第7話 冬の風景

  



   ☆

 

 ――2F笄弁護士事務所。

 ビルのテナントを示す銀色のプレートには、そうあった。

 その外観は、雑居ビルよりいくらかましといった体の、レンガ造りのビルである。建物は八階建てで、三階より上は区分所有型の賃貸住居区――いわゆるマンションだ。

 土地は笄家の所有地であり、ビルの賃貸は、笄の経営によるものだった。事務所の主の趣味かどうかはさだかではないが、大きな硝子が嵌め込まれた、古めかしい木製両開きの扉が、この弁護士事務所の入り口であった。真鍮製の取っ手がついている。

 三月一日。

 扉を開けると、その扉にしつらえられた鈴が来客を継げるため軽やかかに鳴った。

 ちりん、ちりちり、ん。

 ややあって、事務所の奥から笄優麻が顔を出した。

「ああ、お待ちしてましたよ」



 事務所の入り口を抜けると受付けがあって、その奥が接客用の応接室だった。

ビルの外装から想像に難くないおんぼろぶりで、余計な調度品などは何ひとつ存在しない。これはひとえに節税対策のためであろう。

 応接室の南の壁には大きな明かり取りの窓があった。白いブラインドからは春の陽光がもれてくる。そのせいで、部屋は暖かかった。

 土曜の午後だったが、どうも人払いがしてあるらしい。事務所の経営弁護士は、笄優一――優麻の父であり、優麻は所属の勤務弁護士である。他の弁護士や事務の職員の含めるとかなりの大所帯であったはずだが、本日の事務所には優麻以外の所員の人影が無かった。それはこの男の気遣いなのだろうか。

 来客用の日本茶も優麻が淹れ、本日の訪問客にすすめた。

「どうぞ」

 暁水月は、応接室の中央に置かれた黒いソファに腰を下ろした。

「……ありがとう」

「で――なんです? 改まって、私に話というのは」

 水月の向かいに座り、ジャケットの襟を正して青年が微笑む――。

 水月は、この青年の、この穏やかな笑顔以外の表情を目にした記憶がなかった。この男が、余裕の表情を崩すことがあるのだろうか。だとしたらそれはどのような時なのか。全く想像がつかない。

 ――十年前のあのときも、笑っていたのだ。ここまでくると、ある意味無表情というべきなのかもしれない。

 一族本家の大惨事。水月は十六歳だった。

「あれから――十年が過ぎたわね、優麻」

 そう、言う。けれどやはり、眼前の弁護士の表情は、変らなかった。

「お話というのは、そのことでしたか」

 優麻が小さく頷いた。

「あの診療記録を父から私が引き継いで、もうすぐ一年になるのよね……」

「――それで?」

 促されても、水月は数瞬迷った。

「そうね……。実は、あの事件の真実……について――思うところがあって……とでも、いうべきかしら?」

「というと?」

 優麻の声に、訝る響きが混じった。

「……あの事件は、もう解決していますよ? あなたに託されたのは、あくまでもその後のアフターケアです」

「解決している?」

 納得できない言葉だった。この男とは長い付き合いだが、水月は、十年来その言葉にだけは首肯できないでいたのだ。

「わからないわね。何故……そんなことがいえるの? 『柚真人』と『司』の記憶が――捩子曲げられて、真実が葬り去られて、それで解決したと?」

 そう。――あの日、幼かった皇家の兄妹たちは心に大きな傷を負った。そしてそれは、いまだに癒えていないのだ。だからあの事件はもう終わったのだ、といわれても、水月はまだあの事件現場にひとりたたずんでいるような気がすることがあった。凄惨な事件だったから。

