第16話 二人の距離
――大丈夫。
少女は、自分に言い聞かせた。
――絶対大丈夫。
何に縋っているのだろうと、祈りながら考える。
神様なんて、信じてない。
別に、信仰があるわけじゃない。
それでも、少女は何かに祈らずにはいられなかった。
心に抱えた不安は、あまりに大きすぎて、とても耐えられない。
誰かに、縋らずにはいられない。
そんな気持ちだったのだ。
――ばかげてる。
そう思った。
人間の心というのは、こんなにもくだらなくて、柔くて、脆いものだったのだろうか、と思い知る。だけれど、今の自分が平静を保ち続けることがとても苦痛であることもまた、事実。疑いようのない事実だった。
ふと気を抜けば、泣きそうになっているし、手足が震えるのを感じた。
――こんなことをして、何になるっていうの? 誰かがたすけてくれるの?
――誰かが絶対を約束してくれるの?
――そんなことあるわけないじゃない。
それでも。
そうせずには、いられなかったのだ。
☆
「ねえ、貴女。何か困ったことでもあるの?」
そう声を掛けられたのは、その神社に足を運ぶようになってから、5日目のことだった。
見れば、すらりとした背の高い巫女だ。
「ここのところ毎日、同じ時間に来てるでしょう?」
長い髪をいかにもそれらしく肩の辺りで束ねた巫女は、軽く笑ってそういった。その笑顔を見て、随分と華やかな美人だと、思う。
「……」
聖子が返答に困っていると、巫女はすっと聖子の胸元を指差して、
「それ。栄女――栄楼女学館の制服でしょ? アタシ、そこの出身なの。だから気になっちゃって。気に触ったらごめんね?」
「ここの……、巫女さんですよね?」
聖子が尋ねると、彼女はにこやかに頷いた。
「でも、アタシはバイト。毎日、神社に願掛けにくるなんて、貴女みたいな女子高生、珍しいよね……だから……何かあったのかなって」
「……」
「よかったら、サヤカって呼んで? 貴女は?」
「あ。……あたし……真宮……といいます。真宮聖子」
「そう」
巫女は、柔らかく微笑んだ。
聖子は、ごく普通の女子高校生だった。神様なんて全然信じてなかったし、神社なんて初詣でぐらいしか訪れたこともなかった。
毎日の心配事といえば、勉強や成績のことで親がうるさいことと、友達のことと、ちょっとあこがれているバイト先の先輩のことと、あと、溜まったメールにする返信のことぐらいだった。
そんな日常に変化が訪れたのは、丁度一週間前のことになる。
中学二年生の妹が、家に帰らなくなった。
否、正確にいえば、帰ってこなかった。これなくなったのだ――と、思う。
妹の優美は、俗にいう典型的な優等生で、聖子とは何も彼もが正反対だった。
利発で、可愛くて、優しい子だった。誰でも知っている指折りの超難関私立中学に通い、その中でも常に主の成績をおさめ、両親の絶大な期待を一身に背負っていた。
そんな娘が唐突に行方不明になったのだ。
両親は、真っ青になり、その日のうちに警察に捜索願を出した。
そして警察は、事故と犯罪の両方の可能性を含めて、翌日から捜査を開始した。普通、誘拐などの人為的な事件に巻き込まれた場合、何らかの連絡があっても良い。
しかし、三日経っても、四日経っても、犯行声明や身の代金要求の類いの動きはなかった。
そこで、真宮優美は事故にあったか、人為的なものならば犯人の目的が真宮優美自身だったのではないか、ということになった。
事件はその性質から世間に後悔されないままに、警察の捜査は続いていたが、一週間という時間が経った今でも、事態に進展はない。
「それで、……妹が無事だといいと思って……」
かいつまんであたりさわりのない事情を説明したあと、聖子は言った。
「ふうん……」
サヤカと名乗った巫女は、聖子の話を聞き終ると真率な顔で相槌をうった。
話している間、少女の手は小さく震えていて、時々声もか細くなったりして、そんな少女の姿が悲痛に見えた。 夕暮れが近付いて、空には藍色の雲が漂い、風が冷たくなってきている。「本当に、可愛い妹なんです。あたしなんかと違って、出来が良くて、両親もとても可愛がっていて、あの子がいないと夜も日も明けないぐらい……。あたし……そんな父と母をなんだか見ていられなくて……」
「……仲、良いんだ?」
そういうと、聖子ははにかんだように笑って、こくんと頷いた。
「自慢の妹ですから……」
