第11話 intermission Days-01

 



 上を見上げると青空。

 下を見下ろすと校庭。

 司は窓枠に肘を突いて、溜め息。

 ――一年三組の本日三限、物理の授業は、自習。


      ☆


「皇ちゃん」

 入学してしばらくたって定着したそのあだ名を呼ばれて、窓から校庭を見下ろしていた司は首だけ振り返った。

 司の名字は『すめらぎ』だ。しかしどうやらそれが呼びにくいらしく、音読みで『コウ』、ということになったのだ。もちろん、名前のほうの『司』で呼ばれることもある。

「何、見てるの?」

 怪訝そうなクラスメイトの問い掛けに、司は曖昧に微笑んで見せる。

 先刻までごく真面目に与えられた課題に取り組んでいたクラスメイトの彼女も、どうやら作業を終えたらしい。

 課題に勤しむ間、邪魔にならないよう束ねていたまっすぐの長い髪を、解きながら席を立ち、司の隣までやってくると、司にならって窓から首を出して校庭を覗き見る。

 彼女はその後、納得したような声を上げた。

「どーりで、さっきから女子がみんなしてそわそわと外見てると思った」

「そ-。2年男子、5、6組の合同体育。ね-、儲けた気分だよねっ、こーちゃん?」

 そう応えるのは、司の隣にいた少女――山野久美。

 いっぽう、いま司に声を掛けてやってきた彼女の名は、笹原彩という。

「ああ、五組六組って皇ちゃんのお兄さんと従兄弟殿がいるもんね。自習をいいことに、みんなして……」

 真面目で何事にも冷めた対応をする笹原彩は、呆れたように嘆息した。

「ばっか馬鹿ばかし……」

「なによーう」

 久美が、舌足らずな甘い声で、彩に向かってわざとらしくむくれて見せると、色の薄い癖毛が肩の辺りで跳ねた。

 そのようすを眺めて、司は少し笑った。

 ふたりとは、入学してすぐに気があった。

 辛辣な物言いをする笹原彩は、表情がいつも静かで泰然とした感じがあるそつの無い優等生だ。

 司とは、表面上の清涼な雰囲気がどことなく似ているかもしれない。

 いっぽう山野久美はというと、思考より行動、理性より本能、抑制より物欲、が信条なのであろう人となりをしていた。

「で? 合同体育って、何やってるわけ?」

「マラソンのタイムトライアルみたい」

 司が、つまらなさそうな彩に答えた。

 校庭では、400メートルのトラックを、男子生徒達が延々と走らされている模様が見て取れる。首からストップウォッチをぶら下げた教師が、何やら叫びつつ、手にしたファイルに何か書き込んでいた。ラップタイムだろう。

「はっは。厳しいことで。何周かしら?」

「時間内限界までって感じ?」

「うわっ。何それサイアク……」

 見ればリタイア組と思しき生徒達が校庭の隅で一塊になっているのが見て取れた。寝そべって喘いでいる生徒がいれば、明らかに体力が有り余っていそうな様子の生徒もいる。

 それでもまだ、3分の2は周回を続けているようだ。

「ああいうのって、真面目クンは損するのよね。それに騒いで見る程、華のある競技じゃないわ……」

「確かに、華はないわね」

「えー。でもでも、皇先輩ずっとトップ集団だもん。すごいんだよ! ね?」

 と、久美。彩はそんな級友を呆れたように横目で眺めやる。

「呆れた。あんたそれ、ずっと見てたの?」

 皇先輩、とはいわずとしれた学内一番人気を誇る司の兄だ。彩が指摘した通り、この自習時間の間に多くの女子生徒が窓にへばりついているのは彼のせいでもあった。けれども人間千差万別、別段興味は無いという女子も或るわけで、彩はというとそんな部類に属する。

 久美は、彩に向かって唇を尖らせた。

「こーちゃんもだもん」

「ああ、皇ちゃんは橘先輩よね、見てるの。仲いいもんね」

 彩がいうので、司はごまかすように笑って、ぱたぱたと手を振った。

「別にそんなんじゃないってば。幼馴染みでいとこなだけって何度言ったらわかるのかな」

「またまた。あんたと橘先輩は入学早々から学内公認も同然でしょうがよ? ま、あたしは皇先輩よりは橘先輩の方が好みなんだけど。でも、橘先輩を泣く泣くあきらめたコは結構多んじゃない?」

「……公認て。別につきあってるわけでもないのになんでそうなるかな」

「でも、橘先輩のこと、好きでしょ?」

「そりゃ……嫌いじゃないけど」

 苦笑混じりに司は答える。


      ☆


 級友たちの冷やかしの言葉を聞きながら、司は困惑していた。

 ちくん、ちくんとみぞおちの辺りが痛む。

 飛鳥に他意はないのだろう、と思う。

 他の生徒から見れば『仲の良い彼氏彼女』のようだったとしても、司の中でそれは今までと何ら変わりない橘飛鳥に他ならない。学校の中で多少態度が大仰だとしても、それは彼流の冗談のようなものなのだと、司は理解している。