「どうしたんです? 急にそんなことを言い出して……」

 水月は言葉に詰まった。理由は、あった。けれども、優麻に何と言って伝えたら良いのか、それを考えると、水月も困るのだ。

 膝の上で組んだ両手の指と指を絡ませながら、卓史は言を継ぐ。

「ねえ、優麻? ……移植した偽りの記憶というのは……いつかは壊れるものなのよね」

「……そういうお話でしたら、貴女の父上、暁院長にうかがってみたらどうです?」

 笑顔を崩さず、優麻が否す。

「そういう問題じゃなくて。でも多分、一生そのままというわけには、いかないのよ。何かの拍子に壊れてしまうかわからない爆弾のようなものだと……認識してる?」

「爆弾……ですか」

 優麻は面白そうに言う。

「心配なんですね」

「もって十五年だものね。あの子たちのことは心配よ。……。妹――緋月や飛鳥、それに司と柚真人をみてるとね……。どうしてか怖くて……ね」

「怖い?」

 問い返されて、水月は頷いた。

「……もうそろそろよ。近いうちに、あの子たちの誰かからはじまるわ。フラッシュバックが」

「それは……貴女の、暁のご専門でしょう? 主治医は現在貴女です。私に訊かれても……」

「あたしは、真実を知りたいのよ。知っておく必要が、あるの。そろそろ現実を受け入れるための手助けをしてあげないと。だから、真実が知りたいのよ。本当の。……そうね……あの子たちの主治医として」

「……本当の真実、ですか? ……では、貴女の知っていることは真実ではないんでしょうか? 彼等が殺しあって、自滅した――」

 水月は優麻の言葉を遮って、横に首を振った。

「十年前にもその話は聞いた。確認よ。あの子たちの封じられた記憶の中の現実と、私たちの記憶に齟齬があったら、困るでしょう。自分が、もしかしたら狂ってしまったんじゃないか……なんて、あの子たちに思わせたくないじゃない?」

「しかし水月さん……」

「だからあんたの話をもう一度、聞きたいのよ。優麻……あんた、事件の唯一の目撃者の、はずでしょ」

 その時――ただでさえいったいどこをみているのかわからないほど細い優麻の目が、一瞬、さらに細くなったような気がした。

「なるほど……」

 ふんふん、と優麻が小刻みに頷いた。

「それで何が、真実か――と」

 間があった。

「私が虚偽を述べている――ということも、考えの範疇にいれてます?」

「あるいはそうかもしれないわね」

 優麻はやはり相好を崩さぬままに、水月の言葉を受け止める。

 春の陽光が、傾いてゆく。

 テーブルの上に、ブラインドの縞模様が揺れている。

「十年前。本家の神社の社殿で起こったできごとの一部始終。……もし真実が他にあるのなら、本当に知りたいですか?」

 優麻が、言う。

「それが、柚真人さんと司さんを救うことになると?」

「……?」

 優麻は、にこにこと笑っている。彼が身を乗り出すように前屈みになると、銀縁の細いフレームに縁取られた硝子が陽射しを受けてきらりと光り、一瞬その奥の瞳を隠した。

「……柚真人さんの――苦しみに、気がつかれましたか、水月さん?」

 どきり、とした。

 刹那、優麻が何を言ったのかと思う。

「それなら貴方も不安を感じるはずですね。変化の引き金が生まれたことになりますからね」

 まるで見透かしたような言葉に、水月は息を飲まされた。

「優麻、あんた」

「はい?」

「……それに……いつから……」

「柚真人さんから、直接聞いたわけではないのですが。それとなしに、理解しました。まあ、子供たちを見ていればわかりますし、柚真人さんも、否定はなさいません」

 視線だけ、上目遣いに、彼は水月を見る。

「けれど、今のこの状態は、絶妙な均整の下に成り立っている。柚真人さんが作られた記憶によって辛い思いをしているとしても、何かひとつ動かせば全体が崩れ去る立体パズルのようなもの。動きが、とれない」