神社の鳥居をくぐった時、臙脂のブレザーにグレイのスカート、という制服に身を包んだ女の子と擦れ違った。 擦れ違いざま、ほんの少しだけ目が合ったかもしれない。
確か、ここから程近いところにある女子校の制服だったように、記憶している。
すっかり葉桜並木になった参道を抜け、拝殿の前までやってくると、そこにいた巫女が、軽く手を上げた。
「神主さん。おかえりなさあい」
神主さん――そう呼ばれた少年、皇柚真人は、柔らかい笑みでそれに応える。
「サヤカさん。まだいたんだ?」
「もう社務所閉めて帰ろうと思ってたところです」
「ナナミさんとユカさんは先に帰ったの?」
「ええ」
皇神社には何人かのバイト巫女がいた。土日を除く平日は3人が常駐で、それを基本にしたシフトの中で、何人かが入れ替わりに社務所や売店で働いている。これは、神主たる柚真人が、まだ学生であるためだ。柚真人が呼んだ名前は、今日の担当の巫女たちの名前だった。
「おそくまでご苦労様」
そういって、社務所に向かう彼女の背を見送り、自分は神社から裏の邸宅に続く道へ、敷地を隔てる格子の引き戸に手を掛けようとした――時だった。
「ねえ。……神主さんて、時々、依頼を受けて占いとか、人捜しとか……探偵さんみたいなこと、してるんですよね?」
サヤカが不意に、そう言った。
柚真人は首を傾げ、
「んー……。『探偵』とは少し違うよ。神主なんだから、依頼を受けてする仕事は『お祓い』が中心だけど?」
促す口振りで先を預けると、サヤカは少し深刻な様子で突飛なことを訊いてきた。
「……行方不明になった子供の居場所とか、状態とかって、わかったりするんですか?」
「……どうしたの、急に?」
「あ、別に、どうってことはないの。ちょっと思っただけ」
柚真人は肩越しに振り返って、困ったように唇を歪めた。
「……そうだな。そういうのは、時と場合によるんだ。なにか、気になることが?」
尋ね返すと、サヤカはぷるんと横に首を振った。
「いえ、なんでも。なんでもないです。気にしないで」
「そう?」
「ええ」
「……じゃあ。……おれはこれで」
「また明日」
彼女が緋袴を翻して小走りに駆け出してゆく。
サヤカの言葉の意味が、気にならないわけではなかった。けれど彼女が自分の言葉を必要としているようには見えなかったので――柚真人もそのままその場を離れた。
☆
「ただいま……」
自宅のドアを開けても、返答はなかった。
妹がいなくなると、家はこんなに静かだったのかな、と思う。
真宮聖子の自宅は、世田谷にあった。父はいわゆる一流商社の重役で、母は良家の御令嬢。子供は聖子と優美の二人きり。
つい先日までは、絵に描いた様に穏やかな雰囲気の家だった。
問題は何もなかった。
そう、何も。
「お母さん……?」
居間には明かりもなく、暗い部屋の隅のソファに、母がぽつんと座っていた。
聖子が呼んでも、顔を上げようともしない。
居間の扉を閉め、聖子は嘆息した。 そのまま、階段を上がって部屋に入る。
近くのコンビニまで、晩御飯を買いに行かなければならないか、とぼんやり考えた。
けれど不思議なもので、おなかはあまり空かない。空腹感という感覚を、体も脳も、忘れてしまったかのようだ。
――少し休もう。
そう思って、ベッドに体を横たえる。
天井を見上げる。
妹のことを考えた。
あの、可愛らしい笑顔。
頭が良くて、優しくて、誰からも好かれていた、あの子。
優美がいなくなって、この家はすっかり淋しくなってしまった。
たった一週間――。
たった七日。
七日前――。
ふっと意識が浮上した時、ぼそぼそという話し声が聞こえた。
父と母の声だった。
どうやら、父が帰宅したらしい。
聖子は、のろのろと体を起こして、そっと部屋のドアを開けた。そして、階下の方をのぞきこみながら耳をそばだてる。
警察は、なにをやってるんだ。
父の苛立たしい声が聞こえた。
優美が何処にいるか、まだわからないのか。無能なやつらめ。
――あなた……。
自分以外のすべての人間はすべからく無能で使いようがないと思っている、傲慢な父らしい言葉だった。優美は、そんな父が唯一、目の中に入れてもいたくないほど可愛がっている存在だったのだ。父にとって、優美は、母や聖子とは明らかに違う存在だった。
動転している父の狼狽振りは、どこか哀れだ。
――あなた。……もしかしたら、優美は……もう……。
――なに、馬鹿なことをいってるんだ!
