第30話 蝶の社交場(3)

 無言の時間が過ぎていく、伍堂は何も喋らない。アネットもパイプの煙を燻らせるだけで話し出す気配はなく、ただくつろいでいるだけの様に見えた。


 時たま思い出したように彼女の視線は伍堂へと向けられたが、頻度は少ない上に本当に一瞥するだけ。そんな彼女の雰囲気がそうさせるのか、無理に喋らなくても良いのだと思えると気が楽になり、気づけばこわばっていた体をソファに預ける程度の余裕は持てた。


 静かな時間が過ぎていく、部屋にはアネットの吸っている煙草の香りがたっぷりと充満している。トントン、と部屋の扉を叩く音がした。


 アネットはその音を聞くとすぐさまパイプの火を消して、衣擦れの音も立てずに立ち上がると扉を開く。訪問者と二言三言話していたようだったが、声は小さく訪問者の姿を伍堂に見せぬようアネットは立っていたので内容を想像することもできなかった。


 何かあったのだろうか、それともしてしまっただろうか。彼女を不快な気分にさせてしまったという思いが伍堂の中にはあったのだが、振り返ったアネットはどこか楽しそうでその手には料理の盛られた皿があった。


「エプスタイン様お抱えの方が作るものと比べれば劣るかもしれませんが、ここの料理も一級です。スタイン市で食事を提供している中でも、一、二を争うほどのものではないかと」


 そう言ってアネットがテーブルの上に置いた皿の上には、魚を一尾丸々使ったフライに緑色をしたソースがかけられたものだけでなく、副菜というよりは彩りのためだろう、人参のグラッセらしきものが添えられていた。


 エプスタインの屋敷では肉を出されることがほとんどで、魚料理を前にするのは久しぶりのことだった。本音を言えば塩焼きや煮魚が良かったのだが、それでも魚を見ていると口の中に涎が溢れてくる。


 魚はどんな味がするのだろう、掛かっているソースは何だろうか。伍堂がそんなことを考えながら皿を見ている間にもアネットは配膳を続けており、気づけばテーブルの上には魚のフライだけでなくポタージュスープや瑞々しい葉野菜のサラダ、焼きたてのパンが盛られたバスケットそしてワインの瓶とそれを飲むためのグラスが並べられていた。


 ワイングラスは二人分だったが、料理は一人分しかない。部屋の戸は閉ざされており、さっきまでいただろう給仕は帰ってしまったようだった。配膳も既に済んだと見え、アネットはまた伍堂の隣にゆったりと腰を落ち着けている。


「あの一人分しかない様に見えるのですけれど……」


「私はこの部屋に来る前、既に食事を済ませておりますので。お気になさらず、食事をお楽しみになって下さい」


 嘘を言っていないようだったが、だからといって分かりましたとはならない。初対面ではあっても、二人でいるのに自分だけ食べていては相手のことが気になってしまう伍堂なのである。


「それでも、僕一人だけというのは何だか申し訳なく……それに気になってしまいます」


「お優しいのですね。でしたらワインとパンを頂いても? 私はか弱い女ですから、あまり食べると苦しくなってしまいますので」


 アネットの手が伸びて二つのグラスにワインを注ぎ、一つを伍堂に手渡した。そして乾杯、涼しげな音が鳴り二人同時にグラスを傾ける。酸味は強かったが渋みは少なく、アルコールもそれほど強くなく、そして後味もすっきりとしたものだ。


 パンを千切るアネットを横目に見ながらナイフとフォークで魚を切り分け、口に運ぶ。脂がたっぷりとのっていたが、ハーブの香りがするソースがその脂を上手く中和しくどさは一切なかった。食べ慣れない味ではあったが、魚の身が持つ味は親しんでいたものに近く自然と頬が綻び手の動きが止まらない。


「随分とお気に召していただいたようで、私が作ったものではありませんが嬉しく思います」


 はしたなくがっついてしまったかと動きを止めた伍堂だったが、すぐアネットは気にせず食べるようにと促してくれたので、食器を繰る手が止まることは無い。


「魚を食べるのは久しぶりで、何という魚かわからないんですけど美味しくて」


 メインディッシュばかり食べ続けてはバランスが悪い、ポタージュスープやサラダにパン。魚以外も美味ではあったのだが、魚の旨さの前には霞むようだった。


「魚が好きなのですね。スタイン市は海から少し離れておりますから、川魚が多いのですけれどもこれは海から採ってきたものです。その魚がお口に合うということは、ゴドーさんは海辺の出身なのですか?」


「いえ、そういうわけではないんですけど島国でしたから魚料理は良く食卓に上がりました。これみたいなフライも良く食べていましたが、それよりもシンプルに塩焼きにしたものや煮付け。刺身で食べることもありますね」


「刺身……ということは魚を生で食していたというのですか!?」


 急にアネットが声を荒げたものだから手が止まり、アネットへと顔を向けた。彼女は伍堂の言葉にひどく驚いており、目を丸くし口も開いたままだったが、伍堂が顔を見るとすぐ口元を手で覆い隠す。


「失礼いたしました。港など新鮮な魚が手に入りやすい地域ではそのように食すこともあると読んだことはありましたが、食べたことのある人と出会ったことはなくつい驚いてしまいました」


「僕からすると珍しいことではなかったですね。生だと食中りをするといって嫌う人はいましたけれど、でもほとんどの人は新鮮な刺身を喜んで食べますよ」


「ゴドーさんの国は恵まれておりますのね。私、ゴドーさんが遠くの国から来られたとは伺っているのですけれども、何という国からそれはどこにあるのかといった話は聞いておりませんの。もし宜しければお話してくださいませんか?」


「僕の、国の話ですか?」


 ほとんどの皿を空に近くしながら顔を横に向けると、すぐそこにアネットの顔があった。あまりの近さに思わずたじろいだが、アネットは引こうとするどころか伍堂が下がった分だけ前に出てくるものだから彼女の体と伍堂の体が触れ合う。


 年頃の男らしく体が触れ合っている事実にどぎまぎしながらも、伍堂の視線は押し付けられる彼女は胸へと向かってしまうのだが、すぐ非礼であることを思い出すと目を上へと向ける。


 アネットの目は好奇に輝いて、先ほどまで漂わせていた有閑さはどこかへと飛び去っていた。


「あ、えっと……その近すぎるんで、離れてもらえませんか。これだと近すぎて話しづらいので」


「あらいやだ、失礼いたしました。色んな方とお話する機会があるにはあるのですが、エプスタイン様の治める土地の外から来られる方と接する機会がほとんどなく、ましてやゴドー様は外国の方なのでつい興奮してしまいました。私としたことがはしたない真似を、お許しください」


 言えばすぐ離れてくれたアネットだったが、有閑さが戻ってくることはない。彼女はソファに背を預けることなく、脚を閉じて背筋を伸ばし目を輝かせている。教師を前にした生徒のように見えた。


 そしてここに来て伍堂は困ることになる。


 これまでの彼女の様子からかなりの教養があることは間違いない。ナンシーに言ったように、ネアトリアのさらに東から来たと言っても嘘だとばれてしまいそうだ。


 なら本当のことを、となっても別の世界から呼ばれて来たのだと言って信じてくれるのだろうか。さらに信じてくれるかどうかだけではない、彼女に話していいものなのかどうか悩ましい。


 どう話そうか伍堂が迷っている間にも、アネットは知らない外国の話を今か今かと心待ちにしているために体が揺れている。


「あの、僕はこの世界からでなく……別のところ、異世界から来たんですけど信じられますか?」

 結局、誤魔化す方法が思いつかずに有りのままを言う事にした。やはり突拍子もないことを唐突に言われたために、アネットは首を傾げている。これが漫画だったのなら、彼女の頭上に疑問符が浮かんでいるはずだ。


「別の世界……ですか? それは何かの比喩ではなく、言葉通りの意味なのですよね?」


「えぇそうです、そのままの意味です」


 アネットは背筋を伸ばしたまま、じぃっと伍堂を見つめている。恐る恐るだったこともあるが、異世界から来て信じてもらえるはずがない。


 くすくす、と口元を隠しながら彼女は小さく笑い声を上げた。当然だ、伍堂だってここに来るまで異世界なんてものが存在すると思っていなかったし、今だってまだこれは夢ではないかと思っているところもある。


「面白い冗談を仰りますのね、とてもではないですが信じられませんわ。それにもし、ゴドー様が別の世界から来られた、というのならその証拠を見せていただきたいものです」


 ここで、そうなんです冗談なんですよ、といって笑い飛ばせば良かったのだろう。けれどそれが出来なかった。仕方のないことだと理解していても、本当のことを信じてもらえなかったという落胆のほうが大きかった。


 力のない愛想笑いを返しながら、再び食事に手をつける。ほとんど残っていなかったため、すぐに皿は空になり、日本にいた時の習慣でつい皿を重ねてしまった。それをアネットは不思議そうに見ている。


「あのゴドー様? もしかして、今のは冗談ではなく本当のことなのですか?」


 無言で頷く。


 ここで彼女が求めるまま証拠を出せてしまえば良いのだが、生憎とそんなものはない。伍堂が日本からこっちに持ってきたものといえば、ティーシャツとジャージぐらいなものでそれも今はどこにあるかは分からない。日本の話をするのは簡単だが、形のある物を見せなければ作り話としか思ってもらえないに違いないのだ。


 だから伍堂はここで頷いても、彼女が信じるわけがないと思っていたし、唐突な嘘話をしたがために嫌悪されたのではないかと思うほどだった。


「信じます」


 小さな声だったが、アネットの言葉は確かに伍堂の耳に届いていた。


「えぇ信じますとも。先ほどは冗談だと笑ってしまいましたが、私はゴドー様の言うことに嘘偽りは一切ないと感じました」


「いやいや、冗談ですよ。別の世界なんてあるはずないじゃないですか、僕が住んでいたのはネアトリアからさらに東の海を渡った国ですよ」


 これは余計な気を使わせてしまったに違いないのだ。だからあれは冗談だったのだ、そういうことにするため肩を揺らしてみたのだが、奇妙なことにアネットはこの伍堂の発言は信じなかった。


「いいえ、それこそ嘘でありましょう。今までネアトリアより東に行った者も来た者もおりません。ゴドー様が初めての可能性は考えられますが、仮にそうだとした場合スタイン市に留まっている筈がありません。国賓として王都に迎えられているはずです」


「それは異世界から来たって同じじゃありませんか? 異世界から来た場合の方が王都にいて、スタイン市にはいないと思うのですけど。それにほら、僕はあなたに異世界から来たという証拠を何一つとして見せられてはいないんですよ。一度は疑ったのに、どうして信じたんですか?」


 口をつぐみ目を下に向けたアネットに気づくと慙愧の念が湧き上がる。


 どうしてそうなったかは分からないが、彼女は伍堂のことを信じてくれたのだ。なのに伍堂はそれを否定するばかりか、彼女を問い詰めてしまっていて立場が逆転してしまっていた。

 素直に喜べば良かったのだろう。けれどもそうしたいという気分すら出てくることは無かったのだ。


「信じた理由は、ゴドー様はあのパウエル様がお連れになられた方です。そしてエプスタイン様のお屋敷におられる方が嘘を吐くとは考えられません、それにあなた様の明らかに落胆した態度こそが本当のことを言っていたという無二の証拠でありましょう」


 きっと顔を上げたアネットの口から出た言葉は力強く、慙愧から気を弱くしていた伍堂は気圧された。


「加え、必死になって異世界から来た事を否定するように見えました。それは、これを言っていいものかは分かりませんが……拗ねている様に見えましたもので」


 言われてなるほどと思う。指摘され気づいたことであるが、確かに拗ねていたのだ。だからアネットに対し攻撃的になっていたのだ。


 これに気づくと居た堪れずに伍堂はソファから立ち上がり、アネットから距離を置くためにベッドの縁へと腰掛けた。


 伍堂はただアネットから離れたいだけだったのだが、彼女の目にはそうとは映らなかった。座れる場所が他に無かったとはいえ、ベッドを選んだのがまずかった。


 アネットに気だるげな雰囲気が戻り、表情は艶かしく妖婦さながらである。いや、事実そうなのだろう。


 つい伍堂が彼女のその姿に見とれてしまうと彼女もまたベッドの縁へと腰掛けた。伍堂のすぐ側に座るのはソファの時と変わりないが、拳二つ分の距離が開いている。そのことにどこか安堵しながら、伍堂はただ真正面の代わり映えのない壁を見つめていた。


 シーツの上に置いていた手の甲に何かが触れた、視線を落とすとアネットの指先が触れている。どういうことだと顔を上げたが、今のアネットは凄艶なもので見ているとどうにかなりそうだった。悩殺されてしまわないうちに意志の力で目を逸らす。


