第17話 薔薇の庭園
「薔薇の庭?」
司が言うので、柚真人は頷いた。
「そう。今日の仕事は、薔薇の庭園」
「うわー……似合わない」
「似合う、似合わない、の問題じゃないだろう。仕事だからな」
「違うわよ。幽霊に、薔薇の花っていうのが」
「ああ――」
頷きかけて、柚真人はふいに顔をあげた。
「……馬鹿。それこそ、似合う似合わないの問題じゃない」
小さく、ため息。
「……柚真兄には、似合うと思うよ?」
「は?」
「薔薇の花。綺麗な上に刺だらけ。色は、……薔薇って云えば、赤だけどさ、でも赤より白っていう感じ。うん……青、でもいいけど」
「『ブルーローズ』?」
「冷たい感じがするでしょ?」
「意味、知ってる?」
司が、きょとん、としたので、柚真人は肩をすくめた。
――在り得ないこと。
青い薔薇、は不可能を意味する。
結局、思考はそこへたどり着く、というわけか。
自嘲的な気分になる。
彼女を目の前にした途端に、思考が狂い出すのだ。それ以外の、何時、いかなるときでも、冷静を貫ける自信があるのに、こんな時だけは簡単に自分を見失ってしまいそうになる。繕う仮面が崩れてしまいそうになる。
口許に、浮かぶのは微苦笑。
その度に、自覚する。
他の誰かに対してなら、自分はどんな人間を装うこともできるけれど。彼女の前で、彼女の兄を演じることが、何より辛い。
なによりも。
☆
少年は、薔薇の庭園に立つ。
夥しく薔薇が咲き乱れ、噎せ返るような香りに満たされたその庭園。
彼女が好きだったもの。
苺のミルフィーユ。
真紅の薔薇。
花の香りの紅茶。
――絵に描いたような、御令嬢ってわけか。いるもんだねえ……。
もう、五年も前に住む者のいなくなった、お城のような洋館。
東西の対の館に囲まれた、広い、広い、イングリッシュ・ガーデン。
緑の芝と生垣と、そして赤の薔薇。
――どうも苦手なんだけどね、こういう雰囲気。
庭の中央にセッティングされた、彼女のためのオープン・カフェ。
複雑に入組んだ生け垣に咲き誇る薔薇に囲まれたガーデン・テーブル。
薔薇はすべで真紅である。
血のように濃密な赤。
滴るように濡れる赤。
レースのテ-ブル・クロスは、対照的に染みひとつない純白。
その上には、午後三時のお茶の支度。
それが『彼女』の要求だった。
そして約束だった。
招かれたのは、少年。
そして、彼女が顕れた。
空気から滲み出すように、その姿が現れた。
陽炎みたいに。
そうっと。
ふわりと。
それは、純白の可愛らしいエプロン・ドレスに身を包んだ少女だった。
小柄で華奢な印象。歳の頃は、十五かそこらだろう。
陽に透ける栗色の髪はふわふわのウェーヴ。同じ色の瞳。白い肌は、お世辞にも健康的とは言えないほどに病的に見える。そして小さな小さな唇は、淡いピンク色。
けれども、嘆息を押し殺す必要があるほどの美少女だ。
彼女は、言った。
「貴方が、私のお茶会のお相手をしてくれるのね?」
少年が頷くと、少女はふっとほほ笑んだ。
☆
少年は、皇の巫。
死者の声を聞く者である。
死者の姿を見る者である。
だからこそ、彼女は少年の前に現れたのだ。現世に想いを残すからこそ、ここより黄泉路を辿ることあたわず、彼女はここに止まっている。
少年は、彼女の魂を、想いの枷から開放する為に、ここにいる。
皐月の風は、わずかに薔薇の香りを含んでいた。
「よかったわ。もう一度、ここで誰かとお話ができるなんて」
綺麗な綺麗な声で、少女が言った。たくさんの硝子の風鈴がやわらかな風にさざめくような、そんな響きだ。
「この花瓶のお花……。それに、ケーキとお茶……。貴方が?」
彼女が訊くので、少年は首を傾げて彼女の様子を伺った。
それは館の主人が、午後のお茶の時間の為にケーキと紅茶を用意していたという話から、少年が彼女の為に用意したものだった。
「お気に……召さなかったかな?」
「いいえ、いいえ」
そう言う彼女は、偽りなく嬉しそうだった。
本当に、本当に嬉しそうに、純粋に屈託なく笑っていた。
「どうもありがとう」
そう言って、彼女は椅子に腰掛ける。
それはひどく優雅で滑らかな仕草だった。
「さあ、あなたもお掛けになって。どうぞ」