――でも!
――そんなこと、思っていても口に出すもんじゃないだろう!
少しの沈黙のあと、今度はくぐもった嗚咽が聞こえた。
母が、堪えきれずに泣き出したようだ。
――泣いてどうなるっていうんだ!
父が怒鳴る。
――だいたいお前だって、なにかできることがあるだろう! 一日家にいて、何をやってるんだ。
無茶苦茶な理屈だった。喚く声が、聞き苦しい。
親の期待を一身に受けていた妹だからいたしかたないこととは言えようが、両親は、この家に――否、自分達にもう一人の娘がいることなどすっかり忘れてしまっているようだ。
聖子は、ふたりの会話を聞いているのがいやになって、部屋の扉を閉めた。
晩御飯をどうしようかな、と思ったが、おなかも空いていないし、階下に降りていく気もしなかったので、どうでも良くなった。
両親が寝静まったら、何か探して食べて、それからシャワーを浴びよう。洗濯もしなくてはならない。
柔らかく暖かかった、家が嘘のようだと思う。あれは、本当に存在した、自分の家だったろうか。幻ではなかったか。
夢ではなかったか。
優美がすべてだったのだ。
そう、思う。
あの聡明で利発な妹が、この家のすべてだった。
自分は、親の期待には応えられなかった。良い子供じゃなかった。有名私立中学にも高校にも入れず、優秀な成績を上げられなかった。勉強は嫌いで、親に逆らってばかりで、隠れてバイトをして、溜まったお金で遊んでばかりいた。
それが悪いことだとは思わない。
自分の生き方だ、と思う。
世の中にエリートだけがいるわけじゃない。それだけで社会が成り立っているわけじゃない。勉強だけが人のすべきことのすべてではないし、有名な学校に行ったかどうかで人間の価値や将来が決まるはずがない。
けれど、それは自分の両親の考えとはそぐわないものだった。
両親には到底認められるものではなかった。
だからこそ。
この家に必要なのは、優美なのだ。優美だけなのだ。
――優美……。
聖子の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――優美……。
☆
次の日、聖子は学校をサボった。
土曜日だったから、授業は午前中しかなかったし、嫌いな科目しかなかったから、罪悪感は大してなかった。ただ、授業だけはざぼったことがなかったな、とぼんやり思った程度だ。
制服を着て、鞄を持って家を出たけれど、学校に行く気がおきなかったので、コンビニで買ったパンを食べたあと、電車で都心へ出た。
そして、繁華街を目的もなくぶらぶらした。
学校が終わる時間になっても、友達を呼ぶ気にならなかった。
誰とも、会いたくない。
そんな気分だった。
足は、それから自然と――五日前から通っている、自分の学校近くにある、あの神社へと、向いていた。
――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
聖子は、電車の中で、頭が痛くなるほど考えていた。
――優美。……優美……。
大好きな妹だった。
優美は聖子の自慢だった。
両親に自分の分まで愛されていること、成績が良くて頭が良くて可愛くて、本当に非の打ち所のないこと、それを妬んだりしたことはなかった。
自分は自分。
妹は妹。
別の人間なのだから、違うのは当たり前のこと。
親は常に二人に優劣をつけていたけれど、聖子にはそんな気持ちはなかった。
そのはずだと思う。
優美のことが本当に、大好きだった。
でも、その大切な妹は、いなくなってしまった。
――どうして……。
不安が広がる。真っ黒い不安が、胸の中に広がる。心臓が無駄に騒いで、今にも破裂しそうだった。
鼓動が早い。
息が詰まる。