 ――でも、……それを利用してるあたしがいちばんたち悪い……。

 自覚はあった。

 級友たちの言葉を全面的に強く否定しないのは、飛鳥がいつも柚真人のかたわらにいるからなのだ。だから――飛鳥を目で追うと、自然と兄の姿が目に入る。視界に捕らえることができる。

 ――誰にも咎められることなく。

 だからだ。

 そのために、級友たちの誤解を利用している。飛鳥を利用している。

 ――最っ低……。あたしって本当に……。馬鹿みたい……。

 飛鳥と柚真人は、トラックを並走している。もちろん先頭は彼らだけではなく、集団といって良かった。皆、いとも涼しい顔をして走っている。兄と従兄の他は陸上部の生徒だろう。二人がこうも体力馬鹿なのは、幼い時分からの修行による成果だ。

 先頭切って突っ走っているのは、授業に真面目に取り組んでいるからではなくて、きっとまた飛鳥が柚真人をたきつけてくだらない勝負にもちこんだためなのだろう。

 何故だかわからないが、兄は昔から飛鳥の挑発に弱いようなのだ。

 ――そういえば柚真人の体育……授業風景って、入学してから初めて見るな……。

 などと、思う。

 もっとも、急な自習でもなければ、これはずっとお目にかかることもなかった姿だろう。

 手を抜かない辺り、徹底した外面ぶりである。さすが外観優等生。

 ――背は、……そんなに高くないんだ。ああ……飛鳥君の方が高いんだっけ……。

 ――手足、細いな……。華奢ってわけじゃないんだけど……綺麗で、さ。意外と歩幅、広いかな。平然とした顔してるし。……まだ笑う余裕があるわけ。

 ――あの表情……、なんであんな顔……できるんだろ。背筋寒い……。

 ――なんていうか……。でもあれで機嫌はいいんだよね……。

 ――飛鳥君……も、楽しそう……。

 司はそこで、こっそり眉をひそめた。

 ――……やっぱり……。どこかで飛鳥君と柚真人を区別してる。よ、ね。……嫌、だな……。

 柚真人の姿を探してしまう。瞳で、追ってしまう。

 今の司には、それが、辛い。


      ☆


「ね、ね、こーちゃん。こーちゃんのあのお兄さんって、家ではどんな人?」

 熱烈な皇派を自認する久美が、不意に司の顔を覗き込んで言った。

 いきなりの質問に不意を突かれた司は、一瞬言葉に詰まったかたちで目を丸くする。

「ど? ……どんな……人っていわれても……?」

「じゃ、好きな食べ物とか好きなものとか特技とか趣味とかは?」

「……好きな……食べ物は、鎌倉に本店があるなんとかっていうお店の和菓子で……。特技と趣味は料理」

「料理!?」

「……お菓子……造りかな」

「おかっ……おかし!?」

「ん……。自分では食べないんだけどね……和菓子しか」

「いやーん、意外。かわいいとこあるんだ!」

 すると彩が、即座に異議を唱えた。

「なんですと? ちょっと久美、甘党の男ってどうよ? って。聞いてる? バレンタインにチョコレートあげてもクリスマスにケーキつくってもあーだこーだ蘊蓄たれるよーな男よ? あたしは絶対ごめんだわ」

