第4話
「ただいまぁ」
玄関の扉が開いて、陽気な声が聞こえた。カツカツと踵の細い靴を脱いでいる音がする。
「おかえりなさい」
私は台所でキャベツを切りながら答えた。
意外と早く帰ってきたなぁ。あんなに怒っていたから、今日はもう帰ってこないと思っていた。
ドタドタと大げさな足跡をたてて、彼女は私の前に現れた。
うす桃色のワンピースがひらりと揺れて、同じく桃みたいな甘い匂いが漂う。
母はキャベツを切る私を見て、にこっと笑った。
ドラマの登場人物みたいな笑い方だ。私の友達いわく、母は『めっちゃ若くてキレイ』だから、尚更そういう笑い方がさまになる。
彼女は大きな紙袋と小さな紙袋をひとつずつ持っていた。それを揺すって私に見せる。
「さっきはごめんね。新しいお皿買ってきたよ。ほら、見て見て」
そう言って、大きい方の袋から紙に包まれた食器を取り出した。バリバリと包装紙を剥いで、新しいお皿があらわになる。
「ね、かわいいでしょ?」
お皿は楕円形だった。底が深いから、皿というか器だ。カレーライスを食べる時なんかに使えそう。色は白。特に柄はない。無地。
「うん。かわいいね」
私が頷くと、母は嬉しそうに私の頬を打った。
ピシャリと渇いた音が響く。
音は大げさだけど、たいして痛くない。
母は大きい方の袋から同じ型の器をもう一つ取り出して、流し場に置いた。買ってきた新しい皿は、その二つだけらしい。われてしまった食器の三分の一にも満たない。
やっぱり紙皿と紙コップを買って来てよかった。ほっと息をついて、切ったキャベツをボウルに入れる。今日の夜ご飯は焼うどんだ。
「ケーキも買ってきたの! あとで食べようね」
母は小さい方の袋から白い紙箱を取り出した。近所にあるケーキ屋さんの箱だ。
私はさっきと同じように頷いて、コンロの火をつけた。
両手の指に絆創膏がたくさん巻きついているから、指を曲げにくい。手のかかる料理はしばらくできなさそう。
私がお風呂からあがると、高宮さんは救急箱を用意してくれた。救急箱といっても、小さい段ボール箱に絆創膏や胃薬を適当に入れてあるだけのものだ。高宮さんは消毒と絆創膏を渡してくれた。
指に絆創膏を巻くのは中々難しかった。私が不器用にペトペトと絆創膏を貼っていると、見かねた高宮さんが手伝ってくれた。
右手の薬指と、左手の小指。そこだけクルリと綺麗に絆創膏が巻かれている。それに、ゆるく巻いてあるから指を曲げやすい。
「マヤ」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、くしゃくしゃに丸めた紙が飛んできた。ぽすっと顔に当たる。見れば、さっき新しい食器を包んでいた紙だった。
「なにニヤニヤしてんの? お腹すいた」
母はカビの生えた食パンでも見るような目で私を睨んだ。
また無意識にほっぺたが緩んでいたみたい。簡単な料理だからって気が抜けていた。
「もうすぐできるから」
豚肉とキャベツを炒めたフライパンに、慌ててうどん玉を入れる。麺をほぐすために水を注ぐと、じゅううと大きな音がした。
母はもう私に興味をなくしたようで、さっさと椅子に座ってテレビを見始めた。
土日に母がうちで食事することは珍しい。食事どころか、土日に帰ってくること自体珍しい。だけどたまぁにこうしてふらりと帰ってくる。だから食事はいつも二人分作る。夜十時を過ぎても母が帰らない時は、余った分を隣人におすそ分けする。その時はちゃんと玄関から出て、隣の部屋のチャイムを押す。
食事中、母は妙によく笑った。ドラマの登場人物みたいだとばかり思うけど、それも少しちがう。ぴったり当て嵌まる言葉が浮かばないまま、私は焼うどんを食べ終えた。
ケーキの箱を開けて、中身を紙皿に取り分ける。ショートケーキとチョコレートケーキがひとつずつ入っていた。
「私、チョコレートケーキね」
母は冷蔵庫からお酒の缶を取り出しながら言った。
紙皿はふにゃふにゃとたよりなくて、その上に柔らかいケーキを乗せて机に運ぶのは大変だった。
なんとか無事にケーキを置いて、再び食卓に着く。
母はお酒の缶を開けていた。プシュッと音をたててプルタブがへこむ。
「いただきます」
母がお酒を飲んでいる間に、私はフォークでケーキを削った。口に入れてもぐもぐする。
「おいしい?」
缶から口を離した母が尋ねる。
「うん、おいしい」
おいしいというのが私はよくわからない。ただ、ケーキは甘くて柔らかかった。それはきっとおいしいってことなんだろう。
