第8話 春の風景
――桜咲き初める春。
彼が、少年の裡に生まれたのは、十年前の今日――四月最初の日。
あの日、鉛色の曇天を見上げ、彼は空の高さを思った。
桜の花から零れ落ちる滴を頬に受け、雨の冷たさを思った。
唇に残る――鮮血の味。
――両手に滑る――鮮血の感触。
それが、彼の『最初の記憶』。
☆
今年の桜は、遅い。
時計は日付を変え、暦は四月になった――真夜中の杜。
――あの日、桜は満開だったな……。 わずかに綻びかけた桜も凍えさせる夜の風は、ざわざわと、墨を流したような曇天を渡る。花曇りの空はまだ晴れることもなく、見渡せば重苦しい鈍色の雲が夜空を覆っていた。
重苦しく胸を塞ぐのは、不吉な予感だろうか。
それとも急ぐ季節への焦燥だろうか。 夜の澱、神社の境内に独りたたずんでいた少年は、瞳を伏せて――振り返る。
潔斎の白装束が、夜目にも鮮やかに翻った。
そして少年は真夜中の境内で、自らと対峙する青年にどこか不遜に微笑んでみせた。
「よお――。帰るのか?」
皇柚真人――少年は、そう呼ばれるこの社の神主。
「夜桜、ですか?」
青年が訊く。少年は、軽く腕組みをして、どこか傲岸に微笑んだ。
「ちょっとばかり早いか――な」
「ちょっとって。……まだ三部咲きですよ?」
「まあ、そりゃあそうなんだが」
「もう、お部屋でおやすみになったのかと思いました。風邪ひきますよ――柚真人君」
「……『柚真人』、は……ココで眠ってる」
その――『皇柚真人』と云う名の神主は、普段とは明らかに違う低い声と、遠慮のない口振りで、自嘲気味に笑った。掠れたような声が、喉から洩れる。
その鋭く棘のある声音を、彼の後見人である笄優麻以外に知る者はない。
それは優麻だけが知っている『共犯者』の素顔だ。
今――目の前にいるのは、いわば少年の裡に棲まうひとりの少年――といったところだろうか。皇柚真人であって、けれど皇柚真人ではない存在。
彼には、名前が――無い。
優麻だけが、彼がこの世に存在することを知っていた。少年の裡にある『彼』という存在こそ、十年前、ともに罪を犯した共犯者に他ならない。
少年は、真白い装束に身を包んで、立つ。
青年は、そんな少年を穏やかに見つめる。
「あの日は、……雨が降っていたな」
少年――皇柚真人と呼ばれる巫は、独り言のように、いった。
「……十年、だ」
「ええ」
銀縁眼鏡の青年は、目をすがめ、微笑む。
「まさかこんな事態になるとはね。……」
参道にそそぐ水銀灯の光の下で、少年が――嘲笑った。
「優麻。いまのおれにとって、本当に大事な物は、この世にたったひとつしかないんだ」
「知っています」
「それは、お前じゃない」
「それも、知っています」
「そして、自分自身でもない」
少しの沈黙。
「おれの天秤は間違いなく――あいつを選ぶだろう。それがどんな結果になるとしても、答えは変わらない。お前、本当にそれでいいのか」
「ええ。……私は、大丈夫ですよ」
「……あいつ」
少年は、澱んだ夜空を仰ぐ。
「自覚、ないんだろうな」
「……柚真人君……」
「自分が、おれにとってどんな存在かなんて、想像もしないんだろうな。……あいつだけが、おれを生かす。そして殺すことさえできるのに」
風が流れる。
ざわざわと、ごうごうと、耳に障る枝鳴りがあたりで渦を巻く。
少年が、その細い腕で、自らの躯をきつく抱き締めた。指先が、白い。
うつむき噛み締めた唇は、その先の言葉を失っている。
「これがおれに用意された呪いというわけか」
押し殺した声で少年が呟いた。
うつむき、そして目を伏せたまま。
「こいつは不快だ。……えらく不快なんだよ」
「……柚真人、さん……?」
それは、少年の真実の名ではなかったが、優麻は他に彼を呼ぶその術を知らない。だから、そう呼ぶしかないのだった。少年は応えて嘆息する。
「……これこそが、十年前に撒かれた種の、果実なんだろう。これから始まるのは惨劇だろうな」
「惨劇……ですか?」
「そう。すべては音を立てて崩れて行くよ。おれには、それを止められない」
少年は告げる。
優麻は、そんな少年を痛そうに――そして静かに見守る。
一つの体に、二つの記憶、二つの心。
引き裂かれた人格。
その片割れ――彼は――真実を白日の下に晒すことが、いかなる破滅をもたらしうるかを知っている。
十年前――。
少年は、惨劇の記憶から少年を守るために、生まれた。
最初の記憶は、鮮血の味だった。
灼きつけられた記憶は褪せない緋色だった。
敷き詰められた、ベルベット細工の薔薇の花弁のような――夥しい鮮血。
折り重なる屍。
降りそそぐ血の雨。
――あの日の、忌わしい記憶。
――あの日の、悍ましい事件。
すべての真実を知っているのは、柚真人と優麻。
天より他にそれを知る者はなく。彼等は、たった二人の共犯者だ。
「おれはお前を裏切るつもりはない。だから……こうしてお前と『柚真人』、そして『妹』を守ってきた」
「ええ。そうですね」
「だが、おれにはもう……」
「……あなたはきっと、彼女を選ぶのでしょう」
優麻は見透かしたかのようにそういう。柚真人は、小さく笑っただけで答えなかった。
「……なんで惚れちまったのかな。おれも……こんなことになるなんて、我ながら信じられねえよ」
くつくつと、柚真人は喉を鳴らした。
けれど、ふいに切なげに。
「……こども、だったな」
そう呟いて、目をふせる。
四月。
あの惨劇から十年目の春。
虚構の檻。
偽物の幸福。
何も彼もを、その秘密の小箱に押しこめたまま、時間は流れる。
新たな惨劇の開幕の予感を孕んで、鐘が――鳴る。
風が渡る。
「君は、当時七歳ですから、充分子供だったと思いますけれど?」
「……それは、あいつの話だろう。『柚真人』の。おれには……」
「歳、など無い?」
くす、と少年は笑って肩を竦めた。
「たぶんそうなんだろう。生まれたときからね」
「……不思議なんですね。貴方という人は」
「……こんなことになるなんて、……なあ……?」
☆
誰かに。この世でたったひとりの誰かに。
少年は、まっすぐに姿勢を正し――そして――その薄い氷のようなまなざしを、優麻に向けて投げかける。
こんなに、心を縛られることがあるなんて、思ってなかった。
危うく、儚く、頼りなく、そして冷たい瞳。
凍りついた記憶を閉じ込めた、瞳。
「これが本当の呪いなんだろう……」
愉しげな笑みをその薄い唇にのせて。
「永い夜がはじまるんだ」
逡巡はあっても、永久に独りで夜を歩き続けても――それもいいかとさえ思うけれど、やはり結局は貪欲に、自分の願いを叶えたいと念ってしまう。
だがそれは破滅を意味する。最悪の結末が、そこにある。
自分の中には、確かな予感があった。
――不吉な予感が在った。
何かが変わる。
何かが狂う。
いや。きっと狂わされているのは、おれの方――。狂って行くのは……おれ。
そして、本当の惨劇はこの夜に――幕を上げる。
桜咲き初める――静かな春の夜に。
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