 そうしている間にもアネットの手は動き、彼女の指は伍堂の指を絡めとる。伝わってくる熱に男なら誰しも感じるだろう興奮を覚えながらも、込み上げてくるのは不快感だ。


「あの、これはどういうことでしょうか?」


 彼女を見ずに、絡み合う手を指差す。


「どうと申されましても、ここは蝶の社交場で御座います。ソファからベッドに移られましたので、そういうことかと。不躾な態度を取ってしまったというのに、嬉しく思いますわ」


 表情に出さない様に努めながら、胸の内でしまったとぼやいた。


 蝶の社交場などと洒落た呼ばれ方をしてはいても、ここが男性のための場所であることはパウエルとのやり取りで推察できていたことだ。それをつい忘れてしまっていたことが悔やまれる。そういう女であるアネットからしてみれば、ベッドに移動するということは求めていると受け取るだろうこと

 は容易に想像できたはずなのだ。

 

 伍堂が何も言わないものだから、アネットはそういうものだと思い込んでいる。拳二つ分開いていた距離は一つ分へと縮まり、それもすぐに無くなって体は密着する。


 嫌悪感は強まっていくが、それをどういった言葉で表現すべきか案じている間もアネットは誘惑の手を止めない。彼女の顔が、唇が伍堂の耳元に近づき温かな吐息が吹きかかる。


 人間とて動物であることに変わりない。伍堂の内にある獣性が低く唸り始め、体を巡る血は早く熱くなる。この熱のために思考能力は奪われつつあり、オブラートに包む余裕はなく、胸中にあるものを言葉にすることすら出来なくなりそうだ。


 本能が理性を上回らぬ内に伍堂はアネットの手を振り払い、彼女の両肩を掴んで突き放そうとした。だが本能の力は強い、伍堂の理性は彼女を離そうとしていたのにアネットを組み敷いている。


 吼えそうな獣に押し倒されたというのに彼女は拒否しない、嫌気すら感じさせない。それを受け入れるようにアネットは目を細め、自らの胸元に手をかけると服を肌蹴させる。なだらかな母なる曲線が露になりつつあり、背筋が震え汗が浮かぶ。


 喉が鳴った。


 この音で理性は獣性を一時とはいえ上回る、アネットの体の上から飛び退くだけでなくベッドからも飛び降りた。そのまま彼女から離れようと試みるのだが、アネットの一挙手一投足は男を誘うためのものでありその魅力から男である伍堂は逃れられない。


 目線すら離せない。口の中に渇きを覚えながら、暑くもないのに額に汗を浮かべ肩で息をしながら佇むだけ。他人が見たら変態に違いない、早く平静に戻らなければならないのにアネットはそれをさせない。


 衣擦れの音を立てながら上体を起こし、また縁へと腰掛けるが衣服の乱れを直そうとはしなかった。自然、伍堂の目は双子の丘が生み出す影へと向かう。


 彼女は何も言わず、唇で弧を描きスカートの裾を摘み脚を広げていく。


 これ以上は耐え切れない。伍堂は彼女に駆け寄り乱暴にその両肩を掴んだ。


「辞めてください……そういう事じゃないんです、僕は違うんです。そういうことをしたいわけじゃない」


 本能を抑え込みながら喉の奥から声を絞り出す。彼女の顔を見ないように俯いていたが、そうすると目に入るのは半ば開かれた脚だ。スカートに隠されているとはいえ、どうしても内側に秘されている肉を連想してしまう。


「先に申し上げましたように、今のゴドー様と私は夫婦です。ですからここはあなた様のもの、それとも子を成せるか不安ですか? もしそうでしたら心配はありませんわ、既に私は一子を産んだことがあります。子を作れぬということは有り得ません」


 アネットが自身の下腹部を指し示した時、血液は沸騰し脳も熱で溶かされてしまいそうだったが続く発言で背骨に氷が走った。


 血の熱は急激に冷え、咆哮を轟かせていた獣も穏やかに眠りへと就く。


「あの、今なんと言われましたか?」


「ですから子を産んでおりますから安心なさってください。お好きなようになさって――」


 アネットは最後まで言葉を続けられず、困惑を浮かべていた。というのも、彼女の肩を掴む手の力が異常なほど強くなっていたし、手の主が顔を引きつらせていたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る