第5話
それから一週間経った。
マヤは昼間この部屋に来なかった。物音と話し声から、また母親が帰ってきたのだとわかる。日が暮れた頃、急に隣の部屋が騒がしくなった。いつもみたいにドタバタと音がする。
ここ最近、マヤは母親との接触を上手く回避できていない。母親が不規則に帰ってくるからだ。
幼い少女は彼女なりに、母親との接触を避けようと努力してきた。平日は学校に遅くまで残り、土日はなるべく外へ遊びに出かける。彼女は友達に恵まれ、遊び相手にも困らなかった。
しかし一昨年の春、状況が変わった。
マヤの友人の内、何人かが中学受験のため学習塾に通うようになったのだ。塾がない日にピアノ教室に通う子もいる。少女たちが学校外で遊ぶ頻度は急に少なくなった。もっとも小学生なんて大部分の時間を学校で過ごすのだから、彼女たちがそれによって疎遠になることはなかった。ただ、マヤは休日に外出する口実を失ってしまった。
すると、マヤの体調にも異変が生じた。いわく『とても疲れやすくなっちゃった』らしい。
土日は家事をするだけでくたびれて、外に出たくない。うちでゆっくり本を読んでいたい。だけど、土日にずっとうちにいると、母がふらりと帰ってくることがある。稀に、知らない男の人をつれて。そういう時に私が部屋にいると、碌なことがおこらない。だから部屋にもいたくない。どこか近くに隠れられる場所があればいいのに。
そこでマヤが思いついたのが、隣のベランダに身をひそめるという方法だった。俺が越してくる前、この部屋はしばらく空き部屋だったようで、物音がしないことからマヤもそれを知っていた。
彼女は文庫本を片手にベランダの欄干をつたい、日が暮れるまでそこで本を読んだ。マヤは真冬にもこの習慣を続けた。凍える手で本のページをめくり、水筒に入れた温かいお茶で暖をとった。市民図書館に通う方がよほど体力を使わないのではないかと思うが、マヤはそれで満足していた。ただ、さすがに雨や雪の日には諦めて部屋に居たらしい。
そんな日々が一年も続いた頃。
彼女は隣に誰かが越してきたことを知る。住人がいる以上、ベランダに忍び込めば簡単にバレる。バレればとても面倒なことになる。マヤの習慣は中止せざるを得ない状況になった。
それでも彼女は、休日のささやかな安息をなんとかして保ちたかった。マヤは無意識に安全な居場所を確保しようと必死だった。
あの日、マヤは俺の右隣の部屋、彼女からすると隣の隣の部屋のベランダを目指していた。隣が駄目ならさらにその隣へという子どもらしい単純な思いつきだ。
その道のりの途中で、俺と鉢合わせしてしまった。
あっけなく見つかってしまったものの、結果としてマヤは休日の安息を確保できている。むしろ部屋の中に居られることで天候や気温の影響を受けず、安息の度合いは大きくなっているだろう。
実際に彼女はこの部屋にいる間、とても居心地よさそうにしている。ちょこんと座って、気づけばうとうととしていることも多い。
隣の部屋から扉の閉まる大きな音がした。ようやく母親が出ていったようだ。
それから五分ほど経った時、チャイムが鳴った。
客が誰かはわかりきっているので焦らずに玄関へ向かい、扉を開けた。
「こんばんは」
マヤがタッパ―を持って立っていた。
「お裾分けです。今日作ったのは私じゃなくて、母ですが」
タッパ―の中身は確認するまでもなくわかった。その中身と思しきものが、マヤの髪や服にべったりと付着していたからだ。ついでに香辛料の匂いがその存在を主張している。
「カレーです。ご飯がなかったら持ってきます」
今の江藤マヤは、カレーライスを頭から浴びた人にしか見えなかった。ある程度落としてきたようだが、髪は黄色い液体でぬるぬるしているし、よりにもよって白いティーシャツを着ているから、まるで地図でも描いたようにシミが広がっている。
「いや、大丈夫。ご飯は冷凍してあるから。ありがとう」
俺はタッパ―を受け取った。
「お邪魔してもよいですか」
マヤはうつむいて、小さな声で言った。
「いいよ。風呂もうちで入っちゃいな」
「だけど……きっとお風呂場が汚れちゃう」
眉間にしわがよっている。マヤは子どもなのに甘えるのが上手くない。いつもこうして申し訳なさそうにしている。
「風呂は体の汚れを落とすための場所だから、問題ないよ」
これは少女に対する同情じゃない。俺は、ただ彼女が望むことに応えようと思うだけだ。大それた理由なんかない。困ったときはお互い様。ご近所付き合い。
「お風呂掃除させてください」
マヤは急に笑って言った。普段あまり表情が変化しないだけに、その笑顔はとても印象に残る。
「お風呂使わせてもらった後に、お風呂掃除します」
それが彼女なりの妥協点らしい。
「わかった。それは俺もありがたいし、お願いしよう」
「うん!」
マヤは大きく頷いて、部屋に戻っていった。
程なく隣の部屋の窓が開く音がして、ベランダが騒がしくなる。程なくマヤはうちのベランダに降り立った。右手に小さなナイロン袋をぶらさげている。中には着替えが入っているのだろう。
