虚像(2)
翌日も、その翌日も、決議を取るべき事柄は途切れることなく湧いてきて、役員たちは精力的に話し合いを繰り広げた。妥協せずに細部まで突き詰めて考える華村と佐々山に対し、ダイナミックな発想で大胆な着地点を見出す汐見。彼らの論争はときに膠着状態に陥ることもあったけれど、そんな場合はデウス・エクス・マキナのごとく場に舞い降りた諫早が妥協点を提示し、だいたいはそれで合意に達した。
ちなみに僕はまったく口出しをしていない。律儀にかりかりかりとノートを取っているだけだ。生徒会に新たな血を、などと口説き落とされておいてこの体たらく。咎める者の不在をいいことに、僕は沈黙を決め込んでひたすら職務に励んでいた。
会議が途切れてデスクワークの日もあった。コピー紙に出力された収支表の数字をチェックして、計算ミスや故意のごまかしがないかを調べる。紙面を睨んで電卓を叩いていると、あるときもやもやと頭にわだかまっていた言葉が口をついて出た。
「三ヵ月前……」
「何? どうしたの賀茂くん」と隣の佐々山が訊いてくる。
「僕が来る前からここの仕事は四人で回してたんだよね。その前は五人だったってことになるけど、でも三ヵ月前って六月だよ。辞めるにしては中途半端な時期だなあって」
「あー、そのことね」
佐々山はペンを机に置いてささやくように言った。
「……賀茂くんの前は溝呂くんって人が書記をやってたんだけど、六月半ばに階段の踊り場で血だらけになって見つかったの。全身に打撲とか切り傷があって」
「そんなことを誰が……」
「それはわかってないの。本人はショックで記憶が飛んでて誰にやられたのかも覚えてないし、怪我が治ったらさっさと転校しちゃったから。でも、怪我の様子だと複数人に暴行されたんじゃないかって言われてる」
「この学校にはいろいろとヤバい陰謀や姦計が渦巻いてるんだぜ」
そう口を挟んだのは汐見だった。太い腕を組んで続ける。
「政治家とか社長とかの子息令嬢、あるいはヤクザの次期頭領。バックについてる組織が組織だから対立することもままある。溝呂の親だって旧家の大地主だった」
「恐ろしい世界だなあ」
世の中には社会の闇に翻弄される高校生もいるんだな、と闇にはほど遠い立場で考える。
「今日はマネージャーと新曲の打ち合わせがあるから、お先にー」
佐々山は手を振って生徒会室を出ていった。そうだ、彼女は芸能人なのだった。
「そういえば、佐々山さんのCDとかってどこで売ってるんですか?」
「インディーズだから一部の店でしか売ってないらしい。俺も何枚か持ってるぞ。『SAYA』のアルバム」と汐見。
ちょっと興味が湧いてきた。あの鈴を転がすような澄んだ声で彼女はどんな歌を歌うのだろうか。
「でも、汐見くんも柔道のオリンピック強化選手だったよね。練習しなくていいの?」
「俺は家に帰って毎日トレーニングしてるぜ。専用の道場があるからな」
生徒会でハードな仕事をこなしていているのに、帰宅してからも特訓するなんて大変じゃないかと思う。もしかすると、このふたつを両立させる器量こそがプロたりうる理由なのかもしれない。
僕は作業がひと段落ついたらしく缶コーヒーを飲んでいる華村に話しかけた。
「華村さんは受験生ですよね。生徒会の仕事にこれだけ時間を取られて大丈夫なんですか?」
「わたしなら大丈夫。受験勉強も並行してきちんとやってるから。でも最近はずっと日本にいるから英語が鈍ってきちゃって。英会話のレッスンも受けるべきかもね」
彼女はマサチューセッツやらカリフォルニアやら、とにかく海外の有名大学に進学するのだった。この島国から一歩も足を踏み出したことのない身には火星より遠く感じられる。
「ところで、諫早さんは……」と会長に目を向けたが、手元に集中して気づいていないようだ。
うふふ、と華村は口に手を当てて笑う。
「会長はこの話題が苦手だからいつも気づかないふりをするんだよね。……諫早蒼一くんはね、ハーバードを目指してるの。ほとんど合格確実」
一番とんでもないのは、そんなとんでもない事実を知らされても「へえ……」としか発せないほど麻痺してしまうこの面子の華々しいプロフィールだ。彼らはみんな輝いて見えた。満ちあふれる自信がエネルギーとなって外に放出されているのだ。
自分という存在の矮小さをこれほど自覚したことはなかった。僕の十七年の人生でひいひい言いながら築いてきた山は、彼らの大山に転がっている石ころに満たないのかもしれない。
転校に続く転校で、せっかく作った人間関係を投げ出すのにすっかり慣れてしまっていた。そのついでに何か大切なものもぽろぽろと落としてきたんじゃないか? 後ろを振り向けば歩いてきた道筋に点々ときらめく宝物が見えたんじゃないか?
山は削れて小さくなっていく。
僕はますます無価値でちっぽけなものになっていく。
あるいは、そんな劣等感にくよくよ悩むこと自体が下らない人間のとる行動だろうか?
帰り際、他のメンバーが部屋を出て、諫早と二人きりになったときに切り出した。
「あの、僕はここにいていいんでしょうか」
「どういうことだい?」
「生徒会に僕が必要なのかって話です。会議ではまったく意見を出さないし、仕事だって誰でもできることばかりじゃないですか。他に適任がいたはずです。だって僕は、普通ですから」
普通と呼ぶことすらおこがましい、吹けば飛ぶような塵芥だ。
諫早は僕に近づくと肩に手を載せ、耳元でささやいた。
「だからこそ、君はこの組織に必要なんだ。絶対に」
「え……」
拍子抜けして彼の顔を見て、それが単なる優しさや同情から発せられたものではないと気づく。会長は何やら差し迫った状況にいて、本気で僕を必要としているのだ。
「だから頼む。君は普通の君のままここに居てくれ。もし僕がいなくなってしまったら、君がすべての終わりを見届けてほしい」
「すべての終わりって……どういう意味ですか」
諫早は問いに答えることなく、僕の肩をついと押して生徒会室の外に追い出した。
「明日はいよいよ各部署の視察だ。今夜はゆっくり休んで明日に備えてくれ」
腑に落ちない思いをもてあましながら僕は帰途につく。
いつも通り音楽プレイヤーのイヤホンを耳に差し込む。ランダム再生で流れてきたのはマイケル・ジャクソンの『Man In The Mirror』だ。
鏡の中の男に呼びかける男。
おまえの生き方を改めよう。世の中を良くしたいなら、まず自分を変えなきゃ。
僕が鏡を覗いてみれば、そこにはきっと怯えた目をした男がいる。世の中のことなんてどうでもいいし自分さえ幸福だったらいいんだ、とちっとも幸せでない顔で言うのだ。
諫早の言葉は間違っていて、僕は変わるべきなのかもしれない。
それとも世界の方を変えるべきなのか?
明後日より開催される学園祭に向け、もう陽が暮れて暗くなっているのに生徒が学校中を忙しく駆けまわっていた。校舎の飾りつけと各クラスの出し物の準備。部活動や有志によるイベントの仕込み。廊下には持ち主不明のガムテープが転がりダンボールが放置され、歩いていると色とりどりのリボンが足に絡まる。落ちていたパンフレットにはポップな星と惑星が描かれ、『スターリーヘヴン』ときらびやかな飾り文字が踊っていた。
「次は二年三組」
華村がクリップボードを確認して告げる。諫早を先頭にして僕たちは教室に踏み込んだ。
僕のクラスでもある三組では、出し物としてお化け屋敷を企画していた。骸骨の模型や人形、ゾンビの被り物などにたっぷり血糊をぶちまけて、和洋折衷のおどろおどろしい雰囲気づくりに力を入れているようだ。
クラスメイトたちは窓に暗幕を張る作業やダンボールの通路を作る作業にいそしんでいたが、僕たちが足を踏み込んだ途端いっせいに振り向いた。
諫早はちょっと片手を上げて左右に振った。
「忙しいところ申し訳ない。ちょっと視察させてもらうよ」
僕たちは視察すべき項目の並んだ紙にチェックを入れつつ、教室を歩き回った。
子供やお年寄りにとって危険な設備はないか。消防法に違反していないか。学園のモラルを問われるような非倫理的・猥褻な文言はないか――
クリップボードの書類を仕上げた僕に、硬い表情で話しかけてきたのはいつぞやの坊主頭だった。
「なあ、おまえは大丈夫なのか? 生徒会に入ってさ」
「大変なこともあるけど僕は平気だよ」
そっか、と歯を見せて彼は笑った。「良かったな。その調子でやれよ」
「うん、そうする」
坊主頭の励ましに力を得たあとも順々に教室を回っていき、さらには実験室や講義室、体育館までくまなくチェックしていたら体力は底をついてしまった。しかし他の四人は疲れた顔も見せず、汐見に至ってはますます元気になったようだ。
階段を上って四階にたどり着くと、僕は膝に手をついてぜいぜいと荒い息をする。
背中を叩いたのは汐見だった。
「おい賀茂。こんくらいで音を上げちゃ明日まで持たんぞ」
そうだ。本番は今日ではないのだ。ここで倒れては元も子もない。
ぞろぞろと生徒会室に入ると、先頭の諫早が「何だ?」と声を上げた。
会長のデスクの上には、視察の前にはなかったものが置かれている。
「ひっ」と佐々山が息を呑んだ。
それは、綿入りのフェルトを繋ぎ合わせて作った粗末な人形。
青いワンピースを着た金髪の少女を模しているのだろう。僕は「アリス」を連想した。「不思議の国」ではなく「鏡の国」の方の。マジックペンで描かれた目鼻は不安を掻き立てるアンバランスさで、おまけに身体は赤い塗料でまだらに染められている。
人形の下には一枚の便箋があって、華村がその文面を読み上げる。
「……生徒会諸君へ。大罪を犯した君たちに生徒会を名乗る資格はない。罪を認めて直ちに解散するつもりであればここを去り、二度と足を踏み入れるな。異議を申し立てるつもりであれば、明日の午前九時ここに集合せよ。一人も欠けてはならない。我々には君たちを破滅させる力があるのを忘れるな。……監査委員会より」
「監査委員会って何ですか?」
僕の質問に答えたのは華村だった。
「ずっと昔、部活動や学園祭の予算にまつわる不正を調査するため、有志によって編成された委員会よ。なかなか過激な活動もしていたみたい。使い込みの犯人に私刑を加えていたのが問題視されて、廃止に追い込まれたはずだけど……」
汐見は納得いかないらしく顎を撫でている。
「そいつらがまだ存在してたってわけか。しかし、俺たちの罪って何ですかね」
重苦しい沈黙が下りる。誰も汐見の疑問には答えようとしない。
「ええと、会長。どうします?」と困惑したような佐々山。
「佐々山、君は彼らの言う『罪』に覚えがあるかい?」
「そんなの、あるわけないですよ」
「華村と汐見は?」
二人ともかぶりを振った。
諫早は軽く溜息をつくと、ぬいぐるみを取り上げてしげしげと観察した。
「単なる悪戯にしては手が込んでいる。それに、明日の九時どうせ僕たちはここにいるんだ。罪に覚えがないのなら無実を証明すべきだろう」
緊張にこわばった顔を互いにつき合わせて、五人はばらばらに頷いた。
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