第27話 屋敷への帰還(4)

 屋敷に帰ってきてからまた以前の生活が戻ってきた。しかし必ずしも以前と同じではない、他人から見ればそれは小さな変化なのかもしれない。けれどこの変化は伍堂にとって大きなものだった。


 その変化はハリスの存在によるものである。朝食、そして夕食と伍堂はいつもパウエルそしてハンゲイトと共に過ごしていたのだが今ハンゲイトはダダリオ村にいるため不在になっていた。不在となっているハンゲイトの代わり、というわけではないのだろうけれども食事の時はハリスが同席することとなった。


 不思議に思った伍堂は朝食を摂りつつ、飾ることなく素直に尋ねた。ハリスの答えは、これから英雄になっていく伍堂と動くことが多くなるだろうから交友をより深めたい、とのことだったがこれは嘘に違いない。


 というのも質問をした時は当然ながらパウエルも同じ卓に付いており、答えるときのハリスはしきりにパウエルを気にしているようであって、パウエルもどういうわけだがハリスの一挙手一投足を見逃すまいとするかのような視線を彼に向けていたのである。


 食事の席にも関わらず緊張が漂ったものだからいつも以上に胃の腑が締め付けられるような感覚を覚えたものの、長くは続かない。卓に料理が運ばれ、各々の手が動き始めれば緊張は消え去っていた。


 公爵の息子であってもパウエルは目上の人間であるらしく、ハンゲイトの時とは違って硬い空気が終始流れていた。ただ会話の内容のほとんどは他愛のないもので、その日出た話題はハリスが王都でどう過ごしていたのか、そしてどうして帰ってきたのか、というものだった。


 伍堂が発言することはほとんど無く、聞き役になる時間がほとんどを占めていたがハリスについて知れたことは多いように思う。彼は王都で大臣などの国政に関わる人物の身辺警護を勤めていたという。それができるハリスの能力の高さと気取らぬその言い方にエプスタインにも感じて眩さを感じてしまう伍堂であったが、ハリスそしてパウエルが言うには各地の領主の子息は必ず身辺警護を定められた任期の間行うことになっているらしい。


 しかしこの後、ハリスとパウエルの顔が曇ったのだ。定められている任期は四年なのだそうだが、ハリスは三年で任を終えて帰ってきたのだという。二人の表情を見て、伍堂はそれが珍しいことであると同時に良くないことだと察した。


 理由を知りたくはあったがハリスは語る気がなさそうで、パウエルもこの話題から離れようとするように別の話を始めてしまったので尋ねる機会は失われてしまったのである。


 再び談笑しながらの食事が再開され、それが終わろうとしたころ思い出したかのようにハリスはスープ皿に向けていた視線を上げた。


「ゴドーに言っておくことがあったのを忘れていた、ハンゲイト殿がいない間の剣の鍛錬についてなのだが私が監督を行う」


「ハリス様……すみませんがそれはどういうことでしょう? 私は公爵から何も仰せつかってはいないのですか?」


 本当に初耳だったらしくパウエルは食器を置いたのだが、普段は立てない音を立てていた。


「あぁ申し訳ありません、夜も更けた頃に父上に直談判をいたしまして。二つ返事で了承を頂いたのですが、夜遅かったせいでしょう。パウエル殿への連絡が遅れてしまったようです、すみません」


 パウエルに向けて軽く頭を下げて謝意を示したハリスではあるのだが、そこに悪びれた様子は一切ない。突然に言われたこともあってか、パウエルは承知しかねているようだったがエプスタインの許可が出ている上に、相手はその子息ということもあり渋々とはいえ承諾するしかなかった。


「パウエル殿が不安を抱かれるのも仕方のない話ではあると思います。ですがこのハリスは不肖の身ではありますけれど、国王陛下の警護も勤めていたのです。ハンゲイト殿ほどではなくとも、指導者としての技量は既に供えているものと自負しております」


「ふむ、そうですな。王都での勤めは過酷なものでありましょう、それを勤めたハリス様でしたらそれだけの能力はあるものと、このパウエルも認めるところです」


 どこか勝ち誇ったかのような顔をしながらハリスは一瞬だけ伍堂を見た。おそらく、彼は伍堂と二人だけになれる時間が欲しいのだろう。剣の稽古をする時はライドンもいることはあるが、ほとんどの時間はハンゲイトと二人だけだった。


