第29話 蝶の社交場(2)

 急き立てるようなパウエルに促され玄関へと向かうとそこには一台の馬車が待っていた。ダダリオ村に行くときに使った馬車ではない。あの時は幌馬車だったがこれは装飾のついた箱馬車で、御伽噺でしか見たことがないようなものである。


 これを見た伍堂は蝶の社交場について確信を得て億劫になりはしたが、引き返すこともできずおっかなびっくり座席へと座った。想像していたほどの座り心地ではなかったが、以前に乗った馬車と比べると天と地ほどの差がある。


 走り出しても大きな揺れを感じることはない、サスペンションになるようなものが付いているのだろう。そんな高級車に乗って向かう蝶の社交場に畏れに近いものを感じながら、隣に座るパウエルを窺ってみたが彼は意味深に笑い返すばかり。


 この分だと質問をしたところで、行けばわかる、そう笑いながら言われるだけに違いない。窓の外を見ているとスタイン市へと向かっていくことがわかった。


 衛兵の守る門を抜けて人でごった返す大通りに入ると、牛の歩みで馬車は進む。窓の外を眺めていると通りを行く人々と目が合ってしまいそうで正面を向いた、見えるのは御者の背中だけ。壁を見ているのと大差なかった。


 目は向けずとも意識は外の人通りへと向いており、耳は喧騒を披露。以前にライドンと訪れた時も騒がしかったが今はその時以上に騒がしい、夕飯時が近いからなのだろう。どんな話がされているのか耳を澄ましてはみても、声が多すぎて聞き取ることができなかった。


 退屈さを覚えて隣のパウエルをまた覗き見た。彼は足を組み、つま先を揺らしていたし眦も下がっていた。彼に対しにこやかなイメージを抱いていた伍堂ではあるが、だらしない程に浮かれている彼にぎょっとしてしまい体が跳ね、馬車も揺れた。


「ん? おっといかんいかん、すまないね。蝶の社交場に行くのは久しぶりでね、ついつい頬が緩んでしまったよ」


 パウエルは両の頬をぴしゃりと叩くと、いつもの彼が戻ってきた。


「いったいどんな場所なんですか?」


 この流れなら答えてくれるだろうと思って尋ねてみたが、パウエルは少し考えるように視線を逸らした。これは答えてくれないのではないか、そう思いそうになったところで彼は「そうだな」と零すように言ってから話し始める。


「蝶の社交場がどのような場なのか説明をするというのは野暮なことで、スマートではないのだね。だから私も君に説明はしたくないのが本音だが、男になる場所とだけ言っておこうか。それ以上は語る気がない、行けばわかることだ」


 伍堂はにやりと笑ったパウエルの表情の向こうに下品なものを感じ取った。やっぱりそういう場所じゃないか、と内心で呟いたが口ではわかったようなわからないような生返事を返す。


 そういう性的なものに対して興味がないわけではない、伍堂だって健康的な男性で幼児期以降は異性と手を繋いだことすらない。なので好奇心めいたものはあるし、卒業できるのではないかという期待も当然のようにある。


 ただそれと同時に不潔さを感じると共に、理由はわからないが間違っているという感覚もあった。


 真正面へと向き直り、手綱を操る御者の後姿をまた眺める。気づいていないうちにパウエルに対し

 て嫌悪感があるのか、御者の背中を見てはいるものの顔は窓の方へと傾き気味になっていた。


 少し進んでは立ち止まり、また進んでは止まるを繰り返す馬車に乗っていると時間の感覚が曖昧になってくるようだった。外は日が暮れつつあり、喧騒も気づけばどこか遠くのものになってしまっている。馬車の小さな揺れは程よい心地よさで、瞼を重くし抵抗を試みるが何度か瞼は仲良く手をつなぐ。


 ふと穴の中に落ちていくような錯覚を覚えてはっと目を覚ますと、馬車は動いていなかった。御者の姿が見えず、喧騒も聞こえず辺りは静けさが漂っている。パウエルもいなくなっているのではと慌てて隣を見たが、彼は浮かれた表情を浮かべながら座席に腰を落ち着けていた。


「落ち着いて、でんと腰をすえて構えていればいいの。それが男というものだよ」


 パウエルは伍堂にそう言ってウインクしてみせる。彼は洒落た男を演じているつもりなのだろうが、伍堂の目にはテンションの上がっているおっさんにしか見えていない。


 思わずげんなりとしながらも言われるがままに腰を落ち着けていると、小さく音を立てながら馬車の扉が開かれた。開けたのは御者で言葉はないが降りるように促され、黙って馬車の外へと出た。