 久美と彩の反応が二極端なのが、可笑しい。兄が好かれるのは、悪い気分ではなかった。

 司は、校庭から視線を戻して小さく首を傾げる。

「家では静かだよ。あんまり喋んないし。愛想もちょっと悪い」

 ちょっとどころではないが、これは司なりの兄に対する温情だった。本当のところの本性など、とても暴露できたものではない。

「そうなんだ?」

「うんそう。御飯も兄貴が作るのよね。ウチ、両親が家あけてること多いから」

「えー!? 学校帰ってから? 大変じゃない? 買い物とか?」

 と、久美。

「うん。ウチね、いちおう通いの家政婦さんていうの? がいて、そういう下準備はしてくれてるんだけどね……」

「なに? それ初耳だわよ。あんたんとこは豪邸か?」

 彩は、『家政』という言葉に反応したようである。司は首を振った。

「違うよ。普通の神社だっていってるでしょ。だけど親留守がちでさ、あたしたち学生だし、だから一番上のお兄さんがね、雇ってくれてんの」

「あ、あんたもうひとり兄貴だいるんだっけ」

「ねえねえ、おっきい神社なんでしょー? 土日、バイトさせてえ。巫女さんのお」

 だだをこねるようなねだる口調で久美が言う。

 司は困った顔で、久美を見た。

「無理ね。うちのバイト巫女、上の兄貴が面接するから。あたしも柚真兄もそれは上の兄貴にまかせてあるわけ。っていうかそもそも経営者は兄貴だし」

「まったくあんたの企みは浅知恵ね、久美。あんたがバイトできるぐらいなら、皇ちゃんとこの神社は今ごろうちの生徒でごったがえしちゃってるわよ」

「なによう。彩ちゃんの意地悪」

「でも巫女さんにもさぞかしもてるんでしょ、皇ちゃんとこの神主さん?」

「それはどうかしら。バイトさん、みんな年上だし……。そうはいっても兄貴も高校生でしょ。年上からみたら結局、子供みたいなものと思うけど……」

「なに、そうなの?」

「ウチの巫女さんね、二十歳以上なのよね。未成年、駄目なの」

「なにそれ。風俗じゃあるまいし……。あ、見る側からすると巫女ちゃんは風俗に近いのかしら」

「彩ちゃん、発想が不潔ぅー」

「だって、そうでしょ。皇ちゃんもさ、結構男子に人気あるんだよね。バイトじゃなくってさ、本職の巫女じゃん? あともうひとりのあんたのイトコ、隣のクラスの暁さんもね」

「それ、だいぶ根拠のない妄想はいってるわよね」

「まーねー。でも野郎なんて、みんなそんなもんなのよ」

「夢がないよ彩ちゃん。乾いてる……」

「あんたがドリーマーすぎなのよ、久美。自習の課題は終わったの? くだらないことしてサボってても、教えてあげないわよ」

 彩は、今のところクラスの中では一番成績が良いのだった。これは強い。

「あーん!」

「甘えても駄目っ。だいたい、皇ちゃんの家みたいにしっかりした神社だったらさ、軽薄な付き合いなんか一族っていうか血統とかいうやつが許さなかったりするものよ。それにまず外見があれだけ綺麗なんだもの、もう恋人ぐらいいるんでしょ? あるいは許婚とか」

「ええー、うそうそ。本当に? こーちゃん、本当?」

 けんけんと言い合う級友たちに、司は苦笑いで答えるしかなかった。

「さすがに今時許婚はないけど。コイビトっていうのは、……あるかも」

 バレンタインの日に――。

 似たような事を尋ねてにべもなく、内緒、といわれたことを思い出す。

 あの時の、兄の冷たい横顔を、今思い返すと少し胸に痛かった。

 はっきり否定しなかったのは、やはり彼が誰かを想うからなのだろうとぼんやり思う。

 できるなら、司の方が知りたいくらいだ。あの、兄の心に、誰が住んでいるのか。誰なら、彼のあの取り澄ました表情を乱すことができるのか。今の自分には想像すらできない。

「いくら妹でもよく知らない」

 司は困惑顔で、笑って見せた。

「ええー。そうなのお?」

「もう。ほらほら久美! 鐘、鳴っちゃうよ! いつまでも馬鹿いってないの。放課後には提出なのよ。平常点が付くんだから。未提出だとマイナスよ」

「きゃあ、こまる! 彩ちゃんお願いー! 今日のお昼、デニッシュひとつオゴるからっ」

「甘いわね。ヨーグルト付けて」

「わかった! わかりました!」

 司はくすくすと笑って、ふたりの顔を見た。心温まる駆け引きだ。

「彩ちゃん。あとで、あたしも一緒に答え合わせしていい?」

 そういうと、一瞬、久美の表情がきょとん、としたものになって――ちょっとだけ不穏な予感がしたが、一足遅く、司は久美の顔に急にうきうきとした笑顔が広がるのを見た。

「そういえば、さあ。皇先輩学年首席よね?」

「……ちょっと。やだ久美何考えてるの?」

「お昼、一緒に呼んでさ、答え、見てもらえないかなっ」

「お馬鹿……。この色ボケ女……。他の女子に括り殺されるわよっ」

「……あー……」

 司は咄嗟に返答に窮した。

 無理だ――否、嫌だ。

 あの柚真人に、そんなことを頼んで、一体どうなるだろうか。外面がいいだけに家に帰ってからの報復が恐ろしい。

「委員会とかがなければ大丈夫だと思うけど。あ、でも……飛鳥君だったら大丈夫だと思う。理系は確か得意科目のはずだし。駄目?」

 内心冷や汗をたらしながら司は応えた。柚真人の冷淡な罵倒は端的に怖い。


      ☆


 結局そういうことになって、それからすぐ後、授業の終了を告げる鐘が校舎に響いた。

 久美はたいそう嬉しいらしく、はしゃぎながら席へ戻ってゆく。

 もしかすると、昼の勉強会は、もう少し人数が増えてしまうかもしれない。

 ――まあいいか。……飛鳥君、女の子も賑やかなのも大好きだし……。

 課題を机にしまいながら司がため息をついたときだった。

「皇ちゃん」

 机に手を突いて、彩がふっと、司の側に顔を寄せてきて――。

「いつでもこれだけは忘れないでね。少なくともあたしたちは、メリット目当てであんたとつきあってんじゃないわ。あんたはあんたで、キョーダイやイトコの付属品じゃないんだから、嫌なら嫌って、いっていいのよ?」



 それは予想していなかった言葉だった。彩は、そのまま軽く司の背中を叩いて自分の席へと戻っていく。

「……」

 窓越しに、晴れた空を見る。

 日差しが――少しだけ、眩しかった。

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