 ハリスが指導するというのであれば、二人だけでかなり長い時間を稽古場で過ごすことになる。


「ただ公爵が許可を出したとはいえゴドーの教育に関して一任されているのはこの私です。ハリス様の能力を決して疑っているわけではありませんが、王都では実戦の機会などそうそうありますまい。ですので条件を一つ、ハリス様が指導することに事態に異論はありませんがライドンをつけます」


 途端、ハリスの表情が曇る。パウエルのこの返しは想定しなかったらしく、反論を試みようとしたその証拠に唇が開きかけていたがそこから言葉が出てくることはなかった。


「ハリス様はライドンのことはあまり知らぬでしょうが、彼はハンゲイトの従士でしてね。この領内で何かあればハンゲイトと共に赴いているため、実戦経験は豊富なのです。実際の戦をあまり経験しておらぬハリス様の補佐には適任でしょう、加えて彼はゴドーと年齢がそう違わないですからな。ゴドーも気楽になれて、剣の習熟はより進むことでしょう」


 パウエルの目が伍堂へと向く。そう発言したわけではないが、パウエルが伍堂に同意を求めているのは明らかでつい頷きそうになったが、ハリスもパウエルと同じ目を伍堂に向けていた。


 これに気づいて首の動きを止めた伍堂だったが、ハリスとパウエルのどちらに同意するかとなればそれはパウエルだった。ハリスは嫌な人物ではないと知ってはいるが、知り合って日が浅く距離を感じているのが事実だ。そしてパウエルはこの世界に来てから何かと世話になっている自覚があった。


 落胆したように見えたハリスだったが切り替えが早いのか、それとも隠したのか。ほんの一瞬だけ俯き、唇を噛んだように見えたハリスではあるがすぐに顔を上げると清廉な笑みを見せた。


「なるほどそれはありがたいことです。仰られるよう、王都での勤めは厳しいものではありましたが実戦などは無いに等しかった。そこを経験豊富なものに補佐してもらえるというのは心強い、流石パウエル殿です」


 ハリスは笑顔を浮かべているがその目は笑ってなどいなかった。パウエルとハリスの仲は険悪なものとは思えなかったが、決して良いと言えるものではない。


 どうして彼らの間に壁があるのか、二人の間に何があったのか。とてもではないが想像できるものではないが、ただそんな二人の間に挟まれていると胃が痛くなりそうだ。今後も食事の度にこんな空気を味わうことになると思うと憂鬱さを感じる。


 けれど不思議なことに伍堂の鍛錬をどうするか、その話の決着が付いてしまえば談笑が戻ってきた。世間話に興じるハリスとパウエルを見ているとわだかまり等ありそうにはない。


 先ほどの不穏な空気が嘘のようで、気のせいだったのではと思いそうになる伍堂だった。けれどもあの時、良くない空気を感じたのは間違いない。また何かの拍子で空気が重くなるのではないだろうか、そんなことを思うと気が滅入りそうになる。


 ただ今日のところはそれ以上のことはなく、食後の紅茶を飲み終えた伍堂は早々に席を立つ。またあんな雰囲気になるかもしれないと思うと、長居したくはなかった。


 食後は部屋に戻り、着替え、稽古場へと向かう。本当は稽古場にも来たくなかった。出来るなら部屋で一人何もせず、ただ無為に時間を浪費したくはあったがそれは出来ない。


 憂鬱を抱えながらも稽古場に足を踏み入れたが、幸いなことにハリスはまだ来ていなかった。僅かな間だろうけれども不意に一人きりになれる時間を手に入れたことに胸を撫で下ろす。


 寝そべり、大の字になりたくはあったが稽古場の床は冷たい石が敷き詰められている。かといって椅子もない。立ったまま壁に背を預けてみたが落ち着かず、柱の一本もない殺風景な空間は何かをしなければと気持ちを焦らせてくる。


 ため息が出てきた。本当は何かしたいわけではないのに、そう思いながらも伍堂は壁に掛けられている木剣を手に取ると広い稽古場の中心に陣取り、素振りを始めた。


 こうでもしないと何だか良くわからないものに急き立てられてしまいそうだった。無言で木剣を構え、ハンゲイトに教えられたことを頭の中で反芻し、一つずつ確認するように振り上げ、踏み込み、振り下ろす。


 それを何度も繰り返す。


 剣の稽古はしばらくぶりで、素振り一つとっても動き方を覚えているだろうかという疑念はあったが杞憂だった。伍堂は自分でも意外に思うほどハンゲイトの教えを覚えていたし、体には剣の使い方が染み付いていたのだ。


 嬉しいという感情が奥底から湧き上がってくるも、次に来るのはやはり不安だ。剣の振り方はこれであっているだろうか、構えに問題はないだろうか、足運びは出来ているだろうか。


 一連の動作は何の違和感もなくスムーズに行えている、だからできている筈なのだ。不安を覚えてしまう自分にそうやって言い聞かせてはみるも、監督がいないというだけで湧き上がる不安を抑え付けることが出来ない。


 続けていればそれも消えるかもしれないと期待を抱きながら素振りを続けるが、湧き上がってくるものは止まらない。ついに伍堂の手は止まり、深いため息が口からこぼれ出た。


「そのまま続けろ、休むんじゃあない!」


 鋭い声が稽古場に響き渡る。肩を跳ね上がらせながら入り口を見れば、ハリスがライドンを伴って入ってくるところだった。二人とも動きやすさを重視した服を着ており、手にはもう木剣を手にしていた。


 短く息を吐いて背筋を伸ばし、再び素振りを始める。


 伍堂の一挙手一投足を見逃すまいとするハリスの視線は痛いほどで、全身の筋肉が強張るようだった。そのせいかハリスが来る前と比べて動きが硬くなってしまう。


「おいゴドー、緊張しなくていーぞー。いつも通りやりゃいいんだよ」


 普段の伍堂の動きを見ているライドンはすぐに気づいたらしい。リラックスさせようと軽い調子で声をかけてくれたのだが、伍堂には逆効果にしかならなかった。


 動きに滑らかさは無くなり、ロボットのように角ばった動きしかできない。いつもの動きができていないことは自覚しており、普段どおりにやろうとするのだが上手くいかない。焦りを覚えてしまうと今まで出来ていたことを忘れてしまったのかと思うほどに出来なくなってしまうのだった。


「もう良い、手を止めろ」


 嘆息交じりのハリスの声に素振りを止め、剣を納める動作を行ってからハリスに向かい一礼する。


 ハリスはそんな伍堂を見ながらしばし考え事をしたようだったが、唐突に隣に立っていたライドンの背を叩いた。


「ライドン。ゴドーの相手をしてみろ」


「え? 私がやるんですか? ハリス様が何を考えてるか知りませんけど、ちと今のゴドーには無理なんじゃないですかね」


「いいからやるんだ、ゴドーは構わないだろう?」


 ハリスは尋ねてはいるが有無を言わせる気はない。そして伍堂も、指導役のハリスの言うことに逆らおうという気は無く頷くしかない。


 伍堂そしてハリスの顔を交互に見た後、ライドンは渋々ではあったものの伍堂の前に立ち木剣を構える。対し、伍堂も再び剣を構えた。


 それを見たハリスは二人の間に立つと手を振り上げる。審判を行うつもりなのだろう。


 思えばライドンは伍堂の訓練中に良く稽古場に来ていたが、こうして剣を交えるのは初めてのことだ。ハンゲイトという同じ師匠に剣を教わっているはずだから構えは似るに違いない、そう思っていたのだがライドンの構えはハンゲイトと異なっていた。


 ライドンの姿勢は重心が低く、普段のライドンよりも小さく見える。それがどういうことだか分からず、緊張から背筋の首の毛が逆立つ。


「はじめ!」


 一声とともにハリスの手が振り下ろされる。威圧すべく、ハンゲイトの教えに従い腹の憶測から気合を込めた声を浴びせかけるがライドンはものともしない。


 地面の上を滑るようにライドンは伍堂の間合いの中へと飛び込んでいる。慌てて後ろに下がりながら振り下ろすが、その先にライドンはいなかった。目が消えたライドンを捕らえるよりも早く、左の腰に鈍痛が走る。


