第47話 一夜が明けて

 屋上からドラゴンを撃ち落した後、伍堂は事態がどうなったのかを全くわからなかった。庁舎前の広場でボネットが指揮を取り部隊の再編成を着々と進める光景を眺めていると力が抜けてゆく。

 これはどうしたことかと、焦りを感じ気合を入れなおし立ち上がろうとしたのだが膝が笑ってしまっていた。そんなに足を酷使したつもりもない、気づかぬうちに四谷が魔法をあるいはドラゴンが、魔法に類するものを使われたのだろうかと考え始める。


 一体いつの間に、どのタイミングで、ドラゴンとの戦いを頭の中に再生しながら広場を眺めていると、隊列を作り向かってくるハリスの姿が見えた。彼もまた戦っていたらしく、ハリスの体には赤いものがついていて、それは彼が連れている兵士も同じだった。

 そしてこのハリスを見た瞬間、力が抜けていく理由を理解する。


 何のことはない、ただ安心して気が抜けたというだけのことだ。非日常で張り詰めた神経が限界を迎えていたのだ、そこに信頼の置けるハリスの姿が見えたのだから緊張を保ち続けることはもう出来ない。ダメだダメだと言い聞かせはしたものの、体の欲求はあまりに強い。

 ぷっつりと音がしたかと思えば目の前は暗転し、背中に冷たさと熱さを同時に感じる。どうやら倒れてしまったらしい、そういえば背中に爪を突き立てられていた。傷の深さはどのぐらいなのだろう、今の今まで無我夢中で失念していた。


 傷の深さはどのぐらいのものだろうか、血はどれぐらい出ているのだろう。確かめなければ、治療だってしないといけない。けれど目の前は真っ暗だ、指を動かそうとはするものの動かせているのかどうか判別がつかない。

 人を呼ぼう、声を出そう。自分で出来ないのなら助けてもらおう、けれども喉も動かない。背中の傷は深いに違いなかった。血だって相当な量が流れ出ているに違いない、そうでなければ目の前が真っ暗になんてなりはしまい。


 血が流れすぎたのだろうか、頭が回らない。死ぬかもしれない、目前に終わりの深淵が広がっているというのに恐怖も何もなかった。案外あっけないものだ、こんなところで終わるのは寂しいもの。抗おうとするけれども意識は泥の中へと沈み込んだ。

 浮上してきた時に感じたのは痺れ、続いて痛み。思わず苦悶の声を上げると、誰かが声をかけてきたが何と言っているのかは分からない。聴覚も麻痺してしまっているようで聞こえてくる声はひび割れたノイズのようだった。


 ただそれは長い間の事ではなかった。覚醒の度合いが増していくにつれて聞きなれた人の、そうアネットの声だとわかる。酷く心配そうな声で、重たい瞼を懸命に開けると目元を赤く腫らした女の顔が見えた。

 彼女の唇が動くとアネットの声が聞こえる。だから彼女は間違いなくアネットなのだが、アネットにしては目が小さかったし顔の彫りが浅い。これはただ化粧をしていないだけだったのだが、伍堂はすぐにそうと気づくことが出来なかった。


「どうして……ここに、アネットさん、が……?」


 意識はハッキリとし始めていたが、伍堂はまだ屋上にいるものだと信じていた。しかし、背中から伝わってくる感触はふわりと柔らかなもので本能的な嫌悪感を覚える臭いもしていない。

 アネットが瞳をうるませ声を出さないでいる間に、体の痛みを堪えて顔を横に向けてようやくここが屋上ではなく宿の一室であることに気づいた。ベッドに手をついて体を起こそうとすると、背中を中心にして全身へと激痛が走り呻き声が漏れる。


「あぁ……! まだ駄目です、横になっていてくださいな。随分と酷い怪我をなさっているのですからね。お医者様の見立てでは血も多く失っているとのことですから、しばらくは安静にするようにと仰っておられました」

