第2話 one of a pair 前編

   



 かきくらし 降る白雪の 下消えに

 消えてものおもふころにもあるかな


      ☆


 ――ここ……だよね。

 篠崎湖珠は、朱い鳥居を見上げた。

 鳥居は、湖珠にとっては見慣れない、装飾のないつるんとした鳥居だった。

 ただ四本の丸太を組み合わせただけの、神明鳥居と呼ばれる要式である。

 神社の名は、『皇神社』、と聞いていた。

 その、噂を知ったのは、高校生の時だ。

 湖珠は、この付近にある私立の女子高校に今年の三月まで通っていた。

 ――ねえねえ、ウチの学校の裏山ンとこ、神社あるでしょ。あの、公園みたいになってる緑地ンとこ。おっきいヤツ。

 ――あっ、知ってる知ってる。神主さんでしょ!

 ――そーそー。凄いんだって。何か、なくしたものとか、見つけてくれたり。

 ――お秡いとか。近所で有名なんでしょ?

 ――ええー。うっそ。それ、本物お?

 ――うっさんくさー。ヤバイよそれ。

 ――どんな爺さんなのよお。おっさん?

 ――違う。男の人だってよ、若い。

 ――三組のノリが見たって言ってたよ。なんか、むちゃくちゃ綺麗なんだって。

 ――きれいィー? 男があー? なにそれイケメンってこと?

 ――そういうんじゃないんだって。イケメンていうか、美人? みたいな?

 ――はあ? なあにそれ気色悪ぅー!

 ――誰か画像データ持ってないの。写真とか。それが本当ならネットに載ってそうだし、見てみたいんだけど。

 ――でさ、占いみたいなことすんの。当たるんだってサ。

 ――こわァ。あ、神主なら、呪いとか、頼むとやってくれたりして? 

 ――うっそ。危ない話なんじゃん。ソレ。

 クラスメイト達の、ちょっとした、たわいのない話だった。

 そのときは、湖珠だって気にも止めていなかった。

 考えてみれば随分と無茶苦茶な話だったし、噂話が人づてやネットを介していいかげんに面白可笑しく脚色されて、挙句の果てに暴走したとしか思えない代物ではないか。

 当時は、確かにそう思って、遠巻きに戯れる級友たちを見ていたものだ。

 けれど、今の湖珠には――。

 噂話の真偽など知らない。

 でも、もうそんな噂にでも、縋るしかない。

 晩秋――。

 目を細くして見上げる夕暮れの西の空は、電灯ごしに赤いセロファンを張りつけたように鮮やかだ。

 影絵のような鳥居の向こうの秋空を見遣り、湖珠は軽く唇を噛んだ。

 大丈夫、かな……。大丈夫、よね……。

 それは今や、篠崎湖珠の、本当に最期の――一縷の望み、だった。


      ☆


 石造りの階段を数段上り、鳥居をくぐる。

 するとそこからまっすぐのびる参道の向こうに、狛犬と、拝殿と神殿が見えた。

 そして紅の空の下、藍色の薄闇に没みかけた境内に浮かぶ――白い人影が在る。

 夕暮れ時でもその人影が身に纏う衣装があまりにはっきりと白かったので、すぐに判った。

 彼が――くだんの神主なのだ、と。



「あの……っ」

 神主は、ひと気の絶えた境内で、茜の空を見上げていたようだったが、湖珠の声に気づいたのか、ふいに――湖珠の方を見た。

 ――え――っ……。

 空の映す、紅の残光のもとにたたずむ神主の、その姿に、湖珠はぞくりとした。

 それは寒気、悪寒、或いは――得体の知れない、なんとも言いようのない、快感。

「――はい。何か?」

 微笑みながら、彼は言った。

 柔らかな声だった。高くも低くもなく、耳にするりと入り込んでくる心地好い響き。

 ――ドンナ爺サンナノヨオ。オッサン?

 ――ナンカ、ムチャクチャ綺麗ナンダッテ。

 違う、と思った。

 体躯の感じから男であることは、判る。

 だが、滑らかな曲線を描く輪郭は、幼さの抜け切らない少年のものだ。

 そして、さらりと額に落ちかかる前髪の下から、切れ長の瞳が覗いたその瞬間には――空気が凍ったと思った。

 恐ろしく、文字通り恐ろしく端整な顔だった。

 鋭く深いまなざしが、薄闇の底から湖珠を見る。

 それは一部の狂いもない完璧な――美貌、といってよかっただろう。

 背は、さほど高くない。しかし頸や肩の線、肢体の均整に――隙がなく、その様は、まるで精巧緻密な設計を基に造られた人形のようだ。

 湖珠は、まだ十九年ほどしか生きていないが、それでもこの世の中にこれほどの完璧な容貌を有する人間などめったに存在するものではないと、瞬時に確信できた。 故に息を呑まされた。

 なんて、綺麗な。――いや、これはそんなものではなく、綺麗というより一部の隙もなく整いすぎて気味が悪いといったほうが、まだ早い――。

「神主、……さん……?」

 その、湖珠の口をついて出たのは、間の抜けた問いだった。

 明らかに年下とわかる少年に向かって。

 いくら神職のような格好をしているとしても、神主であれば、一神社を預かる身であろうから、これほど若いはずはない。

 だが、意外にも白装束の少年は、こちらに向かっていともあっさり頷いた。

「はい。そうです」

「!」

 湖珠は、言葉に詰まった。続ける言葉が出てこなかった。

 頷かれたら頷かれたで、一瞬のうちに頭が真っ白になってしまっていたので、何と言えば良いのかわからなくなっていたのだ。

 神社の神主に会えたらといちおうあらかじめ用意していたはずの言葉も、何処かに行ってしまったことに、気づく。

 ところが。

「おれで、貴方の援けになれますか?」

 美貌の少年神主は、己の方からわずかに湖珠に歩み寄り、そんなことを言った。

 まるで、わかっているように。――否、それは湖珠の気のせいだったかもしれない。

 けれど、少年神主がその刹那、美しい顔容に浮かべた表情が、そう語ったように感じたのだ。

 形のよい唇をくっと歪めたそれは。

 見てくれ通りのいわゆる笑み、というものではなく――何かを見透かしている、そんな表情ではなかったか――。

「時間があるなら、中へどうぞ。寒くなってきましたしね。……よろしければ、ですが?」

 何でもないことのように、彼が言う。

 中へ、というのは、神社の背後に見て取れる屋敷のことを示しているらしい。

 たじろぐ湖珠を、促すように、くん、と少年が首を傾けた。

「どうぞ。こちらに」

 そこから湖珠へと向けられているのは、お世辞にも優しいとか親しみやすいとはいえない表情だった。むしろ何処か傲然としていて、皮肉げにさえ、見えた。

 ――何なの……この、子……。

 けれども、その少年のその表情は、文句なく完璧に、最もその、姿形に似つかわしく、ぞっとするほど。

 魅力的で、蠱惑的――だったのだ。



 少年神主は、皇柚真人と名乗った。

 歳は十六。高校一年生なのだそうだ。

 湖珠が通されたのは、広い座敷だった。

 おそらく少年の家なのであろうその屋敷は神社の裏手にあって、木造平屋建てのようであった。だが、玄関からして無駄に広いとしか思えず、総じてどれくらい広いのかといったら見当もつかないほどであった。

 その上、屋敷自体もえらく古めかしい。

 柱も廊下の床板もすっかり磨かれて滑らかな黒い色を呈しており、それがそこここの照明の光を静かにしっとりと吸い込んでいて廊下は暗く、陰鬱だった。

 おまけにこの季節とはいえ夕暮れ時にしては冷え冷えとしていたし、しんと静かだ。

 通された座敷で座布団を勧められ、少女は腰を下ろした。

 名前以外、少年は何も語らない。

 その年齢で神主というのがやはりなんとも奇妙だが、それより何より、向かい合って部屋の明りの下で見ても、少年は間違いなく桁違いに端正で綺麗なのに湖珠は二度驚嘆した。まるで、透明な氷のように。冴える月光みたいに。

 湖珠は、少年にやや見惚れさせられている自分を意識しながら、探して欲しい物があると告げた。

 すると、

「……いいですよ」

 と、少年が即座に頷いたので驚いた。

「貴女がなくしたものは何ですか?」

 少年は、湖珠の向かいに端座したまま、向けてきた。

「こんなところに来るくらいだから、きっとよほど、大切な物、なんでしょう。大丈夫ですよ。見つけられると思います。それが……貴方の願いならね」

 不思議な物言いだった。

 耳飾……――と、湖珠は答えた。

 その時。

「おや。お客様ですか」

 廊下から第三者の声がしたので、湖珠はびっくりして振り向いた。

 開け放たれたまま廊下に向かって開いていた襖のところにいたのは、背の高い眼鏡の青年だった。

 思えばこれほど広い屋敷に少年が独りきりと云うのは可笑しいのだけれども、他の人間がいきなり顔を出したので、湖珠は驚いたのである。

 長身の眼鏡青年は、少年を認めるとにこりと笑った。柔らかい感じの笑顔だ。

「お茶、お持ちしましょうか?」

「――ああ、そうだな。うん、頼む」

 その青年が、少年と如何ような関係にあるのかは推測しかねるものがあった。

 ただ、ごくごく咄嗟に、家族と云うにはそぐわないように、湖珠には思えた。

「ではすぐ、お持ちしますね。紅茶でよろしいでしょうか?」

 明らかに年下とわかる相手に向けて、いやに丁寧な口調だったが、卑屈ではなかった。その雰囲気から、どうやらこれが、青年の普通の喋り方らしい、と湖珠は思う。

 少年が軽く手を挙げ、青年が頷く。

 その時だけ、少年の周りの空気が――ふいに、穏やかになったのが印象的だった。

 それからほどなくして、よい香りのする紅茶が運ばれて来た。

 青年は、テーブルの上に丁寧な仕草で紅茶を置くと、一礼して、さっさと部屋から出て行ってしまったが。

 少年はその後、湖珠の名前を聞いただけで、他には何も訊かなかった。

 たとえば、耳飾といっても――それがどんな物なのか。いつ、何処でなくしたのか。何故それを探したいのか。――そういったことを何も。

 そうして静かに、ひとくちふたくち紅茶を啜った。

 湖珠にとって、それは不可思議かつ奇妙な時間だったが、実際のところどれくらいの間その屋敷に居たのかもよくわからなかった。

 とはいえ、さしたる話をしたわけでもなかったのだから、ほんの少しの間だったのかもしれない。

「――コダマさん。シノザキコダマさん。それが貴女の名前ですよね?」

 湖珠が玄関を出ようとしたとき――見送りに立った少年神主が、再度そう、問うた。

 否、それはただ、湖珠の名を、呼んだだけだったのか。

 去り際、いま一度、肩越しに見た微笑は、本当に、不気味なくらいに綺麗だった。



 柚真人がからからと軽い音を立てて玄関の引き戸を締め、施錠したとき、背後で柔らかい、だがいくぶんかは棘もある声がした。

「いつもながらお見事ですねぇ。その外面」

「そりゃあどうも? 優麻サン?」

 がらりと、少年の口調が変わる。いや、口調だけでなく声色さえも。

「どうなっても知りませんよ。貴方も……本当に懲りない人ですよね」

 優麻、と呼ばれたのは眼鏡の青年だ。

 青年は、自分を振り返った柚真人を玄関の一段高いところから見下ろしながら、呆れたように続ける。

「柚真人君のそういうところ、あんなに嫌がってるのに。司さん、また、怒るでしょうねえ」

「なあに。お前が口を滑らせなきゃあ済む話だろ。それにこれはおれの仕事でもあるし……おれは奇遇にのっただけだ」

 あっさりと言う少年に、優麻は小さく眉根を寄せた。

「……苛めてるようにしか見えませんよ。わざわざ彼女が嫌がることばかりして」

「そりゃあ当たり前だ。嫌われるために苛めてんだから」

「……歪んだ兄妹愛ですよそれは」

「ああ歪んでるとも。わかりきったこと言うなよ」

 言いながら、柚真人の口許は笑っている。

 優麻にとっては、それが自嘲――否、ひどい自虐的にさえ見えることがあるのだが、彼がそれをこの、歳下の友人に言ったことはない。

 司――というのは、柚真人の、ひとつ歳下の妹である。

「そういえば、今日は? 司さんは?」

「さあ。部屋にいるんじゃないの?」 

 妹について尋ねれば、少年は常に実に素っ気ない。

 あるいは、そっけない素振りをする。

 青年も、そのことはもうずいぶんと前から重々わかっていて、こんな会話を繰り返すのだが――へふ、と気の抜けたような奇妙な発音のため息をつき、優麻は踵を返した。

「それより柚真人君、それでは司さんもお呼びして、晩御飯にしましょう。私もお手伝いいたしますから」

「お前……。もしかしてまた、メシ食いに来たのか?」






 翌日は、日曜日だった。

「あれ? 優麻さん」

 皇司が着替えて居間に顔を出したときには、もうその青年は座椅子に腰を下ろして、煙草などふかしていた。しかも今日は、セーターにジーンズという、滅多に見られない休日仕様の服装だ。

 家には、彼ひとりらしい。

 司の家は神社で五人家族で――両親と、二人の兄がいたが、基本的に両親と長兄はいつも家にはいなかった。

 したがって、この家で生活している、といえるのは、司のすぐ上の兄・柚真人と司だけだ。

 もっとも司が物心ついた時にはもう生活の在り方は現在の通りだったし、改めて思い返しても滅多に両親の顔を見た覚えがない。

 長兄とは少し歳が離れていて、彼もまたとっくに家を出て独立してしまっている。

 その代わりに幼い頃から司と柚真人の面倒を見てくれていたのが、この目の前の青年・優麻だ。

 それが皇家の日常であり、司も自分のそういった日常には、とくにこれといった疑問も抱いていなかった。

 優麻は弁護士で、二十七歳。柚真人と司の友人で、放蕩な親にかわる後見人である。

 実質的にはこの後見人が、家のことについてもまとめて管理してくれているらしく、司にとってこの後見人は信頼できる人間である。

 なので自分の両親や長兄がいつ家に帰ってきているのかとか、一体何で生活費を稼いでいるのかといったことは、今の司には、考えても詮のない謎だった。

 ただ、司のすぐ上一歳違いの兄、柚真人が神道学の修行を納めて――これも一体いつの間にという疑問があるにはあるのだが、ともあれ皇神社の神主となったのが二年前だから、それまでは両親がこの神社を預かっていたのだろう。多分。

 皇家は、皇流神道を伝える由緒ある一族の総本家である。

 その血統は千年以上前から続いているという話で、しかも何やら有り難い血統筋であるらしい。

 ゆえに、両親も何がしか有り難い仕事に精を出しているのではなかろうか。

 とだけ、司は思うことにしていた。

 神社に生まれてしまったのだから、司も家の手伝いのような感じで、巫女を勤めはする。でも司の家の手伝いは、兄のそれに比べれば、所詮はまね事に過ぎなかった。 いまは、全部兄が神社の仕事を取り仕切っている。

 兄は、司とひとつしか年が違わないのに、すでにあらゆることに対してそつが無く大人びていて。おまけに超がついておつりがくるほど、容姿端麗、頭脳明晰、冷静沈着、そんなふうに褒めちぎってもまだ足りないくらい非がなくて、嫌味なほどに何でも完璧なまでにこなしきる力量の持ち主だ。

 そういう意味では、兄はまさにこの社の神主として生まれついたというべきで、今日も『仕事』――なのだろう。

 そんなことをつらつらと思いながら、

「どうかした? こんな朝早くから、うちの居間にいるなんて」

 と言ってはみるが、時計を見やれば十時過ぎ。

 言うほど早い時間では、ない。

 単に司の起床が遅いのだった。

 長く伸ばすと色々とわずらわしいので、いつも短くしている髪を片手で梳くと、欠伸が出た。

 司は柚真人の妹であるから、彼女も間違いなく美少女といっていいはずの顔容の造作の持ち主なのが、その雰囲気は兄のものとはまったく違う。

 兄が超然としていて中性的であるのに対して、司はどちらかというと少年ぽくて、人なつこく朗らかだ。

 もちろん、神社の神職としては、いわゆる一般的な『美少女』とは一線を画すような、侵し触れがたいような、涼やかな空気を持ってもいる。

 巫女の装束を身にまとうとそれはいっそう際立つが、司本人は、そういった家の稼業をあまり好ましく受け止めてはいなかった。 

 そんな彼女をにこにこと見つめる優麻は、といえば、彼女のそういうところをこそ、いたく気に入っていた。

「少し、時間がありましたので、様子を見に。今日は、法廷も休みなので」

 答える優麻の本業は弁護士だから、確かに日曜日は裁判所も休みではあろう。しかし、次に優麻が続けた言葉から、司はなんとなくわざわざ休みの日に彼がここに顔を出している理由を察した。

「受験勉強、調子はどうです?」

 司は現在中学三年生で、優麻に家庭教師を頼んでいたのだ。

 日曜日である今日はその予定もないはずではあるのだけれど、そろそろ当の受験が近づいて来ている。

 そのための、優麻なりの配慮なのだろう。

 だから司は頷いて、

「うん。数学でいくつか、ちょっとわからないところがある。困ってたんだ、兄貴はぜんぜん相手にしてくれないし。あとで教えてもらっていい?」

「ええ、もちろんですとも」

 皇柚真人の妹は、自分も畳に座る。

 それから、卓の上のリモコンを取り上げて、テレビをつけた。

 急に賑やかなワイドショーの音声で、居間の空気が満たされた。

「……ところで兄貴は?」

「おでかけです」

 即答。

 かつ、後見人の青年のどこか愉しそうな表情を見れば、これにもなんとなく悟れることがある。

「ふうん……」

 と司は唸って、テレビ画面に目を向けた。

「……日曜だってのに。まあ、日曜日に兄貴がなにしてようと知ったことじゃないんだけど」

「司さんのお手を煩わせるようなことは、何もありませんから、心配しなくても大丈夫ですよ」

「別に心配はしないけどさ。あの兄貴だし。……じゃあ私は、とりあえずコーヒーでも淹れようか?」

「ああ、そうですね。でも、私がやりますよ、司さんはそのままで結構です」

 いつもただでさえ開いているのか閉じているのかわからない眼鏡の奥の目を、さらに細めて優麻が言った。 

 そのまま立ち上がった優麻が向かっていった台所からは、引き続いて勝手知ったる勢いで何やらはじめた物音が聞こえてくる。

「――ああ、そうだ、司さん。トーストでも作りましょうか? 朝食まだでしょう? かといって、お昼まで、まだ間がありますし。いかがです?」

「あ……う、うん。ありがとう。お願いしちゃっても、いいかな」

「もちろんです。かまいませんよ」

 頼まれたわけでもないのに、非常に良く気のつく男である。

 まあ、だからこそ余計なことを尋ねたり聞き出そうとしたりする隙もないもだけれど。

 もちろん、詳しく知りたいわけではないのだ。

 でも、まったく気にならないといえば嘘になるし、気にするなと言われても、それはそれで、なにかが胸にわだかまる。

 ――それがうちの仕事、だっていうのは、わかってるけど。

 目を瞑るなら、口は挟めない。

 目を瞑るなら、その先を知る資格もない。

 それが、今の司の立場であることも確かで。

 司は、見るともなしにテレビを見ながら、頬杖をついた。






 皇柚真人は、とある屋敷の前に立っていた。

 ――妹……だったわけか。

 唇を引き結ぶ。

 ――奇遇、と――いうべきだろうな。

 柚真人は、心の中で独り呟き――そして格子の引き戸に、手を掛けた。


      ☆


「すみませんが、少しだけ、妹さんの方の部屋を見せていただけますか」

 少年神主は、そう切り出した。

 そもそもの話は半月ほど前に溯る。

 都区内の高級住宅街にあるこの家で、その事件が起こったのは十一月始めのことだった。

 この家には、家族六人が暮らして居た。それが、今柚真人の目の前にいる夫婦と、その夫方の両親、そして子供たちだった。その子供のうちの片方が、まず、死んだ。

 上の兄だ。これが十一月二日。

 ところが、兄の告別式の日に、下の妹も、死んだ。

 兄の死は、事故。

 妹は、自殺だった。これが十一月五日――話はそこから始まる。

 時間が経って後から考えてみれば、じつにくだらない思い込みだったと、きっと誰もがいうのであろう。

 はじめは、物音。

 誰もいない夜の廊下に響く足音。

 それは気のせいかもしれない。

 住人を失ったはずの部屋で聞こえる、物音。

 それも、気のせいだったかもしれない。何処かに、誰かが潜んでいるような気配。

 ふとした瞬間背中に感じる視線。深夜、目を覚ましたときに、聞こえた気がした、水音。軋み。家鳴り。

 何も彼もが、二人の子供をなくして急に静かになった家の中で、ただ誇張されて感じただけなのかもしれない。古い紙魚が、何故か意味ある形に見えるように。

 禍々しく。

 虚々しく。

 ひどく哀しく。

 けれども、遺された寂しい家族を、恐慌に陥らせるには十分なものだった。

それでなくとも立続けの不幸だ。

 子供達は、死にきれていないのではないか。

 そのように思った遺族はまず、葬儀を執り行なった寺の僧侶に相談した。そして、気休めの守りのまじないを貰った。そのとたんに、家の者が恐れていた不可解な現象は、なんとぴたりとおさまったのだと云う。

 だが遺族は一度は安堵したものの、よく考えれば何の解決にもなっていないことに気がついたのだ。これで、子供達がいったい成仏できたというのであろうか――?

 そのような経緯で、皇神社の神主に話がまわってきたのが、一週間程前のことだ。

 私どもの子供達を、救済けてやりたいのですが、方法がわかりません。

 両親にしてみれば、大真面目な言葉だったはずだ。

 そうでなければ噂話を頼りに、宗派の違う神社の、歳若い神主などに頭を下げはしなかっただろう。

 それ故、柚真人は先日もこの屋敷を訪れた。その時は――どうということもなかったのだが……やはり奇遇は奇遇。

 両親の案内で、柚真人はその――自殺したという、妹の部屋の扉を開けた。

 彼女の部屋は六畳の洋間だった。

 床はフローリング。ベッド、机、本棚、クロゼット。ストライプ模様のカーテン。

 ベランダに面した窓から射す、秋の名残の陽光が暖かく部屋を満たしている。

 何の変哲もない、少女の部屋だ。

 柚真人の背後で、両親が怯えたように息を殺した。

 彼等はこの部屋で――頸を吊って死んでいた愛娘の死体を発見したのだ。兄の火葬が済んだ直後だったという。

「お寺の方から頂いたというのは、お守りですか? それとも、札のような物?」

 柚真人の問いに、両親は虚を衝かれた様子だったが、父親の方が素早く言った。

「札と思います。机の上に……」

 言われて見てみると、なるほど何やら奇妙な字を描いた紙が、勉強机の上にのっていた。

「お兄様の部屋にも?」

「はい」

 梵字は真言宗。どうやら簡単な魔除け札のようであった。

 ――そういうこと――か。

 これが結界たりうる限り、彼女は屋敷の敷地にさえ立ち入ることができないだろう。だから、あんなことを。

 そうして、柚真人は軽く、目を伏せた。

 ――では、何があった?

 ――その日、ここで何があった?



 それはフラッシュバックのように、断片的な映像となって、柚真人の脳裏に描かれる。

 想いの残滓と記憶の名残。

 ――少女と青年がいた。

 兄妹だ。

 それは真新しい仏壇に飾られた、遺影の中の笑顔の持ち主。

 柚真人は、その飛び散った記憶の破片を拾い集めるように、脳裏の奥で意識を凝らした。

 これは恐らくこの部屋で、首を括った少女の命が尽きるとき、弾けてしまった――彼女の、想い――。

 白昼の夢のように、それは閃く。

 カナシイ。安堵。

 ツメタイ。安心。

 凶暴なまでの――絶望。

 兄の笑顔。

 妹の泣顔。

 水の感触、水の感触、水の感触――。

「……どうかしました?」

 母親の声が不意に、遠くで聞こえた。 

 ――これは……?

「お兄さんの方……。バスルームで亡くなったというお話でしたが……?」

 母親にその場で問う、自分の声も、いくらか遠い。

「ええ……」

 脳裏では、揺らめく水面の向こうに、電灯が見えた。泣いてる。

 彼女は泣いている。

「事故でした。酔っ払ったまま……、浴槽の中で眠ってしまったのです……」

 違う。

 それは――違う。

「あの子が……。妹まで連れていってしまったんです。仲のよい兄妹でしたから……」

「独りじゃ……寂しいんだろうねえ」 

 ――違う!

 触れ合う肌の感触。

 指先が絡まり合う感覚。

 眩暈がするような――これは、これは一体誰が感じた恍惚感なのだろう。

 腰から崩れ落ちるような、快感――!

 絶望と慟哭の入り混ざった、幸福。高揚感。

 ―――駄目……だ……。

 ぐっ、と柚真人の喉元に吐き気が込み上げた。

 ――駄目だ、ひきずられ……っ。

 柚真人は自分の中に雪崩れ込んでくるその光景を遮断しようとした。

 ――それが、真実なのか!?

 堪らず片方の手で、口許を押さえる。

「どうしました……?」

 きつく目を瞑る。

「あの……?」

 振り払う――禍々しい、その記憶。

 はっ――と、短く呼気を吐く。

「大丈夫です……、すみません」

 思いがけないほど、自分の声が弱々しかった。なんとはなしに、額を拭う。

「ええ……、と」

 姿勢を正して振り向くと、彼等はひどく怪訝そうな面持ちで柚真人を見ていた。

 ――これが結末か?

 茫然と、柚真人は自身に問うた。

 朱の唇からは、嘆息が洩れた。

 柚真人には、確かに霊視えたのだ。それは少女の耳朶を飾る小さな小さな耳飾が。

 ――さようなら。さようなら、コダマ。誰より好きだよ……。

 優しい声を、霊聴いたと思った。

 切ない声を、霊聴いたと――思った。

 

     ☆


 柚真人は篠崎邸を後にした。

 家路、神社へと続く緩やかな坂道を上る。

それが真実なら、それが彼女の願いなら、もう一度行かなければなるまい。

 寺の僧侶が残した梵字の呪符の結界は、まだ有効だ。

 葬儀は寺が、お秡いは神社が――そんなことは、さして珍しいことではなかった。

 柚真人にとって、相手がいかなる宗教を信心していようとそれはさして重要なことではない。大抵の日本人が特定の信仰など持ち合わせていないのだし、仮初の心の平穏を与えてくれるのならば、おそらく神でも悪魔でも構わないのだ。

 ――現代の人々にとって『信教の自由』には重要が意味はないんです。そもそもの存在意義からしてもそう言えるんでしょうが。

 友人で、弁護士でもある青年は、柚真人によくそんなことをいう。

 ――日本人にとっては、宗教は信仰ではないんです。思想なんですね。何でもいいんですよ……安心させてくれるものなら。人は、弱い生き物ですから、誰かが正当化してくれないと、一人ではとてもやっていけない。そうでしょう?

 ――本当に人々が欲しかったのは、信仰の自由ではなく、弾圧されることのない自由だったのではないか、と……私は思うんです。心の平穏は欲しいけれど、それ以上は、信仰にさえ縛られたくはない。それが、宗教的雑居性寛容性の正体なのでしょう。ただの身勝手です。

 そうかもしれない。

 柚真人とて、たまたま古い神社の血統を継いだがために神社本庁から神主の職を預かるにすぎない。柚真人の裡に、信仰は――ない。もっともな話だ。

 けれどそれでも、やはりどこかで自分も神様を探して彷徨っている。

 柚真人は、それに気がついていた。

 誰より神に縋りたいのに。

 この世に神などいやしないことを、誰よりもよく知っている。

 ――それでも……。

 神様――と。

 ――彼女もきっと、そうだったろう。 柚真人もその遠い祈りに似た絶望を知っているから。

 それが最期の願いなら。

 神様と――虚空に両手を伸ばして哭いた、あの絶望を知っているから。

 ――叶えられたって、いいんだろう。

 そう、思った。

 奇遇は単なる奇遇であって、それ以上でもそれ以下でもない。現象に意味を求めるのは、脆弱な心に他ならない。

 神様なんて――神様だけは、どこにもいない。必然たる偶然など有り得ない。

この世のすべての事象は、ただ切れ切れの現象にすぎない。

 ――でも。

 人は脆弱で淋しい生き物だから――奇遇に意味付けをしたいのだ。



 神社の鳥居の下に、彼女が居た。

 石造りの階段にその少女が座っているのを認めて、柚真人は足を止めた。

 昨日と同じように、淋しい瞳をしていた。

篠崎湖珠。享年十九歳。十一月

五日、自宅の部屋にて自殺――。

 柚真人が見た、遺影の中の彼女は、明るい陽射しの中で笑っていた。

 けれども、その淋しげな瞳の色は、いま薄闇の中にたたずむ彼女のそれと変わるところがない。いったい何時から、彼女はこんな瞳をしていたのだろう。

 泣きそうだな、と柚真人は思った。

「貴方が――殺したんだ……」

 彼女は、答えなかった。

「どこでなくしたのか……忘れてしまいましたか?」

 彼女は、何も言わない。

 柚真人は目を伏せると、もう彼女の顔も見ないで歩き出した。なぜなら、真実を知った柚真人にとって、彼女のそのまなざしは、凶器だったからである。

 影絵のような社の向こうの西の空には、葡萄色の雲が広がっている。明日は、雨になるかもしれない。

「……私。……あれがないと。……あれがないと……」

 背後で、細い声がした。

立ち止まる。

「――大丈夫。おれが……貴女の願いに免じて、秘密を守りましょう」

 柚真人は、振り返らずに――そう告げた。

「……約束しますよ」






「おやおや、おかえりなさい柚真人君」

 帰宅した柚真人を出迎えたのは、優麻であった。

 しかも彼は、にこにこと、本当に珍しいことにそれとわかるほどに楽しそうだ。

 従って柚真人はいささか不吉な予感を抱いた。

 この青年は、一見虫も殺さぬおとなしげな顔をしているが、はっきり云ってそれが単なる見掛けにすぎないというのが、困ったところなのである。

 何時何処で、一体どんなこと、しかもほんの細やであるにもかかわらず非常に甚大な精神的衝撃を与えてくれる悪巧みを進行させているものやら、わかったものではないのだ。

 最近になって、柚真人もようやく、どうやらそれが彼の趣味嗜好であるらしいということに、気がついた。屈折した愛情ともいえるだろう。

 この調子で弁護士業をこなしているのかと思うと、空恐ろしい事限りない。少なくとも、同業で敵に回したい相手ではない。

 ともあれ柚真人の不安に追い討ちをかけるように奇妙な匂いが廊下の向こうから漂ってくる。

「……なんだ、この匂いは」

「やだなあ。晩御飯の支度をしているんですよ。ちなみに、誰でも作れる市販のカレーですからご安心ください」

 どう――考えても、そのような匂いではなかった。

 柚真人は黙して乱雑に、スニーカーを脱ぎ捨てる。

「……お前、もちろん今日も夕飯食って帰るんだろうなあ?」

「それは脅迫ですよ、柚真人君。人の身体・生命に危害を加える害悪の告知です」

 つまり。

 柚真人の妹である司は、破壊的なまでに料理が下手だ。

 と、いうよりも彼女は、その涼しげで凛とした端正な雰囲気からおよそ遠く宇宙の壁に届こうかというほどにかけ離れて不器用で、鈍くさいことこの上なく、慌て者で、粗忽なのである。

 しかも質の悪いことに何事にもそれなりに精一杯一生懸命で、そこには悪意がまったく無い。

 柚真人は軽く舌打ちした。

 司の料理が不味い理由はわかっている。

 計量をしない、味見をしない、思いつきで妙な手順を調理過程に加える、レシピを信用しない――以上の事を実行すれば、大抵料理は不味くなる。

 要するに、司の調理スタイルである。

 柚真人は、家に台所まで至る前に、思い切りぐいと青年の耳朶をつかんで自分の耳元に引き寄せた。

「いたたた」

 と優麻がわざとらしい悲鳴をあげる。

 ――おまえっ。司には料理させるなって何度いったらわかるんだよ!?

 ――いや、だから、司さんの細やかな嫌がらせですよ。私はそういう意味では司さんの味方ですから、ちょっとばかりアシスタントを。

 ――……てめえいい度胸だな。死なすぞ。三途の川を今から渡るか? 

 ――あ。いいんですか。不用意にそんな大切な『言霊』を使って。しかも三途の川って。あとで禊しないと駄目ですよ。皇流神道の後継者といえども、そういうことには気を遣っていただかないと。

 ――……ウチはそういう神社じゃねえ。誰がいちいちんなことするかよ。

 ――もう十一月も終りですからねえ。水ごりは寒いでしょうねえ。

 剣呑なまなざしで睨みつけてみたところで暖簾に腕押し、他の人間ならいざ知らずこの男にはまるで効果はない。

 どん、と柚真人はその胸を軽く突き飛ばして、優麻を睨みつけてから、離れた。

 嘆息して室内履に履き替え、廊下を行く。

「司あー? いま帰った。だたいま」



 優麻は、口許を綻ばせつつ、柚真人の後に続いた。

 微笑ましい――と、優麻本人は思っているのだが、きっと柚真人がそれを聞いたら即座に鉄拳のひとつも飛んでくるのだろう。

 ――君は意外と短気なんですよねえ……。まだまだ修行が足りませんよ。

 などと、青年は心の中で呟いた。

 ――司さんもね。乾物のホタテで出汁を取るのはいただけません。だってカレーですよ? ホタテっていうのはどうなんでしょうねえ。それに、余ってるからってシチューミクスとブラウンルーを足すのもどうかと思いますよ。シナモン入れ過ぎですし、まあヨーグルトはいいとしてもそれって量的には隠し味程度にするべきだとおもいます。生姜は、すり下ろして欲しかった。


      ☆


 夜空は、綺麗な桔梗色だった。

 ――桔梗色……。

 いつか、どこかで呼んだ、有名な童話の中にあった言葉だったような気がする。

 ――ああそうだ。桔梗の色だ。

 湖珠は塀にもたれて、そんなことを思った。

 いや、思っていることは、曖昧だった。

 とぎれとぎれに、色々なことを考えていたような気がしていた。

 それは意味のない想い出や、さして重要でない記憶だったりした。

 いや、いまだってこれは洩れ出した記憶の集合体にすぎないのだろう、きっと。

 仄かに青い、明滅みたいに。微かに白い、煙みたいに。

 夜の透明な空気に拡散していく自分の存在。空気に溶け出す思考。

 それは粒子になって、やがて消えて逝く。そして無くなってしまう。

 だけど。

 ――耳飾――。

 あれがないと。

 ――逝けない。

 この綺麗な青紫の空に、溶けて消えることだって、出来はしない。



 少年神主が、篠崎家のバスルームで、小さなピアスを見つけたのは、それか

ら五日後のことだった。

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