勾玉遊戯

さかきち

第1話 ever green

 



――常磐緑の夏。



「盗難は、……十年前、になってますね」

『品触原簿』を示して言うと、弁護士は社交辞令程度に微笑んで頷いた。

「ええ、そう伺っております」

 長身痩躯の弁護士は、まだ若く、おとなしそうな印象の青年だった。

 銀縁眼鏡の奥の目は、開いているのか閉じているのかわからない感じに細いが、そのせいかどことなく常に微笑んでいるように見える。

 同時に、それは柔らかな表情でありつつも、どこか冷ややかな印象を与えるものであった。とらえどころのない、感情の読みにくい表情だ。

 だが――弁護士がやってくるとは意外だった。『品触原簿』に登録された品物は、神社の御神体とされていた代物だったから、神社の神主が受け取りにくるだろうと思っていたのだ。

 ――弁護士……ねえ?

 神主、という浮き世離れした人種が、弁護士という現実的な代理人を通すというのが、何故かミスマッチな気がして、可笑しかった。

 あるいはそれは、自分が何か、神職というものに独特の憧憬を抱いていたからかもしれない。

 だが、考えてみれば何であれ昨今宗教団体が対外的代理人として弁護士を立てることなど、さして珍しいことではない。

 それは何も新興宗教に限ったことではなく、神職だって例外ではないのだろう。 

 高木――盗犯捜査係の刑事は、桐箱に収められたその刀を、デスクの上において弁護士に示した。

 鑑識の話では、刀は、刀剣類のうちでも『太刀』といわれる物の一種らしい。これが、くだんの弁護士の引取りにきた物品である。

「それで、当時の所有者は……、 こちらの品触れによると、神社の責任者は皇家の御主人となっておりますが。今は……?」

 手にした『品触原簿』を照らし見ながら、高木は訊いた。

『品触原簿』――とは、刑事課の中でも盗犯捜査係が作成し、保管する書類の一つである。各警察署の盗窃犯係に備えられ、盗難に遭った物品が記録されており、主に盗品捜査の照会に用いられる資料だ。

「刑事さんですから、当時の事件のこともお調べになったのでは? ご存じと思いますが?」

 高木の問いに弁護士が言うので、高木は首を振った。

 刀をご神体としていた神社はその名を『皇神社』と言い、このあたりでも少しは知られた神社である。

 規模もそこそこ大きくて、例大祭や初詣には多くの人が参拝にやってくるし、桜が美しいことでも有名な神社だ。

 けれども高木は、一昨年にこの警察署に巡査としてやってきたばかりの新米刑事だったし、警視庁の警察官になる前には地方に住んでいたから、十年前にこのあたりで発生した事件などについては何も識らなかった。

「当方にも事情がありまして、現在は私が当主代理人を努めております」

 弁護士は柔らかく否すように言った。

「当時、皇家の財産及び神社の総括権は本家御子息に相続されました。ただ、未だ、当方神社の神主の地位に在るべき者が未成年でしてね。私は、彼の未成年者後見人なんです」

「……そう、ですか」

 高木は、立ち入ったことはさらには訊かずに頷いた。

「それで、刀はどういう経緯でこちらに?」

「……はあ、それが」

 高木は言い淀む。

「じつは、……先日、管轄内で起きたとある殺人事件の凶器として、当方が押収した物です」

 他方、年若い弁護士は、そのような事実を聞いてもさして驚いたふうでもなかった。

 というか、むしろ表情をさして変えることもない。それは些か予想外の反応だった。

 だって、神社の御神刀が、よりにもよって見ず知らずの第三者の手に渡りさらに見ず知らずの殺人事件の凶器として使用されたのだ。

 いかに刑事弁護を専門にしている弁護士といえども、普通は何か思うところがあるものだろう。

 ところが逆に、落ち着いた声音で弁護士は言う。

「では、被疑者の裁判が終了するまでは、これは証拠として必要なのでは?」

 なるほど弁護士ならそういうことも気になりはするだろう。が、それについては高木は小さく肩をすくめる仕草でもって返答した。

「実は犯人も、この刀で、自殺を図りました。ですから、事件は、形式的な手続きのみで終了しました。刀身の方は、いちおう――その、発見当時のままになっています。血液は、拭き取りましたが」

 発見された当時、凶器たる刀剣は血まみれで刃こぼれも酷く、盗難当時からこちら、ろくな手入れもなされていないことが一目瞭然であった。

 そこから血液のみ拭き取った状態で、あとは現状のまま手を加えずに、保管はなされている。

「……そうですか」

 やはり弁護士は、柔らかい微笑みを顔に張りつけたまま、そう言って頷いただけだった。

 その時、これは微笑と云うべき表情なのではなく、ただの無表情なのではないかと、不意に高木は思った。

「――では、神剣『佐須良』。確かに当方で引き取らせていただきましょう」

 弁護士の青年は、太刀の納められた桐箱をひと撫ですると、壊れ物のようにそれを抱えて接客用のソファから立ち上がった。

「それでは」

「ええ」

「大変ご苦労様でした。失礼します」



 高木は、その姿勢も正しい青年の後ろ姿を見送りながらぼんやりと考えた。 

 無駄と隙のない雰囲気からさぞ仕事のできる弁護士なのだろう。まだ若いのに、たいしたことだ。

 多分、国立大学か、有名私立大学を優秀な成績で卒業したに違いない。外見的にどう見たって二十六、七歳だから、司法試験も現役合格のはずだ。

 高木は、勝手に頭の中でそう決めつけると残った手続き等を終えた書類を片づけて、部屋を出ることにした。

 弁護士に比べると、高木はごく普通の私立大卒のしがない地方公務員で、ようやく捜査講習を終えたばかりだったが、刑事には刑事の仕事がある。

「そっち、終わったか?」

 ちょうど廊下に出たときに背後から声をかけられた。

 その声に振り向くと、先輩の刑事がひらひらと手を振っていた。

 そして相手は、右手の腕時計を示す――時間を見れば、午後一時少し前、だ。

「おまえもまだなら、昼めし、食いに行かないか?」

「あ、佐々木先輩もまだなんですか?」

「おう。めし食ったら、今朝緊逮した被疑者の令状請求だ。……しかしなあ、今頃んなってよくまあ戻ってきたよな。あの刀」

 佐々木がそんなことを言うので、高木は首を傾げた。

 刑事課の部屋を出た二人は、ならんで廊下を歩き出す。

 歩きながら、高木は佐々木に向けてみた。

「当時の事件……とか何とか。弁護士がいってましたけど。なにかあったんですか? 事件って、どんな事件だったんです?」

 佐々木は、あの刀について何か知っているような口ぶりだった。佐々木は少し重く頷き、教えてくれた。

「ああ……俺も当時ここにいたわけじゃないから噂と閲覧できる捜査資料に載ってることぐらいしか知らんが、確か強殺事件だよ。神社に強盗が入ってな。神主とその妻が殺されたんだ。それであの刀が、盗まれたんだよ。まあ、神社の御神刀なんてのちのち処分に困りそうなものをわざわざ盗みに入るってのも妙な話で、だから当時少し話題になったんだけどな」

「……確かに。神社の御神体を強盗っていうのは妙な話ですね。それで、品触れが出ていたわけですか」

「いちおう、国宝級の文化財だったらしいからな。もしかすると、その手のものを専門に狙う何者かに目を付けられたのかもしれないってことでも、捜査はされたようだ」

「そうだったんですか」

「でも結局、神社に押し入ったと思われる犯人が、数日後、神社の裏山で死体で発見されたらしい。大きな刀傷を負ってな。ところがその犯人が神社から持ち出したはずの刀だけがまた行方不明になったとか。死体で発見された犯人の身元も不明。……奇妙な事件だろ? さらに、そっからがかわいそうな話でな」

「――かわいそう?」

「……ああ。当時神社には、まだちっちゃい子供がいたそうなんだよ、二人。男の子と、女の子の兄妹が。確か、殺された神主夫婦と一緒に住んでた兄夫婦の子供、だったかな」

「それがどうしてかわいそうなんです」

 首を傾げて佐々木を見やると、佐々木は、それがな、と天井を仰ぐ。

 高木は、先輩刑事の次の言葉を待った。

「まだ、五歳か、六歳か……とにかく、当時そのくらいだったらしいんだが、子供はたちは殺人現場にな……。いたらしいんだよ。頭っから凄い血、浴びてな。死体の傍に」

「……」

 高木は息を呑んで瞠目した。

 それは、凄惨な事実を示している。

「それじゃあ……」

 佐々木は頷いた。

「子供達は、神主夫妻が殺害されるところをなあ、ずっと見てたらしいって話だ。当時事件に関わった捜査員から一度聞いた話だと、凶器は日本刀だし、被害者の直接の死因はどちらも頸動脈の一閃で、辺りは文字通り血の海だったらしい。子供の目で見なくとも、そりゃあ凄まじい現場だったろうな」

「そりゃひどい……」

 もしかすると、その子供が先刻弁護士が言っていた件の未成年の相続人だったのだろうか。

 神社の神主や宮司は、基本的には未だ世襲によるところが多いとは聞くが――一緒に住んでいたという兄夫婦ではなく?

 その子供が後継者だというのなら、現在十五、六歳といったところだろう。

「さっきの弁護士、後継者は未成年だって言ってましたけど……」

「そういや、弁護士が来てたな?」

「ええ。それがちょっと意外だったんで気になったんですよ。確かに、後見人……とかいってました。よくある宗教団体の代表者代理人とかいう雰囲気じゃあ、なかったみたいですしね」

 佐々木が肩を竦めて頭を振った。

「じゃあその子供が遺言で相続でもしたんじゃないか。ああいうところは、俗世間とは違う慣習とかがあったりするもんだからな」

「それで子供が『神主』ですか?」

「ま、後見ってことは未成年であることも勿論だが、その法定代理人にも何か事情があるってことだよな。まあ……そこまでいくと、いらん詮索になっちまう。なにせ事件自体、もう十年も前の話だし。おれにもわからんが、何か後見人が必要な理由があるんだろ」

「でも、……惨い事件だったんですね」

「ああ……。盗品もな。犯人が質にいれたか、特殊なルートで捌いたかと捜査したが、確かなことはわからなかったようなんだ。本庁では神社本庁からの要請もあって、外国の贓物故買組織まで洗ったんだそうだが」

「それが……十年後の今になって殺人事件の凶器として出てきたって訳ですか。また、殺人事件の凶器として」

 殺人事件で神社から失われたものが。

 佐々木は隣で頷いている。

「奇遇といえば奇遇ってやつだろうさ」

 階下の食堂へと、階段を下りる。

 そして二人の話題は、今朝の緊急逮捕の話、昨夜の宿直当番の話などに移って行った。

 先程までの、過去の事件の話を意識の片隅へと追いやりながら、高木も佐々木に相槌を打ち、新しい事件の捜査に取りかかる準備を始める。

 けれど――あの弁護士の無表情な微笑みが、ほんの少しだけ、高木の脳裏に蘇った。 

 どこかうっすらと冷たく、けれどどこまでも穏やかで、どそれでもって確かに人を撥ねつけているような、笑顔を。


      ☆


 常磐緑の夏。



「柚真人君――」

 呼びかけに対する、返事はない。

「戻ったか」

「はい」

 葉桜がさざめく。

 白の神衣と浅葱の袴に身を包んだ少年が、神殿の祭壇に太刀を捧げ、どこか満足げに呟いた。

 その身に纏う鮮やかな薄水色の袴は。

 通常の若い神職が身につける無紋の浅黄袴ではなく、うっすらと布地に織り込まれた紋様が見て取れる――この神社の主にのみに許されるものだ。

 一歩下がってその傍らには、夏仕様の薄荷緑のスーツを着た長身の青年が立つ。

「ようやくの、神剣『佐須良』の御帰還というわけだ」

「はい」

 それは、この社の御神体。

 十年前、まだ少年が幼かった頃、家の神社から失われた宝剣であった。それが今日、ここへ――還って来たのである。

 神主は、幣と榊を供えて柏手を打つ。

 ぱあん――という澄んだ音が、二度、神殿に響いた。

「これでいい。迷信であれ、伝承であれ、これは……生ける人の手にあるべきものではない。やはり必ずここに戻る運命なんだろう。――十年は、長かったが」

 少年は、そう言って目を伏せる。

 その表情は、世の総てを憂いているように見えながら、どこか愉悦を含んでもいた。

 齢わずか十六を数えるその少年の容貌は、端整、秀麗を通り越して凄まじく、凶悪なほどに美しい。

「この太刀は、『佐須良比売』の化身と云われるのでしたね」

「そうだ。皇一族の祖にして守、黄泉をさすらう女神の神霊。佐須良比売は、人の世のあらゆる罪と穢れを背負う女神、と云う」

 美貌の少年神主は、ややうっとりとするように、少年とも少女ともつかぬ不思議な、しかし朗たる透明な声で、紡ぐ。

 それは、祝詞とも独り言とも云うべき、まるで謳うような響きであった。

「ここは――死と穢れを祠る、佐須良比売の社ゆえ。比売の神霊はここに還る。これに触れることが赦されるのは、巫の他は屍のみ」

 真夏の暑気が、陽炎のように揺らめいた。

 蝉の聲。

 煩いほどの、蝉の聲。

「――優麻」

「はい」

 名を呼ばれて、青年は、返答した。

 お互いに、お互いの表情は見ない。

 少年の、真っ白い神衣が流れる透明な空気に翻る。

 それが眩しくて、青年は目を細めた。

 計って、丁寧に、慎重に創られた造型のように、何も彼もが完璧で美しい。

 流れ乱れる髪も。深い青に見える瞳も。その身を包む空気すらも。

 青年は、それにいつでも圧倒される――。

「我らの女神は死と罪を司る」

 その唇からこぼれる言葉は祝詞のように響いた。

「彼の女神は、俗世を徒にさすらう間に、いかなる死を、そして罪を、その身に背負ったんだろう?」

 社に奉納された刀身は、鈍い輝きを返すばかりで沈黙を守っている。

 これからも。これまでと同じように。

 すべてを見ていたはずの神の化身は、ただ黙してそこにあるだけで、何も語りはしない。

 十年前、その神刀が誰の血を浴びたのか。

 十年前、真実ここで、何が起こったのか。

 黄泉の女神を祭神とする、皇神社。

 その宮司家たる『皇』。

 そして一五〇〇年に渡り、宮司家を支えてきたとされる、巫の一族――『笄(こうがい)』・『暁(あかつき)』・『橘(たちばな)』・『陵(みささぎ)』。

 彼ら一族が封印した、重罪と惨劇。


 ――記憶が脳裏に甦る。

 あれは春。

 桜咲き乱れる春の、ことだった。それを憶う。

 以来、歳時は十の年を数えようとしている。

 水色の空、風渡るこの日、皇神社の祭壇に、十年――正確には九年と三月の歳月を経て永きに渡り失われていた御神体が還った。



 季節は夏。

 死者が黄泉より還る、夏。

 それは――葉桜緑が天空青に映える暑い暑い――夏の、はじまりの日だった。

 常磐緑の――夏。

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