「医者って……? 診てもらった覚えなんてないんですけど……あの、もしかして僕ずっと寝てたんですか?」


 アネットは静かに頷いた。


「はい、ちょうど丸一日寝ておられました。敵が撤退したにも関わらずゴドー様が姿を見せなかったそうで、ハリス様が探すと市庁舎の屋上で倒れていた……と。ドラゴンを倒されたということですが、かつての英雄達と同じ偉業をなされるのは誰もが称賛の声を送ることでしょう。ですけれど、命を失えば名誉も何も無いのです……どうしてそのような無茶をなさったのですか!?」


 尋ねられたところで伍堂はすぐに答えられなかった。


「どうしてなのですか!?」


 頬に涙を伝わせ、顔を赤くし、声を震わせながらアネットは詰め寄ってくる。落ち着いている彼女しか知らない伍堂は、ここまで感情を露わにぶつけてくるアネットに困惑しつつ、ぽつりと零すようにして答え始める。


「だって……逃げるわけにいかなかったんで……街で、死体を見たんです。壁の上で、焼かれる人を見たんです……。昔の戦争の写真を見たことがあるんです。とても、怖かった。写真なのに、白黒で、現実感もなかったけど怖かった。それと同じ場面が目の前にあったんです、やらなかったら……もっと酷いことになるって、そう思って……」


 大声を出そうとしたのかアネットの口が大きく開いたが、すぐに閉じられて喉からは嗚咽のような声が漏れる。アネットは唇を固く閉じたまま、歯を固く食いしばったようだった。その後、体を離すと伍堂に背を向ける。


「確かに、確かにそうかもしれません……けれど戦えるのはあなた様だけではなかったのです。別の方に任せてしまっても良かったではないですか……。生きていたから良かったものの、背中の肉が抉れて骨まで見えていたのですよ……」


 これを聞いて思わずゾッとした。けれども刹那に等しい一瞬のこと。結果として今も生きているからなのか、それとも感覚が麻痺してしまっているのか、それは分からない。

 背を見せるアネットは俯いたまま何も言わないがきっと泣いているのだろう。その証拠に彼女の肩は震えていた。


「泣かないでくださいよ……大丈夫です、生きてますから」


 彼女の体に触れようとして手を伸ばしたが届く距離ではない。それが分かっていても、伍堂はアネットへと手を伸ばす。


「えぇ、そうです……生きておられます。私としてはそれで充分なのです……すみません、目を覚まされたのでしたらハリス様をお呼びしませんと。ゴドー様の容態を大層気にされておられましたので、失礼致します」


 手を伸ばしたまま待ってくれと言葉を投げたが、アネットは目元を赤く腫らしたまま伍堂を見ようともせずに部屋を出て行ってしまった。

 一人きりになってしまった伍堂は扉をじっと見つめる。すぐには戻ってこないだろうと知りつつも、扉が開かれていつものアネットが姿を見せてくれやしないだろうかと願う。


 どうして良いのか、どうしたのか自身に問うても答えは無い。だが悔しさと罪の意識があった。アネットを泣かせてしまった自分自身が悔しくて、そして申し訳が無かった。謝りたいと思ったところで、その言葉を持っていない。

 扉から天井へと視線を向けて大きく息を吐き出した。背中の骨が剥き出しになっていると聞いてから、痛みが酷くなった気がするが怪我の内容の割には痛くない気もする。頭がどこかぼんやりとしているので、痛み止めの薬でも飲まされているのだろうか、それともゲームにあるような回復魔法でも使われたのだろうか。


 どちらでも良かった、自分の体の事よりも街の事が気にかかる。

 ドラゴンを落とした後、退いて行くオークの姿を目にしたことは覚えている。けれどもそこからは分からない。今、こうして宿屋に寝かされていることを考えると戦闘は終わっているのだろうが街の被害はどの程度のものなのだろうか。


