第31話 蝶の社交場(4)

 言葉が出せなかった。獣欲ではない別のものが伍堂を滾らせていた、そしてそれはアネットのせいでないことは分かっていた。けれども彼女の肩を掴む手から力が抜けない。抜けてくれない。


 溢れ出てくる怒りを表現しているのか、それとも発散させようとしているのか。どちらか分からない。


「ゴドー様? どうされましたか、私は何か気に障るようなことをしてしまったでしょうか?」


 髪を振り乱しながら首を横に振った。彼女はおかしいと思わないのだろうか。伍堂はフェミニストではないが、彼女の出産経験をアピールする発言は異常であると思われた。


「どうして、子供を産んだことがあるなんてことを言ったんですか……? それと、服を直してください。脚も閉じて、はしたない真似は止してください」


 彼女の肩から手を離し、顔を見られないように背を向けた。


「どうしてと言われましても、それが大事なことだからです。女性にとって最も重要なことは子を産むことが出来るかではないですか? 言葉だけでは安心できないと言われるのでしたら、その連れて来ることも出来なくは無いですが」


 衣擦れの音が聞こえる、きっと言った通りにしてくれているのだろう。それはそれで安心できたが、彼女がさも当然のことのように言っている内容は火に油を注ぐものだった。


「それがおかしいと言ってるんですよ、差別じゃないですか人権はどうなってるんですか」


「ジンケン……? それはどういうことでしょうか、勉強はしているつもりですが初めて耳にする言葉です。私が無知で浅学であることが悪いのですけれども、お教えしていただけませんか?」


「人間なら誰もが持ってる権利ですよ、人間らしく生きるための権利。それが人権です」


「はぁ、権利ということは法に定められているものなのですよね。お言葉ですがゴドー様、私この国の法典にも目を通しておりますがそのような権利は定められておりませんよ」


 思わず振り返るとアネットは伍堂に言われた通りに脚をぴったりと閉じていた。


「やはりゴドー様は異なる世界から来られたようですね、少なくともこの国の男はそのようなことを決して口には致しません。考えることすらしないでしょう、子産むことが出来ない女は男にとっては価値がない。人の良い男でもそう言うのです。一つお願いがあります、私はこの部屋の中での出来事は他言しないと誓っております。ゴドー様もそう約束していただけないでしょうか、しばし有りのままの私でいたいのです」


 今までのは演技だったのか、それはそれで薄ら寒いところがあるのだが伍堂に承諾以外の選択が浮かぶことはない。


「わかりました、約束します。僕もその、見苦しいところを見せてしまってますから」


「感謝します。少し長くなるかもしれませんので、お座りになってください。ベッドよりもソファで、その方が座りやすいですしワインが残っていますから、それを飲みながらお話しましょう」


 二人してソファに腰を下ろし、新たにワインを注いだグラスを手に持つ。小さなソファだが、アネットは伍堂から距離を置くように座った。近すぎないのは良いことだったが、今度は彼女が窮屈そうに見えてしまいそれはそれで心苦しいところがある。


「これまでの話の中でもしやと思ったのですが、ゴドー様はこの蝶の社交場がどのようなところなのか教えられていないのではありませんか?」


 間髪をいれずに頷いた。連れてこられる時、パウエルに尋ねてはいるのだがはぐらかされたり抽象的だったりで、詳細な説明は一切受けていない。


 これを伝えるとアネットは嘆息を吐き出して緩く頭を振った。


「やはりそうでしたか、蝶の社交場は二階ある酒場と同じように思われる人も多いのですが違います。ここは基本的に出会いの場なのです。貴族の長子以外や、裕福な商家の者が妻を捜しに来る場所です。ですので籍を置く女性も皆、貴族あるいは商家の人間なのです。ここに来る男が求めるのは教養があり、男を悦ばせる術を持った、子を産むことが出来る女性。ですのでここの女は皆、子供がおります。夫婦のように床を共にするのも、本来は子を成せる女かどうか直に確認するためなのです」


「そんな、場所だったんですか……」


 男の性を発散させる場所だとばかり思い込んでいた伍堂は、ここがそんな目的な場だったということに唖然とするしかなく、文化の隔たりを強く感じさせられた。


「えぇそうです。私は三週ほど前からゴドー様の伴侶の候補として見定められておりました、ですので話を伺っていたのです。実を言えば私も貴族の娘でして、姓をオルソンと言います。あまり格のある家とは言えないのですが、父はエプスタイン様の治める別の町の警備を任せられております。父は私がエプスタイン様の屋敷に勤めるゴドー様の伴侶候補として見定められたことを伝えましたら、それは酷い喜びようでした。私としましてもそのような方の妻となれるかもしれない、そう思えば自然と気合が入りました」


「そう、だったんですか……」


 彼女に対し申し訳なさを感じる伍堂だが、同時にふつふつと湧き上がる怒りもある。そしてその対象はアネットではなく、エプスタインだった。


 この怒りがどこからやってくるものなのか、出所はわかっている。伍堂はこの世界にずっといる、そう明言した覚えはないし、三週前といえば今以上に余裕なんてない時期だ。


 そんな折にエプスタインは伍堂の意思とは関係なく、妻帯させようと考えていたということ。これが怒りの原因だ。


「伴侶なんてそんな僕には……」


 必要がない、とまで言いかけたが飲み込んだ。恋人なんていたことはないし、結婚なんてまだまだ先のこと。けれどもいずれは現れるだろう好きな人と結ばれて、所帯を持ちたいという願望はある。


「おや、私が妻ではご不満がありますか? 私は二十二歳ですから、蝶としては年増になってしまいますがその分それだけの時間を学びに使えたのです。子を作ることにも問題はありませんし、大きな病気の経験もありません。歳は取ってしまいましたが、その分だけ既に多くを習得していると自負しております」


 有りのままの私を見せる、そう彼女は言った。なのに伍堂に対してアピールをする理由がわからず、訝しげに顔を上げた。


 伍堂は自分に男性としての魅力はないと思っている。経済的な面でもそうだ、女性からアプローチを受けて困惑しているところがあった。


「アネットさんは今は建前やお世辞は言わない、とそう言っていたと思います。僕も建前やお世辞を言って欲しいわけではないんです、本当のことを言ってくれていいんですよ」


「本当のことなのですけれどね。私はゴドー様が夫になって下されば、娶って頂けないだろうかと思うておりますよ。もちろんこれは先に述べましたとおり、嘘偽りのない本心です。有りのままの、私です」


 魅力に溢れる女性がこうまで言うのだ、喜ぶべきだろう。逞しい男であればこの場で彼女を押し倒しているだろう、けれど伍堂は彼女から距離をおきたい。


 アネットの目は輝いてた、それは夢見る少女の輝き。彼女もまた、伍堂を見ていない。


「そう言って貰えるのは嬉しいです。けれど僕は妻とかそういうの、どうでもいいです。そういうの、まだ早いと思うんです。それにです、一緒になるなら好きな人とが良い」


 手の中にあるグラスを傾け、一気に煽る。食事の時は味が分かったのに、今は味を感じない。アルコールのもたらす火照りを喉に感じるだけだった。


「なるほど、分かりました。つまりゴドー様を振り向かせれば良い、俺を惚れさせてみろということですね。幾人もの男の方と触れ合う機会はありましたが、面と向かってそのように言われたのは初めてのこと。あぁ、恥ずかしい私は恋というものを理解しておりませんでした。今まではつもりに過ぎませんでした、今日はじめて胸に火がつくというその表現の意味を実感いたしました」


 オブラートに包めば良かったと後悔し、伍堂はグラスを強くテーブルに叩くように置いて立ち上がり、アネットを見下し息を吸い込んだ。


「違う!」


 突然の怒声にアネットの肩がびくりと震える。怖がらせてしまったことを恥じ入りはするが、酔いの力に後押しされて伍堂はそのまま捲くし立てた。


「そういうことじゃない、あなたが僕と結婚したいと言ってくれる事自体は嬉しい。でもそれは違うんだ、あなたは僕に対してそう思うべきじゃない。あなたは僕の何を知っていると言うんだ、僕はあなたの何を知っていると言うんだ。あなたは恋を知ったと言ったが、そんな感情はもっと別の人に向けるべきなんだ。それが誰かなんて僕は知らない、けれどそれはあなたが自分の意思で選ぶべきなんだ。大体なんなんですか、子供を生めない女に価値は無いとか、おかしいでしょ。おかしいんだよ、エプスタインさんも僕をここに連れてきたパウエルさんも、あなただっておかしいんだ。僕にはわからない、わかりませんよ」


 一気に捲くし立てたものだから肩が大きく上下する。呆然と見つめるアネットを見ると、ここには居られない気がして伍堂は背を向けた。


 帰り道なんて分からない。日本よりも技術レベルが遥かに劣るこの世界、スタイン市の夜はきっと暗く、そして危ないものなのだろう。分かっていても、蝶の社交場に身を置いていたくはなかった。


「帰ります」


 短くはっきりとそう告げてドアノブに手を掛けると、アネットは伍堂の腕にしがみついてそれを回させようとさせない。


 振り払うのは簡単だろうが、それをやってしまえば彼らと同じになりそうで出来なかった。


「離れてください」


 彼女を怖がらせようと努めて低い声を出した。それでもアネットは離れない、逆により力を込めて伍堂を扉から離そうとするが、伍堂の方が圧倒的に力が強い。微動だにしなかった。


「お止めになってください、今この部屋を出てどこへ行こうというのですか。それに今、部屋を出ては良くない噂を立てられかねません。お願いですから、気分を害されたのであれば遠慮なく指摘してください。お願いします、お願いしますから、部屋を出て行かずにどうかここに留まってください」


 懇願するアネットの声は震えていた、怒りを込めて見下ろせば彼女の目には涙が溜まり小刻みに震えている。女性を泣かせるのは本意ではない、アネットを泣かせてしまった自分自身にも怒りを覚え、大きく息を吐き出した。


 それだけでも効果はあるもので、鎮火はしなくとも勢いは収まる。


「すみません、あなたを泣かせたり怖がらせたりしたいわけじゃなかったんです。出て行きませんから、腕を放してください」


 穏やかに言ったつもりだったが、実際に出た声は未だ怒りに震えていた。それでさらに怯えさせてしまったのかは分からなかったが、アネットは恐る恐る腕を放すと胸の前で手を組んで伍堂から離れる。


 再び怒りを静めるために息を吐き出した伍堂はソファに腰を下ろすと上体を折り曲げ、頭を抱えた。そういうことがしたかったわけではない、スマートに出来なかった自分が悔しく、泣いてはならないと思いながらも視界が滲み、嗚咽が漏れる。


 アネットからしてもどうして良いか分からない事態だった。気分を害させるようなことはしていないはずなのに、伍堂は部屋を飛び出そうとし、そして今声を出して泣いている。


 手を組んだままそんな伍堂を見ていたアネットだが、放っておいて良いわけがないと近づいた。近づけば伍堂はまた烈火のごとく怒るかもしれない、けれどもアネットは伍堂の隣に腰を下ろすとその頭を撫でるのだ。母のように。


 伍堂は突然の後頭部を撫ぜる感触に驚いたが、その慈しむような撫で方は懐かしく、涙を流すたびに千々に乱れて散らばった心が纏まっていくようだった。


 一度、また一度と撫ぜられるたびに嗚咽は小さく頻度は長く、涙の量も少なくなりついに止まる。だが顔を上げない、上体を折り曲げたまま頭を抱えたままだった。


 伍堂が泣き止んだ事を知ると、アネットは伍堂の体を抱きしめる。柔らかとは決していえない抱擁だが、その力強さと暖かさはやはり伍堂にとって懐かしさを感じるものであり、心を静めるには充分すぎた。


「どうして、そういうことをするんですか……?」


「何故でしょうか、良くわかりません。あなたを悦ばせたいわけでも、慰めたいわけでもありません。ただ放っておきたくはなかったのです。これは建前ではありません、私の本心なのですが……信じていただけますか?」


 穏やかな声だった。これが嘘である筈がないと、伍堂は頷く。


「夜も更けてまいりました、お休みになられてはいかがでしょうか。眠りとは偉大なもので、例えどれだけ心が乱れていても、眠りは落ち着かせてくださいますから」


 アネットの言う事は最もだ、そういった経験は過去にあった。今日は眠ってしまうのが良いのだろう、けれどアネットはどうするのだろうか。


 彼女もおそらくこの部屋で寝るのだろう、しかしベッドは一つしかない。本来はそれで何ら問題はないのだが、伍堂は本来行われることをするつもりはなかった。アネットも今はそれを承知しているはずだから、大人が二人横になれるサイズのベッドでも一つしかないのは不都合がある。


「アネットさんはどこで寝るんですか?」


「お一人になられたいだろうとは思いますが、朝になりゴドー様が帰られる時になるまで私も部屋を出ることは出来ません。色々と、良くない噂が立てられてしまうのです。私のことだけならば良いのですが、それはゴドー様にとっても良くないものです、すみません」


「そうだろうとは思っていました、だったらアネットさんはベッドで横になってください。僕はソファで充分ですから」


 二人が座れるソファではあるが、ベッドの代用には小さい。けれども床で眠るよりはマシだ、体を痛めるかもしれないが屋敷に戻って休めばそれも回復するだろう。


「ゴドー様が嫌がられることは分かっていますが、一緒に横になっていただけませんか? 決してそのような事は致しません。ただ、出来れば身を寄せ合うことが出来ればと思うのです。これが我侭であることは承知しております、それでも叶えていただくことは出来ないでしょうか」


 断ろうかと思ったが、今こうして抱きしめられているだけで心は安らいでいた。今の彼女なら不快になってしまう行為に出ないという確信もあり、伍堂は承諾した。


 ゆっくりと顔を上げればそこには穏やかな笑みがある。気だるさも、妖艶さもない。蝶ではない、アネットがただそこにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る