第33話 変化(1)

 怒りは多大なエネルギーを消耗させる。持続させようと意識したところで早々できるものではない。余程の恨みでもあれば別だろうが、ほとんどの場合は寝て起きてしまえば雲散霧消してしまうというもの。

 蝶の社交場、そして帰りの馬車の中で伍堂は激昂していたが屋敷に帰る頃には落ち着いており、部屋に戻って来た時には鎮火していた。

 そしてやって来るのは居心地の悪さである。

 アネットに見せてしまったものはまだ良いとしても、パウエルに対して掴み掛かってしまったことには罪悪が残った。時刻は昼を過ぎて、太陽は西に傾き始めている。帰りの馬車の中で、午前中の訓練は無い事をパウエルから伝えられていたが、午後の座学については何も言っていなかった。

 暴力を振るってしまった直後のことだ、伍堂の本音としてはパウエルに会いたくはない。それどころかこの場から逃げ出したい衝動すらある。それでも伍堂は部屋から出ることなく、パウエルを待っていた。

 屋敷は酷く静かだった。廊下からは人の声も足音も聞こえない、窓の外から鳥の歌も聞こえない。たまに風が吹いて木々のざわめきがあるだけだった。

 ソファに腰を落ち着け、テーブルを眺めながらただ待った。時折、ドアノブに視線を移して回るかもしれないと見ていた。時間を計るために窓の外を見た、日は西へ西へ、地平線の向こうへと歩みを進めている。

 いつもならパウエルが部屋を訪れているだろう刻限になっていた。もしかしたらもう来ないのかもしれない、あんなことをしてしまった直後なのだ。連絡なしに来なくてもおかしくない。

 安堵しながらも何故だか残念で、溜息を吐きながら立ち上がったときだ。廊下から忙しない足音が聞こえた、走っているようにも聞こえる。それはあっという間に近づいてくると、伍堂の部屋の前で止まった。続くノックと共に、書物や巻物を抱え額にうっすらと汗を浮かべたパウエルが入ってくる。

「待たせてすまない。君が見たいと思うような書物を書庫で探していたんだが、予想よりも時間がかかってしまった。遅れた侘びというわけではないが、今日持ってきた書物はしばらくここへ置いておくことにする。私がいない時でも好きに読んでくれてかまわない」

 来ないと決め付けていただけでなく、彼に対しての罪悪もあって伍堂は俯きパウエルの顔を見ようともしない。パウエルはそんな伍堂を見ても気にした様子を見せず、ローテーブルの上に持ってきた書物を並べた。

 気まずさはあるものの、パウエルが持ってきた書物には興味がある。伍堂がそれとなくテーブルの上を伺うとそこにあったのは、歴史書、魔術書、百科事典に地図といったものだった。

「馬車の中での君は冷静でなかったことは承知している、けれども色んなことを知りたいというのは紛れもない本音だろうと思ったからね。これで私たちが君にしていることの罪滅ぼしになるだろうとは思っていないが、そんな話を今するのはよしておこう。そうだな……ゴドー、君はまず何を知りたい」

「いえ、そんなことよりも……すみません、でした」

 小さな小さな声だったが口にしたのは紛れもない謝罪の言葉であり、伍堂は居住まいを正し二つの膝頭をくっつけて限界まで頭を下げていた。

「謝らなくていい、真実を知ればあぁなるのも当然だろうし遅かれ早かれそうなるだろうというのは予測していたさ。それにだ、私は少しばかり嬉しかったのさ。私は遠慮なんてして欲しくはなかったのだが、君というやつはどこか本音を隠しているように見えていたからね。その君が、怒りの助けがあったとはいえ考えていることを口にしてくれたのは嬉しかった」

 パウエルは伍堂に語りかけながらも、視線を向けてはいないのかページを繰る音が聞こえていた。伍堂はパウエルに返す言葉がなく、下げた頭を上げられない。

「ただ一つだけ聞きたいことがあってね、君は英雄になる、そう馬車で口にしていた。激情に流されてついた言葉だとは思うが、本当かね? そうであってくれたら私としては嬉しいが、ここには君と私しかいないんだ。耳をそばだてる者もいない、公爵に報告することもしない。思うままのことを言ってくれ」