「……」

「それが、怖いのでしょう。柚真人さんは……まるで、硝子細工のような人ですよ……ね……。そして、司さんも。貴方の気持ちは、私にも理解できます」

 そうなのか、と水月は眉をひそめた。こんな風に柚真人と司のことを語る優麻の姿が意外だった。

 言葉を止め、優麻がじっと水月を見つめる。

 水月は、幾許かの驚愕とともにそれを見返していた。

「いいでしょう――」

 唐突に、ため息をつく。

「いいですか、水月さん。もう一度、最初から言いますよ――」

 そして優麻は、十年前の事件のことを――語り出したのだった。

「十年前の四月一日。皇の桜神事の日、正午過ぎ。 社殿には、朔子さまが、おいででした」


       ☆


 朔子というのは、先代皇の本家長男・皇和季人の妹――の、名である。

 和季人は五人の兄弟姉妹の中子で、ふたりの姉と弟妹があった。そして当時和季人自身には、十九になる息子がひとりいた。

 二人の姉は、双方暁と橘に嫁いでおり、これが飛鳥と緋月の母である。

 他方――弟妹は双子で。

 その二卵性双生児の名が、満と朔子といった。

 そして双子の片割れである朔子には、旧姓、草薙勇という婿養子がおり。

 当時、神社の守人としての跡目を継いだのは、朔子の夫勇だった。和季人は皇の所有する企業の代表取締役であったし、満には――神主を継がせるわけにはいかない、事情があったためだ。

 事情――それは皇の家の醜聞ともいうべきもので。

 満は――あろうことか双子の妹に恋をし、犯し、孕ませ、子を産ませてしまった――のである。

 それゆえ皇の一族は特別養子縁組によって双子の間に生まれた子供を和季人の次男とし、満を本家から放逐した。

 そして、朔子が婿を取り、この者の手に皇の巫の地位が一時的に預けられたのであった。

 朔子と勇の間には、その後女児が生まれた。

 朔子が勇とのあいだにもうけた女児の名を――司、といい。

 朔子が双子の兄との間にもうけた子の名を――柚真人、という。



 その後。

 しばしの間、平穏な生活が続いた。

 だが惨劇は、起こってしまったのだ。

 種は、あった。

 そもそも皇満は、恐ろしいまでに執念深く、まるで狂った男だったので、この男が生き延びている以上何かが起こらないはずはなかったともいえるかもしれない。

 ――四月一日。

 春の早い年であった。桜はすでに満開になっており、良く晴れた暖かい日が続いていた。けれど、その日は朝からどこか肌寒く曇天模様だった。

 そして昼前から天気は冷たい雨に変わったのだ。

 社殿には巫女の朔子、そして幼い司と柚真人がいた。司はその時六歳で、小学校への入学を控え、柚真人は、司と一緒に学校に通えることをとても楽しみにしていた。

 そんな、春の雨の日。

 ――朔子。

 神殿の陛に、満がいた。

 そして祭壇の前にいる朔子を見ていた。

 朔子は顔色をなくした。

 何故。どうして兄が、ここにいるのだ。

 ――結婚したんだってな。

 朔子が勇と結婚したのは、もう五年も前の話だった。だが――ああ。それを、どこからか聞いたのか。

 ――そんなこと……おれが、許すと思うのか?

 満は、そう言った。後ろ手に社殿の扉を閉め、薄い唇に酷薄げな嘲笑を浮かべながら、朔子に近づく。

 ――お前は、おれの物だろう。そのはずだよなあ?

 狂気をうつす瞳だと、朔子は思った。

 この男は、もう狂っている。

 自分とそっくり得り二つのその顔を眼前にして、よくもそんなことが言えるものだと、吐き気がした。

 兄が求め愛する者は朔子などではなく、満自身なのだ。でなくて、どうしてまったく同じ遺伝子を持つ者など、求められよう。

 ――お母さん?

 ――ねえこの人誰?

 ――怖いよ?

 幼い子供達が怯えたように朔子の背に、隠れる。

 だが、狂った男は、そんなものは気にも止めなかった。

 そして。

 乱暴に彼女を突き飛ばし。

 双子の妹に襲いかかった――。



 子供達には、何が起こったのかなどわからろうはずもない。

 ――司! 柚真人! 逃げなさい!

 朔子に突き飛ばされるようにして、二人は部屋の隅にへたりこんだ。

 朔子が、突然現れた見知らぬ男に押し倒され、殴りつけられ、悲鳴を上げる。

 柚真人と司は、それを茫然と見ていた。身を捩って逃げようとするが、足に力が入らず上手く立ち上がれなかったし、壁を背にしていたので他に逃れようもなかった。

 ――いや! お兄様!