だから聖子は、必死で自分に言う。
――大丈夫よ。
けれど、日を重ねるごとに不安は増した。
とめどなく膨れ上がって、どんどん大きくなって、聖子はいまや食い潰されそうになっていた。自分の中にある、くろぐろとした闇の塊に。
電車を降りて、駅の商店街を抜け、一本の真っ直ぐな坂道に出る。緩やかな上り坂だ。それを上りきったところに神社はあった。
何が奉られているのか、どういった御利益があるのか、そんなことは一切知らなかった。
ただ、学校の帰りに何となくこの不安を何かに吐露したくて、ここに立ち寄ってしまったのが契機だ。最初は、通うつもりなんて全くなかった。でも、ここにきて、手を合わせたら、何か少し楽になったような気がしたのだ。
馬鹿馬鹿しいと思った。
けれど……。
坂を上り終え、鳥居をくぐると社殿まで真っ直ぐに参道が続いている。平日の夕方は閑散としていたが、今日はちらほらと人影が見えた。よくよく見渡してみると、この神社は緑の森にかこまれており、参道の脇には緑地公園のような施設も見受けられる。坂の途中にはマンションや団地があったし、休日の散歩にはもってこいの場所なのかもしれない。
聖子は参道を歩いて社殿へ向かった。
そして、拝殿の前で柏手を打つ。
その時だった。
「君。昨日も来てたね」
瞑った目を開いて、声のした方を向く。するとそこには、白衣と水色の袴を身に付けた――少年がいた。
それが俗にいう神社の神主の衣装であるということぐらいは聖子も知っていたけれど、それにしたって随分と若い。否、自分と同じ年齢ぐらいなのではないだろうか。
おまけに、気味の悪いくらい綺麗な顔をしている。
「……」
昨日も、という言葉に、聖子はちょっと思案した。
――会ったろうか?
「昨日は、制服だったからわからないかな?」
「……あ!」
帰りにすれ違った、あの少年だ。西陵高校の制服を着ていた。
「あなた……昨日の高校生……」
「わかった?」
神職衣装の少年が微笑んだけれど、なんと応えて良いか分からず、聖子は黙っていた。
少年の容姿があまりに綺麗過ぎて、思わず圧倒されたのかもしれない。それどころかその整った風貌は、不吉な空気を醸すと見えるほどだ。
神社の中という特殊な空間がもたらす相乗効果だったかもしれないが、こんな人も世の中にはいるのだ、と嘆息したくなるほどだった。
「……」
「謝られたら、どんな気分?」
不意に、少年が言った。
咄嗟には、意味を汲めずに、何を言われたのかと一瞬と惑う。
「本当は、そんなつもりじゃなかったって。そういわれたら、どう?」
「……な……に」
少年が、柔らかく、微笑んだ。
その表情が、聖子の胸に不吉な印象を刻む。
「……なによそれっ!?」
「信じる? ……最期にどうしても伝えたいって、君の妹がさっきからそこで……泣いてるんだ」
ぞくっ、とした。
馬鹿な話だった。でも、否定、できなかった。だってこの少年が、知っているはずがないのだ。自分のことなど知るはずがない。昨日の巫女にだって、話してない。
なのに、どうして?
どうしてそんなことをいうのだ?
誰も知らないはずなのだ。誰にも、分からないはずなのだ。それなのに――。
「『嘘』だったって。……それだけ、分かって欲しいってさ」
それきり、少年は何も言わなかった。
さっさと背を向けて、行ってしまう。
聖子は、信じられない気持ちで、愕然としながら、その背中を見送るしかなかった。
混乱した。
目眩がした。
あの少年、なんと言った?
――妹が? 泣いてる? 嘘だった――? 謝る――?
聖子の瞳から涙があふれた。
聖子は、そのまま動けなかった。
――なによそれ。
聖子は唇を噛んで、呻いた。
――なんなのよ――!!