マヤが一旦自分の部屋に戻り、ベランダをつたって俺の部屋に来る。この一連の行為にどんな意味があるのかは正直よくわからない。
部屋に入る時はベランダから。
特に決めたわけではないが、それが暗黙のルールになっていた。
「こんばんは、お邪魔します」
少女は靴を脱ぎながら二度目の挨拶をした。
俺は台所で冷凍したご飯を電子レンジに入れていた。
「そのカレー、変な味がするの」
とことことマヤが台所に歩いてくる。
「変な味?」
促されるようにタッパ―の蓋を開ける。
「匂いは普通のカレーだけど」
見た目も普通だ。特におかしなところはない。
「味が変なの。まずいっていうより、変」
それはまずいということではないのかと思う。
ご飯が温まるのを待つ間に、マヤが使うタオルを用意するため洗面所に向かう。マヤは俺の後をついてきた。
「もし食べられないようだったら、捨ててください」
マヤは持参した袋から替えの服を取り出しながら言った。
「遅くなっちゃうけど、他に何か作ってくることも」
「いいから、お風呂入っちゃいな」
言葉を遮って、洗面所から出る。
彼女が何か言おうとした時、電子レンジが鳴った。マヤはゆっくりと洗面所の戸を閉めた。背を向けてしまったからわからないが、きっとまた眉間にしわをよせているのだろう。
子どもがあれこれと気をもんでいる姿を見るのは好きじゃない。だからマヤがそういう態度をとる時は、先手をとって話を終わらせてしまう。
マヤの母親が作ったカレーは、確かに変な味がした。色んな味がバラバラになっている。お世辞にもおいしいとは言えなかったが、食べられないことはないので黙々と食べた。
マヤはカレーを頭から浴びていたが、やけどしている様子はなかった。きちんと冷めてからかけられたのか。そういうところは本当に徹底している。こんなに変な味のカレーを作るのに、暴力に関しては計画的だ。
洗面所の扉が開く音が聞こえた。
「お風呂、ありがとうございました」
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、マヤが洗面所から出てきた。
「風呂掃除、大変だったでしょ」
「全然。排水溝以外はそんなに汚れてなかった」
「そう。おつかれさま」
マヤは本棚の前に立った。
「ドライヤー借りても」
「どうぞ」
儀礼的な会話だ。今まで何度同じ許可を出したかわからない。
本棚に置かれたドライヤーを取って、マヤはベッドの横に座った。スイッチを入れたドライヤーからごうごうと風が吹き出してくる。少女の濡れた髪はぶわりと舞い上がった。俺は食器を洗うことにした。
そういえば土曜日のこの時間にマヤがうちにいるのは初めてだ。いつもなら遅くとも午後六時には自分の部屋に戻る。今はもう八時になろうというところだ。
髪を乾かし終ると、マヤはいつもの位置に座った。すぐに帰るわけではないらしい。
「カレー、全部食べたんですね」
「食べたよ。確かに変な味だった」
「突然、今日は私がご飯作るねって言いだしたの」
変な味のカレーが出来上がった経緯についてマヤは話し始めた。
母親が急に夕食を作る気になった理由は全くわからないらしい。
「最近変なの。あの人」
ひととおり話し終えると、マヤは言った。
「最近も何も根本的に変だよ」
「そういうことじゃないの! いつもと様子が違うんです」
マヤは少しむっとした。
「妙ににこにこ笑ってばかりだし、ケーキを買ってきたり、今日だって……」
マヤの話によると、母親は今日娘にカレーを作ってあげるために帰ってきたらしい。マヤのためにという理由で母親が行動するのは確かに珍しい。
ふいに静かになったのでマヤを見た。眠たそうに目をこすっている。随分疲れているようだ。眠ってしまったら、きっと朝まで起きない。
このままうちで寝かせてあげようか。
隣近所の子どもを一晩預かるくらい、あり得ないことではない。
ふと、このままずっとマヤが俺の部屋に居たらどうなるだろうと思った。母親と接触することはなくなる。ベランダを移動する必要もない。穏やかな生活を、手に。
いや。
いや、ちがう。
そんなのは、きっと駄目だ。
彼女は俺にそんなことを望んでいない。
「マヤ」
小さく名前を呼んだ。
うとうとしていた少女がはっと顔をあげる。急に名前を呼ばれて、とても驚いている。
「疲れてるみたいだし、帰って寝るといい」
「うん。ごめんなさい、遅くまで」
時計を見る。九時だ。子どもにとっては遅い時間かもしれない。
マヤは立ち上がった。ふらふらと頼りない足取りでベランダに向かう。さすがに心配なので、見送ることにした。
「落ちないから大丈夫」
靴を履きながら言う。その声はやっぱり眠たそうだった。
ベランダに出ると、生ぬるい風を感じた。体に絡みつくような湿気を帯びた気持ち悪い風。予報では明日にも梅雨入りするらしい。
「それじゃあ、おやすみなさい」
マヤはそう言って軽く頭を下げた。
「おやすみ」