 部屋の扉がノックされ、ハリスが入ってきた。彼もまた相当な目にあっているらしい、髪は乱れているし着ている服は煤に血や泥で真っ黒に汚れきっている。顔も少し細くなったように見えるし、眼の下にはクマも出来ていた。


「酷い顔、してますね」


 普段の毅然としたハリスからは想像できない今の姿に、彼が公爵の子息であることも忘れて伍堂は笑った。


「お前ほどじゃないさ。鏡を持って来てやろうか? 中々の伊達男になっているぞ」


 飛ばされた冗談にハリスは怒らず、おどけながら冗談を返す。結構です、と伍堂は首を横に振って応えた。


「さておきだ、本当は労いの言葉や称賛するべきなんだろうが生憎と時間……そして私自身にそれだけの余裕が無い事を謝罪しておく。早速だが、貴様が成したことの結末と今後の予定を話したい。構わないな?」


 無言で頷いた。伍堂にそれだけの余裕があるかは怪しいところだったが、笑みを消したハリスの顔にも疲労の色が濃い。待ってくれとは言えなかった。


「貴様がドラゴン撃ち落としたのは、結果を変えるようなものではなかった。敵の数は我々よりも少なく、シオ中心部の市庁舎へと集結していた。ネアトリアの精鋭が協力してくれたこともあり、いずれにせよ奴らは包囲され殲滅されていた。だからといって無駄ではない、結果へと至る道筋は幾つもあったが貴様の行為は我々に最短の道を歩かせた。

貴様も見ただろうが、市庁舎に籠城していた兵は不意の奇襲ということもあり負傷者が多く、士気は決して高くなかった。あのままいけば被害はさらに出ていたことだろう、けれども貴様はドラゴンを落とした。歴戦の勇士であっても目に掛けることは稀なドラゴンをな、これにより我々の士気は高まり敵の戦意は大いに喪失した。そこからは一気呵成、さほど死傷者を出すことなく敵を撃退することができた。これが、貴様の成したことだ。実感はあるか?」


 首を横に振ると、ハリスはそうだろうなと小さく笑った。

 実感などというものは微塵もなかった。多くの死傷者が出なかったというところに安堵しそうになり、息を吸い込むところまではしたがあることが気にかかった。


 ハリスの言っている死傷者は兵士の中だけの話で、シオに住む人々の事ではない。それに気づいた伍堂の表情が翳り、ハリスは眉を顰める。


「あの……どれだけ、死んだんですか? 宿から市庁舎に向かうまでに僕は見ました。酷い有様でした……僕が生まれる前、僕の国は戦争に負けて焼かれました。その光景は話や写真でしか見たことはありませんが、知識でしかない光景が僕の目の前にありました……」


 口にしながら思い出す。手足が有り得ない方向に曲がった遺体、冷たくなった子供の体、そして血と煙の混じった死の臭い。

 伍堂の手足が小さく震え、少しずつ大きなものへとなっていく。恐怖が膨れ上がる。既に終わったことだとは分かっているが、こうして落ち着いていると氷のように冷たい波が体の中で荒れ狂う。


「貴様は誤魔化されるのが嫌いな人間だと思っている。ここで真実を言うのは酷だろうが、隠すのはより辛くさせるだけだろう。だからあえて言うよ、市民に及んだ被害はまだ確認できていない。誰が死んだか分からない、何人死んだかも分からない。あれらは理性無き獣だ、抵抗できない市民を嬉々として殺していた。頭をもぎ、絶命しているにも関わらず手足を折り腹を引き裂いていた」


 何かを食べた覚えはない。胃の中は空っぽのはずだ、にも関わらず粘つく熱いものがこみ上げて喉を焼き、溢れだしそうで手で押さえた。


 凄惨な光景を脳裏に再生したからではなかった。それを指揮していたのは魔物ではない、怪物ではない。人間なのである。それもこの世界の人間ではない、伍堂と同じ世界の人間。同じ日本に生まれ育ったはずの、同じ常識を持っている人間がそれを指揮していた。