☆
十日前のことだ。
きっかけはほんの些細なことだった。
夜、親には内緒でしていたバイトで帰りが遅くなって――父と口論になった。
そこまでは、いつものことだった。
いままでどこをうろついていたんだ、とか、この不良娘が、とか、お前のような馬鹿はうちには必要ない、だとかまったく個性も独創性も無い罵声を父が浴びせ、聖子もまたおざなりな反抗の言葉を親に投げ付けた。
結局、言い合うだけ言い合って、聖子は親に捨て台詞を残し、階段を上がって、部屋に入ろうとしたのだ。その時、二階の踊り場から階下を見下ろしていた妹の優美と目が合った。
「優美……」
勉強中うるさくしてごめんねと――聖子はそういうつもりだった。
妹は難関中学に通う、成績優秀な生徒だったから、妹の勉強の邪魔はしたくなかった。優美が優秀であることは、本当に聖子の自慢だったのだ。
だが、聖子が口を開くより早く、優美が口を開いた。
「……馬鹿じゃないの?」
優美は、そう言った。ひどく呆れ果てたというような声音で。
「あんたみたいなのが、自分の姉だなんて嫌になっちゃう」
「え……?」
「頭悪いし。遊ぶことしか考えてないし。最低よね。帰りが遅くなるんだったら、いっそ帰ってこなきゃ良いじゃない? 邪魔なのよ、あんた」
その時――聖子の中で、何か――嫌な音がした。硝子の砕けるような、音が。
その翌日、学校から真っ直ぐ帰宅した聖子は、優美の部屋で、先に帰宅していた彼女の頸を締めて、殺した。
そして自宅の浴室で運びやすいようにその体を解体して、ばらばらに捨てた。
それは楽な作業では無かった。
なにせ、道具は台所の包丁しか無いのだ。
聖子は、砥石で、研ぎながら、少しずつ、遺体を切断していった。
自分でも、良くそんなことができたと思う。はっきりいって、今考えると自分自身でも信じられなかった。
それでも、父の帰宅は遅かったことも、その日、母もなんだかいう有閑主婦の会合にでかけていて、帰りが遅いことも分かっていたからこそ、できたことだ。今考えると、どちらか片方でも家にいれば、こんなことは絶対にできなかったに違いない。
芽生えた殺意さえ、一瞬の妄想で終わっていたに違いない。
優美が、大好きだった。
本当に大好きだった。大切な妹だった。
親は分かってくれなくても、妹は自分を理解してくれていると思っていた。
彼女を妬んだことなどない。
それは嘘じゃない。
けれど。
否、だからこそ。
あのとき、優美が言った言葉が――許せなかったのだ。
いや……許せなかった、などという感情は湧かなかっただろうか? ただ、心のどこかで何かが壊れた。その言葉に、何かが叩き壊された。
――そんなふうに、思われていたの……?
それなのに。
――嘘?
今更。
――謝る?
聖子は、それから毎日、祈っていた。
自分の犯行が露見しないことを。
両親は自分を疑わない。なぜなら自分という存在は、両親の目には入っていないからだ。人としてかずに数えられてもいないからだ。
証拠も残してない。浴室は綺麗に片付けたから、専門的にでも調べなければ不審なところは何処もない。
包丁だって、ちゃんと研いでもと通りにしまった。
優美が帰宅していなかったことにするために、彼女の鞄と制服と通学用のローファーも捨てた。
大丈夫。おかしなところは何もない。
それでも、いくら大丈夫だと思っても、不安だった。そしてそれはどんどん、どんどん、大きくなっていった。抱えきれないぐらいに。
――人ひとり、殺してしまったのだ。
それが、隠し通せるわけが無い。
本当は、自分でもわかっていた。ずっと黙っているなんて、きっと無理だろうということ。だから不安だったのだ。
だから、どうか大丈夫なようにと。誰にも疑われませんようにと。
聖子は祈り続けたのだ。祈ることで何の解決になるとも思えなかったが、それでも何かの力が借りられたような気がして、ほんのちょっと楽になった。
そんな気がしたのだ。
怖かった。自分のしてしまったこと、自分が背負うべき罪業のことを考えると、怖くてたまらなかった。
だから昨日、巫女にも嘘をついた。
それなのに……。
聖子はとぼとぼと歩きだした。
