第6話

 ユミは頭脳明晰めいせきだから、下手なごまかしは通用せず、逆効果のはずだ。なるようにしかならない。まさにまな板の上の鯉の気分で、和也は七階の自宅に戻る。結果的にクローゼットに無理やり閉じ込められて、痴話喧嘩を聞かされたようなものだし、智美に貧乳彼女呼ばわりもされていた。当然、ユミの気分は良くなかっただろう。


「ただいま……」がっくりと肩を落とした和也が帰宅する。

 やはり。普段なら、『和也さん、お帰りなさい!』と、明るく挨拶をするユミが迎えてくれなくて寂しい。さて、ユミはどこにいるのだろう。やはり寝室だろうか、と和也は見当をつけてドアを開ける。ユミはパジャマ姿でベッドの上に体育座りをしていた。

「ユミちゃん、ただいま」

 和也が挨拶すると、

「和クーン、お帰りなさーい」ユミが頬をぷっと膨らませながらも、ようやくお帰りの挨拶をしてくれた。しかも、ユミは智美の口調を真似ている。ユミが相当ご立腹なのは間違いない。これはまずい。家庭環境の悪化は避けなければ。謝るの一手だ。


「ユミちゃん、ごめんなさい」和也は即座に謝った。

「そんなに怒ってないから、謝らなくていいよ。しっかし、すごい人だったね。あははは」謝罪の効果があったのか、ユミがようやく表情を和らげて陽気に笑う。和也もユミの怒りが治まった、と考えてユミのそばに行き隣に腰掛けた。


 ところがユミは強く怒気を込めて、「和クンは、寝っ転がるのー」と智美の真似をしつつ、和也をベッドに仰向けに押し倒した。

「ごめん……」和也は再びユミに謝る。

「もう謝らなくていいから」ユミはそう言って、覆いかぶさるように、和也の胸に抱きついてきた。甘えん坊のユミらしさが戻ってきたので、和也は優しくユミの背中を撫でる。


 甘えモードになったユミだが、不機嫌さは変わりなかったようだ。

「さて、今回は各論五本から参ります」きりりとした表情でユミが言った。本題だけじゃなくて各論もあるのか、と和也は苦笑してしまった。だが各論だけで五点も不満があったのか、と和也は頭を抱えてしまう。


「はい」和也は神妙に答えた。

「まず異論のなさそうなものから。明日と明後日の夕食の食材予算として、約九八八円ほしいです」

 食材の相場に和也は詳しくないが、夕食一食で五〇〇円を切るのは、かなり工夫しての数字だと考えた。ただ、九八八円と細かい数字なのに、『約』というのが分からない。

「『約』って?」和也は尋ねた。

「あ、洗剤も少なくなっているので、合わせれば約一二九九円です。『約』というのは、昨日お店で見た値段で算出しました」


 ユミは昨日一緒に買物しに行ったスーパーで、火曜日と水曜日の夕食用の食材の値段もチェックして、計算していたということか。ユミの凄まじい能力に、改めて和也は驚愕きょうがくしてしまう。和也はしっかり者のユミを信頼しているので、面倒なことをしなくても構わない、と思った。


「だったら、一万円渡すから、ユミちゃんに任せるよ」

「五千円で充分な気もするけど、無駄遣いしないように工夫するね」ユミはにこにこと微笑んでいる。

「よろしく」


「次はイエス・ノーなので、これまた異論はないと思います。和也さんはショートの髪型は好きですか?」ユミは再び真剣な表情で訊ねる。特に和也に髪型のこだわりはない。だが、突然髪型の話をユミがする意味が、和也にはまったく分からない。

「似合っていればアリじゃないかな」和也は答えた。


「三本目もイエス・ノーですが、ナーバスな問題かもしれません」

 ナーバスな問題ってなんだろう。和也は「どういうこと?」と訊いた。

「和也さんは、あの人と復縁する気がありますか?」

 数ヶ月前ならまだしも、先ほどの智美の態度から、和也はすっかり智美に愛想を尽かしている。


「まったくないな」と答えた。

「さっき和也さんが、あの人と復縁を否定してなかったから……ちょっと安心」ユミは静かに笑みを浮かべながら言う。


「次は厄介な案件かもしれません。和也さんはあの人と『和クン、トモ』と親しげに呼び合っていて、私はたいへんうらやましく、くやしく思いました。なので『和也さん、ユミちゃん』から呼び方を変えたいです」ユミが険しい顔で言いだした。

「呼び方か……」と和也は考え込む。

「和也さーん。和クーン。どっちがいい?」

 ユミに呼ばれたら『和也さん』のほうがしっくりくるような気がした。


「和也さん、かな」と和也は答える。

「じゃあ、和也さん。私のことを呼んでみてよ」

「ユミちゃん。ユミ。こうかい?」

「どっちも捨てがたくはあるけど、『ユミ』のほうがいいな」少しの間悩んでユミが答える。

「ユミ、これからこう呼ぶよ、いいね?」

 和也がユミを呼び捨てで呼んだら、「はーい!」とユミの明るい返事があった。


「各論の最後も難題かもしれません。和也さんは、私のことは『彼女』ではないと話していましたが、私は和也さんのどのような関係ですか?」

 智美との会話で、そういった話になったな。ユミに言われて和也は思い出した。ユミとはセックスはしていないものの、性的な関係は既にある。『彼女』と言いきれないのは、『ユミが霊』という一点だけ。同棲相手というのも、漠然とした感じで違うような気がする。和也は深く考え込んだ。


 ユミが霊でなければ良妻ぶりを見せつけていて、和也も心の中で『新妻』だと思っている面もある。さらに深く考え込んだ末に、

「彼女以上」と和也は答えた。


「彼女以上って?」ユミは怪訝けげんそうにいてきた。

「そうだな。普通の人間だったら、結婚して一緒に住みたいくらい好きだ」

 和也の答えにユミはとても満足したようだ。

 ユミは和也を強く抱き締め直して、

「わーい! ありがとう。気持ちだけでも嬉しい!」と満面の笑顔でキスをしてきた。


「じゃあ本題ね。暗いクローゼットの中ですごく寂しかったので、たくさんたくさん可愛がってね」

 一気に上機嫌になったせいか、本題を一番砕けた調子でユミが話すので、笑えてしまう。

「もちろん!」和也も明るく答える。


「ちょっと待ってて」ユミは寝室のメイン照明を消すと、すぐに戻ってきた。そして和也と一緒に布団にくるまった。和也がユミを抱き寄せる。

「私のことを貧乳じゃない、って言ってくれたから、『たくさんたくさん』じゃなくて、『たくさん』でいいよ。あ、でも……たくさんたくさんたくさんがいい!」ユミがそっと耳元でささやいた。

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