少女は細い手足を使って身軽に欄干に上った。物干し竿につかまってバランスをとり、足を進めていく。物干し竿を掴んでいた手がベランダを仕切る板に移る。そのままするすると欄干の上を歩き、完全に隣に移った位置でそこから降りた。
欄干から乗り出して隣のベランダを覗くと、マヤも同じようにこちらを見ていた。
マヤはにこりと笑って、俺に手を振った。
柄ではないと思いつつ、小さく手を振り返す。
そして二人はそれぞれの部屋に戻った。
窓を閉める前に、昼間出来なかった洗濯をしようと思い立った。溜まった服を洗濯機に放り込んでいく。今日も昼間はとてもいい天気だった。マヤが来ないことがわかっていたら昼に洗濯ができたなと思う。
土日の昼には洗濯をしない。洗濯物をベランダに干すと、マヤが欄干をつたって来る時に障害物になる。彼女は何食わぬ顔でそれをかわすだろうが、余計な障害はない方がいい。
洗濯機が回っている間にシャワーを浴びた。マヤが掃除してくれたおかげで風呂場はとてもきれいだ。水垢でくすんでいた部分がつるつると光を反射している。
マヤがこの部屋の風呂を使うようになったのは、去年の夏からだ。
水道代がもったいないから節水しろ。
マヤは母親にそう命令された。
限度額を決められ、請求書が来た時にそれを上回っているとひどく叱られる。それは一人暮らしの俺が普通に生活していても時々上回ってしまうような金額だった。母娘二人で暮らして、その金額以内に水道代をおさえるのはほぼ不可能だった。というか、実際不可能だった。
そしてとうとう、娘は風呂の回数を制限されてしまう。
二日おきでいいでしょ、子どもなんだから。
その後マヤはこの部屋に来て、俺に頭を下げた。
気が向いた時だけでいいから、お風呂を使わせてください。
正座して、頭を床につくほど深々と下げた。
それはとても速やかな行動だった。俺が風呂を使っていいと提案する隙を全く与えなかった。
その時ようやく俺はマヤの母親を異常だと思った。
マヤの母親はひたすら娘に苦痛を与えたがっている。態度や行動以前に、娘の存在が不満なのだ。
俺の両親も小さい頃はよく俺を殴ったが、マヤの母親のように理不尽ではなかった。
どんなに些細なことでも息子が失敗した時は罰として殴る。それが俺の両親の教育方針だった。今思えば中々変てこな教育方針だが、それ以外の部分で両親はとてもまともだった。
殴られるのは痛いから嫌いだったが、耐え難いほどのものではなかったし、自分の失敗が原因だからまあ仕方ないなと納得していた。
対して、マヤが受けている暴力は明らかに理不尽なものだ。それがどんな時に何が原因で発動するのか全く予測できない。母親が策略的に力を加減して、淡々と娘を叩く神経は全く理解できなかった。心の底から気味が悪いと思う。
隣から騒音が聞こえると、マヤは俺の部屋にやってきて事情を説明する。話はいつも簡素だった。母が何々してこうなった。それだけ。怖かった、嫌だったとかいう言葉は聞いたことがない。何気なく、当たり前のことだとでもいうように話す。
だから俺はいつも適当に返事をした。少しでも同情しているような言葉をかけたら、彼女がとても傷つくとわかっていた。殴られたり罵倒されたりすることは、マヤにとってもはや当たり前のことで、それについて今更第三者が憐みの言葉をかけたところでどうにもならない。
マヤは自分の置かれた状況が正常でないことくらいわかっている。誰かに助けを求めればその状況が変わることも。だがマヤはそれを望んでいない。
慣れている日常に変革を起こすのはとても疲れることだ。無理やり救い上げられたら、新しい日常にひどく戸惑うだろう。友達や学校の先生に知られたら、今までと同じように接してくれなくなるかもしれない。場合によっては転校しなければならない。今の状況で手にしている小さな幸福を失うのは、慣れてしまった暴力に耐えるよりよほど苦痛だ。
だから俺はマヤを助けない。
大人が良いと思ってすることが必ず子どもに良い結果をもたらすとは限らない。子どもに大人並みの判断能力はないが、だからといってその意思を軽んじては駄目だ。
マヤは母親に一切自分の意思を認められていない。だから俺は徹底的に彼女の意思を尊重しようと決めた。それが俺にできることだと思った。
隠したい事情を全て知った人間が、事実だけを見て短絡的にことを大きくせず、自分の話をきちんと聞いて意思を尊重してくれる。
マヤがそれを心地好く思ってくれたらいい。
それがきっと、隣人として彼女にしてあげられる最大限のことだ。
俺がしていることは世間的には間違っている。
虐待を受けている児童を発見した者は、児童相談所などの施設にそれを通告しなければならない。児童虐待防止法六条の規定。俺は法にも背いていることになる。弁解の余地はない。誰がどう見たって俺は間違っている。
それでも、マヤが。
たった一人、あの子にとって俺の行動が正しいならば。
俺は間違ったままでいい。そう思う。
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