第5話 INSIDE(後編)
5
その日の夜中。
三条祐一はじりじりしながら自分以外の家族が寝静まるのを待った。
祖父の寝室は一階の離れ、両親の寝室は二階――隣の部屋だ。
祖父は九時前には寝る習慣だったし、両親も一時間前には寝室に入ったのが気配でわかっていた。
祐一は、なるべく物音をたてないように部屋を出た。
錠前の鍵は、亡くなった祖母の遺品をおさめてある、祖父の箪笥の一番下の引出しにしまってあった。
家捜しすることに抵抗が無かったわけでは無いが、罪悪感は捩じ伏せた。
そんなものより、いまは幼い妹だ。
祐一は、そう自分に言い聞かせて、それを家の者が帰宅する前に捜し当てておいた。
鍵は、白い布にくるんであって、だいぶ古く錆もひどかったし、家や車、物置の鍵とは形や雰囲気が違ったから、多分それだと思った。
間違いない。
三条は、懐中電灯と、捜し当てた蔵の鍵と思わしき物を手に、蔵の前に立った。
時計はとっくに零時をまわり、日付を変えている。
――『クラヒメ』さまって、なあに?
そう尋ねたとき、母親が優しい口調で答えてくれたのをおぼろげにだが、覚えている。
――おうちを守ってくれる神様よ。
――いいひとなの?
――ええ、いいひとよ。でも、ご機嫌を悪くすると困るから、蔵には近づいては駄目なのよ。
――ふうん。
祐一も美佳も、聞分けのよい子供だった。親の言うことは素直に信じていて、蔵には近付かないようにしていた。幼心にお伽話染みた戒めを受け入れていたのだ。
子供の頃は信じていた。
庭の隅にひっそりと立つ煤けた白壁造りの蔵の中の、澱んだ闇には一体何がいるんだろうと、心躍らせながら想像したこともあったし、雨の日には、その淋しいたたずまいに理由のない恐怖や寂寥感を覚えたこともあった。
そして時が経つに連れ、祐一は蔵への興味や恐怖を忘れていった。
忘れていたのだ。
今年の――一月一日までは。
だが、いま妹が蔵の中にいる。
どうしてかはわからない。しかし、きっと幼い妹には、『クラヒメ』様といわれても、妹の中ではいまいち現実味などない話にすぎなかったのだろう。
だから蔵に近付いた。
それなのに、家族の態度は異常だと思う。
常軌を逸している。
そんないるかどうかもわからない得体の知れない神様が、怖いというのか。
幼い娘よりも、大事だというのか。
――いま、そこから出してやるからな。まってろ、美佳。
晴れた真冬の夜空が遠い。
三条の家は庭も広く、古くからの地主の家らしいたたずまいをしていた。その庭の隅に、古びた蔵がある。歳月を感じさせるばかりで、みてくれは何の変哲もない白い漆喰の土蔵である。
懐中電灯の鈍く黄色い光で照らすと、それは幼い頃の記憶にあるよりさらに、そこだけがくっきりと色褪せて見えた。
『クラヒメ』様の棲む三条の蔵――。
観音開きの扉には、錆びた土蔵錠がぶら下がっている。
この蔵の中に、妹が居る。
☆
「――美佳!」
三条祐一が扉に向かって、呼んだ。「美佳」 すると――。
――なあに、おにいちゃん。
声が――返った。
その声は確かに、頑丈な漆喰の扉の向こうから、聞こえた。いくらかくぐもってはいたが、それでも祐一にははっきりと聞き取ることができた。
間違いなく、美佳の声なのだ。
あの日――美佳がいなくなった日、祐一が聞いた声と、少しも変わらない。
けれど。
その、無邪気な声ときたら――背筋に何か冷たいものが触れていくような感覚を覚えて、三条は思わず掌を握りしめた。
妹はもう十日近くもこの中に閉じ込められているはずである。なのに何でだろう――何でこんなにあどけない声が返るのだろう。
三条には、怪我や病気に関する詳しい知識はなかったが、それでも、こんなに凍える冬の夜を、幼い子供が蔵の中で何度も越せるものではないのではないかと思う。
食事だってまるきり採っていないはずなのだ。
躯を暖めるものだってないはずなのだ。
おかしい。
この蔵には、何があるというのか。
「美佳、でておいで!」
三条は諭した。
ここ十日ばかり、両親たちの目を盗んで何度も繰り返したことだ。
けれど、妹の答えは変わらなかった。
――なんで? いやだわ。美佳、ここから出たくないのよ、おにいちゃん。
「美佳……」
恐ろしかった。
その無邪気な声が今更ながらに恐ろしかった。本当に、この扉の向こうにいるのは妹の美佳なのだろうか。
いや、しかし、美佳でないとしたら?