 苦痛に声が漏れ、足が曲がる。伍堂の真横に回りこんでいたライドンの木剣が腰を捉えていた。


「それまで」


 審判であるハリスの声を合図に、伍堂とライドンは互いに一歩ずつ下がり一礼を行う。


 一応の模擬戦が終わると若干緊張も和らぐが、腰の鈍痛がより一層強くなった。つい手で腰を押さえ、歯を食いしばり顔を顰める。


「どうだライドン。ゴドーと剣を交えた感触は?」


「あー……言いづらいけどダメですわこれ、ゴブリンとかそういう相手だったら通用しますけど人間相手には無理です」


 肩を落としながらライドンは首を左右に振った。


「やはりそうだろうな、素振りを見た時に私も同じことを思った。ではゴドー、どうしてあぁも簡単に一撃を食らわされたのか自分で分かるか?」


 答えられなかった。そもそも考えることができなかった。頭の中は真っ白になっている。


 ダダリオ村で伍堂はゴブリン相手に成果を上げていた、人には謙遜していたが心の中では自分はそれなりには出来るのだという自負を抱いていた。


 それがここでいとも簡単に打ち砕かれた。さらにその評価をしたのはダダリオ村で伍堂を英雄のようだと褒め称えたライドンである。胸の奥底にあるものに小さな亀裂が入った。


「わからんようだな」


 ハリスの言葉に頷いたまま、顔を上げることができない。


「顔は上げんでいいから、そのまま聞いていろ。お前の剣は力強さはあるがただそれだけだ、真っ直ぐすぎるし動きが大きい。素人相手には通用するが、本当の戦士に通用するはずもない。まず構えを変えろ、お前の剣は位置が高すぎる。そして剣は縦だけに振るものではない、薙ぐこともできるし突きもある」


 ハリスの言うことは紛れもなく助言なのだが、伍堂にはそうと受け取ってはいなかった。


 酷評、伍堂の至らない点を指摘されダメだと言われているとしか思えなかったのである。背を向けて逃げ出したくはあったが、そんな場所はどこにもない。この世界に薄暗い四畳半の部屋はないのだ。


 伍堂は唇をかみ締めながら耐える。ハリスの言葉は脳にしかと刻まれ、何度も何度も再生される。その度に胃は縮み上がり、喉が渇いていく。


「何を考えているか知らんが、次は私と立ち会ってもらうぞ。下を向くな、顔を上げろ。腰の痛みを忘れるな。ハンゲイトに教えられていることを思い出せ」


 髪が乱れるほどに頭を大きく振って顔を上げ、剣を構える。既にハリスは伍堂の前に立ち、剣を構えていた。ハリスの構えはライドンのものと異なっていた。ハンゲイトのそれと近くはあるが、師のものと比べてコンパクトになっている印象を受ける。


 少しでも落ち着こうとして呼吸をすると、言われたばかりの言葉が脳裏をよぎった。剣の位置が高いと言われた、だから伍堂は剣を意識して低くする。


 射殺さんとするかのような視線を向けながら、ハリスは頷いた。それでいいと言われたような気がしたが、それは伍堂の思い込みに違いない。


 ハリスは動こうとしない、かといって伍堂から攻める手もなかった。そういえばライドンはどこだろう、審判をやってくれるのではないのだろうか。つい彼を探して視線を動かしたその瞬間、ハリスが動いた。


 真っ直ぐ、矢のように飛来するハリスの目は伍堂の首を見ている。突きが飛んでくる、慌てて体を回すが遅い。首を掠めたハリスの木剣は皮膚を裂き、首が熱くなった。


 歯を食いしばりながら、伍堂はハリスから目を離さない。剣を握る彼の右腕は伸びきっている、反撃するなら今が好機なのではあるが二人の体はほぼ密着していた。剣の間合いの内側である。


 まずは距離をとる必要がある、そう考えて後ろに下がろうとする伍堂の腕をハリスが左手で掴む。掴まれた腕に目をやろうとすると、世界が回った。


 背中には床の冷たい感触があって、視界は高い天井でいっぱいになっている。その隅っこに伍堂を見下ろすハリスがいた。


「剣を持っているからといって剣だけを使うわけではない。今のでわかっただろう」


 呆然としたまま頷いた。腕を掴まれた所までは知覚できていたがその後がまったくわからない、気づけば床に叩きつけられていたのだ。


 痛む腰を押さえながら立ち上がる。何をされたのか分からず、頭の中はまだ真っ白で脳が働かない。


 そんな伍堂の様子に気づいていながらもハリスは休む間を与えようとはしなかった。


「まだまだいくぞ、解説は後で幾らでもしてやる。体が痛もうが関係などない、痛いのが嫌なら一太刀浴びせてみせるがいい」


 再び構えたハリスに合わせて、伍堂もまた構えを取り直す。そうして二本目が始まったが、結果は変わらない。しこたま強く木剣で打ち付けられ、膝を折る。


 苦悶の表情を浮かべるがハリスはお構いなしに伍堂を立ち上がらせ、また構えさせ、打ち付ける。そんな事が何度も繰り返され、見ていられなくなったライドンは顔を背けた。

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