 その事実が伍堂の身を震わせた。怒りか、恐怖か、それは分からない。身の内を駆けまわる冷たい波は熱い炎に変わり心を焼く。肩を押さえて身を丸くした。


「それで……これから、どうするんです?」


 腹の底から声を絞り出す。

 問わなくてもハリスの言う事は分かっていた。問わなくてもハリスが言うのは分かっていた。


「殲滅する」


 部屋は静かでハリスの声が酷く大きく明瞭に聞こえる。


「奴らの本拠地は大体の察しがついている。逃走した方角から考えるにダンエイ山の辺りだ、あそこら辺は森が深いうえに山岳地帯で村もない。忌まわしいもの共が身を隠し生を永らえるにはそこしか考えられん。他の諸侯の領土との境目ではあるが、山向こうはクリプトン伯領だからな問題はない。私も個人的に交友のある間柄で、妹の婚約者でもある。どうとでもなるさ、そしてそれを聞いてどうする? 聞かれた時点で考えは分かっているとも、だが答えろ。貴様の口で意思を明らかにしろ」


 ゆっくりと顔を上げてハリスの顔を真正面に捉える。彼の瞳は瞬きもせずに伍堂を向いていた。


「あのドラゴンには人間が乗っていたんです、名前は四谷。僕と同じ世界の奴だ、会ったのはこっちが初めて。だけれど……行かなきゃならない」


 ハリスは伍堂に顔を向けたままゆっくりと瞼を閉じ、そしてゆっくりと瞼を開け澄んだ瞳で伍堂を見据える。


「何故だ? 何故、貴様が行かなければならない。同じ世界の奴だから? 理由としては曖昧だ、行けばこの街で貴様が目にした光景よりもさらに酷いものを見ることになるぞ。戦場だからな、命を奪い奪われるかもしれない。絵物語など嘘っぱちだと知った上で尚行こうというのか、何故?」


 彼の問いに対する答えを伍堂は持っていない。

 四谷を止めなければならないという使命感に似た衝動が胸の内にあるが、出どころは明らかではない。同じ世界、同じ日本の人間だから責任を感じているのだろうかと考えたが腑に落ちなかった。けれども行かねばという衝動は強く大きく、大火となって身を焦がす。


 伍堂は首を横に振る。


「分からない、けど行かないと。いえ、行きたいんです」


 ハリスは何も言わない。ただ伍堂の目から視線をそらさない、瞬きもしない。そうして一〇秒が経とうかというところで、彼は大きく息を吐き出して立ち上がった。


「ならばそうしよう。貴様の銃の腕は確かなものだと認める、戦力として有用だとも認める。ドラゴンがまた現れたのなら貴様は大いに助けになるからな。だがまずは休め、食事を取り傷を癒せ。我々もすぐには動けない、この街の被害状況を明らかにした上でスタイン市へ戻り隊の編成が不可欠だ。ネアトリアの客人のこともあるからな、時間はある。わかったな?」


「はい、わかりました」


 そう答えて深呼吸を一つして肩の力を抜くと、視界がしばし暗くなり体がぐらりと傾いた。慌てて姿勢を戻し気合いを入れると視界の暗さは無くなったが、頭の中に雲が浮かんでいる。

 血を流したのに、水も飲んでいないし食事もとれていない。貧血に違いなかった。


「アネット嬢に食事を運ばせよう、無理をしてでも食え。食べて傷を癒し、肉体を作るのもまた戦いだ。善戦を期待しているよ」


 ハリスの言葉に頷くと彼は部屋に出て行った。扉が閉め切られ、横になると睡魔がやって来る。

 けれども眠るわけにはいかない。眠れば食事はとれない、糧となるものを口にして肉を作らねばならない。そう、戦いは始まった。

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