鍵を握る手が震える。
「美佳!」
――うふふ。
「美佳っ!」
――いいの。美佳は、ここでいいの。うふふ。
可愛らしい笑い声が、密やかに返る。そのあまりの無邪気さが、祐一の背筋にひやりと冷たい金属質の爪を立てる。
三条は、漆喰の扉に歩み寄った。
早く扉を開けることだ――皇柚真人はそう言った。
扉を開けば呪いは終わる。妹を救いたければ――。
「……鍵を開けるよ。いいね」
――うふふ。
――うふふ。
がちゃり。
重い音がして、鍵が開き、錠が外れた。
扉に手を掛け、力一杯それを引いた。
ぎぎ、と軋んで、その重い扉が開かれる。
懐中電灯を傾け、恐る恐る、蔵の中を覗き込む。
真っ暗だった。懐中電灯の光さえも、その闇に吸い込まれて弱々しい。
祐一は、自分の足元から蔵の奥へと照らしていった。
「美佳……? おい……?」
湿った空気と黴の匂い。
人の気配は無い。
懐中電灯の黄色い光が、板張りの床を這う。
視界の隅を、小さな白い物がかすめた。
照らす。
それは、足袋を履いた小さな足。
そう、足がみえた。
そして鮮やかな着物の裾。
朱色の晴れ着。
牡丹の紋様。
金糸と銀糸。
山吹色の帯。
首筋。
埃の積もった床に広がるさらさらの髪。
「……っ」
果たして、蔵の中には幼い少女が――否、三条美佳だったものが、横たわって居た。
正月の、晴れ着に身を包んだままだった。
動かない。
ぴくりとも動かない。
目を薄く閉じた儘。
息もしていない。
白い――真っ白い、顔。
――ああ。
蔵の二階へ続く階段のすぐそばに、仰向けになって――妹は――死んでいたのだ。
死んでいたのだ。
それに気がついて、足がすくんだ。
――どういうこと……だ?
「み……美佳!?」
蔵の中に足を踏み入れた三条が目にしたもの、それは変わり果てた自身の妹の姿だった。
「美佳っ!?」
蔵の中には、他には誰もいなかった。 当然のことながら蔵の中に棲むという、『クラヒメ』様の姿も。何も。ただ、黴臭い湿った空気だけが、じっとりとそこに在った。
ただの蔵だ。
ただの蔵だった。
だが、三条は動けなかった。
何かがおかしい。
何がおかしいのだろう、とぼんやり思った。そして、ややあって、その違和感に気づいた。
――そうだ。
おかしい。
――だって――。
ごとん、と少年の手から懐中電灯が落ちた。
美佳じゃない。
美佳は、死んでる――。
だって。それじゃ――声は。
……誰の声だったんだよ……?
――おにいちゃん……。
「う……っ」
――誰の声……だったんたよ!?
「うわああああ!」
6
警察がやってきた。
三条祐一が自分で呼んだ。
電話をしながら、こんなときに意外と自分が冷静でいられることに少なからず驚愕を覚えた。
救急車はもう、呼んでも仕方がないと、思ったのだ。
だって――死体には、必要ないものだから。
深夜だというのに、警察はすぐにやってきた。
あの嫌なサイレンの音が遠くから響いてきたときは、子供の頃に眠れなかった夜を憶い出した。瞼の裏に広がる、真っ赤な不安の色を、憶い出した。
夜中に聴くあの音が、嫌いだった。
遠くなったり近くなったりしながらそれが通り過ぎ、歪んだ響きが消えて行くのを、布団の中で待ったものだ。 子供の頃の祐一は、あのサイレンが何処かで鳴ると、必ず目を覚ましてしまったものだ。
コートを羽織り、玄関の常夜灯の下で、祐一はそのサイレンを――待った。
すべての真実を明らかにしてくれるはずの、救いの御手を。
そして――制服を来た警察官達が、無遠慮に自宅に侵入してくるのを、いま祐一はぼんやりと見ている。
銀色のケースを抱えた制服の警察官の他に、背広を着た警察官もいた。
刑事、というやつなのだろう。
制服の警察官は、その刑事らしき人物の指示に従って、何か作業を開始している。
その制服の上着の背中には、『警視庁』の文字が見て取れた。
ああ、本当に警察官なんだな、などと祐一は見当外れなことを思う。
封印されていた蔵は開け放たれ、見知らぬ人達が出たり入ったりしはじめる。
「三条……祐一君?」
「君が、電話をくれたんだったね」
紺色の制服を着た二人の男たちが、祐一に近付いてきてそう言った。
「はい……」
祐一は頷いた。
「ご遺体は、妹さんに間違いないの?」「はい。……三条美佳です。間違い……ないです……」
男は、白い手袋を嵌めた手で、黒い手帳に何ごとかメモしているようだ。
何が起こったんだ……?
よく、わからない。祐一は軽く自分の頭を振ってみた。それがまるで重く感じて、頭蓋の奥が鈍く疼いた。
――何でこんなことになったんだ……?
妹の遺体が運び出されていくのが、見えた。
担架と青いビニールシート。
家族が。父が、母が、そして祖父が、玄関の前でうなだれている。
「じゃあ、君は家族の方、頼むよ」
「はい」
祐一に質問していた男のうちのひとりは、先輩らしき刑事の言葉に頷いてそちらの方へ歩いていった。
「夜遅くって、大変だね。君にもいくつか質問をさせてもらいたいんだけど、いいよね?」
「……はい。……大丈夫です」
――終わるって……こういうことだったのか、皇。
蔵にかけられた、三条家の呪いは。
――これが、終り……なのか……!?
その時、蔵の方から「白骨死体だぞ」という声が聞こえた。
祐一は顔を上げた。
蔵の中から、別の若い男が顔を出している。蔵の外で、祐一にはよくわからない作業を始めていた警察官達が、またどやどやと蔵の中に入っていった。
白いフラッシュの光が幾つも幾つも瞬く。
それが目に痛くて、祐一は目をすがめた。
眩しい。
本当に何が何だかわからない。蔵の中で、妹の他にも誰かが死んでいたらしい――。
――子供だなあ、これも。
耳鳴りを感じた。
瞼を閉じればぐるぐると世界が回っているような感覚に襲われる。
――ごめんなさい。
――こりゃあだいぶ古いぞ……。
――おーい。
どこか遠くで誰かが、叫んでいる。
――ごめんなさい。
――蔵の二階だ。鑑識、写真!
――許してくれ。
誰かが、何かに謝っている。
――すまない……。
縋るように、細く乞うている。
――ごめんなさい……。
それが誰の声か――祐一には、もうわからなかった。
――ごめんなさい……。
三条允太郎――それが三条祐一の祖父の名である。
三条祐允太郎は、まだ若かった頃に妻を亡くし、後妻を娶った。
後妻には、連れ子があった。それが、祐一の父親である。他にも、兄弟姉妹があったかもしれない。
だが、先妻にも子はあった。先妻の遺児は、後妻の連れ子より幼く、まだ年端もゆかない少女だった。
やがて、允太郎と後妻、その連れ子は、先妻の子が疎ましくなる。少女は後妻から母としての愛情を受けることがなかった。ことあるごとに少女は罵られ、過酷な労働を強いられ、暴力さえ受けた。
少女にとってそれは突然の転落だったに違いない。
母の死、父の豹変。
驚愕と恐怖。
そのような日々が何日も何日も続き、虐待は日増しにエスカレートしていった。
そして彼等は、ついにその幼女を折檻して、家の蔵に閉じ込めてしまったのだ。
翌日になって蔵の中を覗いてみると果たして少女はその中で生き絶えていた。
蔵の二階の、筵の上で、蹲るようになって死んでいた。
娘はまだ、十歳だった。
おそろしくなった家族は、そのまま蔵を封印してしまったのである。そして蔵の扉は『クラヒメ』なる祟りを以て封印された。
もともと、もう使われることなどなくなっていた古い蔵だった。そこで、家族は自分たちの罪を隠蔽するため、先妻の娘はどこぞへでも預けたことにでもしたのだろう。やがてそこへ嫁いだ妻も、それを知ることとなり、蔵の扉に触れる者に対する呪いをもってする禁忌がつくりあげられたのだ。
家族の秘密を守るための、祟りが。
☆
「お前――それじゃあ、三条は――」
飛鳥が瞠目して、柚真人を見た。
「騙されていたんだよ、自分の家族に。蔵に棲む祟りなんて最初からない。三条の家族は、自分たちの過去の罪をおそれて――娘を殺したんだ」
日曜日の午後。
優麻の勤務する弁護士事務所に程近い、ファーストフード店である。
昼過ぎとあって、店内はそれなりに混雑しており、ざわついていた。柚真人と飛鳥、それに優麻は、日当たりのよい窓際の席を陣取っている。
飛鳥と柚真人は、日曜出勤の優麻を事務所から呼び出して、事の顛末を語っているところだ。
とはいっても、ひとり強硬に事の説明を要求している飛鳥に、無理やり連れてこられた柚真人である といった方が、正しいのかもしれない。
それでそれで、と意気込む飛鳥は、隣に座る柚侯の方へ身を乗り出した。
向かいに対する優麻はというと、コーヒーなど啜りながら、なるほどと頷いている。銀縁眼鏡の奥の瞳は、いつものことだが笑っているように見えた。
「何、なるほどって? だいたいねえ柚真人。君にはなんでそういうことがわかるのかね?」
ドリンクのストローの端をがしがし噛みながら、怪訝そうな顔で、優麻の言葉に首を傾げる飛鳥である。
「最初に話を伺った時点で、柚真人君は彼の妹さんの状態に気がついていたようですよ」
現実には、起こりうることしか起こらない。
優麻が聞いた柚真人の言葉は、文字通り、そのままの意味だったということになる。
「へえ? ――そいつは凄いね。一体お前のその目には何がみえてるんだ?」
「何といわれてもな。別にこの目玉が見てるわけじゃあないから」
「ま、そうだろうけど」
「まあ とにかく、こういうことでしょう? その妹さんは、おそらく何かの拍子で蔵の鍵を開けてしまい……」
「そんなもんで開くのか? 土蔵の錠前が……。南京錠でもあるまいし」
「どうでしょう?」
飛鳥と優麻が二人して柚真人を見たので、柚真人は小さく肩を竦めた。
「そこはあまり気にしてもしょうがないね。見るべきは事実。三条の妹が蔵の中に居たのは動かしようのない事実なんだ」
「じゃあ、そういうことにしましょう。その、妹さんは土蔵の中へ入って遊んでいて、階段から足を滑らせるか何か――とにかく怪我でもして、再び鍵が掛けられた時点では気を失っていて、まだ助かる状態だったんですよ。ところが蔵の鍵が開いていることに気が付いた者が、これはまずいと思って状況を確認せずに施錠してしまったんでしょう。鍵を掛けたのは、お祖父さんの方ですか?」
「ああ――たぶん。そんなとこだね」
「だから柚真人、お前なんでそれがわかるのよ?」
「気にするな」
「――いいですか。けれども幼い子供を真冬の最中蔵に置き去りにすれば、一晩で凍死する。そんなことはちょっと考えれば誰にでもわかります。怪我を負って危険な状態にあることを知らなかったとしても、七日も閉じ込めておくのは殺意に等しいといえるでしょう」
「……? どういうこと?」
飛鳥が訊く。
「つまり、家族が不作為をもって娘を殺した」
「殺人、てわけ?」
「そうでしょう。事実として、被害者はその土蔵に閉じこめられてしまっていたわけです。蔵に施錠した時点で怪我を負った子供が閉じ込められていたことを知らなかったとしても、後それに気づきながらそれを放置したとあっては、結果を予見しながらそれを回避しなかったということになります。結果を容認した。つまり、通常は――凍えて死んでしまうかもしれないが、放っておこう――そういう意思が認められますから。『未必の故意』ともいえるでしょう」
「三条の妹は怪我もしてたろ。ま、推定だけどじいさんが鍵掛けたとき、中に誰が居るか全く気がつかなかったってことは、気絶してたとか、意識が無かったとか考えるのが自然だもんな」
「そうであっても、家族は妹さんの声を、聞いています。生きて、そこにいるという認識、閉じ込め続けたらどうなるかという認識はあったでしょう。殺意は否定できない。幼い少女を七日も放置するということは疑いなく殺人の実行行為に相当しますから、それは問題になりません。怪我は外気温の急激な変化は、互いにあいまって子供の死期を早めただけにすぎないことになりますし」
「……だけどさ? 死体って普通臭わない? 死んでたら、臭いとか……」
「この季節ですから。死体は冷えるだけでしょう。それとわかるほど臭うことはありませんよ」
「へええ。じゃあ、――え? 三条の親父や祖父ちゃんは……」
「もちろん……殺人犯ということになります。殺人の罪責を問われるでしょう、間違いなく。栄養失調の子供を閉じ込め放置した親にだって不作為殺人が認められるんですよ。三条の家族には、それでも蔵を開けられない理由があった。今閉じ込められている子供の命が危なくても、それと認識しながら放置した。……三条君だけが、家族の未必の故意を知らなかった。それに……気づいていたんですよね、柚真人君は?」
「そういう専門的なことはわからないけどね」
柚真人はそういって、困ったようにわずかに首を傾げた。紙コップのコーヒーを口許に運ぶ。酸化したコーヒーの香りが飛鳥の鼻先をかすめた。
ファーストフードのコーヒーは、感動的なまでに不味いと、飛鳥は思う。
「でもさ。妹さんの声が何日経っても聞こえてたって三条いってたぞ。それ、てことは家族も聞いてるだろ。それでも殺意があったってことになるのかなあ?」
「細かいこと気にするなあ、飛鳥」
「いいですか? 現実に起こり得ないことは起こらない。被疑者の罪を立証するためには全く必要のない事柄です。それは『事実』にはなりえません。現実かもしれませんけどね。ありえないことを言ってみても――法廷ではまったく無駄です。検察側にとっては」
「あ、なるほど」
「彼等が殺人の罪に問われることにかわりはないでしょう。それが、まず『事実』というわけです」
「柚真人お前、そんなことまでわかってたの?」
「おれを千里眼みたいにいわないでくれよ、飛鳥。別になんでもわかっているわけじゃない」
「そうはいってもねえ。ふうん」
分かったような分からないような判然としない様子で、飛鳥は肩を竦めた。
一方の優麻は何を思うのか、どこか愉しそうである。
「ところが現実は、私の役には立ってくれます」
「……はあ?」
「その『声』はね。私には、39条という切り札がありますから。精神錯乱、罪悪感、責任無能力、なんでもありの、『ジョーカー』です。それさえあれば、無罪さえ争える。たとえまったくの無罪が難しくとも、量刑を争う余地は残るでしょう」
そして、優麻はコーヒーを飲み干しトレイに置くと、じゃあ、といって立ち上がった。
「頼むよ」
「あれ、どこいくの?」
「だからいま言ったじゃありませんか。接見ですよ。――そうでしょう? 柚真人さん」
そういわれると、初めて少年は少しだけ、悲しげな表情を浮かべた。
「……頼む。三条本人には、少々荒っぽいことをしたと思ってる。祟りによって蔵の秘密を守ることもできた。三条には、その道を選ぶこともできたんだ。おれが、呪いの解除を強いた」
「あなたの判断、正しいと思いますよ。そのままにしておいたって、しかたない。真実は、明らかにされるべきです」
「だけど……三条の生活が……な」
「その点心配には及びません。私は新米の勤務弁護士ですから事務所と相談しないと詳しい事は決められませんが、努力します。検察側が不作為殺人無期懲役でこようが必ず勝ってみせますよ」
腕の良い弁護士を紹介することぐらいしか、柚真人が級友にしてやれることはなかった。
「あとは、私の仕事です」
「それって、汚くない? 弁護士さん」
「そうですね。でも、橘君。……柚真人君が、なぜ私にこの仕事を頼むのか、本当のところがわかりますか?」
飛鳥は、首を振った。
「罪に問われることよりも、罪を贖う術がない方が、その者にとって最も重い刑になることもあるんですよ。それがまして、子供を殺した親ならば……ね」
「……」
「私なら、彼等に無罪を勝ち取れる。けれど無罪は、彼等をなお、責め苛むことになるでしょう」
優麻は、ひらひらと手を振って、店を出ていった。
「じゃあ、オレもここで」
「なあ、柚真人――?」
立ち上がりかけた柚真人を、飛鳥は制した。知らなくてもいいことがあるのだろうが、それでもどうしても聞きたいことがあった。
「じゃあ、三条たちが聞いたっていう、その、『声』は……何なんだよ? 本当は。幻聴なのか?」
やはり――柚真人は、静かにひそりと笑っただけで答えなかった。
7
警察署にその男がやってきたのは、その日の午後遅くであった。
「こちらに、三条さんという方がいらっしゃると思うのですが……」
腰の低い感じの男がやってきた――煙草をくわえた捜査官は、警察署の入り口できょろきょろしている青年を見て、そう思った。
庁舎警備にぺこぺこ頭など下げたりして、面白いことをしているものだと見ていると、青年はやがて受付の方でそんなことを尋ねた。
捜査官はアルミの灰皿に煙草を押し付けて潰した。
「三条って――一昨日、逮捕されてきた? 三条允太郎と……それから頼子と裕行さん?」
声をかけると青年が振り向いて頷いた。
「ああ、ええ」
「なに? 面会?」
煙草を揉み消す。
ソファから立ち上がると、青年は捜査官の姿を認め、歩み寄ってきた。
「あのう……あなたが担当の捜査官ですか? 三条さんの取調べは?」
「ああ、いま休憩中。ほら、ちょうど食事どきでしょう」
壁の時計を指差してやる。七時だった。
すると、青年は何やら人好きのする笑顔で、それはいい、などといった。
「いいこころがけです」
「なんだい、あんた。もしかして、弁護士?」
にこ、と青年が笑った。
「あ、申し遅れまして――私、こういう者です」
差し出されたのは、名刺だ。
「三人とも勾留は決まったんですね。弁護人はまだ決まっていないでしょう?」
青年は、東京弁護士会所属の弁護士だった。一見してそれとわかるほどまだ若い。
「三条さんの、弁護を担当させていただきたいと思いまして。接見、よろしいですか? 休憩中、なんですよね?」
☆
「さて」
朱いろの鮮やかな鳥居をくぐって、柚真人は立ち止まる。
東の方から藍色の闇が迫る時刻だった。
風渡る空は薄紅色に染まり、仄かに輝いている。あたりには葡萄色の空気が澱み、影絵のような枯れ枝がざわざわと哭いている。
冬の黄昏――ふっとこぼれる少年のため息が、夕闇に白く溶けていった。
息吹を整え、彼岸へ渡る魂を、迎えるために背を正す。
そして皇柚真人は言った。
「これでよかったかな。――『クラヒメ』様」
誰もいない宵闇間近の境内に問う。
凛とした透明な声が、水面に立つ波紋のように響いた。
おんおんと風が唸り、少年はそれに嬲られる前髪をおさえる。
――うふふ。
――うふふ。
それはかすかな笑い声。
境内の向こうは、皇の屋敷だった。
やがて、まっすぐ延びた石畳の中程、薄闇の中から――すうっと人影が浮かび上がる。
それは、二人の――よく似た面影をもつ少女。
実体のない、曖昧な影。
それでも柚真人はふたりの少女に微笑みかけた。
それは極上の笑顔だった。
「鍵を開けて友達を招きいれたのは、君だね」
――うふふ。
しんと冷えた空気に響く笑い声。
「……淋しかったの……かな……」
――あのね。美佳お友達になったの。
――あたしたち、友達になったのよ。
ああ――そうか。
師走大晦日――かつてそれは、あらゆる人がひとつづつ歳をとる約束だった日だ。三条美佳は、その日、蔵の中で死んでいった少女と同じ歳を数えたことになる。三十一日の数で。
そういう符号があったのか。
――あなた……あなたも、あたしのこと、怒る? 苛める? あたし……悪いこと、した?
柚真人は、かぶりを振った。
「君は、何も悪くないよ。……ずっと、あの暗い闇の中で、我慢したんだろう」
――うん。
「ただ友達が欲しくて、そうおもったら、扉が開いてしまったんだ」
――うん。
少女は怯えた目をしていた。
そういうこともある。それは、想いが――遥かな願いがおこす、わずかな不思議。
その後に起こったことは、不幸な事故。そして哀れな犯罪だ。生ける者の、我が身をばかり愛しむがためのなんとも愚かな行為。
死してなお、呪いを以て留め置かれた淋しい死者の想いは幼心にただ友を需めたにすぎない。この少女――『クラヒメ』にいかほどの罪があろうか。
「さあもう行くんだ。君を苛めた人は、報いを受けた。君を縛る呪いも、もう無い。君は自由だ」
――ふふ。
――ふふ。
少女たちは、密やかに笑いあう。それは何かうっとりするような、さざめきだった。黄昏の中に蕩けてゆく、妖しい声が、耳にくすぐったい。
――綺麗なお兄さん。あたし『クラヒメ』という名じゃないわ。
「ああ……そうか。そうだね」
――鷺子というのよ。
――鷺子ちゃんね、寂しかったの。
――だから、美佳も一緒に逝くの。……お兄ちゃんに……ごめんねって……伝えてね。美佳、お兄ちゃんが、大好きだった。独りにして、ごめんねって。
「ああ――」
少年神主は、少女たちに約束を誓って頷いた。
永い間蔵に閉じ込められていた少女鷺子は、友達を連れて旅路についた。あどけない笑い声をあげて、ふたりは黄泉路を行くだろう。
そこには幼い純粋な楽しさしかない。
少女たちの姿は、そうして――やがて冷たい冬の夜に溶けて消えていった。
8
「ただいま」
玄関の引戸を開けると、――妹が立っていた。
責めるまなざしが、柚真人を睨む。
柚真人はちょっとした悪戯が露見てしまった子供のように、困った顔で首を傾げた。
「……終わったみたいね」
そう、いう。
「うん。終わった」
柚真人は、靴を脱いでコートを肩から降ろし、室内履に履き替える。
「そう」
司が柚真人を追って、くるりと踵を返す。
「本当に、物好きだよね」
「……」
「……兄貴の気が知れないよ。他人の私生活に足突っ込むなんてさ。悪趣味だと思わないわけ?」
「……そう。そうかもしれないね」
種を明かせば、簡単な事だ。
司に背を向けたまま、柚真人は苦く笑った。
――お兄ちゃんが、大好き。
三条という同級生が最初に柚真人を呼び止めたとき、柚真人は、その少年の傍らに二人の少女を見た。よく似た、幼い少女たちだった。
――お兄ちゃん。お兄ちゃん。あたし……この子と逝くの。もう、一緒にいられないの。
少女の一人が一生懸命に、そう、三条に呼びかけていた。兄の祐一には、聞こえるはずもないというのに。
ここから出たくない、といえば、それは我儘だと叱って、誰かがその重い扉を開けてくれると思っていた。少女はそうして兄に呼びかけていたのである。
☆
「そうでなけりゃ、おれだって考えたんだが」
「え? なにかいった?」
「いいや。――夕御飯にしよう、司。今日はどうする? 何か食べたいものある?」
柚真人は司を振り返る。
「まだ早いから、なんだったらこれから買い物いくよ」
「そうね。でも……何でもいい。兄貴のつくる物、美味しいから」
笑っているような、怒っているような、呆れているような、複雑な表情で司が言う。
「おなかは空いてるのよ。さっきから。うん、なんでもいい」
――まいる、よな……。
逆らえない。たったそれだけのことなのに。そんな笑顔で、そんなことをいうから、ついつい前掛なんかして、台所に立ってしまうのだ。
――ああ……。そうでもなきゃ。……おれだって料理なんかしやしないんだよ。そのへんのところ……わかってんのか、司ちゃん?
嘆息して、司には悟られないように背を正す。
――我ながら。なにやってんのかね。不毛なことを。
それにしたって。
無条件に弱いんだよな。『妹』には。
どうにかしなければ、と柚真人は思った。
それは苦い想いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます