隣の人
加登 伶
第1話
今日はなかなか凄いな。
隣の部屋から凄まじい音が聞こえてくる。
ガツンと大きな衝撃音。
同時に何かが粉々に砕け散る音。
食器が壁にぶつかって盛大にわれたのだろうと思う。
キーボードを叩く指が止まる。こんな騒音の中作業に集中できるわけがない。俺はため息をつき、目を閉じた。
音だけを聞くと、まるでアクション映画のワンシーンのようだった。平和な土曜日の午後にはおよそ似つかわしくない。
不規則にガチャンガチャンと食器がわれる音の合間に、めちゃくちゃに喚きたてる女の声が聞こえる。よく耳を澄ますと、それとは別の、小さな悲鳴も。
去年、大学進学に伴いこの部屋に住み始めた。集合住宅がぞろぞろ並ぶ区画の中、埋もれるように佇む古びたマンション。駅から徒歩十分、七階建て。日当たりも景観も悪い。だが、そんなものは些細な不都合にすぎなかった。大学にも通いやすい立地だし、部屋もそれなりに広い。俺はこの部屋を気に入っていた。
あえて気がかりなことをあげるとすれば、ただ一つ。
部屋の壁が薄いことくらい予想していた。隣人の生活音が頻繁に聞こえるだろうことも。
幸運なことに、右隣の部屋は空き室だった。引っ越しの挨拶代わりにドアノブにぶら下げておいた菓子折りはいつまでもなくならず、その後も人が出入りする音は聞こえてこなかった。
左隣の部屋は、ちょうど角部屋にあたる。
そこから騒音が聞こえ始めて、十分ほど経っただろうか。
急に隣の部屋が静かになった。閉じていた目を開く。少し間をおいて、バタンと扉が閉まる音。それを期に、非日常的な音は完全に止んだ。
〝さっきまでの喧騒が嘘のようだ〟
レポート作成のために開いていたファイルに、思わずタイプしてしまう。『ドイツ法の歴史』についての記述の中、なんの脈絡もなく唐突に表れた一文。わけもなくぼんやりと眺めていたが、すぐに我に返って消去する。
初めは隣室の騒音に度肝を抜かれた。予想していた生活音をはるかに超えていたし、そもそもそれは〝生活の音〟ではなかった。大きな音が聞こえるのはたいてい日中か夕方で、夜はいたって静かだ。そのため睡眠が害されることはない。むしろ深夜に起きていることが多いのは俺のほうで、零時を越えてからシャワーを浴びることも稀じゃなかった。そのことを思うとお互い様という気がして、俺は苦情を入れなかった。
しばらく静かだった壁の向こうから、掃除機をかける音が聞こえてきた。ぎゅいんぎゅいんと掃除機が元気な音をたてている。われた食器の細かい破片を吸い込んでいるのだろう。
うるさいけど、これは日常の音だ。日常の音は頭をねむたくさせる。
隣人は今、壁の向こうで黙々と後片付けをしている。ねむたくなった頭で、熱心に掃除機をかける隣人の姿を想像する。傷だらけの細い指と小さな影を、容易に思い描くことができた。
きゅうぅと間の抜けた音が聞こえて、掃除機が止まった。同時に俺の頭も覚醒した。形だけでもレポートに集中しようと座椅子に座りなおす。
平穏な土曜日の午後が再開した。隣の部屋からは、あわただしく部屋を行ったり来たりする足音が聞こえるばかりだ。
網戸にした窓からは、初夏のさわやかな風が吹き込んでくる。実際この部屋のベランダは細く薄暗い路地に面しているため、景観はさわやかでもなんでもない。
もうすぐだろうか。
キーを打ちながら思う。
予想どおり、からからと窓が開く音が聞こえた。隣の部屋の、ベランダに出る窓が開いた音だ。
ギイ。ガタン。ガタガタ。
続けざまに色んな音がする。キーを打つ手は止めない。これは日常の音だ。
少しずつ音が近づいてくる。着実にこの部屋のベランダに向かって。窓に背を向けているから、何がどうなって音をたてているのかはわからない。でも、何が起こっているかはわかる。
パスンと、軽い音が響いた。その音は完全に俺の背後のベランダから聞こえていた。
カラカラカラカラ。
閉めておいた網戸が開けられる音。
「高宮さん」
その声で初めて侵入者に気づいたかのように、俺は振り向いた。
俺の部屋のベランダで、今まさに靴を脱ごうとしている小さな影。ポニーテールにした黒い髪が風にゆれている。まあるい瞳で俺の顔を見つめ、彼女は少し笑った。
「こんにちは!」
とても元気のよい挨拶だ。
「ああ、こんにちは。いらっしゃい」
どんよりした声でそれに答える。
「お邪魔します」
少女はそう言って俺の部屋に入ってきた。脱いだ靴をきちんとそろえ、網戸を閉めなおす。とことこと歩いてきて、俺の隣にちょこんと座った。
ゆったりとした白いティーシャツに綿の短パンを履いている。そこから伸びる華奢な手足を使って、彼女はベランダの欄干をつたい、この部屋に来た。少女はいつもそうやって俺の部屋に訪れる。
江藤マヤ。十一歳。
彼女は俺の隣人だ。
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