座った彼女は、ただ、何をするでもなく微笑んでいる。
お茶に手をつけるでもなく、お菓子に手をつけるでもなく。ただ。
少年を目線をあわせて、にこにこしている。
少年は、その大きな瞳に凝視されて、戸惑いを感じていた。
「……これで……よかったのかな?」
怪訝に思って少年が尋ねると、少女はことのほか大きく頷いた。
「ええ。とっても素敵」
「それは……よかった」
少年と少女は微笑み合う。
「もう、いいのかな?」
「ええ、……もういいの」
「この……君の庭は?」
「私がいなくなったら、消えてなくなるわ。これは私とおなじ、憶い出だから」
少女はそう言った。
「思い出?」
「ええ、憶い出」
そこは 主を失って久しい、庭だった。けれど、まったく美しい庭園だった。
それが、怪異の要である。
庭園の薔薇の花が、完璧なまでに整然と咲き揃い、緑の生垣がいつも隅々まで整っている。
いつも、である。
もう何年も前に館と土地の主がいなくなり、庭の手入れをするものもいないはずであったのに。主人が帰らぬ人となっても、薔薇は枯れることがない。緑も枯れることがない。
それゆえ。
――時間が止まっているようだ。
人々は、口々にそう評した。
そこは見事な造園だったけれど、何時の頃からか、その怪異ゆえ、かような噂が立ったのだ。
事実――その庭の薔薇は、一年を通して枯れることがなかった。
庭園には、深紅の薔薇が咲き誇っていた。
春も、夏も、秋も――そして冬も。
真冬でさえも、その庭は真紅だった。
雪が降っても。
枯れない、薔薇。
枯れない、緑。
美しい庭園だった。けれど噂は、巷の人間を疾く駆け巡り、その足を遠ざけた。一体、その庭で何が起こっているのか、なぜこんなことが起き得るのか、誰もわからず、その庭を訪う者はいなくなったのだ。
だから、ここはずっと静かだったろう――少年は、そう思う。
庭には、いたのだ――彼女が。
この少女がずっとここにいたのだ。
だから、彼女の薔薇も、枯れることがなかったのだろう。
少女はこの庭を大変に大切に想っていたらしく、それゆえにひとり、ここにとどまり続けていたわけだが――茶会に少年を招いたとあっては、やはり寂しいと感じることも時折はあったのだろうか。
――そうね。……最期にお茶会をしたいわ。
なんていうのが、彼女の望みだったのだから。
そう思って、少年は尋ねてみた。
「ひとりで待つのは……寂しかったろう?」
「……ええ。そうね……やはり、寂しかったわ」
少女は、穏やかに頷いた。
「……どれくらいここで待った?」
「……四……五年も経ったのかしら。ごめんなさい。正確なことは……」
少女はそう言って、首を傾げた。
「あなたが教えてくれなければ、もっと待ったかもしれないの。……義父さまが、事故で……もうここへは戻ってこないなんて」
「この場所が、好きだった?」
尋ねると、途端に彼女の顔がほころんだ。
「もちろん。義父さまが私のために造ってくれたんだもの。ここで待っていれば、きっときっと、帰っていらっしゃると思ってたわ……」
「お義父さまのこと、本当に好きだったんだね」
「ええ……はい」
屈託のない笑顔だった。
陽の光に透けて、溶けてしまいそうな少女の、儚い笑顔――。
「義父さまにとって、私は私でなかったのかもしれないけれど。でも私は、義父さまが好きだったの。ねえ、あなたにとっては……私はどう?」
不意に問われて、少年もいささか戸惑った。
「どうというと?」
「あなたにとって、私は私?」
「……君……は、君だと……おもうけれど?」
うふふ、と悪戯っぽく、彼女は言う。
「そうかしら。本当は、私……ケーキも、お茶も、食べないのよ?」
「……?」
少年は、その言葉に初めて訝しさを感じた。
「意味、わかる?」
「……」
薔薇の香りの風にさらさらと流れる――彼女の柔らかな髪。
少年は、それをぼんやりと見ていた。
「でも……義父さまがね。いつもこの庭のこのテーブルに用意して下さるの。
だから私、ここに座っていたの。義父さまも、それでよかったみたいなの。今日、あなたがしてくれたみたいに」
「……?」
「いまね。あなたが見ているのは、本当の私ではないわ、きっと。義父さまの夢をあなたもみているのね」