 ゆっくりと顔を上げたが、まだパウエルの顔を見る度胸は無くテーブルの上に並べられた書物に目線を彷徨わせる。

 パウエルの言うとおり、あの発言は激情に駆られるまま口からついて出てしまった言葉だった。ただ改めてどうしたいかと問われた時、必ずしも撤回できるものではなかった。

 彼らが求めるような英雄になれるとは思えないが、なりたくないわけではない。なりたい、と言えるほどの確たるものはないが、彼らの期待に応えたいのが本当のところだった。

 エプスタイン邸の人々は理由があって伍堂を良くしていたということを知ってしまった。彼らが優しいのは全て演技なのかもしれないが、良くしてもらっている事実は変わりない。それに今、パウエルは伍堂の言った事を真に受けて要望に応えようとしている。

 少なくとも伍堂は英雄になれなくとも、パウエルそしてハンゲイトの期待には応えたかった。

「僕はこれといった特技もないどうしようもないやつです、けれどパウエルさんを裏切りたくないです」

「それが答えか。なら本題に戻るとしよう、君はまず何を知りたい? いつもしている語学と並行して、この世界のことを教えよう。だが世界のことといっても大まか過ぎる、具体的に何が知りたいか教えてくれ」

 パウエルが書物を滑らせると、伍堂の視界の真ん中に三冊の本と一本の巻物がやってくる。

 歴史書、魔術書、百科事典、世界地図。伍堂は宙に指を迷わせはしたが、世界地図を指差した。

「ネアトリアについて教えてください。僕は人に出身を尋ねられたときにネアトリアのさらに東と答えます、けどネアトリアの事は知りません。それに度々聞く国の名前ですから、知っておきたいです」

「ほぅネアトリアときたか。少し予想外だったが、もうすぐネアトリアからの使節団がやって来るしちょうど良いだろう。ただ私はネアトリアについては常識程度しか知らないから、後でライドンに聞くのがいいだろう、あいつはネアトリアに憧れているところがある。本当はハンゲイト君に教えてもらうのが一番だろうね、彼は過去にネアトリアに行ったことがある。さておき、まずは地図を開こうか」

 そうしてパウエルは巻物の紐を解いて広げた。

「ここが我々の王国、そして南東の海に幾つも島が並んでいるだろう。ネアトリアとの往来はこの南東諸島伝いに行っている、その南東諸島の先にある大陸がネアトリアだ」

 パウエルの指が地図の上を這い、伍堂はそれを追いかける。このフォールス王国を中心にした地図だから当然といえば当然かもしれないが、地図はネアトリア全土を描いていなかった。せいぜい半分、もしかすると四分の一程度かもしれない。

 縮尺がないのでフォールス王国とネアトリアの面積比較ができないのだが、地図の描かれ方を見ているとネアトリアの方が大きそうだ。

「かなり大きな国ですね」

「いや、そうでもない。実際の面積でいえばこの国とそれほど変わらないし、彼らがあの大陸全土を統一したのはつい最近のことだ。まだ幾つかの地域では内戦が続いているようでね、そのせいか軍事力でいえば我々を上回る。年に一回、使節団を送りあって交流しているが油断ならない連中だよ」

 はぁ、という気のない返事が伍堂の口から漏れた。伍堂が知りたいのはそういうことではない、例えば国王は何という名前だとか、良く口にする食べ物はなんだろう、とかそういったことだ。

「そんなことを知りたいわけではないだろうが、覚えておいてくれ。連中は征服することしか考えていない、とね。というのも、もしかするとゴドー君も使節団と顔を合わせるかもしれない」

「え? 使節団って向こうの代表者ってことですよね、僕がそんな人たちと会うかもしれないんですか?」

「あぁ、といっても正式な場で会うことはないだろう。ネアトリア使節団は海を渡って、我々の領内にあるシオの街に立ち寄るんだが、君にそこに出かけてもらおうかという話があってね。何故かといえばシオにグレコ工房というのがあるんだが、そこで新型銃を作らせていてね。君にそれを見てもらうと同時に、受け取ってきてもらおうという話が出ている。まだ話をしているだけだがもしそうなった場合、君がシオに行く頃ちょうど使節団も到着しているだろうからね」

 ここでまた怒りの炎が燻り始めた。彼らは勝手に行く先を決めようとしている、しかもパウエルは馬車の一件が合ったばかりだというのに事も無げに言うものだから余計に癪に障る。

 腹が立ちはすれども馬車の時ほどではない、抗議をするなら話が終わってからでも構わない。今は表情に出さぬようにと努めたのだが、パウエルはそれを見抜いていた。

「すまないが、これは公爵が君と直に話していると言っていたんだが……ダダリオ村で君の挙げた功績に対し、新型銃を君に渡すと同時に出来栄えを確認してもらう、と。てっきりこれは君の同意が既にあるものだとばかり思っていた」

 言われてそんな話をしていたことがあったのを思い出した。

 夜にエプスタインが訪れて、褒美に何が欲しいと尋ねてきたのだ。その時に欲しい物は浮かばなかったのだが、エプスタインの提案に流されるまま新型銃を貰うことになっていた。ただ、頑張って記憶を掘り起こしてもシオに行く話をした覚えはない。

「確かに新型の銃を貰う話はしました、けれど僕がシオに行くなんて話はしていません。公爵様もそんな事言っていなかったと思いますし、僕もシオに行きたいとは口にしていません」

「なるほど、シオに行くことに関しては公爵の思い付きかもしれないな」

 パウエルはうーん、と唸り声を出しながら腕を組み考え込み始めてしまった。そんなパウエルを見ていると伍堂はやってみたいことがあることに気づく。

 大したことではないかもしれないが、一言で良いからエプスタインに言ってやりたくなったのだ。ここでの生活を見てくれているのはエプスタインだということは充分に理解しているし、パウエルやハンゲイトが便宜を図ってくれるのも彼の指示あってのものだろう。

 けれど、伍堂がこの世界にいるのはそもそもエプスタインの企みによるものなのだ。そこに伍堂の意思は介在していない。そう考えれば彼が伍堂の世話をするのは当然のことであって、良くしてくれているからといってそこまで恩義を感じる必要はないのではないか。

 伍堂はこのように考え始めていた。

「それはそうとしておいてだ、君はシオに行ってみたいと思うか? この世界について教えてくれと言っていたからね、公爵の考えはひとまず横に置いておこう。どうだ?」

「そうですね……」

 すぐには答えられなかった。シオの名前は度々耳にするので興味はある、本音は行きたいのだ。しかし、それを口にするのは憚られたし、簡単に行きたいと答えてしまうと彼の思い通りに動いてしまうことになるのが癪だった。

 ローテーブルの上の地図に視線を落とす。スタイン市を見つけると、そこからシオへ。他国の使節が中継のためとはいえ立ち寄る街なのだ、さぞや賑わっていることだろう。

 伍堂は視線を逸らさず、唇を開く気配すら見せなかったがパウエルはいつもそうするように待っていた。そして、地図を眺めること数分。ようやく決心がついた。

「行きます」

 顔を上げ、パウエルの顔を真正面から見据えながら答えた。

「わかった、では君がシオへ行けるよう進言するとしよう。といっても公爵は元々そのつもりだから、進言する必要なんてないだろうがね。後そうだ、これは私個人の興味から聞くのだけれど、どうして行こうと思ったんだ?」

 理由を問われるとは予想していなかったが、伍堂は淀みなく答える。

「理由らしい理由は、無いです。ただなんというか、この屋敷の外に出たくなったんです」

 間違ってはいないが、これが本当の答えではない。

 シオに行きたい理由はないのだ。あえて言うなら好奇心、よく耳にする街がどんなところか見たくなったというだけのこと。エプスタインのお膝元であるスタイン市から離れられるのなら、シオでなくても良かったのだ。

 もし屋敷から出たい理由を問われたらどうしようかと思うところはある。その理由はしっかりと存在しているのだが、パウエルに教えたくないものであり、そして誤魔化し方を思いついていなかった。

「そうか。それだけで充分な理由になる、シオはこの国に幾つかある主要な港の中で最も南東諸島に近い。そのため他の港と比べ国外の人間も多く、君はそう思わないかもしれないが異国情緒に溢れていてね。私なんかは歩いているだけでも楽しい街だ」

 痛いところを突かれることは無かったが、パウエルの口元がほんの一瞬の間とはいえ小さな笑みを作ったのを伍堂は見逃さなかった。

 彼は伍堂が隠した本当の理由を察したのだろう。もし、彼が察したものを公爵に伝えたらと思うところはあるが、パウエルなら黙っているだろうという妙な確信めいたものがあった。

「話はこの辺にしておこう、ゴドー君自身が希望したのならシオに行くのは確定したようなものだ。となると、ネアトリアについて知りたい気持ちが強いだろが、シオの予習をしておくべきではないかと思う。それにシオなら領内の街だし、実際に私が訪れたことのある場所だ。ネアトリアよりも多くのことを教えられると思うが、どうだね?」

 断る理由はどこにもない。パウエルの言うことは最もで、どんな旅になるか分からないが行き先について知っておくのは大事なことだ。それに当初はあまり関心を惹かれなかったが、パウエルの口から確定したようなもの、と聞かされると僅かながら興味が湧いてくる。

 パウエルの提案に承諾の返事をしながら、伍堂の手は黒板とチョークを握りメモの準備を整えていた。

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