第28話 蝶の社交場(1)
昼を過ぎてパウエルが伍堂の部屋にやって来た時、伍堂は服を脱いで半裸になっているところだった。その体の至る所にはハリスそしてライドンとの稽古で付いた痣が痛々しく浮かんでいる。
殴られたところは熱を持って痛み、濡らした手拭いで冷やすのだが焼け石に水。冷やしている間は熱と共に痛みが引いていくようだったが、手拭いを離せばあっという間に痛みが熱と共に甦る。
傍から見ても今の伍堂の姿は痛々しく、その姿を目にしたパウエルは思わず口を覆った。
「見苦しいところを見せてすみません、中々痛みが引いてくれなくて」
出来るだけ心配させないようにと、笑ってみせるのだが痛みのせいで顔が引きつる。
「気にしなくて良いとも。しかしまた随分としごかれたようだね、どれ見せてみなさい。医術の心得も多少はある、戦場では怪我人の治療もしないといけないからね」
パウエルなら大丈夫だろうと、安心して彼の診察を受けることにした。全身の様子を見るためとは理解していても、パンツ一枚だけの姿にならねばいけないのは恥ずかしい。
パウエルの魔術士らしからぬ太い指が痣に触れるたびに鈍痛で声が漏れる。続いて、言われるがままに腕や足を伸ばしてみせたがこの時は何の痛みも感じなかった。そのことをパウエルに伝えると、彼は感心したように何度も頷く。
「酷くやったように見えたが、加減はしているな。明日もまだ痛むだろうが、かなりマシになっているだろう。念のため膏薬を用意させようか」
「いえ……薬は要りません」
「どうしてだ? 放っておいてもそのうち痛みは引いていくが、薬を使えば早く楽になる。何か使いたくない理由でもあるのかな?」
返事に詰まった。理由はある、この痛みを戒めとして残しておきたかったのだ。けれどこれをパウエルに言うのは格好つけているような気がするし、何より戒めというのは表向きの理由に過ぎない。
実際は、伍堂自身が気づいていながらも目を逸らしている理由がある。この痣は自分がまだ出来損ないの証、独り立ちが出来ない証拠であって庇護されるべき存在であるという安心感を得られることができたのだ。
もちろん、稽古で傷だらけになっているから庇護対象になるという理屈なんてものはない。そのことにも伍堂は気づいていて、だからこそ目を逸らしていた。パウエルに言えないのもそこが理由なのだ。伍堂が目を逸らしている続けているものに、彼が気づいてしまうかもしれない。
それが恐ろしくて伍堂は口をつぐむのである。
「言いたくないなら言わなくてよろしい、それはそうとハリス様に一言言っておこうか? 厳しいのは結構だが、怪我をさせてはどうしよもないからね」
「あ、いえ必要ありません。痣だらけにはなってますけど、ハリスさんは丁寧に教えてくれました。その、理論っていえばいいんでしょうか。ハンゲイトさんが教えてくれてなかったことも教えてくれましたし」
「ふぅむ、そうか……それなら良いのだけれどね」
伍堂の言うことを信じられないのか、パウエルの眉間に若干の皺が寄っていた。しかし事実なのである、確かに伍堂はハリスと、彼の指示を受けたライドンとの模擬戦により痣だらけになるまで殴られた。
けれどもその後のハリスは厳しさこそ変わらずだったが、伍堂の至らぬ点を飾ることなく率直に伝えてくれたのである。それだけでなく、どうしてそれがダメなのかに加え改善点も理屈と共に口頭で教えた後に実践も伴っていた。
ハリスの歯に衣を着せない指摘の仕方は、どういうわけだか伍堂にとってどこか心地よかった。その後の指導も伍堂が間違えるたびに怒声が飛んだのだが、不思議とそれにも安心感がある。
そういった感情を抱くのは、ハリスが親身になって伍堂に接し、伍堂もまたそれを感じたからなのであるが伍堂はそのことに気づいていなかった。
「ゴドーがいうならそうしよう。ハンゲイト君がいない間はハリス様に一任するしかないのだからね、私としては……いや、よそう。そんなことよりもだ、君が我々の神とその教えについて興味を抱いているというのは本当かね?」
「あ、はい。そうです、それでパウエルさんにお願いがあるのです。読み書きを教えてもらう時に絵本を使ってますが、経典を使ってもらえませんか? そうすればこの世界のことを僕はよく知れるようになると思いますし、一石二鳥だと思うのです」