あふれてくる涙を拭うが、涙は止まらない。
踏み締める砂利の音が耳にいやに響いた。足下がふらついて、吐きそうな気分だった。
参道脇の公園からは、明るい子供たちの声が聞こえた。
緑濃い桜並木を通り抜け、鳥居をくぐる時、また、あの少年とすれ違う。
聖子は、すれちがいざまに訊いた。
「……優美は、どうして嘘をついたの。それもあなたにわかるの」
「おれの言葉を信じる?」
「わからないわ。でも、聞きたい」
「……羨ましかったってさ。自由な君が。なぜ自分だけが親に拘束されて、理不尽な苦労を強いられなくてはならなかったのかって。君が自由にふるまうぶん、自分が不自由なんだと……君にずっと嫉妬していたと」
「……」
ぼろぼろとまた涙がこぼれた。
どうして自分達姉妹と何の関係も無い、それどころか個人的な面識も無いこの少年に、そんなことがわかるのだろう、と思ったけれど、まったくの出任せとも思えなかった。
風に流れる葉音みたいな少年の声が、耳に優しくて、聖子には、素直に少年の言葉を信じるべきだと思えたのだ。嘘だと、そう思えなかったのだ。
少年の穏やかな言葉には、揶揄する響きもなく、ただ諭すように淡々としていて、不思議な説得力があるように感じられた。同じ年頃としか思えぬ少年なのに、どういうわけか超然として見えた。
両手を目の前にもたげてみる。
それが、血に濡れているような幻覚。
朱に染まっているようなまぼろし。
殺人を犯した手。
この手が、妹の命を奪った。
――結局は、分かりあえていなかったのね……わたしたち。
この手を真っ赤に染めながら、妹の体を切り刻んだ。
――優美。……やっぱりわたし。馬鹿な姉ね……。
拭っても拭っても止まらない涙をまた拭って。
聖子は駆け出した。
☆
「あれ……。昨日の子ですよねえ?」
柚真人が振り向くと、バイト巫女のサヤカが近付いてくるところだった。
今日も彼女はこれから夕方までのシフトである。たったいま、社務所で巫女装束に着替え、出てきたようだ。
サヤカは、柚真人の顔を伺いみた。
「彼女……なんか、泣いてませんでした?」
「……いや? ……そうはみえなかったよ」
柚真人は首を振った。
「あの子ね。……妹さんが行方不明なのですって」
「ふうん」
サヤカの言葉に、頷く。
「それでね。ああやって、無事を祈願してるんですって。羨ましいですよねえ……仲のいい姉妹。女同士って、きっと楽しいことがたくさんあるんだろうなあ。アタシ、一人っ子だから……」
☆
坂を下る途中、聖子はずっと泣いていた。
滲みぼやけた視界のなかで、陽が暮れてゆく。
いろいろなことが、脳裏をよぎっては消えた。
――あの時、どうして親は家にいてくれなかったのだろう。
――あの時、どうして優美と話をしようと思わなかったのだろう。
――あの時、どうして優美を殺してしまいたくなったのだろう。
あの時、あの時、あの時。
口許を抑え、嗚咽を堪えようとしたけれど、うまくいかなかった。
父と、母は、なんと言うだろう。
姉である自分が、妹を殺して、切り刻んで捨てたことを知ったら。
たぶん。それでも、私のことなんてどうだっていいに違いない。自分たちが社会的地位を失うこと、社会的信用を失うこと、それについて激昂し、憤慨し、怯え、聖子を手酷く罵るだろう。
彼らはその程度の人間だ。
自分のことしか大事じゃない。
私の大切な優美。
優美は、よくできるから、何でもできる子だから、わたしとは違うから、そうやって遠くからみているだけではいけなかった。分かったつもりになっても、全然、何も意味がなかった。
姉妹なんだから。
もっと、なんでも、話し合えば良かった。
なんでもいい、今思ってること、不満なこと、好きなもののこと、大切なもののこと、やりたいこと、親のこと、学校のこと、もっともっと、沢山。
けれどもう――もう、とりかえしがつかない。
優美はもう、帰ってこれない。
あの子の笑顔はみどとみることができない。話もできない。声を聞くことさえ。
――優美……――。
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