第7話

 両手首、両足首。計四か所。

 ぐるりと輪を描くように刻まれた青黒い痕。

 腕やふくらはぎには細長い引っ掻き傷。

 少女は最近いつも長袖のシャツを着て、裾を踏んでしまいそうな丈のジーンズを履いている。母親につけられた傷を隠すために。

 七月上旬。

 今年の梅雨はだらだらと長引いて、連日重たい雲が街を押し込めていた。ただでさえ日当たりの悪いこのマンションには、朝も昼も灰色の光がほんの少ししか差し込まない。微かな光は部屋の中の影をより一層濃くするだけで、何の恵みにもならなかった。しっとりと濡れた空気は滞って上手く循環せず、部屋はいつも澱んでいた。

 根が腐って萎れていく花のように、マヤの状態は悪くなっていった。頬の肉が削ぎとられるように落ちていく。腹部を殴られるせいで気持ち悪くなってしまい、食事が喉を通らない。

 それでもマヤはいつも大丈夫だと言った。

 慣れちゃえば、殴られてもそんなに痛くないの。痛いことは痛いけど感覚が鈍くて現実味がない。自分のことじゃないように思える。まるで。

 まるで夢を見ているみたい。

 少女の話には聞き覚えがあった。

 聞き覚えというより、身に覚えがあった。

 幼少の頃、俺もまたその感覚に囚われていたからだ。

 両親に殴られる内、意識がぼんやりとすることが多くなった。確かに自分の身に起きていることなのに、どこか他人事のような気がして、ひたすらどうでもいいと思う。

 しだいにその感覚は様々な場所で発現するようになる。学校にいる時や友達と遊んでいる時。何の前触れもなく意識が急にぼやけて、話がよく聞こえなくなったり、指先の感覚が鈍くなったりした。

 俺はこの感覚を不自然だと思い、自分なりに調べてみた。答えはすぐに見つかった。

 離人症――。

 見ているものに現実感がない。体から意識が抜け出ているような気がする。自分が自分でないように感じる。

 このような感覚を離人感と呼ぶ。マヤが話した感覚もこれに該当するように思えた。離人症の原因は人によって様々だが、マヤの場合は明らかに母親の暴力だ。

 少女は自分の肉体と意識を切り離すことで、本能的に自分を守ろうとしている。繰り返される耐え難い苦痛から、少しでも目を背けようと。

 耐え難い苦痛?

 いや、ちがう。

 それはちがう。ちがうはずだ。

 当然のように頭に浮かんだ言葉に強い違和感を覚える。

 そんなはずはない。

 だってあの子が、マヤ本人が苦痛ではないと言っている。

『嘘だ』

 低い声が頭の中に響いた。

『君がそんな理由でこの仕打ちを受け入れるわけないだろ』

 ああ、俺がマヤに言ったことだ。

 あの日から、三日経った。

 俺はあの時マヤに言ったことを後悔していた。

 嘘だとわかったことを嘘だと言ってしまった。嘘だとわかっていてもそれに付き合ってあげなくちゃいけなかったのに。

 本当のことを言ったって、どうにもならない。

 俺はどうにもならないことを言って少女を困らせた。

 その罪悪感のせいか、あれから自分の言葉がずっと頭の中で鳴り響いている。これは警鐘だ。非常ベルのように危機感を煽る波長で人の心を急かす。

 早くしなくてはいけない。

 早くしないと、間に合わなくなる。

 だから早く、早くしなくちゃ。

 でも、早く、何をすればいいのかわからない。

『嘘だ』

 ゴウンと声が響く。

 瞬間的にこめかみが引き攣るように痛んだ。

 考えなくてはいけない。

 とにかく考えて、答えを探そう。

 俺は、何をすればいい。

 母親に一切自分の意思を認められない少女のために、俺だけは彼女の意思を尊重しようと決めた。

 彼女が望むことに応え、彼女が望まないことはしない。

 それが俺のすべきことだと思った。隣人として彼女にしてあげられる唯一のことだと。マヤもそれを望んでいると思っていた。いや、彼女は今も変わらずそれを望んでいる。

 だったら俺は、今のままでいればいいのか。

 今のまま、マヤに頼まれたことにだけ応えていればいい。彼女が必要ないと言うことには触れないでいればいい。見て見ぬふりを続けるんだ。そうすれば。

 そうすれば、どうなる?

 あの子は今手にしている小さな幸福を失わずにすむ。

 ちがう。駄目だ。

 母親が再婚したら、娘の名字も変わる。再婚相手の家がどこにあるのかにもよるが、そこへ引っ越すのなら転校する可能性だって出てくる。

 俺が行動しなくても、どのみち今のままではいられなくなるじゃないか。

 ならば何故、マヤは今のままでいいなんて言うのか。

 ずっと〝今のままでいい〟理由を必死に考えている。あの日から一秒の隙もなく、ずっと。でも、納得できる理由が見つからない。

 ちゃんとした理由がないと駄目だ。

 理由がないと、俺はもう今のままじゃいられなくなる。

 俺はもうあの子を今のままにしておけなくなってしまう。

 だから理由を考えなくちゃいけない。

 灰色の部屋の中。

 昨日はバイトを休んだ。今日はとうとう大学にも行かなかった。朝からずっと膝を抱えて蹲っている。空の色が変わらないから、どのくらい時間が経ったのかわからない。そういえば食事をしていないなと気づく。

 何も食べないから頭が働かないのかと思い、台所の棚を探った。ついでに時刻を確認すると、もう午後二時を過ぎていた。湿気た食パンを焼いて義務的に食べながら、早く答えを出さなくてはと思う。

