第3話
マヤが初めてうちに来たのも、こんな晴れた土曜日だった。
一年前の五月。
俺がこの部屋で暮らし始めてひと月ほど経った頃だ。尋常じゃない騒音を度々耳にして、いい加減管理人に苦情をいれようかと考えていた。
その日俺は昼近くまで眠っていて、カーテンは閉めっぱなしだった。ガタガタという奇妙な音で俺は目を覚ました。カーテンから差し込む光は眩く、今日はとてもいい天気なのだと思う。奇妙な物音は、隣のベランダから聞こえてくる。洗濯でもしているのか。今日は俺も洗濯をしようと思って、大きく欠伸をしながらカーテンを開けた。そして。
思わぬ光景に、大口を開けたまま固まってしまった。
ベランダの欄干の上に、少女が立っていた。あどけない瞳で窓越しに俺を見ている。
最初、俺は彼女を霊的ななにかだと思った。あるいは幻覚か。とにかく人間じゃないのではないかと思った。その方がむしろ自然だ。人間の女の子がそんなところに立っているわけがない。
だが、少女は俺が目をこすっても消えなかった。おそるおそる窓を開ける。少女は動かなかった。
窓を開けたはいいものの、何も言うことができない。ここはマンションの六階で、少女はそのベランダの欄干に立っている。何かの拍子に転落したら大変だ。まだ人間だという確証もないのに、俺はそんなことを心配していた。
沈黙を破ったのは少女だった。
「こんにちは」
そう言って、にこりと笑う。
「隣に住んでいる、江藤マヤといいます」
呆気にとられている俺にかまわず、少女は言葉を紡いでいく。欄干に立ったまま。
「お菓子、ありがとうございました」
そこでようやく、俺は彼女が人間であると確信した。引っ越しの挨拶にドアノブにぶら下げておいた菓子折り。彼女はあれを受け取ったのだ。この子は隣に住んでいる人間だ。
「危ないよ」
人間の女の子がそんなところに立っているのはよくない。なによりもまずそう思った。俺は裸足のままベランダに出て、少女に手を差し伸べた。
少女は不思議そうに俺の手を見ている。
「とりあえず、こっちおいで。危ないから」
そう言うと、少女はとても驚いた顔をした。
ひゅうと風が吹く。ポニーテールにした黒い髪が揺れた。
少女は、そっと俺の手に触れた。
「お邪魔します」
軽く俺の手を握り、ぴょいと欄干からベランダに降りた。
そして俺は初めての来客を部屋に招き入れた。まさかそれがベランダの欄干をつたってやってくるとは思っていなかった。しかも来客は大学でできた新しい友達でもなければ、もちろん恋人でもない。小さな女の子だった。
以来、マヤは頻繁に俺の部屋に来るようになった。土日を含んで、週四日程。何度か話す内に、彼女が俺の部屋に来る理由と騒音の正体が密接に関係していることがわかった。
俺の部屋にいる間、マヤは本を読んでいることが多い。読書が趣味らしい。毎日小学校の図書室で本を借りてきて読んでいる。俺の部屋にある本にも興味を示したので、読みやすそうなものを選んで、たまに貸す。以前は鬱々とした小説ばかり並んでいた本棚にも、いつの間にか爽やかな内容の本が増えた。
俺が借りてきた映画を見ることもある。示し合わせて一緒に見るわけではないが、俺が見始めると、マヤも自然と目を向ける。同じ空間にいるから半ば必然的だ。
あとは今みたいに、うちの風呂に入っているとか。
会話はほとんどない。小学生と大学生じゃ共通の話題もそんなにないし、そもそもマヤは俺と仲良くするためにここに来ているわけじゃない。俺だって彼女を特別に可愛がるつもりはなかった。
なんというかこの関係は、そう。
ご近所付き合いというやつだ。
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