 必死の抵抗を試みるが、それもほとんど無駄に等しいものだった。

 ――やめて! 誰か!

 無理やりに衣服を剥ぎ取られ、朔子は満に組み敷かれる。

 ――いやあああ!

 恐ろしいことが起こっている。子供達はそれを悟った。目の前の光景が、何か忌むべきものであることは理解できた。

 ――うええ。

 司がしゃくり上げる。

 柚真人は、そんな従兄妹を小さな腕と両手でしっかり抱き締めた。

 ――お母さあん。

 司は泣いている。けれど、柚真人にも、司を抱き締めていることより他にできることがなかった。目を逸らすことも、立ち上がることも、できなかったのだ。

 朔子は恐怖ゆえか錯乱したように闇雲に叫んで暴れている。

 そして。

 ――朔子さん!?

 勇が現れた。

 彼の目に飛び込んで来たのは、裸で縺れ合う男女――強姦される妻の姿。

 春の日の、昼間の神社の祭壇の前で繰り広げられる光景としては異常としかいいようのない絵、だった。

 ――朔……。

 ――なんだ……お前……?

 惨劇は、その瞬間、幕を開けたのだ――。



 勇が、満を引き剥がす。

 ――貴様!

 床に叩きつけられた満がゆっくりと体を起こす。

 その男が、正気を失っているであろうことを考えれば、そのとき二人は子供たちを連れて疾くそこから離れるべきだったのだ。

 けれども。

 満が、祭壇の神鏡の上に飾られた刀に手をつけた。

 それが先日、この日の神事のために研ぎに出されたばかりであったのが、不幸でありまた不運でもあったろう。

 ――お兄様! なにを!?

 床に座り込んだまま、朔子が蒼白な顔で叫ぶ。足が竦んで立てないのだ。勇は妻を背に庇う。満は笑っていた。

 ――お兄様やめて! 

 飛び出そうとする朔子、それを制する勇、太刀を振り下ろす――満。

 鮮血が、飛び散った。

 ――あ……なた!

 ――俺からお前を奪う奴は……みんなこうしてやるよ、朔子。殺してやる。

 満がそういいながら妹に近づこうとしたとき、むくりと勇が体を起こした。

 ――朔子さんに……触るな!

 ふん、と満が笑い、いとも軽い棒きれを扱うかのように、横薙に刀身を振るう。

 ぶしゅっ――。

 鈍い音がした。

 ぱたぱた。

 神主の原のあたりから、真紅の液体が染みだし、銀色の刃を伝って床に血溜まりをつくっていく。

 ――い……いやあああ! あなたっ!?

 ――ははは! いい様だなあっ。

 ずるり、と神主のからだが血溜まりの中に崩れ落ちた。

 ――さっさと死ね。

  せせら笑い、満は御神刀を床に捨てた。鮮烈な血の匂いがあたりを満たしてゆく。

 そして再び満は朔子に覆いかぶさってゆく。だが、勇が床に投げ捨てられた御神刀を広い上げて、よろよろと身を起こす。満は、もう妹を犯すことに夢中で、それに気づかない。

 ――うあああ!

 一撃、背中から。

 ごふ、という吐息とともに、満の口からも鮮血が零れ落ちた。それが朔子の胸から腹のあたりを汚した。朔子が瞠目する。満がゆっくりと振り返って、勇を見る。そして自分の腹を。みぞおちのあたりから、血に濡れた刃が飛び出している。

 ずる、と白木の柄を握り締める勇の手が血に滑り、満は刀を背中から腹に貫通させたまま立ち上がった。勇はそのまま床に沈んだ。満は、腹から突出た刀身をあろうことか両手で握り締めて――そして凄まじい形相で声も上げずに引き抜いた。

 ばたばたばた。

 途端、腹部から夥しい出血が始まり、新たな血が、床を汚して行く。

 もはや、朔子に言葉はなかった。

 満は倒れ付した妹の夫を睨みつける。

 ――……!