「夢……?」
彼女は柔らかに頷いた。
「だから……、憶い出よ。みんなと同じ。この庭と同じ。憶い出。……ねえ? あなたは、いついかなるときでも、本当のあなた?」
黒目がちの大きな瞳が、まっすぐに見つめてくる。
「それとも誰かのあなた?」
どっち? と尋ねるその微笑みが、少年の心を少しだけ惑わせた。
どきり、とする。
「おれは、……おれだよ。ここにいるおれが、本物の自分」
「そうかしら? 誰かの心にいるあなたは、でも本物じゃないでしょう? 私の望む姿を演じるあなたも、本当じゃないわ。……あなたはいつもそうなの?」
見抜かれている、というわけか。
少年は苦笑する。
成りは幼いが、なかなかどうして相手の少女も侮れない。
「それは……。ああ、確かにそうは言い切れない。けれど、きっと、誰でもそうだと思うんだけど?」
「そう……かもね。私は、義父さまのための私だった。それで、よかったのだけれど。……義父さまが私に似合うといってくれたケーキやお茶のことが少しもわからなくて、それがとても寂しかったわ。でもおあいこね、義父さまも寂しかったのだから、しかたないわ」
会話の迷宮に迷い込む心地で、少年は少女を見つめていた。
彼女が義父と呼ぶのは、もう五年も前に交通事故で命を落としたこの館と庭と土地の所有者だった青年実業家のことなのだろうことは、推測がついている。
だが不思議なのは、彼が、独り身だったことだ。
享年三十四歳、独身。
調べた限りでは事故当時にして既に家族も親族もなく、もちろん実子もなければ養子も、存在しないはずだった。『寂しかった』――とは、そのことを指すのだろう。
では少女は何者?
少年には、この庭に棲む、白い少女の正体が、まだわからない。
生ける人ではない。
それは、わかる。
しかし、この館の主には子供も妻もいなかったはずだ。
すると一体、彼女は何者なのだろう。 なぜ、この薔薇の庭に棲み続けるのだろうか。
「これは、私にかけられた夢の呪いなの。このままでは何処にも行けないから、ずっと待っていたのに、独りで先に逝ってしまうなんて……、勝手な義父さま」
ふと、少女が泣いているように、見えた。
寂しそうに、笑うのだ。
「本当に……」
それは義父の想いが。
彼女をここへ、つなぎ止めているということか。
「誰かに気付いて欲しいでしょう?
貴方も、そんなふうに思うでしょう?」
「……っ」
咄嗟には、こたえられなかった。
それは属性を違えるも、少年にとっては思いがけず核心を突く、問いで。「私、それをまっていたのかも。でも、義父さまは、逝ってしまった。……どうかしら。貴方になら、私が視えるのではないかしら……」
その瞬間。
少年は何かを視たような気がした。
朧な、答えを。彼女の謎掛けの正体を。
「君は――」
この、薔薇の庭に。
薔薇の花は、彼女を縛る想いの結晶。
それは夢の鎖。
それでは。
この眼に見えるのは。
やはり夢の凝りで。
真実ではなく。
呪いの果実。
抑留された魂。
くすくすと、儚く笑う少女はあどけなく、愛らしい。
けれど、きっとそれは。その姿は。
「君にとって、意味あるものは――」
「義父さまの憶い出だけよ」
ケーキも、お茶も。
この見事な薔薇すらも。
意味などないのだ――彼女にとって。
されど彼女が義父と呼ぶ男には、娘などなく。
この館で彼を待つものは――否、人は――いなかったのだ。
そう――。
刹那、何かが脳裏で符号する。
――義父さまも寂しかったのだから。
重なり合って、真実が答えになる。
――寂しかったから。
誰もいない。彼を待つ人は誰も。
だから。
夢を重ねて。
彼女は檻に閉じ込められた。
すべては思いの残像だから。
彼女は夢の鏡なのだ。
「君は……」
それを化生と呼ぶべきか。
「人では……ないというのか……」
それとも物怪と言うべきなのか。
「その姿こそがいつわりの……?」
像が揺らぎ、空気に滲む。
一度伏せた瞼の下で、くるりと瞳が色を変える。
その色は。
人には有り得ない色彩だった。
乾いた血のような、赤銅色。
カッパー・アイ。
「どうして……、その、瞳は……」
あなたにとって、わたしは何?