「マヤも飲んでみる?」
母はお酒の入った缶を持ち上げてみせた。彼女はお酒を飲むと必ず私にそれを勧める。
「いい」
私は少し笑いながら首を横に振った。
「そっかぁ」
母は残念そうに肩をすくめて、缶を持った手をこちらへ伸ばした。そして食べかけのショートケーキが乗った皿の上で、缶を傾ける。
ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた。
ショートケーキは降り注ぐお酒の雨を浴びて、ぐじゃぐじゃになった。白い生クリームが炭酸に混ざってしゅわしゅわしている。
母は満足そうにその様子を眺めて、チョコレートケーキを頬張った。幸せそうに口を動かしている。
「昼間お前が見つけたあの写真、どうした?」
二口目のケーキを飲み込んだところで、母は言った。お酒を飲むと彼女は喋り方が雑になる。
「箱にしまって、元の場所に戻しておいた」
母が破ってしまった写真もあるけど、とりあえず捨てるべきじゃないと思って、箱に入れ直した。
「ふうん」
生クリームが混ざったお酒が、紙皿から溢れて食卓をつたっていく。早く片付けてしまいたい。
「あれさ、お前にあげるよ」
お前という言葉にあわせて、フォークの先を私に向ける。
「私にはもう関係ない男だけど、お前にとってはお父さんなんだからね」
母は昼間も同じことを言っていた。もっともその時彼女は頭に浮かんだことをそのまま吐き出していただけだから、私には意味の解らないことも多かったけれど。
「そうだぁ! あの写真を頼りにお父さんを探しにいったら?」
とてもいいことを思いついたというように、母はぱちんと手を合わせた。
「アイツだって自分に娘がいることは知ってるんだからさ、会えばかわいがってくれるかもしれないよ」
昼間の話、話といえるほどまとまってはいなかったけど、母の言葉をつなぎ合わせると、どうやら私の父という人は私が産まれる直前に失踪したらしい。
「今思えば、最初はアイツと結婚するつもりだったんだよね。逃げてくれてよかったわ。あんなヤツと結婚してたら今頃どうなってたか。ゾッとする」
顔が赤い。母はだいぶ酔っぱらっている。独り言みたいにダラダラと話し続ける。
最初は、と母は何度も言った。
最初は結婚してくれるって。
最初は子どもも一緒に育てようって。
それなのに怖気づいて逃げやがった。
「どうせ逃げるんなら、もっと早くに逃げて欲しかったなぁ。そしたら堕ろせたかもしれないのに」
悲しそうな声。
私はぼんやりと自分の指先を眺めていた。綺麗に巻かれた絆創膏。
「ねえ、マヤ。いつでも出ていってくれていいからね。おとうさんを探し出して、育ててもらいな。住所とかわかんないけど、写真があるからね、きっと見つかるよ」
母は私の頭に手をおいて力任せに撫でた。結んだ髪が乱れる。
にこにことした笑顔が私の正面にあった。もうドラマみたいな笑い方じゃない。今は本気で笑っている。
「おかあさんも、その方が嬉しいわ」
言葉と同時に、引っぱたかれた。視界がぶれる。いつもより力が強い。だけどやっぱり、そんなに痛くない。この人は私が成長していることをわかっていないから、小さい頃と同じ力加減で叩く。
気が済んだのか、母は急に椅子から立ち上がった。
「じゃあね」
その辺に放り投げてあったバッグを掴んで、軽く手を振る。つられるように、私も力なく手を振った。
帰ってきたときに履いていたのと同じ踵の細い靴を履いて、母は出ていった。
バタン。
扉の閉まる音で、急に意識がはっきりした。だらんとしていた指先に力が戻る。つけっぱなしのテレビのボリュームがやけに大きいことにも気づいた。
テレビを消して、後片付けを始める。紙皿は捨てるだけでいいから、いつもよりずっと洗い物が少ない。スポンジで洗剤を泡立てて、フライパンをこする。白い泡は絆創膏の隙間にも入り込んできて、傷口がピリピリと痛んだ。
幼い頃、私は母とのこういう生活をふつうだと思っていた。ふつうというか、通常だと思っていた。
物心つく頃には、母に叩かれることが日常茶飯事になっていた。それは本当に日常茶飯事だった。彼女は怒っている時だけじゃなく、楽しそうな時も、何気なくご飯を食べている時にも、パチパチと私の頬を軽く打った。
あまりにも平然と叩かれていたから、私はそれがいわゆる暴力と呼ばれるものだと気づかなかった。暴力を暴力だと自覚できないくらい、私の体はそれに慣れていた。それに、母の行為は暴力というほど大げさなものじゃない。彼女は私の体に傷が残らないよう、注意深く力を加減する。だから叩かれてもそんなに痛くない。全く痛くないわけじゃないけど、そんなに痛くない。
成長するにつれ、世の中には虐待というものがあると知った。世間的に見ると、母は私を虐待していることになる。ああ、だから母は私の身体に傷をつけないんだと気づいた。
だけど私は、自分を虐待の被害者だと思うことがどうしてもできなかった。母に殴られることは私にとって本当に当たり前のことだ。当たり前のことは怖くない。苦痛じゃない。好ましいことじゃないのは確かだけど、耐えられない程のことでもない。
箸をすすいで、洗い物を終えた。水道の蛇口をキュッと閉める。
今日やるべきことがやっと片付いた。とても長い一日だった気がする。
隣人は、私の母は心の病気だと言っていた。しかるべき処置をうけるのが望ましいとかなんとか、気だるい声で言うのが面白かった。高宮さんの方がよっぽど病気みたいな見た目なのに。猫背で痩せていて、濃い隈があって。
くふふ。
こらえきれずに口から笑い声が漏れる。
母は病気じゃない。と、私は思う。
あの人は意外とふつうだ。母は、私を邪魔に思うから暴力をふるう。単純にそれだけだ。私の言葉や態度に怒っているからじゃない。怒っていない時にだって母は私を叩く。
彼女もふつうの母親みたいに、私に新しい服を買ってきてくれる。色とりどりの服を次々私に着せて、かわいいといって頭を撫で、ついでに頬を引っぱたく。そうやって、根本的にお前は必要ないのだと伝え続ける。そうしなくちゃ、母は私と会話することができないのだろう。
これはもう習慣になってしまった。母の暴力は私を傷つけるための行為というより、儀式に近い。いただきますやごちそうさまみたいな、いちいち意味を考えないでなんとなくすること。私と母は、こういう形でしかコミュニケーションをとれない。
時計を見る。
十時半。
もうこんな時間かぁ。
この時間に出ていったんだから、母はきっと明日か明後日まで帰らない。
私はふらふらとベッドに横になった。うちにベッドは一つしかない。母と私が一緒にこの部屋で眠ることはほとんどないから、一つあれば充分らしい。たまに一緒に寝るときは、私が床で寝る。母がこのベッドで眠るのは、平日の朝から夕方までだ。ちょうど私が小学校に居る時間。
ベッドのシーツや枕に香水の匂いが染みついている。わざとらしい桃の匂い。母の匂いだ。
私は母が苦手だ。でも、産みの親として愛してはいる。好きとか嫌いとかじゃない。私は母のおかげで生活できている。母がいなければ私には寝る場所もない。親は愛すべきものだ。
それに、母をかわいそうな人だとも思う。母が私を産んだのは十八歳の時らしい。自分のためにもっと時間を使いたかった。彼女はよく言う。私が産まれなければ、もっと違った人生を歩めたはずだ。
だから私は今の生活を受け入れている。特に大きな不満もないし、不満があったとしてもそれを口にする権利はない気がする。
それに。
ガタガタという物音が、隣のベランダから聞こえてきた。
こんな時間に隣人は洗濯をするらしい。変なの。昼間あんなに晴れていて、しかもずうっと部屋にいたくせに。変なの。うふふ。
ごうごうと洗濯機が回りだした。
くったりと疲れた私に、それは子守唄のように優しく聞こえる。隣人は今、何をしているんだろう。まだ宿題が終わらないのかな。夜ご飯お裾分けできなかったけど、何を食べたのかな。
高宮さん。
私の、たった一人の隣人。
私の意識は、高宮さんに出会った時から急に鮮明になった。実際、それより前のことはほとんど思い出せない。ぼんやりとした映像が浮かぶだけ。夢を見ていたみたいに曖昧な記憶で、自分のことじゃないみたいに思える。
ずっとあのままだったら、どうなっていたかな。きっと私はぼんやりしたまま母と暮らし続けただろう。終わらない夢を見るようにふわふわと。なんとなく適当にやっていけそう。夢を見ている間はそれが夢だって気づかないから。
あの日。
高宮さんに見つかったあの日。
私は夢から醒めた。
きっとそう、だからこそ。
私は今の生活に満足している。
こんな生活ならずっと続いてもいい。そう思う。
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