 スタイン市のどの辺りにいるのだろうかと周囲を見渡してみたが、現在地を知る手がかりになりそうなものはない。少なくとも中心部から外れているだけでなく、住宅地というわけでもなさそうだ。


 辺りには幽かに花の香りが漂っている。匂いは周囲の建物から漏れ出ているようで、これを嗅いでいると不思議と胸の奥底にある何かが掻き立てられるような気がしてくる。


「うんうん、この匂いも久しぶりだな。あまり難しく考えずに楽しもうじゃあないか」


 伍堂に続いて馬車から降りてきたパウエルは漂う香りに目を細めていた。


「えっと、どこがその蝶の社交場になるんですか?」


 周囲の建物はどれも似たような作りで、境目すら曖昧だった。石造りの邸宅のように見えるそれらの建物は不思議なことにほとんど窓がない。あるにはあるが、どれも小さなものだった。


 そして通りには人通りもなく、音もほとんどしなかった。耳を澄ませると、屋内で演奏されているピアノの調べが聞こえるような気がしたが静寂といっていい。


「この辺りは全部その蝶の社交場だよ。私たちがこれから、というか実を言えばその店の前にいるのだけれど……行こうとしているのはその中でも老舗さ」


 店の前にいると言われ、えっ、と驚いた声が出た。辺りにはそれらしいものはなく、裏口のようにしか見えない木戸があるだけだ。まさかこの木戸が店の扉というのだろうか。


 戸惑っている伍堂を尻目にパウエルは背筋を伸ばしながら木戸を叩く。ゆっくりと開かれ、身なりのよい紳士が姿を現した。彼はパウエルとその後ろにいる伍堂を鋭く一瞥した後、パウエルに何か囁く。二人の間でやりとりが始まったようだが、小声なものだから伍堂には何を話しているのかわからなかった。


 ただ自分が関係しているらしく、紳士はしきりに伍堂に向けて怪訝な視線を向けていたし、その度にパウエルは顔を険しくしていた。交渉をしているようにも見えるが、話は聞こえないので定かではない。


 しばらくやり取りを続けていた二人だったが、どうやら話はまとまったらしい。紳士は慇懃に一例をした後、扉を大きく開いた。


「それではお入りください。馬車は私が厩へと回しますので、おふた方はおくつろぎください」


 パウエルが先に中に入り手招きをするので伍堂も扉を潜る。大して上等には見えない木戸を潜った先はどんなものか、期待ではなく不安を胸に入るとただただ圧倒されるしかなかった。


 粗末な入り口からは想像できないほど清潔なホールがそこに広がっている。エプスタイン邸のそれと比べれば小さなホールだったが、それでもかなりのものだ。


 つい口を半開きにしたまま圧倒されていると、二人を招きいれたのとはまた違う紳士が歩み寄り、その紳士に付いていくと個室へと通された。


 その部屋は胸をざわつかせる香の匂いが充満しており、天蓋つきの豪奢なベッドと二人がけのソファそしてローテーブルがあった。壁際に置かれた戸棚には様々な酒の瓶とグラスが並んでいる。


 どうしていいか分からずにいるとソファに座るように促されたのでそうしたのだが、パウエルも案内してくれた紳士もこの部屋に入ろうとしなかった。


「あのパウエルさんは来ないんですか?」


「いやいや、そこは今や君の部屋だ。今晩はそこでくつろぐといい」


 どういう意味なのか尋ねようとしたが、伍堂が口を開くよりも早く扉が閉められてしまった。慌てて立ち上がりドアノブへと手を掛けはしたが、回しはしなかった。溜息を一つだけ吐いてソファへと戻る。


 何の音も聞こえては来ない。静か過ぎるだけでなく、香の匂いが落ち着かせてくれない。くつろげと言われても落ち着けそうにない、暇をつぶせそうなものも見当たらず伍堂は知らぬ間に貧乏ゆすりをはじめ指を絡ませていた。


 そこからどれだけの時間が経ったのか。この部屋に時計はなく、窓らしきものも見当たらない。音もないので時間を計れそうなものはない。落ち着けないせいで緊張し、唇が乾くのでつい舌で舐めてしまう。


 小さなノックな音がして扉が空き、伍堂をこの部屋へと案内した紳士が顔を覗かせた。


「食事について伺いたいことが御座います。メインディッシュは肉と魚、どちらがよろしいでしょうか?」


「あ、魚でお願いします」


「畏まりました。今宵の奥方を連れてまいったのですが、お部屋に通しても?」


「え、はい。構いませんけど」


 今宵の奥方とはどういうことか聞きたくはあったが、ついそう答えてしまった。紳士が下がり、ドレスを着込みパイプを咥えた女性が衣擦れの音と共に入ってくる。


 豪奢なドレスを着てはいても彼女の線は細くスマートだが、胸は大きい。服もそれを強調するデザインになっているものだからついそこに目が行ってしまったが、すぐはしたないことに気づいて視線を上げる。


 真っ赤なルージュが目を引いた。目元は涼しげでどこか気だるそうにも見えたが、品がある。有閑、という言葉がしっくりくる。


「アネットと申します。ゴドー様でいらっしゃいますわよね?」


「え、はい……そうです、けど」


「度々あなたのお話を伺う機会がありまして、どのような方なのかと個人的に興味を抱いておりました。いずれお会いする日が来ると思っておりましたけれど、まさかこんな早くお目に掛かることが出来るとは思ってもおらず嬉しいものです。まずはその、お隣に座らせていただいてもよろしくて?」


「え、隣ですか?」


 他に椅子は無いだろうかと室内を見渡したがあるはずがない。腰掛けることができる場所といえば、後はベッドしかない。女性と同じソファに座るのは嬉しいことではあるのだが、美女と隣り合うとどうにかなってしまいそうで気後れしてしまった。


「えぇ隣です。このお部屋には他に座れるようなところがありまして? それともゴドー様は女性の立ち姿を眺めるのがお好みなのでしょうか?」


 パイプを燻らせながら悪戯っぽく笑いかけられると胸の鼓動が一瞬で跳ね上がった。


 自分の隣に座るよう促すのがスマートなやり方なのだろう、ということは分かっていてもそのようなプレイボーイ的な行動を取る度胸というものは無い。


 つい自分が立ち上がり、アネットに座るよう促す。彼女はくすりと微笑み、優雅な仕草でソファに腰を下ろすとソファを軽く手の平で叩いた。


「ソファは一つしかありません。ゴドーさんもお座りになったら宜しいではないですか。それとも、私は好みとはかけ離れている等ということがありますでしょうか? もしそうでしたら遠慮なく言ってくださって結構ですのよ」


「いえ、そういうわけじゃ決して。ただそのなんというか――」


「気恥ずかしさなど感じる必要はありません、この部屋にはあなたと私の二人だけ。この部屋の中でどのようなことがあろうと、私は決して口外することはありません。ここは蝶の社交場で、今の私とゴドーさんは夫婦のようなものなのですよ。それに、もし私が嫌いではないのでしたら隣に来ていただきたいものです。私に魅力が無いのだろうかと、気にしてしまうのです」


 アネットは羽毛のついた扇を取り出すとそれで口元を隠し、さも悲しんでいるかのように俯いてみせた。明らかに演技だということが分かっていても、いざ目の前でそのような態度を取られると心が痛んでしまう。


 止むを得ず断りの言葉を入れてからソファに腰を下ろす伍堂だったが、アネットに近づき過ぎないように距離を置く。しかしアネットは扇で口元を隠したまま悪戯っぽく笑うと、にじりにじりと近寄ってくるのだった。


 もちろん離れようとするのだが、気づけばアネットは伍堂の腕に自らの腕を絡ませ引き寄せ、二人の肩が触れ合った。彼女の着ている服は見た目ほど生地が厚くないようで、仄かに彼女の体温が伝わり、顔に血が上っていくのを感じる。


「どうしました? まだお酒は口にしておりませんでしょうに、顔が真っ赤になっておりますけれども?」


 気の利いたことを言わなければ、義務感めいたものがありはするが経験の乏しい伍堂にそんな引き出しはない。頭に血が上っていては尚更のこと、何を言えばいいのか浮かんでくる気配はなかった。


「そう緊張なさらずともよろしいではないですか。ここにいるのは、ゴドー様と私の二人だけ……人の目など気にする必要なぞ御座いません。それでも緊張なさるというのでしたら、幾つか私の問いに答えてはいただけないでしょうか?」


 どんな質問をされるのだろうかは気になるが、初対面の相手にする質問を予想することはそう難しくない。考えられる問いに対する答えを用意してから、伍堂は承諾の頷きを返した。


「ありがとうございます。それでは早速なのですが、ゴドー様は夢……とまではいかなくともやりたいことはお持ちになられているのでしょうか?」


 伍堂は自身の表情筋が強張るのを感じた。全く予想していなかった質問だったのである。


 想像していたのは出身地のことや、エプスタイン邸に来るまで何をしていたかといったものであり、他には趣味や日常どう過ごしているのか。そう言った問いがされるものだとばかり思っていたのである。


 さらに悪いことに、これは伍堂にとっては痛い質問でもあった。


「どうされました? もしかしてですが、あまり人には言えない野望みたいなものを抱えていらっしゃるとか?」


 痛いところを突いてしまったと気づくはずもないアネットは姿勢を低くし、無邪気にも下から伍堂の顔を覗き込んでくる。今の顔をあまり見られたくはないのだが、彼女から目を逸らせなかった。


「そんな野望だなんて大層なもの、僕にはありませんよ」


「そうなのですの? ということは芸術家を目指してらっしゃるとか。役者等もそうですけれど、芸で暮らしていくのは大変ですし止められやすいですものね。あまり人に言いたくないその気持ち、理解いたします。ですけどこの部屋の中でされた話は口外いたしません、私にゴドー様の想いを語って頂いても良いのですよ」


 アネットの両手が伍堂の手を包んだ。柔らかく滑らか、そして温かな手に胸の高鳴りを感じると彼女の顔を見ていられなくなり目を逸らす。


 彼女は何も言わない、視線を逸らされながらもアネットは伍堂を見つめ続け、伍堂に痛みを感じさせる程だった。


「やりたいことなんて……そんなのは、ないですよ」


 答えてから俯こうとしたがそんなことをしたってアネットの目から逃げられないので、伍堂は目を閉じた。


 やって来たのは恥ずかしさと虚しさ。空っぽの何もない自分を暴かれてしまったがために、今すぐここから逃げ出したいどこかへ向けて走り出したくなる。けれども、居心地が良いはずの四畳半の私室を伍堂は脳裏に描かなかった。


「ゴドーさんはお幾つですか?」


「一九ですけれど……」


 年齢を答えると、そうですか、とだけ言ってアネットは伍堂から離れソファに持たれた。そしてパイプに手馴れた動きで葉を詰める。


「少し一服させていただいてもよろしいでしょうか?」


 煙草は好きではないが、断れない。承諾するとマッチのように見えるもので彼女はパイプに火を点けた。


 吐き出された煙が室内に漂うが、伍堂が嫌いなあの煙草の匂いはしなかった。ハーブのような、鼻を軽やかに抜けていく爽やかな香りがする。


「私は二十二です。ついこの間まではゴドーさんと変わらない歳でした、今はやりたいことをしっかりと胸の内に持っております。けれどもあの頃の私は、そのようなものがあったと言い切れるほどではありませんでした。ですのでそう気にする必要は無いと思いますわ、その内、勝手に湧き上がってくるものではないでしょうか」


 わざとなのだろうか、アネットは伍堂の顔を見なかった。天井を仰ぎ、たゆたう緑の香りがする煙を眺めているように見える。


 ただの慰めなのかそれともアドバイスなのか、伍堂には判別がつかない。あるのは、彼女が言っていることが正しいとは思えないということだった。


 この世界ではともかくとして、日本で一九といえば若者だ。乱暴な言い方をすればまだまだガキという年齢である。それを頭では伍堂は分かっていても、感覚として伴っているわけではない。だからこそ子供なのだが、子供だからこそ理解し得ないものでもある。


 そして焦る。夢や目標といった言葉で表せなくとも、漠然としたやりたいことが伍堂にはない。プロゲーマーになりたいという気持ちはあったが、今はそれが現実からの逃避であったことを薄々ながらも自覚しつつある。


 僅かとはいえ自覚してしまうからこその焦りというものもある。アネットは待っていればその時が来る、そう言っているが果たして本当にそうなのか。当然といえば当然だ、伍堂はその渦中にいるのだ。当事者だからこそ分からない事だってある。


 何もいわず固まってしまっている伍堂をアネットは様子を伺うように横目で見やったが、口を開くことはない。吐き出した煙の行く先を追っていた。

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