「……瞳の、色は……」
――ありがとう。
その声は、既に声ではなかったかもしれない。
それは、変身の魔法が解ける姫君の様だった。
確かにこの目で見たものだけれど、まるでまぼろしのようで。
到底記憶に残すことは――出来そうにない。
それはきっと、夢が消えてゆく瞬間だった。
白い少女のワンピースが、空気に溶けるように消えてゆく。
その白い残像が、身を翻して消えてゆく。
夢の名残の軌跡を残して。
そして。
最後に少年が見たものは――白い、小さな、影だった。
小さな――。
――椅子から飛び下り、駆け去って言ったのは白い獣。
ペルジャン――赤い瞳の白い、猫。
☆
――風が、吹いた。
少年は、目を覆って席を立つ。
それはまるで、一塵のつむじ風。
幻影の薔薇が枯れてゆく。散ってゆく。
風に舞い、褐色の花びらが渦を巻き、天空へ還る。
彼女を呪縛していた憶い出が消えてゆく。
少年が、次に目を開けた時、そこは荒れ果てた土地だった。
あれほど美しかった薔薇の庭園はもはやそこには存在せず、そんなものがあった事さえ到底うかがえないような有様だった。緑は消え去り、薔薇の花もなく、錆付いたガーデンテーブルと椅子がふたつ、あるだけだった。
冷たく乾いた風が流れ、土埃が舞った。
「……」
その変貌に、自分自身少なからず衝撃を受けた。思わずぐるりと四囲を見渡すが――間違いない。こちらが現実なのだ。これこそが、そもそもここに存在
したものの真実の姿。
あれは夢。または幻。
そう思いながら目を落とすと、その足許には。
白く、乾いた――。
――骨。
それは何か小動物の骨だった。半分、赤茶けて土に埋もれながら、かさかさと風に音を立てている。
微かに残る、白い被毛も煤けて汚れている。
いつからだろう? 何時から歪んでいったのだろうか。
それとも初めからだったろうか。彼が、彼女に出逢ったその時から。
館の主人には、猫を飼っているつもりなど毛頭なかったのかもしれない。本当に、少女に見えていたのかもしれない。その感覚を、少年自身は理解しがたいと思うが、人の中にはそのように自分の世界だけが歪んでいる者もいるだろう。食餌も満足に与えられなかった『彼女』は、それでも、飼主の寂しさに応えようとしたのだろうか。
彼女がそれを望んだのか。
そんなことがありえるのか……。
否、理屈がどうあれ、事実は事実。
そうやって、彼の望む姿であり続けようとして、いつしかそれに――囚われた。
夢に縛された。
化生というのは――あるのだろう。きっと。
彼らは、思いのほか人の心を敏感に察し、解するものだ。
勝手な思いを押しつけられても、彼らは彼らの思いのままに、応えようとするものなのかもしれない。歪んだ愛でも、受け入れるのかもしれない。
それは、彼らの想いが純粋であるがゆえであろう。人は、そのようにまったきひとつの感情を凝らせることなど、きっとできはしない。
その透明な心の在り方はもはや、人が遠い昔に失ったものに違いない。
――おれは、おれだよ。ここにいるおれが、本物の自分。
胸を張って、そんなことが言えたわけではない。
先刻、彼女の言葉は確かに鋭くこの心を貫いた。深いところに届いた。
――気付いてもらいたいでしょう?
矛盾だ。
演じるのは、悟られないため。
だけど確かに。心の何処かでそれを願っているのかもしれない。
――おれは……。
けれどもそれは、彼女のように純粋な気持ちから、そのためだけに纏った装いではない。自分はもっともっと、いろいろなもの、余計なものを抱え込み過ぎている。自分を演じて自分を偽るのは、そんな単純な理由からではない。
それが辛い。
綺麗事では到底済まされない。
なにより、自分は求められてはいないのだ。その現実を受け入れようとして、繕っている。
いや、繕うしかないのだ。どこまでも。
――本当の姿を見て。
その思いは同じで、それがゆえに、彼女はこの自分の裡にそれがあることを看破したのだろうか?
彼女は、化生。
がりがりに痩せても。
――ただその想いだけで、生きて、その想いに呪縛された。
「……悪かったな。今度は、キャットフードでも供えよう」
少女の笑顔と白い軌跡を脳裏に刻んで、少年は踵を返し、館と庭を後にした。
猫――か。
化ける、と、確かにそう、伝え聞く。だが実際、人ならざるものの化生と、
少年は初めて遭遇した。
――……それとも、缶詰のが好みかな?
☆
彼女の、好きだったもの。
それはたぶん。
ケーキやお茶や綺麗な庭ではなくて。
たったひとりの。
世界でたったひとりの……。
その人の、微笑む姿と、優しい声だったに違いない。
似ている。
そう思った。
その人の、笑顔を望む。
だからこそ。
――だからこそ――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます