第3話 one of a pair 後編
5
鈍色の曇天からは、白い雪が降りてくる。
季節を急いだ、初雪だった。
だが、それにしてはいささか盛大な降雪量である。あたりは一面うっすらと――白い。
まだ明け初めたばかりの、空の端に蒼さの遺る早朝、少年は庭先にたたずんで静かに息を吐いた。
吐息は、白く凍え、雪の色に重なっていく。
彼女は、少年の視線の先にいる。
こんな時間にもかかわらず、であったが、彼女にとって時間はさほど重要な意味を持つ概念ではないのだ。彼女は、想いのまま、ここにいるのだから。
彼女は、もはや生身の女ではない。この世に在らざる念いの残滓。
――篠崎湖珠。
年若くして自らその命を絶った、此岸を離れた少女の、青白い心。
「神主さん……」
湖珠は、そう柚真人を呼んだ。
緩く波打つ髪を無造作に垂らした湖珠の表情は、よく見えなかった。
彼女がうつむいているためだ。
「神主さん……」
柚真人はすうっと目をほそめた。
どうしてだか珍しく朝も早くから目が冴えると思ったが、なるほど今朝は、どうやら彼女に呼ばれたらしい。
いつやってくるかと思ってはいたがまたえらい日を選んでくれたものだ。
湖珠の躯は半分透けており、背後に竹薮が見えている。
顔を上げて微かに微笑む。そうしてみると、彼女も存外に幼い風情だった。
柚真人は、白い寝間着の懐から、彼女の索める物を取り出した。細く優美な指先が、すいと凍える空気を揺らす。それは、簡素な銀の耳飾だ。
――約束の、彼女の遺品。
「貴方の探していたものは、これでしょう?」
そういうと、あたりの気配がふわりと揺らいだ。安堵の空気が広がったようだった。
「ええ。それよ」
「これで昇天って逝けますね?」
「ええ。……どうも、ありがとう」
少年は、それを湖珠の方へと放り投げた。
彼女はそれを受け止める。
実体のないその両手の中に、銀の耳飾が届いた。
「ありがとう……」
「礼はいい。さあ早く行って下さい。……『恋人』を待たせてあるんでしょう」
少年は、選ぶ言葉こそ丁寧であるものの、高圧的な口調で無表情にいう。
また、気配が揺らいだ。
「貴方……もしかして、あたしのこと……」
「いいえ。……心配には及びません。おれが、それをあなたに返還したことが、おれの選択した答えだから」
雪が舞う。
「さあ」
沈黙があって――ひうっと――風が降り積もった粉雪をまきあげながら通り過ぎた。
そして白い風に巻かれるように、女――篠崎湖珠の姿は――掻き消えた。
☆
「なるほどねえ……今朝はそんなことがありましたか」
少年の言葉に、優麻は頷いた。
少年――皇神社の神主は、今朝、彼女が訪れた庭の見える縁側を眺めながら小さく笑う。
皇の屋敷の応接間に、ふたりは向かい合って、日本茶など啜っている。
柚真人は、優麻に、今朝の顛末を語って聞かせたところである。
そして、何らかの反応あるいは返答を促すように上目使いで青年を見た。
「その……耳飾りひとつで、彼女は納得できた、というわけですか」
「ああ。――というか、そいつは、殺人の証拠だったんだ。それ自体が彼女の心残りだったかどうか、はわからないけどな」
「その、耳飾りが、ですか? へえ、そうですか。とすると……それはまたどうした気紛れでしょう。まあ、君の決めたことですから、私はかまいませんけどね。……証拠の隠匿には、目を瞑りましょう。今回だけですよ。なにせ私の仕事は――」
「わかってるよ。だがそれはお前の、であって、おれのじゃない」
「そうですね」
優麻は、そう言って煙草に火を点した。
対する柚真人は、大袈裟に肩をすくめて見せる。
本日は土曜日で、青年の担当する事件についての公判の予定は一つもなかったため、彼はこうして柚真人から報告を受けていたのであった。昨日の夜から降り始めた雪が午後になっても止む気配を見せないこともあって。
柚真人は、重ねていたく不遜な笑みを返した。人形のように整った顔が妖しく歪む。
「まあ、どのみち証拠にもならないだろうしな。だからいいんだよ」
「そうですか? でも、殺人事件の証拠の品だと、確かに君は先刻言いましたよ?」
優麻は、そういって煙を吐いた。
「……だけど、公判がなければ証拠にだって意味はないんだろ。犯人を起訴できなければ……ね」
「――というと?」
柚真人は例によって例のごとく、自分の中ではきちんと事実関係を把握し出来ているがゆえの、悟り切った空気をその表情から滲ませている。
しかし優麻にしてみれば、先週、少年が何やら想い遺すところがあるらしい『来訪者』から、何かを依頼されたらしいということしかわからないのだから、柚真人が断片的に言うことがいまひとつ繋がらないもの当然であった。
そもそも優麻には、柚真人を訪れる、不可思議な『来訪者』の姿が、全く見えていないのだ。
気配なら確かにわかる。
だが、気配しかわからない。
だから、あの時も。
柚真人が、女だというからそれがわかるのであって、優麻自身には、そこまでは判然としないのだった。
あと、優麻にわかることといえば、少年の妹――本来であれば皇家の巫女であるはずの司が、その得体の知れない『来訪者』を極端に嫌い、怖がっているということくらいだ。
雪見障子となっている部屋の窓の硝子の部分から中庭を眺めやれば、外はなお雪。
そこから見える屋敷の中庭は一面が白く、それにしても今日が土曜で高校が休みでなかったら大変なことになっていた、と少年がごちった。
神主の職にあるこの少年は、齢はまだ十六であるから、当然普段はといえば、学業に他ならないのだ。
「君が隠匿したその、件の証拠が唯一の物なら、事件は迷宮入りということでしょうか?」
と、優麻は柚真人に向けた。
「そういうこと。だから、いってみればおれがしたのはその幇助ってことになるかな。したがってこの一件は、完全犯罪」
「完全犯罪……ですか? 私はいまだかつて一度もお目にかかったことはありませんがね」
「当たり前だろ。弁護士のお目にかかっちゃ完全でもなんでもない」
「あ、まあ……言われてみればそうですね。ですが、……君はそういうことも全部知っていたんですか? その、篠崎湖珠という依頼主には、あの日、何もその……訊かなかったように思いますが」
「それが奇遇だったってわけだ」
「奇遇、ですか?」
柚真人は、小さく笑って頷いた。
「そう。……そこで、ひとつ種明かしをしよう。おれだって、できない話は引き受けたりしない」
柚真人は、そう言っていっそう悪戯っぽい笑みを唇に刷いた。
少年のそういう笑い方は、彼がその整いすぎた顔容で、穏やかに微笑むより、優しく微笑むより、印象が鮮烈だ。
涼しい瞳が愉しげな色を宿すと、それを見返す優麻でさえ、見慣れているはずなのに時折身がすくむような寒気を覚えるのが常だった。
6
皇柚真人は神職としての勤めのほかに、個人的なお秡いなどの頼みを請け負うことがある。
皇流神道は、国家神道を除けば廃絶を免れた唯一の神社神道である。
かつての大教宣布の詔や神道指令を経て表向きは廃絶され、現在は伊勢神宮を本宗とする神社本庁の管理下にあり、祭神を天照大御神とするが、皇家は紛れもなく皇流神道の宮司家として断絶されることなくその神事を継承していた。
皇神社が、そのような地位に在るのは、その血が受け継ぐ異能と神事の異様にあった。
死者に触れ、死者の想いを感じ、死者と言葉を交わすこと。
血を穢れとせず、死を不浄のものとしないこと。
それこそが、皇流の本質である。
死は、本来であれば汚穢として忌み嫌われるべき不浄のものであるが。
――黄泉信仰。それが皇流神道であり、皇の異能だった。
そして皇流神道においては、一族のなかでその異能を受け継ぐ子女のみがその神事のすべてを引き継ぐことを許されるのである。
それさえあれば、神社本庁の授ける神職の資格など、問題ではない。
皇柚真人は、その血を最も濃く継いだ、八十四代目の皇家当主――皇の『巫』であった。
その柚真人が、篠崎家から、死者秡の依頼を受けたのが、十一月十日のことだ。
篠崎家では、十一月二日と五日に、相次いで子供が死亡、翌六日からの霊障に悩まされた家の者が葬儀を行った僧侶に相談し、護符をいただいたものの、心の中で収まりが付かず、人伝に皇神社の噂を頼ったのだった。
始めに死んだ男は篠崎の長男、尚清。大学四年生で、死因は溺死だった。大量に飲酒し、そのまま入浴して、自宅の風呂で溺れて死んだのだ。
尚清には婚約者がおり、来年春の卒業をまって挙式の予定があった。家族は、息子の無念が霊障を起こすのではないか、といっていた。
そして――美しい婚約者の女性も、泣いていた。
「つまり、おれはその時に、仏壇の遺影を見ている。それで先週、うちの境内にあらわれた彼女を見た時、すぐわかった。……篠崎湖珠、だと」
「はあ、なるほど。それで奇遇、と。何も訊く必要がなかったんですねえ」
面白そうに優麻は頷いた。そして温くなったお茶を啜った。
「で? 亡くなったのは兄妹両方ですから、『殺人』とすると、どちらかが殺されたと?」
「うんまあね」
「けれど君は証拠を湮滅した。おそらくは、彼女のために。……めずらしいことですよね、柚真人君。君は、いつもは生きてようと死んでようと他人には厳しいですもんね」
「自分にだって厳しいつもりだよ」
「冷酷無比な皇流の今当主――皇柚真人君らしくない、とは思いますが」
「いいや。――むしろ今回ばかりは、おれも情に流された。それこそが、おれらしいんだよ」
呆れたような口調で言う年上の友人に、神主はそう返した。
☆
柚真人にとっても、それは意外な答えではあったのだ。
最初に訪れた時には、もう僧侶が施したらしい某かの呪いで、家の中はおろか屋敷の敷地の何処にも、死者の気配など遺されてはいなかった。
わかったことといえば兄の事故死と妹の自殺。
しかも家族は、当然一介の、それも社会的にはまだ幼いともいえる少年神主を相当にうさん臭げに思っていたらしく、その日は仏間以外への立ち入りを、許されなかった。
それで、どうしたものかと思案していたところに、ふらりとあらわれた女――それが、あの日、夕暮れ逢魔が時に柚真人の下に訪れた、篠崎湖珠だったのである。
――結婚も決まっていたのに。どんなに無念だったでしょう。
――妹まで、連れて行くなんて……。
当然と言えば当然のことなのだが、家族には、分からなかったらしい。
その家で騒いでいたのが死んだ息子ではなく、娘の方だと。
柚真人は、二度目に篠崎家を訪れて真実を知り、三度目で彼女が探していたものを見つけた。風呂場の側溝に落ちていた、銀の耳飾を見つけたのである。
それは証拠品となるべきモノだった。
その風呂場で殺人が行われたことの。
女はその日。
酒に酔った男を。
浴室に沈めた。
そして現場に耳飾が残った。
――それが。
柚真人の視た真実の――姿。
「それでは兄の尚清は、妹の湖珠に殺害されたということですか?」
意外そうな問い返しに、柚真人はあっさりと頷いた。
「そういうことだな」
「でも……」
「その、十一月二日っていうこはな、尚清の誕生日で、さらに婚約披露の日だったわけだ。つまり、その日は沢山の親類縁者が集まっていた。篠崎家は屋敷も広いしそこそこ由緒ある家柄で親族も多い。めでたいことだし、夜ともなりゃあ大宴会ってわけだ」
「……」
その最中に、女は、酔った男を浴槽に沈めた。それだけで、証拠は一切残らない。
「……そうでしょうか?」
「それが彼女にとって一番確実だったんだよ」
「しかし、それで証拠が耳飾だけですか?」
「着衣のままなら、普通は浴室に存在しないはずの物証、例えば衣服の細かい繊維等をどう処分するか……って?」
「ええ。それに、普通は他にも証拠は残るでしょう。圧迫痕、防御創、爪の間の皮脂……髪……。それ以前に、いくら相手が酔っていたとしてもね……浴室で、自分より非力な女性相手とはいえ、そう簡単に殺害にまで至るというのも……」
腑に落ちない、というように、優麻は首を傾げている。煙草の灰をとんとんと灰皿に落とし。
「第一、犯行を実行しようとしたって、そもそも着衣の儘に侵入してきたら、もうそれだけで怪しいですよ? いくらなんでも、なにかと思って身構えはするでしょう。まあ……それでも、君にはことの真相が見えているのでしょうけれどね」
だからこその言葉であることを、柚真人とも幼い頃から付き合いある優麻は、知っている。
この少年は人の目には見えないところからでも真実を探り出すことができるのだから。
しかし、殺人を肯定しながら証拠湮滅を図るなどというのは、少年らしからぬ行動だと、思う。
すると少年は再び言葉を継いだ。
「証拠ってのは、そこあるのが不自然だからこそ証拠になり得るものだろ」
「まあそうですけど」
「だからさ。まずそもそもそれが異常なことでなければ誰の目にも留まらないだろ。埋もれてしまうから、拾い上げることができなくなる」
「そうですか?」
「そうだ」
少年は言い切る。
「お前、弁護士だろう? おれの話、ちゃんと聞いてるか?」
ふ、と唇に笑みを刷いて。
「彼女が妹だからだろ」
冷たい色の瞳が、優麻を見る。
「彼の妹だったら、まず余計な証拠なんか残りっこないじゃねえか。抵抗もな。同じ家で生活してりゃ、風呂には普通のDNAが取れる物証は残る。というよりもな、この場合、妹だって服なんかきちゃいない、二人は一緒に風呂に入ったんだよ。『そう』いう目的で」
「――は……?」
その日。
妹は酔った兄を誘う。
二人が。
互いに道を踏み外した恋に墜ち、互いに自らの気持ちに背こうと必死であったならどうだろう。
男の婚約も、そう、汚れた恋から逃れるためであったなら。
そして妹が兄のようでなく、自分の恋にただ正直であったなら。
泥酔して正気を失った男が、ふらふらと女の誘いにのる光景を少年は視たのだ。
――これで最後にするから。お兄ちゃん。
そう懇願されて、彼は拒めなかった。
そして理性も知性も瓦解する。
心は禁忌を意識しながら、躯は妹を索める。
それは、他人には絶対知られてはならない二人の背徳の秘密。
ただでさえ屋敷は広く、家族も客も宴会で酒が入り、他人のことなど気にしてはいない。あるいは妹の方は、周到にアルコールに催眠導入剤くらいは混入したかもしれない
そうであるから――そうであるなら二人が一緒に浴室にいくことなどちょっと注意を払えば簡単なことだった。
それはもう、何年も前から親の目を盗んで続けてきたことだったから。
兄妹にとってはそれは日常的な行為ですらあって、親さえ騙し続けてここまできたのだ。
だからその日の真実を、誰一人として知らない。知り得ない。
大量に飲酒した人間を、浴槽の中に静めて殺害するのは、さほど難しいことではない。
まして躯の欲求に溺れかけている男など。
彼女は頸筋に指を這わせ、そのままその指先に軽く力を込め――水面に恋人の頭を突っ込んだ。抵抗したところで、それは大した障害にはならなかった。
そして彼もまた、抵抗らしい抵抗をしなかった――妹の意思を悟って。
彼女が肩と額を押さえ込む。
――ごめんね、お兄ちゃん……!
頸は絞めない。
溺れて死ぬのだ。兄は、酔ったまま風呂に入って、事故死するのだ。頸を絞めたら跡が残るって、本に書いてあった。
――あたしのこと、誰より好きっていったもん。だから、誰にも渡さないもの……!
そこにいて、寝起きしているその少女はその家のどこに存在していたとておかしくはない。
だから証拠を湮滅する必要などなかった。
ただひとつ、浴室に落とした片方の耳飾を除いては。
「それが……『証拠』と――?」
「そう。ともすれば、彼女自身には、『証拠』という意識はなかったかもしれないが、な。耳飾りは、どうやらその件の兄貴からのプレゼントか何かだったらしいね。けど、彼女はただ、それを大切に思っていただけだったんだ。それを探して、屋敷の中を彷徨ってたんだな。だけど寺の坊主がね。魔除け札で屋敷を結界したからさ、彼女屋敷に立ちいれなくなっちまったわけよ。それがわかったのが、二度目に、彼女の部屋を見せてもらったとき」
そういって、柚真人は小さく肩を竦める。
「それはバスルームの側溝に落ちてた。彼女、気がついてなかったけどね」
「ああ……あなたには、見えてしまうんですね。そうでしょう? 彼女が死の瞬間に思ったことも――その浴室での出来事も――」
柚真人は頷いた。
「犯行途中、兄も少しは驚き、己よりも妹のためを思って抗った。そのときに、彼女の耳からそれが零れ落ちたのが見えた」
「……そうでしたか」
「彼女が探している耳飾、というのもそれだとわかったよ。だがそこで、だ。問題が生じたのは。湖珠の犯行はいちおうは完璧だった。半分はそんなわけで尚清の方にも死を選ぶ秘密の理由があったからさ。それらの事情を知らない第三者から見れば、完璧事故死だし、死体にも不審な点はなかったろう。ところがさ、篠崎家はハウスキーパーを雇っていてなあ……。そのハウスキーパー、婚約披露の当日も、夜には屋敷に大勢客が来るってんで風呂から御不浄までしっかり清掃を行ったってんだな」
「そんなこと、わざわざ訊いたんですか?」
「違う違う。だらだらとさ、ご両親が説明してくれるわけ。ほら、死んだ場所だからね。意味もなく脅迫観念にかられて因果関係を作り上げるだろう。その日掃除しなかったら、事故が起きなかったんじゃないか、違う結果になったんじゃないかって。それでいて、それが原因じゃないんだって、一生懸命弁解するんだよな。誰だってそうだろ。例えば、あのとき左の角を曲がっていたら――とか。右側の歩道を歩いていればあるいは何かが変わっていたかも――なんてね」
「……ああ、なるほど」
仮定的因果経過――優麻は、そんな言葉を憶い出していた。
仮にそれがなかったとしても、結局違う原因によって、同一の結果は生じる――というやつだ。
けれどそれはつまるところ仮定の条件関係で、生じてしまった結果に対する原因の因果関係は否定するには足りない。ただ、因果関係を否定されると説かれることもある。
柚真人の謂わんとしていることは、それに似ている。
――あれがなければこれはなかった。
――否。あれがなくても結局こうなるしかなかった。
人の心が生む、せめぎあい。
本当は、生じてしまった結果からせめて目を逸らしたいのだ。
人は、そのための理由を探す。そして仮定的な条件を見出だしてそれに安堵する。
だから思う。
――ああしなければよかった。何かが変わっていたはずだ。
そして思う。
――いや、結局こうなるんだ。何も変わらなかった。自分に非は無い筈だ。
「ま、その時たくさん来客があるってんで念のために風呂場の側溝もきちんと掃除されたわけだよ。側溝ってほら、普通ステンレス製の覆いがしてあるだろ。あれ、外してさ。だからね……」
「……ああ!」
「髪の毛や、皮脂、指紋はともかく、そのハウスキーパーは、その日、側溝に異物がないことを確認しているときた。そしてあの日、あの時間までに入浴したのは、その長男だけってことになってる。次に覆いを取って掃除したときそれがまだそこにあったら、さあどうなる?」
「それが、間接証拠に――」
「ご明察」
「そうですね。それがいつからそこに在って、いつまでそこには無かったのか――もしそれが明らかになれば、それが間接事実を立証しえますから……」
優麻の口調は弁護士のそれだ。
間接事実――それは捜査の端緒となる。犯罪事実が、明らかになり得る手掛かりとなる。
「あなたは、……彼女の犯行を、隠したかった……わけですね」
「彼女は、完全犯罪を実行したつもりだったろうからね。今回かぎりの、奇遇――二重の奇遇に免じて」
「……なる、ほど。それで、あなたらしいと……」
正しく奇遇は二重であった。
優麻はそれをよくよく知るからこそ咎める言葉など出てこない。
犯行事実を明らかにして、彼女の少々無鉄砲な計画を台無しにするなど、いまの彼にできるはずがないのだった。
「しかし、そう立て続けであれば、自殺は性急すぎたのではないですかね? まるで追死ですよ」
「実際、追いかけたんだ。……まさに死人に口無し。よく心得てる」
「それこそ、誰かが疑いませんか」
「……死は伝染する。連鎖反応を起こす。理由があれば簡単にね。だから本来、死は忌み嫌われるべきものなんだ。穢れとされる。ほら、塩撒いたり、斎戒したりするだろ。それってそういう伝染性を断ち切ろうとする行動なわけよ。そういうことになっているから誰もが死を伝染病みたいに思い込む。疑わないさ。ややもすると、妹の死は先に死んだ者が呼び込んだと考える。こういう連鎖は、先に死んだ者が悪いことになるんだよ、大抵。実際、家族も霊障は専ら兄の方がもたらしていると考えていたし。妹さんについちゃ、兄が呼んだのだ、可哀そうだ―――とまでいっていたよ」
「ですが……」
「もう一つある。彼女はね、彼女自身の自殺の理由をもきちんと容易していたんだ。まったく上手くやったよ。おれが家族から話を聞いたときもね、子供をいっぺんに亡くしてえらいうちひしがれてたけど、皆それで納得していた……当たり前だけどね」
少年は肩を竦めた。
「そう、彼女は自殺の理由を作るために男と付き合い、喧嘩し、争い、わかれた。友達や知り合い、人の目のつくところでこれ見よがしに、しかしかつ慎重に、派手にやったのさ。死後、他人を納得させるためにね」
「そんなことを……」
「誰も疑わないんだよ。普通に仲の良かった兄と妹の間に、何があったか、何かあったんじゃないか、なんてことはね。婚約者のいる兄。恋人のいる妹。普通の家族が何を疑う?」
「ああ……そう。……そうですね」
ふ、と優麻は肩を下ろした。
――それで。
少年は窓の外を見ている。
――『おれらしい』、と。いうのだ、この人は。
「だからおれは彼女に耳飾を返してやった。犯人だって死んでるし、犯罪事実がどこの捜査機関に明らかになったわけでもない。証拠は必要ないだろ?」
「それは、そうですね。あなたの片面的従犯でさえ私たちからすれば立証できないんでしょう」
柚真人は満足気に頷いた。
そして静かに言を継ぐ。
「それに、彼――兄の方もね……。たいして抵抗しなかった。たぶん、彼女を待っている。昇天ってくる妹をね。妹の想いを知っていた。……命を絶つことでしか、報われない恋だったんだ。だからね。彼女の願い……叶えたいと思ってね」
☆
そのときだ。
「兄貴?」
からりと襖の開く音がして、庭の見渡せる応接間に、少女が顔を、出した。
「……」
一瞬。
ほんの一瞬、息を飲んでしまったのは優麻の不覚と言えよう。
それは、彼の妹だったから。
一方の柚真人は、たったいま優麻と交わしていた会話のことなど初めからなかったかのような素振りで、ひとつ違いの妹を振り返った。
「どうした? 司」
「……あたしに内緒で、何のお話?」
その切り替えたるや、いつもながら見事なことだ。そう思いながら、優麻も柚真人にならうことにする。
「いえ、別に。どうです? お勉強の方は、すすんでますか」
「おかげさまでね」
見れば、司はトレーにケーキを載せていた。
「だから、ちょっと休憩して、お茶にしようと思ったんだけど」
「ああ、ではそうしましょうか」
優麻は、そう言って立ち上がった。
「お茶を淹れ直しましょう。紅茶にしましょうか? それ、チーズケーキですか?」
「うん、昨日買っておいたの。通りの角のケーキ屋さんのベイクドチーズ」
「わかりました」
優麻は――柚真人に小さな笑みを返し、そして部屋を出た。
――おれらしいんだよ。
――命を絶つことでしか、報われない、救われない、恋だったんだ。
優麻の耳奥に、切なく響いた少年の声が残った。
柚真人が視界の端にそんな青年を捕らえていると、「雪」
え? というと、卓にトレーを置きながら、司が庭に面した雪見障子を指差した。
「雪、止まないね」
「ああ」
柚真人は、畳の上で少し伸びをする。
司は、そんな柚真人を見て、鼻の頭に皺を寄せて嫌な顔をした。柚真人を見下ろして。
「またうさん臭い話をしてたでしょ、兄貴と優麻さん」
「うさんくさいうって、お前ねえ。しょうがないでしょうよ。お前、おれをなんだと思ってるわけ」
「そりゃ……我が皇家の御当主様?」
「嫌な言い方しなさんな」
「じゃ――霊感商人?」
「それはもっと嫌」
ふん、と司は鼻を鳴らした。
「嘆かわしい……こんな怪しげな霊感商人があたしの兄貴だなんて」
「司には関係ないことだから、気にしなくていいんだよ」
「それは柚真兄の勝手な言分でしょうが。だったらせめて、家の中には得体の知れないモノ連れ込まないで欲しいんですけど」
「……得体の知れないモノ、ねえ。……はいはい、わかってますよ」
柚真人はその妹の言いぐさに苦々しく笑って、肩をすくめた。
彼のそういう、ふとした柔らかい表情には、もともとがとてつもなく端整な顔立ちなので、ひとたび微笑めばそれだけでも、誰もがこの少年に惹かれずにられないのではないかと思わせるものがある。
だがしかし、実の妹にだけはそれが通用しない。
妹は、非常に手厳しかった。
「……そういう顔したって無駄だからね」
司――柚真人の妹は、そうして、部屋に柚真人を残して襖を閉めた。
――優麻さん、手伝うわ。
そんな声が聞こえた。
柚真人は――一人になった。
7
夕方になって雪は小康状態になってきて、夜中になると空は晴れた。
今は、透明に澄んだ冷気が、夜を満たしている。
その夜空を天蓋とし、柚真人は、居間の縁側で杯を傾けていた。
暖房は止め、窓は開け放ってある。
部屋は暗く、少年の纏う白い着物が、雪明かりをうけて、夜の中にほの白く浮き上がって見えた。
冬の入り時、夜の空気は冷たく凍えていた。
さらに晴れあがっているぶんなおさら夜気は冷える。空は遠かった。
白い陶器の杯に口を接ける。
――苦い、な。
それでも、体感としてはさほど寒くはなかった。まだ十一月だから、夜半には気温も上がりはじめ、明日にはすべてとけて流れていくだろう。
――ふん――。
そして再び杯を口許へ運ぶ――。
と、そのとき。
「なんか起きてる気配がするから何してるのかと思ったら……。こんな夜中に、酔狂なことするよねえ兄貴も」
司――だった。
柚真人の心臓が、凍える。ぞく、と。
「お酒ぇ? たいがいにしなよ、未成年」
少女もやはり、少年のように丈の短い着物を寝間着として身に纏っている。
多少時代錯誤な寝間着とも思えたが、それが幼い頃からの習慣だ。
ああ、ああ、などと呆れたような声を上げながら。
司は柚真人のそばにやってきて、傍らに腰を下ろす。
「うわ、さむ。……なんか寝つかれなかったんだよね……。それ、もらってもいい?」
「それって……これ、酒だぞ。日本酒」
「だからちょうだいって言ってるの。何?」
何、とは。
銘柄のことだろうか。
「『奥の松』。――おい、ちょっときついぞ」
「平気へーき!」
司は、柚真人の手からするりと杯を奪い取って口に運んだ。
「……司……」
たぶん。妹にとってはなんでもないことなのだろう。
けれど――。
畳のい草の匂がした。そして暖められた酒の香。
夜の空気。青白い雪の色。
そして、司の――。
――ああ、クソ。
冷えた板張りの縁に置いた自身の手の、指先がこらえきれずにぴくりと震えた。
「ん―――――っ」
司が、はあっ、と息を吐くと白い霧が闇に溶けていった。
☆
「柚真人、寒くないの? 雪積もってるのに。すごい薄着だけど」
司は、ときどきは自分の兄である柚真人のことを今のように名前で呼んだ。
柚真人はといえば、彼女には、兄と呼ばれるよりも妹に名を呼ばれることのほうが好きだった。
けれど、こんなときにそんなふうに呼ばれると、胸が軋む。
――こらえろ。
そう、自らに命じる。
なぜなら、少しでも気を抜けば、いまにも――理性を失いそうだったから。
そう。
お互いに想いをよせあうことができるなら――それを羨望さえした。
柚真人は、だから今日、あの女の願いを聞き届けてやったのだった。
兄妹が互いに恋に落ちたとて、何が罪であろうか。それに命をさえ賭したなら、静かに――誰にも知られずにふたりで逝かせてやったところで何が悪かろう。
――こらえろ。
他方、自分には――。
この想いには辿りつく場所がない。
――司には――悟られるな。気づかせるわけには、いかないんだ……っ。
妹を。
――こらえろ……っ。
妹として見ることができないなんて。
それなのに、こんな時にかぎって気紛れな妹が――滅多なことで兄に甘い顔を見せない彼女が、甘えたしぐさを見せる。
それに胸が潰れそうだった。
「ふあ―――――っ」
頬に朱を上らせて、司は吐息を吐く。酒に触れた唇が、艶やかに濡れている。
満たされた杯が、すい、と目の前に差し出された。
「はい。どうーもありがとう」
「もういいのか」
「――うん。ていうかそれ、最後の一杯になっちゃった」
「は――」
柚真人は、無表情を装いながら司の手にした杯を受け取って呷った。
喉の奥に、残ってぬるくなった液体を流し込むと、鋭い酒精が鼻啌をつく。
風が流れると、さらさらと凍えた氷の破片が雪の上を転がる音が響いた。
あるいは、それは竹薮の笹葉の音かもしれない。
「寒いけど、まあ、きもちいい感じもするよね」
くすくすと司が笑う。
ところが、だ。
そうして、妹は何を思ったのか急に、いきなり、とすんと柚真人の肩に体重を預けてきた。
そんなことをされてしまっては、否応なしに、背中の肌を感じる。
どきり、とした。
甘く、胸が痛む。
「子供みたいにあったかいよね。柚真人って」
くすくす。
なんて無防備。なんて無頓着。
腹立たしいくらいに。
その白い首筋。
着物のあわせからのぞくわずかに上気した胸元。
膝にのせられた、手。
裾から見える――すらりと滑らかな、足。
脳が蕩けそうだ。
そうして司はというと、まるでそのまま夢を見るように、目を閉じてしまう。
「お……い、こら。風邪ひくぞ。部屋に帰って寝ろ、司」
「んー」
そんな溜め息。
勘弁してくれ。
何も彼もかなぐり捨てたくなる。
――駄目だっ。
震える声で、兄は紡ぐ。
「おい、司。部屋に戻れと言っている」
「……うん。でも柚真人も一緒に戻んないと。柚真人も……風邪をひく、でしょー……」
そんなことをいって、司は、また、はふ、と白い息を吐く。
――こいつ、酔ってる……のか?
柚真人は、瞳を閉じた司の傍ら憮然として眉間に皺をよせた。
そういえば、最後の一杯になった、と司は柚真人に杯を返した。
ちょっと目を放した隙なのに、銚子は本当に見事に空になってしまっていた。
なんてこった。
だけれど、そういう状態でもなければ司がこんなふうに柔らかい表情をみせることは、最近ではあまりないのだった。
理由は、わかっている。
それは――柚真人が滅多に司に優しい顔を見せないからだ。
むろん、できるなら優しくしたいと思う。
けれど、司の穏やかな笑顔を見ることさえつらかったし、優しくすることもつらかった。
『兄』と呼ばれることも、頼られることも、甘えられることも――
兄妹だと思い知らされることがつらかったのだ。だから柚真人は妹に優しくできない。
当然仲の良い兄妹ではない。
悪循環だがそれが崩れ去ってしまうことを柚真人は恐れた。
優しくしたら――優しくされたら、坂道を転がり落ちるように何も彼もが駄目になってしまいそうな気がした。
――まったく。どうしようもないんだな……。
その仄かな体温を感じながら、柚真人は泣きたい気持ちになるのだ。情けなさと、悔しさと、己の、どうしようもない運命に。
――どうして。お前はおれの妹なんだ。どうして。
――どうしておれは……。
皇柚真人は、古い神社の当主として生まれ育った。
皇家はその裏神事を伝える旧家であり、現在でいうところの富豪である。
金は、望むと望まざるとに拘らず入るところからはいってくる。
その上、常人離れした類い稀なる美貌と人形のように均整のとれた肢体をも持ち合わせている。
その唇に浮かべる微笑みひとつで人の心を繰ることさえも柚真人にとっては容易なこと。
金銭的な苦労などしようもなかったし、将来など考えるまでもなく、一族本家は当主の座が用意されていた。身の上は自由で、用意されていた動く歩道に乗ってしまえば何ひとつとして不自由などない――はずだった。
だが今は。
それら全てを引き換えに捨てたって、手には入らないものを欲している。
耳元で聞こえる規則正しい吐息が、柚真人を狂わせる。
苦しくて、目を細める。
柚真人の首筋にふわりと、柔らかい少女の髪が触れる。
しゅるり――と、衣擦れの音。
少年は、歯をくいしばる。
腰のあたりから駆け上がる熱。背中がぞくぞくした。
視線を下ろすと、のけぞった頸がみえて、あらぬ光景が一瞬脳裏を駆け巡る。
いま、ほんの少しでも少年の鋼の理性が負ければ、この手は暴走を始めるだろう。
司の、優しい体温。それは自分のものより少し高い。
衣越しに伝わるたったそれだけのことで、頭の芯がくらくらした。安らかな寝息を聞いているだけなのに、残酷な――ひどく残酷な妄想が廻りだして止まらない。
自分では止めることができない。
悲しくなる。
この想いが――罪だとか、汚れたものだなんて、思いたくない。
悔しくなる。
―――けれど。
少年の指は、妄想の中で妹に手をのばしていく。
滑らかな肌に触れ、艶やかな髪を梳く。細い腰を抱きよせる。
なんとなれば、なりふりかまわず、あらがう腕をおさえつけ。たとえ彼女が、拒んでも。泣いても。叫んでも。
「く……っ」
吐き出す喘ぎは、苦しい。
邪な想いに自分がずるずると溺れていく。
「は……っ」
触れ合う肌から伝わり、重なりあう鼓動と鼓動。
こんなにそばにいるのに、ふたりをへだてる血の絆は、なんて遠い。
指先さえ触れられない。
だから少年は、凍りついたように動けない。
きつく目を瞑り、少年はその身を呪縛する妄想を捩じ伏せる。
――きっと。
命を賭けたって、振り向いてくれることはない、妹。
命を絶ったとて、成就することなどありえない、恋。
だから。
柚真人は、眠りに落ちた演技で、ゆっくりと傾ぐ。
縺れ合って倒れ、少女は目を覚ますだろう。そしてふたりは別々の部屋へ帰るのだ。
永遠に変わることなき、その血の絆。
それでも、少年は――ほんの刹那。
少女とふたり、褥にくずおれる、夢を見る。
――人には告げられぬ夢を――見る。
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