女――暁緋月が煩わしいと思えることは、ない と。

 幼馴染みで、本当に小さい頃から一緒にいる、ということもあるかもしれないけれど、彼女の気持ちが重いということはないし、欝陶しいということもない。

 そう、言うのだ。

 彼女は柚真人に何も求めないから、ふたり互いが幼馴染みとして、従兄妹として培ってきた関係に変化は無いのだと。

 そんなものなのだろうか。正直、飛鳥は納得しきれない。

 ふたりの間には変化などまったく無かったのは事実である。

 それでも、恋をしているのだと、臆面もなく緋月は言うのだが。

 照れもせず。

 柚真人の目を、その鳶色の瞳で真っ直ぐ見返してさえ、そう言えるのだ。 

 ――なにも望まない。

 どうしてそんなことが言えるのか。 

 ――なにも欲しくない。

 なぜそんなふうに思えるのか。

 ――逃げているだけじゃないのか。

 ――その先のことすべてから。

 そう言い捨ててしまえばそうなのかもしれない。

 だけれど、そう一蹴できない何かがあることもまた、事実だった。

 この少女には。彼女の、真摯な瞳には。

 そう――だって、彼女は傷つくことを恐れたりしないし、結末に怯んだりしない。どんな現実にも背を向けたりなどしないだろう。飛鳥はそれを知っている。

 彼女は柚真人のあとを追ったりしない。たぶん、ひどく透き通った想いをよせ、彼を見守るんだろう。

 でも、それでも、それが覚悟をもって暁緋月が望むところなのだ。



「……なんですの?」

 緋月を見下ろしていると、視線を感じたのか少女が飛鳥を振り仰いだ。

「いや。なんでも。……僕も、司ちゃんのところにでもいってこようかなあー……なんてね。そう思ったりして」

 そういうと、緋月が小さく肩を揺らした。

 ころころと声を立てて笑うさまが愛らしかった。

「飛鳥さんは、本当に司のことが好きなんですのよね」

「もちろんね」

 飛鳥が緋月と違うのは――司の前で、きちんと気持ちを伝えられないということだ。緋月が柚真人に向かう時と、飛鳥が司に向かう時では、あまりに違いがある。

 司は、たぶん、ふざけているとしか、感じていないだろう。

 いまさら本気だなんて、いえもしない事態に陥り掛けている自覚は――充分にある。

 緋月は言った。

「司は鈍いですわよ。飛鳥さんのお気持ちにもまったく気が付いていないみたいですけれど」

 ご指摘の通り、と飛鳥は思った。

「帰り、ときどき司のこと待ち伏せてますでしょう?」

「まあね」

「飛鳥さんの行動の在り方は、司から、多少は聞いていますのよ? あれで……何も思わない司って、ちょっとかわってますわね」

「ほおんと。……鈍いんだよね、彼女」

「司に、きちんと言ってないのでしょう? 黙っていては伝わりませんわよ、気持ちなんていうものは」

 穏やかに、諭す口調で緋月が言う。

 飛鳥は、それを聞いて肩を落とした。

「うん。……でも緋月ちゃんみたいにいかないんだよね、……僕にも、いろいろと思うところがあるからさ」

「……思うところ?」

「うん」

「それって、何ですの?」

「……内緒」

「わたくしにはよくわかりませんけれど」

 緋月が小鳥のような仕草で首を傾ける。飛鳥はあいまいに微笑んだ。

 緋月は、柚真人の気持ちが真っ直ぐに向いている方向なんて微塵も気にしないから、気がついていないのだ。

 飛鳥と柚真人の微妙な位置関係に。



 ――ここから動けないのは、あの兄妹のせいだ。まったくどうしたものか。



「司ちゃんのこと、好きだけど……。僕のそういう気持ちは、まだ、彼女に知ってもらわなくてもいいかなって……僕はそんな気がするんだ」

 半分本当で、半分嘘。

 飛鳥だって恋をしている。司が好きだ。

 本当のことをいえば、穏やかになんか笑えない。

 この気持ちを抑えるのは、そう楽なことでは無い。

 当たり前だ。

 けれど、だからこそ飛鳥は――司の兄――実の兄である皇柚真人が司によせる複雑な想いも知っているからこそ飛鳥は、彼がどんな気持ちで妹を想い、自らを責めながら彼女に焦がれているかわかってしまう。

 そして。

 彼と自分とは、従兄弟で、幼馴染みで、そして友人であり、主従でもあるのだ。

 柚真人のことだって、大切なのだ。 天秤に掛けて、簡単に片方を切り捨てられるわけがない。

 いくら兄と妹の関係が社会通念上絶対の背徳だとはいえ、そんなことくらいで彼を簡単に裏切ることなどできようか。

 甘い。

 そうかもしれない。

 だが、柚真人のことを思うと、司には何も言えない。この気持ちに、気付いてほしいとは思う。願う。それはどうしようもなく都合のいい話だった。けれども、自分からは言えない。

 だから、飛鳥と司の関係も、変えてはいけないと、思う。

 変えない。

 飛鳥は、そう努めてきた。幼い頃から築いてきた、二人の関係を、保つように努めてきたのだ。

 高校受験の時も。

 いやその前から。そしてこれからも。

 緋月と柚真人は、想いと通じてなおその関係を変えないけれど――飛鳥と司は、想いを告げられずしてなおその関係を変えられない――のだ。


      ☆


 飛鳥が言葉を続けようとした時。

 昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。

 敷地内には時計塔が在って、その時計塔の鐘が、時間ごとに鳴るのだ。

 古い時計塔の鐘の音は、荘厳で重々しく、まるで何処かの外国の教会を思わせる響きだ。

「……午後の授業に参りましょうか」

 それはそれは優雅に、緋月が立ち上がった。白く柔らかな指先で、彼女はスカートの誇りなど払い、すっと背を正す。

「ではまた。飛鳥さん」

「うん。またね」

 ふわり、と身を翻して立ち去ってゆく少女の背中を眺めやり、飛鳥は再び晴れた青空を仰ぎ見やった。

 また、季節が変わる。

 変わってゆく。

 この先、自分達の間に訪れる変化は、一体どんなものだろう。このままでいられるはずは無かった。緋月は柚真人を想う。飛鳥は司を想う。

 そして柚真人もまた司を。

 自分の中にも独占欲が在る。負けたくないと思う。手に入れたいと思う。

 けれどそれは自分の中にだけ在るものでは無いのだ。



 それを思って、飛鳥は空の水色を、見つめていた。


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