第2話

 今日はなかなか凄かったなあ。

 無残に砕け散った私のコップやお茶碗を思い出す。ほんの数分の間に、うちの食器の半分近くがただの破片になってしまった。これだけ一気に使えなくなると少し困る。あとで紙皿を買ってこよう。

「ごめんなさい、うるさくして」

 私は私の隣人に話しかける。

 座椅子に座り、じっとパソコンの画面を見つめている。私はその横顔を見つめる。すっかり見慣れた不機嫌そうな表情。視力が悪いのにメガネもコンタクトもあんまりしないから、すごく目つきが悪くて、眉間にしわがよっている。

「構わないけど、今日は凄かったね」

 隣人は私の顔を見ないまま言った。

「うん。お皿とかコップとか、粉々になっちゃった」

 食べ物を盛るために存在するものが、おそらく誰も予想できない軌道で空を切り、私のすぐ横の壁にぶち当たる瞬間。

「お皿って結構重いのに、よくきれいに投げたなあ」

 耳が痛むほどの音と、脈絡のない言葉の嵐。絶対に私の体に当たらないよう、注意深く投げられる食器。引きつった表情。思い出すことすべて、壮絶すぎて笑ってしまう。ドラマみたい。派手にしすぎて現実味がない。

「穴が開くかと思った」

 黙って私の話を聞いていた隣人が、急に言う。

「穴?」

「壁に、穴が」

「あ、なるほど」

 このマンションの壁は薄い。壁だけじゃない。見た目も薄い。建物の色が薄いというか、存在感がない。左右を新しい綺麗なマンションに挟まれて、きゅっと縮こまったみたいに目立たない。だけど、そのおかげで私は隣の部屋に来ることができる。

 隣人の左斜め後ろ。私はいつもそこにぺたんと座る。ぺたんと座って、隣人がすることを見ている。今日は何をしてるんだろう。

「さっき、猫を見ました」

 ベランダをつたってここに来る途中のことを、隣人に話す。相変わらず隣人はああ、とかうう、とかよくわからない返事をしただけだった。

 このマンションのベランダは、薄い仕切りの板で部屋ごとに区切られているだけで、足場も欄干も一続きになっている。だから欄干に上って仕切り板を越えるだけで、隣のベランダに移動できてしまう。

 ベランダが面している道路は暗くて狭いから、昼間はそれこそ猫くらいしか通らない。私は何度もベランダを移動しているけど、人に見られたことは一度もない。

 欄干をつたって隣に移動するとき、私は必ず下の道路を見る。人がいないことを確認するためもあるけど、自分がすごく高いところに立っていて、少しでもバランスを崩すと真っ逆さまだってことを実感するためだ。ドキドキして足がすくみそうになると、なぜだか私は少し元気になる。今日みたいに、たまに猫が見えるのも楽しい。

 カタカタ。カタカタ。

 隣人の指が動いている。

 後ろから覗き込むと、黒いノートパソコンのキーボードを叩いていた。画面にはずらりと文字が並んでいる。難しい言葉や、私がまだ読めない漢字ばかり。

「大学の宿題?」

 何を書いているのか気になって尋ねる。

「まあ、そんなところ。自由研究みたいなもの」

 答える声は相変わらず単調で、どこかなげやりだった。

「ふうん」

 私の興味は味気ない返答で消し飛んでしまい、会話は途切れた。画面を覗き込むために伸ばした体だけがそのままになる。ちらりと視線を動かして、隣人の顔を見てみる。液晶の青白い光に照らされて、顔色が悪く見える。目が疲れているのか、まぶたが重たそう。まばたきの速度が遅い。細く開いたまぶたがぺたりとくっついては離れる。

 カタカタ。カタカタ。

 キーボードを叩く音は耳に気持ちよかった。うるさくないし、軽い。かわいい音。

 隣人の横顔観察をやめて、ぐるりと部屋を見渡してみる。私の部屋と作りは同じだけど、置いてある物が全然ちがう。綺麗ではないけど、片付いた部屋。物が少ないからだ。鞄や本が床に置きっぱなしになっていても邪魔じゃない。

 ふと、気になることがあった。

「ねえ、ベッドの下には何があるの?」

 簡素なパイプベッドの下。そこには大きな収納ケースが二つあった。キャスター付きで、引き出せるようになっているやつだ。

 隣人はこほんと咳払いした。

「子どもは見ちゃいけないもの」

 そう言って、珍しくにやりと笑う。

「えっちな本とか?」

「だいたいそんな感じ」

 特に恥ずかしそうな様子もない。

 なぜ私がそんなことを聞いたのかなんて、気にしていないようだ。気にしていたとしても、隣人は絶対にそれを私に尋ねない。

 だから私は自分から話す。

 尋ねられていないことを話すのは楽だ。相手が話に興味をもっていないのがわかれば、言葉を選ばなくていい。

「午前中、掃除してたんです。そしたらベッドの下の奥の方に、丸い箱を見つけたの」

 クッキーが入っているような、丸い缶の箱。

「開けてみたら、写真と指輪が入ってた」

 写真は五枚くらいあって、その全てに二人の人物が写っていた。一人はよく知る人物で、もう一人は知らない人だった。知らない男の人。

「それが開けちゃいけない箱だったみたいで、とても怒られました。そこからはいつもどおり」

 私が缶を開けて中を見ているちょうどその時に、あの人は風呂場から出てきた。そして私の姿を見て、叫んだ。

「そう。大変だったね」

 なんの感情もこもらない声で、隣人は私の話を終わらせた。さっき私に挨拶したのとまったく同じ、退屈そうな声で。

「うん!」

 私はにっこり笑って頷いた。こういう話をした後に隣人の声を聞くと、いつもほっぺたが緩んで笑ってしまう。嬉しいとか楽しいとかいうのではないと思う。ただ笑いたくなってしまう。

 同時に、急にぐったりと疲れてしまった。朝から洗濯や掃除をして、ひと段落したところにわれた食器の山ができたから、今日は一日中大忙しだ。まだ五月でそんなに暑くないけど、さすがに汗をかいた。

 体育座りにした膝に顎を乗せ、ぼうっと隣人を見上げる。

 わりと長い間そうしていたように思う。人形のようにまっすぐパソコンを見つめていた隣人の横顔が、ゆっくり動いた。

「血」

 唇がかすかに開いて、小さな声が聞こえた。

「血が出てる」

 隣人の視線は私の指先に向いていた。そこにはいくつもの切り傷があった。細かい傷と、少し深い目立つ傷。細かい傷はいつついたのかわからない。目立つ方は、破片をまとめて新聞紙に包むときに、うっかり切ってしまったやつだ。そんなに痛くない。傷口をなぞると、血は固まって渇いていた。

「もう止まってるよ」

 隣人の顔の前に手をかざす。流れた血の跡が残っていた。肌に張りついちゃって、ちゃんと洗わないと落ちなさそう。

 隣人はじっと私の指先を見つめている。

「洗ってくるといいよ。そのあとで絆創膏あげるから」

 それだけ言うと、隣人はすぐに指先から目をそらした。

「うん。わかった」

 立ち上がって洗面所に向かおうとする。汗が冷えて少し肌寒かった。

「はい、これ」

 再び聞こえた声で振り返ると、いきなり白いタオルが飛んで来た。ぼふんと音を立てて、私の腕にちょうど収まる。よく使うタオルの少しごわごわした感触。

「ついでに入るでしょ、風呂」

 頼もうとしていたことを相手側から言われてしまった。

 私が先に言わなきゃいけないのに。順番を抜かされたみたいな気持ちになる。

「お風呂使わせてもらってもいいですか」

 後出しになっちゃったけど、一応お願いをする。すごくぎこちない言い方になってしまった。決まりが悪いってこういうことを言うんだと思う。

「タオル渡したじゃん。いいよ」

 当たり前のことを何故聞くのだろうというように、隣人は首を傾げた。

「ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる。

 隣人はもう何も言わなかったし、私を見てもいなかった。大学の宿題に集中しているのか、そういう風に見せているだけなのか。どっちでも、それは私にとって嬉しい態度だった。

「高宮さん」

 名前を呼ぶ。

 隣人は私を見た。

「高宮さんは、私がこの部屋に来ることをどう思いますか?」

 ぴたりと、隣人は静止した。私もタオルを片手に立ったまま隣人を見る。いつもはすぐに目をそらしてしまうのに、こういう時は私をまっすぐに見る。

「私のことを、かわいそうだと思う?」

 隣人が黙っているので、聞き直す。

「思わない。君がそう思って欲しくなさそうだから」

 相変わらず話し方は淡々としていた。だけど、どうでもいい感じとはちがう。

「じゃあ、私がそう思って欲しいって言ったら、かわいそうだと思うの?」

「思うよ」

 考えている間は一秒もない答えだった。

「俺は君が望まないことはしない。基本的に」

 私はその答えにとても満足した。

 またほっぺたが緩くなって、自然と笑ってしまう。

 隣人の単調な声はいつも私の頭をふわふわさせる。眠たいようなくすぐったいような気持ちになる。少しも優しくない、無感情な声なのに。不思議。

「お風呂入ってきます」

 私は隣人に背を向けた。

 高宮智弘さん。二十歳。

 彼は、私の唯一の隣人だ。

 そして私は、彼とこの部屋をとても気に入っている。

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