きっとパウエルは喜んでくれるはずだ。確信めいたものを胸に抱き、ナイトテーブルに置いていた経典をパウエルへと差し出したのだが、難しい顔をされてしまう。
眉間に皺が寄るだけではなく、唇はほとんどへの字と言っていいほどに曲がっていた。彼なら喜んでくれるとばかり思っていただけに、パウエルの浮かべるこの表情の奥にあるものがわからない。
ただこの経典は教科書として使っている絵本と比べ、難しい。なのでパウエルがこの提案を却下することは充分にあり得る事だろうとは思っていても、喜ばない理由がわからないのだ。
怯えにも似た感情を胸に抱きつつ、伍堂は身を縮こまらせてパウエルの返事を待っていた。パウエルは手にした経典に視線を落としながらページを捲るが、内容を読んではいなさそうだ。
酷く難しい顔をし、悩みを露にしながら経典を閉じた。パタリと音がしたがその後に続くものはない。
たっぷりと間を取ってからパウエルはナイトテーブルの上に、音を立てずに経典を置いた。
「これを使うのは無しだ。君がこれを読めるようになるのはもちろんのことだし、我々の神の教えについて知ってもらうことは非常に有意義なのは確かだ。それにこの経典が教科書として使うに申し分ないものだというのも認めよう。けれどもこれは教科書としては使わない」
パウエルは伍堂の顔を見ようとしなかった。ナイトテーブルの上、経典の裏表紙に置いた自身の手へと視線を向けている。
「もちろん、理由はあるんですよね?」
「あぁ、もちろんだとも。理由はある」
返事はすぐに返ってきたがパウエルはやはり伍堂を見ようとはしないし、その理由を語ろうともしなかった。普段のパウエルなら理由を言ってくれるはずだ、そう思う伍堂は何かおかしい気がしてならない。
理由があるなら言ってくれれば良いのに、腑に落ちない物を感じながらも伍堂はそれを尋ねられなかった。
「聞かないのか?」
背表紙を撫でながらパウエルから尋ねてきた。伍堂は無言で頷く。
「本音を言わせてもらうとだ、理由を尋ねられないのはありがたい。けれども同時に不満、と言うほどではないのだがそういった感情を抱くのもまた事実なんだ。私からすると、今の場合理由を問われるだろうと思って身構えている。なのに君はそれをしない、不思議に思う」
「よく……わかりません」
そうやって答えるのが精一杯だった。顔は経典に向けたまま、パウエルは目だけを伍堂に向けてその答えを聞いている。
「そうか、わかった。さてと、どうにもおかしな雰囲気になってしまったが体に問題はなさそうだ。なら今日の講義を始めようじゃないか、一週間とはいえ授業がなかったわけだ。まずはテストからいこう、学ぶということは何だってそうだがほんの少しだろうと日々行うことで効果が出る。それを一週間もしていなかったのだ、忘れていることだって多いだろう。もちろんそんなことは私だって承知しているがね、だからといって手加減するつもりは毛頭ない。気合を入れて試験問題を作成させてもらった、楽しんでくれたまえ」
重苦しくなった空気を吹き飛ばそうとするかのようにパウエルは笑いながら顔を上げる。懐から折りたたんだ紙を勢いをつけて伍堂の眼前へと広げた。
それは試験の問題用紙で、余白など残してやるものかという出題者の気合が感じられた。どんな問題が並んでいるのか、読むよりも早く伍堂はその分量に面食らう。
けれどもパウエルがそうしたように、伍堂もまた場の雰囲気を変えようと問題用紙を手に取るとローテーブルへと向かった。
出題された数は多かったが、どの問題も良く出来ていた。これまで行われたパウエルの講義を覚えていなければ解けない問題ばかり。どれも日常の会話の域を出ないものであり、日常会話であるならそれなりにこなす自信を持っていた伍堂だったが全ての問いに答えを書くことはできなかった。
自信があっただけに空欄を生み出してしまったことに悔しさから歯噛みするものの、結果は結果なのだ。特に制限時間を定められていたわけではないので、たっぷりと悩み続けることだってできただろう。
どうしようかと思案したが、伍堂は投了して幾つかの空欄がある答案用紙を提出した。間違っているのならまだしも、解けなかった問題が存在することに情けなさを覚えて項垂れる伍堂だったがパウエルは満足げである。
出題者だということもあるが、有り触れた日常会話の問題だ。鼻歌を歌いながらあっという間に採点は終わり、点数が記された答案用紙が返される。心の準備をする間もなく見せ付けられることになった成績に、伍堂は目を丸くした。
「はっきり言って簡単な問題だということもあるが、及第点だな。勉学のことなど脳裏に浮かぶことすら無いだろう時間が一週間もあったことを加味すれば、よくできている」
「はぁそうですか……」
褒められているのはわかっていても、やはり伍堂は喜ぶことができない。そういった感情がないわけではない、嬉しいことは嬉しいのだがどうしても出来なかった点にばかり目がいってしまうのである。
そんな伍堂をパウエルは何か言いたげに見つめ、ゆっくりと口を開きかけたが言葉を発することなくやや経ってから唇を閉じた。
「復習する時間が必要ではあるけれども、多くを割かなくても構わんな。いや良かったよ、公爵から礼儀やマナーというやつをある程度は教えていくように仰せつかっていてね」
途端に伍堂は身を硬くしながら、パーティを開くと言っていたエプスタインを思い出していた。親戚の結婚式や祖父母の葬式に参列した経験はあるので、冠婚葬祭の知識が全くないというわけではない。
しかしここは異世界で、日本のものと同じわけがなくまたここは貴族の屋敷である。想像でしかないが上流階級のパーティともなれば格式高いものに違いなく、細やかなマナーが存在するだろうことは容易に見当がつく。
元々裕福な家に生まれていればそういった心遣い等は自然と身に付いていたのかもしれないが、伍堂は大学まで進学できたとはいえ中流家庭の出身である。
「肩に力が入っているがどうしたんだね? 緊張させるようなことを私が言ったかな?」
慌てて伍堂は首を横に振る。
「そういうわけではないんですけど、そのマナーとかエチケットっていうものに今まで縁が無かったので。身につけられるかな、と」
「なんだそんなことか、言っておくけれど基本的に君は何の問題もないよ。そもそもどうして、食事の時に私とハンゲイト君が同席していると思っているんだい?」
「どうしてって……親交というか交友というか、コミュニケーションのためだと思っています」
「あぁそうだとも正解だ、けれどそれが全てじゃない。あれは君のテーブルマナーを見ているのさ、といってもそんなのは最初だけで今はそんなところ見ちゃいないがね。ナイフとフォークをちゃんと使えているし、皿を持って食べるというようなこともしない。食事の場にそぐわない話題を出すこともない、祈りだって捧げている。問題ないよ」
パウエルが言うのなら問題はないのだろう、安心することができて体の緊張は解けたけれども疑問が出てきた。本当に問題がないのなら、どうして礼儀作法を教えるとわざわざ口に出したのだろうか。
「でしたら、どうしてそれを教えるなんて……?」
「多分、何気なく聞かれただろうから覚えていないかもしれないけれど女性の好みを聞かれなかったか?」
「聞かれました、パーティには女性を同伴させるのが慣わしだから好みを教えてくれと」
「理由まで聞いていたか。そういうことだ、女性との接し方というやつだよ。それを君に覚えておいてもらいたい、パーティには君も出席してもらうことになるからね。そこで君が恥を掻かないようにしたいのさ」
「レディファーストっていうやつですか?」
「何だねそれは? れでーふぁーすと? 初めて聞く言葉だが、君のいたところでも女性との接し方についてルールないしマナーというものが存在しているのかな? だとするとそれは興味深いな、ちょっと教えてくれないか?」
レディファーストの単語が出た途端にパウエルの目が爛々と好奇に輝きだした。口ではちょっと、などと言っているがその態度は根掘り葉掘り聞いてやろうというのが明らかで、証拠にパウエルの顔が近づいている。
パウエルの好奇心の強さに驚くと同時に伍堂は困惑を隠せない。レディファーストという言葉を知ってはいってもその内容についてまでは知らないのだ。
「いやその、僕の国の話じゃないんでよくわからないんです。あ、でも女の人に重い荷物を持たせないとかはあるのかな」
「ほぅ君のところでもそういうものは存在するわけか、何度も言うが興味深いものだね。我々にも、今君が言った重い荷物を持たせないというものは存在する。似通っているところは多いのではないかと私は推測するね。となると、これは少し相談してこないとならないな……悪いが伍堂、今日のところは自習ということにしよう。新しい絵本を置いていくから自分で読んでみなさい、後日その物語のあらすじを私に語ってみせてくれ。わからない単語があれば黒板にメモしておくように」
何かを思い至ったらしく、パウエルは早口で捲くし立てると絵本といつも使っている黒板とチョークを置いて部屋を出て行く。慌てていたというわけではないだろうが、別のことを考えていたのだろう。部屋の扉を閉めていくのを忘れていた。
しばし呆気に取られていた伍堂だったが、パウエルの足音が聞こえなくなってから部屋の扉を閉めて一人の空間を作り、新しい絵本の表紙へと目をやった。以前は擬人化された動物たちの胸躍る冒険譚だったが、今回のものは違うらしい。
豪奢な城を背景に鮮やかな色のドレスを纏った女性が表紙だ。伍堂の目には絵本が女児向けの物に見えてしまい、何だか落ち込むところがあったがこれも勉強だとページを捲って読み進めようと試みる。
今まで読んでいたものと比較すると文字の量が増えていた。それだけでなく熟語や、数は少ないがちょっと気取った言い回しもあって難しくなっている。一読しただけではまだ上手く読むことが出来なく、焦りにも似たものを覚えた伍堂だったが少しだけページから目を離して深呼吸をひとつ。
パウエルが何の考えもなしにチョイスしたとは思えない。伍堂が読めるレベルのものを彼は持ってきているに違いないのだ。
落ち着きを取り戻した伍堂は今までのパウエルの講義を思い出し、それを黒板に整理してから再び読み始めた。するとやはりというべきか、するするとは流石にいかなかったが読めない、なんていうことはない。
絵の助けもあり、話のあらすじを追いかけることに苦はなかった。
前のような心が躍るようなものではなく、教育的な内容である。とあるお姫様が始めてのパーティに参加するにことになり、お洒落しようと頑張る話だった。子供向けなので平易に書いてはいるが、これに記されているのはマナーそしてエチケットである。
伍堂が今度パーティに参加することもあって、この絵本を選んだのは明らかだ。その意図に気づいた伍堂は絵本を読みながら気づいたことを覚えるためにも、黒板にメモを取っていく。本当は紙に書いてメモとして残しておきたいのだが、この世界の紙はそこまで安価ではないようなので叶わないことだった。
黒板に書いたことを忘れないようにするため呟くように復唱していると足音が近づいてくる。パウエルが戻ってきたのかと思ったが、一人ではなさそうだ。
何だろうと疑問を抱き黒板から扉へと視線を移したのと同時に、勢いよく開かれ揚々としたパウエルが部屋の中へと入り、その後ろには服を持った女中が続いた。
「今日は外食と洒落込まないか?」
そんな時間だっただろうかと窓の外を見た、日が傾いてはいたがまだまだ明るい。夕食の時間には間がありそうだった。
「まだ早くないですか? 外、明るいですよ」
「レストランに行くには早いかも知れないがね、夕食がてら蝶の社交場に行くにはちょうど良い時間だよ」
「蝶の社交場? お店の名前ですか?」
何となく店の名前では無さそうな気はするのだが、蝶の社交場から連想できるような飲食店の形態を伍堂は知らない。ただどことなく大人びた印象を受けはしたが、それだけだ。
「それは行ってのお楽しみとしようじゃないか。君ぐらいの年頃の男なら誰もが楽しめて、行きたくてたまらないというやつも珍しくない。さぁ、服を着替えて」
女中に促されるままに立ち上がり、服を着替えさせられる。華美というほどではないが、所々に装飾の施されたその衣服は洒落たもので普段着にするような服でないことがわかった。
オシャレをしていかねばならず、そして伍堂ぐらいの年代の男性なら誰もが楽しめるというパウエルの言葉。これらから伍堂は蝶の社交場がどういう場所なのか見当を付けることができた、きっとそういう場所に違いない。
途端に嫌悪感が湧き上がってくるが、楽しそうなパウエルの顔を見ていると拒否もできない。それにやはり伍堂も男だ、敬遠したいことに間違いはないがそれと同時に期待しているところもあった。
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