 何か罵声を浴びせようとしたらしいが唇からは真っ赤な血が溢れ出しただで、言葉にはならなかった。

 ぜふ、ぜふ、と喉が鳴る。

 満の顔が憎々しい者を見るように歪む。

 その時、朔子は悟る。

 双子の兄が、まだ勇を傷つけようとしていることを。

 だから動いた。

 渾身の力で、満が御神刀を振り翳す。

 朔子が飛び出す。

 ――お兄様! やめて!


      ☆

 

「頸動脈を一閃でした」

 優麻は、自分の頸首筋に軽く人差し指を当てて、言った。

「ですから、あの通り現場は血の海」

 その通りだった。現場は水月も見ている。社殿は、直ちに立て直さざるをえないほどの様相だった。血飛沫は天井にまで届き、その光景はまさに凄惨を極めていた。忘れようとしても――脳裏に焼きついたその赤い色は、到底記憶から消せるものではない。

「勇、満の両名はともに大動脈損傷による腹部からの失血、朔子さまは頸部切断による失血が、直接の死因です」

 優麻ははっきりとそう断言する。

 十年前、優麻が聞かせてくれた話と寸分も違えたところはなかった。

「これでは納得できません、か?」

 そうではなかった。けれど。

「まるで見てきたように、いうのよね、あんた」

 優麻が小さく笑った。

「見ていましたからね、陛の袂に隠れて。最初からではありませんけれど。私だって、恐ろしくて止めに入る気は起きませんでした。なにせ当時は一介の高校生でしたからね」

 優麻の言葉に、やはり水月は頷くしかない。

 午後の陽が、傾きはじめたようであった。窓から部屋に差し込む光の色彩が、だんだんと濃くなりつつある。透明な橙色は、まだ浅い春の色。冬の名残を宿している。

 優麻の話を疑うと言うことは、事件についての別の可能性を明確に提示することになる。それは、水月もよく解っているつもりだった。

「お茶、かえましょうか」

 唐突に、優麻が言って、席を立つ。



 湯飲みを二つ、丸い盆に載せて優麻が戻って来た。

「それが嘘なら、柚真人さんと司さんが何かを思い出したときに判るでしょう」

 そうかもしれない。だが、当時十六歳だった優麻が、それを目撃していながら何故もっと早く何らかの対処を講じなかったのか――優麻自身、怖くてその場から動けなかったとはいうが水月にはそうは思えなかった。

 ――だって、優麻は笑っていたのだから。あの日、春の祭礼で本家に集まっていた一同に、ことのあらましを語ったあの時の優麻の顔は、今の今まで怯えていた人間の表情ではなかったはずだ。それは今でも断言できる。そしてあまりにも淡々と事件のことを語る口調――。

 それは冷血とか冷静とかいうものではなく、まるで脚本を棒読みするかのごとく感情の欠落した語り口だった。水月には、少なくともそう聞こえた。けれども反対に、優麻の言葉に虚偽があるとしたら、優麻には虚偽を述べる理由があることになる。

 ―――優麻が、何らかの形で、事件に関わっている可能性を示すことになるだろう。

 水月は困惑した。なにも十年前の事件のことをむし返したいのではなかったし、目の前の友人を告発する意図があったわけでもなかった。

 ただ――。

「柚真人さん――を――見ているのは辛いでしょう」

 水月は、はっとして顔を上げた。

 そしてあの――おそろしく綺麗な少年の、切ないまなざしを思い出す。

「でも私は、柚真人さんを――まだ、司さんに渡したくはありません」

 優麻が――謎かけのように微笑む。

「……ゆうま?」

「私も今の柚真人さんを失いたくないのです」

「ゆう……ま……?」

「もう少し、時間を下さい」

 水月は一瞬虚を突かれた形になったが、やはり、優麻は表情を変えなかった。



 夕日の色は、時々おそろしく緋い。

 事務所を後にした水月は、立ち止まって空を見た。雑然と林立するビルの隙間の赤い空。 

 ――もう少し、時間を下さい。

 優麻の言葉の意味を、水月は読もうとした。

 ――誰に……?

 わからない。この男がその心中に、真実何を含んでいるのか。



 桜の季節が。

 すぐそこまで、来ていた。

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