 今隣の部屋で眠っているマヤの母親は、そろそろ起きる頃だろう。しばらく経つと娘が学校から帰ってくる。母親は娘を殴り、きちんと縛って出勤する。娘は隣人を呼び、隣人はベランダを移動して娘の部屋に行く。

 その時までに、答えをださなくては。

 俺が違和感や疑問を抱えていることを、少女は敏感に察知する。そんな状態の俺と居ても息苦しいだけだ。

 三日の間に思考は何度も同じところを廻った。様々な理由をとってつけて自分を納得させようとしたが、それじゃ駄目だという声がやまない。

 マヤが今のままでいいと言った。

 理由なんてそれだけでいいはずだった。

 望まないことはしないと決めたのだから、それ以上考える必要もない。

 だけど、少女の痩せた頬を見る時。

 俺は今の状況に強く疑問を抱いた。

 細い手首を締め上げる紐を切る時。

 こんな生活を日常と呼ぶことはどうしてもできないと思った。

 蒼白い顔で少女が微かに笑う時。

 本当に今のままでいいのかと、再び問いただしそうになった。

 マヤと接する間のありとあらゆることが警鐘の音に変わった。俺が彼女に向けた言葉は全部自分自身に返ってきた。低く無機質な声が俺を問いつめる。

『このままでいい、どうしても』

 合間にマヤの声が混ざる。

 このままでいい。

 もう、これ以上考えるな。あらゆる場面で湧き上がる違和感には、きっとその内慣れる。今のまま、慣れるまで待つだけだ。

 俺はこのままでいればいい。

 突然、けたたましい非常ベルの音が頭の中で鳴り出した。

 息が止まりそうなほど頭が痛い。

 このままでいい。

 このままでいいはずなのに、なんで。

 音は頭から首をつたい、指先まで響いていく。体全体がびりびりと痺れるように痛い。

 今のままでいい。このまま、今のまま、ずっと。

 灰色に静止した部屋で、俺の中にだけわれそうな音が響いていた。この音はなんだ。

『いいの』

 音はしだいに行き場を失くし、出口を求めて流れていく。

 喉が引き裂かれるように熱い。

『今のままでいいの』

 ああ、口が開いてしまう。

「今のままじゃ、駄目だ」

 水が溢れだすように、声がこぼれた。

 同時に、あれだけうるさかった音がぴたりとやんだ。部屋は変わらずに静かだった。

 声を吐き出してようやく息ができるようになった。まるでついさっきまで溺れていたみたいに咳き込む。暗い部屋で一人、ぜいぜいと呼吸している自分はとても情けなかった。急速に冷静さを取り戻す。呼吸もしだいに落ち着いた。

 このままではいけない。

 それが、唯一の答えだ。

 本当はずっと、わかっていた。

 わかっていることに気づかないふりをしていただけだ。

 いくら考えたって納得のいく理由なんて見つからない。そんなものはじめからなかった。

 俺は、間違っていたんだ。

 最初からずっと、間違っていた。

 周りから見て間違っていてもマヤにとって正しいならそれでいいなんて言い訳だ。マヤにとっても俺の行動は正しくなかった。正しいように錯覚していられたのは、それを認めていたマヤの意思もまた間違っていたからだ。

 子どもだからといってその意思を軽んじてはいけない。

 だが、子どもの意思がすべて正しいとは限らない。子どもの意思で決めたことが、子ども自身に不利益をもたらすことがある。そういう危険を未然に防ぎ、間違った意思を間違っていると気づかせることが大人の役目だ。

 俺は、その役目を完全に放棄していた。

 自分がかつて同じように思っていたというそれだけの理由で、少女の意思が正しいかどうか考えることさえしなかった。

 俺はマヤの意思を受け入れることで、自分の過去を正当化しようとしていただけだ。自分は助けられる必要なんてなかった、かわいそうなんかじゃなかった、親に殴られて育ったなんて取るに足らない些細なことだと言い聞かせて。

 そんなくだらないエゴに振り回されて、少女は傷だらけになってしまった。

 ご近所付き合い。隣人としてすべきこと。

 そんな言葉をずっと大義名分にして、実際に俺がしてきたことはなんだ。俺は隣人として一番先にしなくてはいけないことをしていないじゃないか。

 隣人として、俺がしなくてはいけないこと。

 俺はふらつきながら体を動かして、ベッドの下にある収納ケースを引っ張り出した。

『ねえ、ベッドの下には何があるの?』

『子どもは見ちゃいけないもの』

 いつか、助けを求められたら使おうと思っていた物だ。

 近隣の児童相談所の住所を書きとめたメモ。

 ここ三か月、隣から聞こえてきた騒音を録ったICレコーダー。

 児童虐待に関する書籍が五冊。

 いつか使うつもりで用意したのが間違いだった。使うべきいつかは用意した時点で訪れていたというのに。

 気づくのも行動するのも、何もかもが遅い。

 取り返しのつかない時間の重さに頭を潰されそうだった。悔やんでも嘆いても、もうどうにもならない。どうにもならないんだ。

 救済というには遅すぎる。

 贖罪なんて言葉で自分を慰める資格もない。

 児童相談所の位置を地図で確認して、玄関に直行する。靴がちゃんと履ける前に無理やり扉を開けて、外に転がり出た。エレベーターが動く時間ももどかしい。一階に着いた。

 携帯電話とICレコーダーを落とさないようしっかりとポケットの中に突っ込んで、マンションを飛び出した。

 小雨がちらつく中、俺は走った。

 速く、速く。少しでも速く。

 過ぎ去った時間は取り戻せない。でも。だからこそ。

 速く、速く走れ。

 江藤マヤ。

 俺は、彼女の唯一の隣人だ。

 唯一の隣人として唯一すべきことをするために、走れ。

 俺は、彼女を助ける。

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