第26話 屋敷への帰還(3)

 目を覚ましたとき、部屋の中は既に暗闇に包まれていた。月が出ていないのか、それとも雲で隠れてしまっているのか窓から光が差し込んでいない。扉の隙間から廊下の明かりが漏れてはいたが、部屋の様子を見るには足りない。


 そういえばナイトテーブルにランタンが置かれていたような気がして手を伸ばす。確かにそこにはランタンらしきものがあり、手探りでツマミを回して明かりをつけた。白熱電球のような明かりを出すが、熱のない不思議なランタンだ。


 電気ではなく魔法の力で光を生み出していることを既に理解している伍堂だったが、それでも不思議なことには変わりない。魔法とは何なのだろう、まだ寝ぼけた頭はそんなことを思うが盛大な腹の虫が思考を持っていく。


 屋敷に戻ってきてから昼食も取らずに寝ていたのだから無理もない、睡眠欲が満たされたのなら次は食欲が鎌首をもたげてくるのは当然のことだろう。


 熟睡していたようで疲労はすっかり取れていて体が軽い、ベッドから出て体を伸ばせば頭も目覚めてくれた。着替えなければと着ている服を改めて見れば、思っていたよりも汚れている。


 慌ててベッドを確認してみたが、汚したということはなさそうで胸を撫で下ろすのだがこんな汚い格好でエプスタインやハリスと話していたのかと思うと後悔がやってきた。


 後で謝った方が良いのだろうか、けれど彼らは服の汚れを気にした様子はなかった。どうするのが正しいのだろうと悩みながら、伍堂は衣装棚を開けて服を見繕う。サイズやデザインも様々な衣服の中から選んだのは、普段から良く着ている白いシャツと焦げ茶色の革ズボンだった。


 手に取った服に着替えながらも、伍堂の視線は衣装棚の中にある衣服へと向いている。改めて考えると、どうしてこんな多様なサイズの衣服が揃っているのだろうか。もしかすると、ハリスが言っていたこれまで召喚された四人が着ていたのだろうか。


 そうだとするとサイズが多いことにも納得がいく。ただそれならそれで、それまでの四人はどこへ行ってしまったというのだろうか。ダダリオ村の森で見つけた手紙にあった名前、四谷というその名前は召喚された四人と関係しているのだろうか。


 シャツのボタンを留め、ズボンのベルトを締める。綺麗な服に着替えたというのに伍堂の気は晴れない、胸の中に重いわだかまりがあった。


 そしてまた腹の音が鳴る。いつもは暗くなるかならないか、といった時間に女中が呼びに来てくれるのだがもしかしてもう来てしまったのだろうか。


 空腹は酷く腹が凹んでしまったかのような錯覚を覚えるほどだった。呼ばれたかどうかはわからないが自分から食堂に赴こうか、そう思ってノブに手をかけたが回しはしなかった。


 これといった理由はないがそれはよくない気がしたのだ、なんというかはしたないのではないか、そんな気がする。誰かにそうと教えられたわけではない、ただいつもと違うことをしてはいけない。それだけだった。


 胃袋は盛大な抗議の声を上げて五月蝿かったが、伍堂は扉から離れてソファへと腰を下ろす。部屋の中を見渡したが食料のようなものはない。ただローテーブルの上を見ると、伍堂が寝る前にはなかった水差しとそれを飲むためのコップが置かれている。


 寝ている間に女中か誰かが置いていってくれたのだろう。空腹ばかりに気をとられていたが、水が飲めるとわかった瞬間に渇きを自覚した。早速、コップに並々と注いで一気に煽る。


 冷たくもなく熱くもなく、温い水だったがそれが心地よい。たった一杯飲んだだけだというのに全身が潤っていくようだった。思えば屋敷に戻ってきてから水も口にしていなかったのだ、さらに一杯もう一杯と水を飲むと水差しの中は空に近くなっていた。


 渇きは癒え、水とはいえ胃袋の中にものが入ったのだから空腹も和らぐのだろうと思っていたが逆だった。水なんかで飢えた体は騙されない、それどころかより一層抗議の声を強くするものだからつい腹を抑えてしまう。


 何もしないでただ座っていると意識は空腹ばかりに向かう、星空でも眺めようかと窓から空を仰いで見るが曇天だった。これではオリジナルの星座作りで遊ぶこともできやしない、気を紛らわせてくれるものはないだろうかと部屋を眺め渡す。


 目に留まったのは書き物机だった。そういえばこの机を使ったことがない、引き出しもついているが開けたことすらない。暇つぶしになるようなものが入っていないだろうかと、上段の引き出しを開けてみるとそこにあったのはインク壷とペン。後は便箋らしき紙と封筒だった。


 中身を見て鼻から息を吐き出し、下段の引き出しを開ける。ここには革で装丁された本が一冊入っていた、外見だけを整えたフェイクではない。本物の本である。


 平易な文で書かれているなら、ある程度は読めるかもしれない。そう思った伍堂は本を手に取り、ソファへと座った。表紙にはタイトルが仰々しい書体で記され、神からもらったもの、と書いてあるようだ。


 著者名はなく、代わりにエーバンジル教会の出版物とある。聖書のようなものなのだろうか。この国で信仰されている宗教があるのは知っていたが、どのような教えなのか何を信仰しているのか教えてもらった記憶はない。


 食事の前に神へ祈りを捧げる、伍堂がこの国の宗教で知っているのはこのぐらいだ。後はそうだ、スタイン市で出会ったナンシーが神は嘘を嫌い、博愛をよしとする。そんなことを言っていたような気がする。


 腹を空かせている時に読むようなものではないかもしれないが、気を紛らわせるにはちょうど良いかもしれない。自分に読めるのだろうか、自身の能力に不安を感じながらもベッドに腰掛けてページをめくる。


 早速、後悔した。


 流暢な字体で文字が詰まったページを見た途端、頭が揺れる。せめて挿絵などは無いだろうかとページを捲っていったが、どのページも文字ばかり。とてもではないが今の伍堂が読めそうな代物ではない。


 それでも他に気を紛らわせて時間も潰せるようなものはないのだ。こんな時にゲームがあれば、せめてトランプでもあれば良いのにと思うがないものねだりをしてもしかたがない。


 ランタンのつまみを回して光を強くし、最初のページへと戻った。崩し字とまではいかないがそれに近い字体は読みづらく、改めて目を通してみれば知らない単語ばかり。知っている単語が続いているところを頭の中で訳していくが、どうしても意味が通らない文になってしまう。


 多分、この国での慣用句や熟語に値するものなのだろう。空腹のせいで頭が動かしきれないところもあり、投げ出したくなったが我慢して知っている単語を拾っていった。


 読めない言葉ばかりが出てくるのだから内容なんてわかるはずもないのだが、おおまかな雰囲気としてどうやら物語になっているということは理解できた。


 ほんの少し、もしかすると少しというのすらおこがましいほどではあるのだが雰囲気が分かると内容が知りたくなってくる。パウエルの語学講義を受ける時は絵本を教材として使っているが、この聖書を教材にしてもらうのもありかもしれない。


 これを使って講義してくれといえばパウエルは喜ぶのだろうか。伍堂の頭の中はいつの間にか内容を知りたいではなく、パウエルを喜ばせたいに変わっていた。ただそれも純粋に喜ばせたいわけではない、嫌われたくないから気に入られたいという不純な動機ではある。


 そんな自分がいることに薄々気づきながらも、伍堂はそこから目を逸らして良いアイディアだと悦に入っていた。そうして気分が良くなると、何とか内容を読み解けないだろうかと聖書に顔を近づけていた。


 けれどもすぐに文字が意味の無い記号のように見え始め、目が滑り出す。


 疲れのせいとは思えなかったし、きっと空腹のせいに違いない。けどもそれを意識してしまうと辛いだけなので、頭に入ってこなくなっているとはいえ伍堂は聖書から目を離さなかった。


 眉間に皺を寄せ唇を曲げながら格闘していると、伍堂の感覚器が何かを捉えた。聖書から顔を離し、ドアへと視線を向けると同時に誰かが戸を叩く。訪問客を迎えるためベッドから立ち上がると、来客は伍堂の承諾を得ていないのに扉を開けた。


 そこにいたのはエプスタインだった、傍らにはトレイを持った女中が立っている。彼は伍堂が手にしている本が聖書だということに気づくと、酷く嬉しそうに破顔し両手を広げながら入ってきた。その後に女中が無言で続く、彼女が持っているトレイには食事が載せられていた。


「我々の経典を読んでくれていたのか。ダダリオ村での活躍といい、我々の期待に応えてくれて嬉しい限りだよ。君も座りたまえ、少し話そうじゃないか」


 エプスタインがソファに座り、伍堂がその向かいに座ると女中はローテーブルの上に食事を並べ始めた。分厚いステーキにスープとサラダ、そして真っ白なパンだけでなく芳醇な香りを漂わせるワイン。ここしばらくは見ることすらなかった贅沢な料理を目にするだけで口の中に唾液があふれ、ごくりと喉は音を鳴らす。


 けれど並べられた料理はどう見たって一人分しかなかった。どういうことだと女中を見上げたが、彼女は伍堂の視線を意に介した風もなく無言で一礼するとさっさと部屋から出て行ってしまう。


「気にすることはないとも、私は既に食事を済ませてきている。というかだね、食事のときに女中を迎えにやったんだがどうも君が深く寝入っていたようだからそのまま寝てもらうことにしたというわけだ」


「それはどうも、すみませんでした……」


 頭を下げて謝りはする伍堂だったが、視線はどうしても料理、特にステーキへと向いてしまう。申し訳なさは確かにあって、それを表したくはあるのだが空腹は抗いがたい上に久方ぶりのステーキが目の前にあるのだ。


「頭を下げるようなことではないさ、ハンゲイトのところの……あぁ、そうだライドンだ。彼も今日は食事の時間に起きてこなかったらしい、まだダダリオ村にいるハンゲイトも戦いから帰ってくれば君みたいに眠りこける。そういうものだ」


 ハンゲイトも同じと言われると安心できる。また鳴り出しそうな腹の虫を大人しくさせようと食器を手に取ったが、そこで伍堂は動きを止めた。


 目の前にいるエプスタインが気になるのである。食事を済ませたと言っているが、目上の人間がいる前で食事が出来る伍堂ではない。かといって手にしたナイフとフォークを置くのもおかしな話で、伍堂の手は食器を持ったまま宙を彷徨う。


 エプスタインは何も言わない、伍堂の迷う手を不思議そうに見つめるばかり。思い切ってステーキにフォークを突き刺し、ナイフで一口大に切り分けていく。それでいいんだ、とでも言っているかのようにエプスタインは首を振った。


「最初に切り分けてしまうのか、几帳面な性格だな」


 独り言とも取れる言葉だったがそれを耳にした伍堂の手はぴくりと震えて動きを止める。伍堂だって普段はこのような食べ方をしない、口に運ぶその都度切り分ける方が良い。ただエプスタインの手前、何度もナイフを動かすところを見られたくなかったのだ。


 それがいけなかったのか、テーブルマナーを間違ってしまったのだろうか。おそるおそる顔を上げてエプスタインの顔色を伺うが、彼は伍堂の手元を好奇の目で見ている。マナーを間違えたわけではないらしい。


「気にしなくて結構。あまり見ない食べ方をしているものだから、つい気になってしまってね。食べてくれて良いんだぞ、そのために持ってきた」


 言われたところでこうまじまじと見られていては食事が進むはずもないのだが、エプスタインが相手なのだ手を止めるのは却って失礼にあたるのだろう。緊張の中、切り分けた肉をフォークで突き刺し口に運ぶ。


 焼き加減は悪くないのだが冷めてしまっているからだろうか、硬く感じたし味もどこかそっけなく飲み込むのに時間がかかる。また一口と肉を放り込み、ワインで流し込んだ。


「あの……用事があってきたのだと思うんですけど、何かあったんでしょうか……?」


 テーブルの上の食事に顔を向けたまま、視線だけをエプスタインへと向ける。彼は興味深げに伍堂の手元を見たままだったのだが、問われて目的を思い出したのかはっと顔を上げた。


「すまないね、屋敷に戻ってきたのは久しぶりだったものだからつい気が緩んでいた。用事というほどではないが、ゴブリンが相手とはいえダダリオ村で初めての戦場を経験したわけだ。ハンゲイトからの手紙でゴドーが何をしていたのかは知っている、けれども君の主観を知りたい」


「僕の主観と言われても……」


 ダダリオ村で行った戦いのことを思い出すと背筋に一瞬だけ冷たいものが走り抜ける。ゴブリン達の姿、切ったときの手ごたえだけでなくニオイまでも思い出せるのだが、どうしたことだろうか。

 鮮明に、そう鮮明に思い出せるはずなのにそれは夜見た夢のようだった。


「何もしてませんよ。言われるがままにゴブリンと戦って、後はマスケット銃の使い方を教えてもらっていただけです」


「謙遜は美徳だけれどゴドーのそれはし過ぎだよ。報告の手紙にあったぞ、先陣を切ってゴブリンを見事両断して味方の士気を高めたとな。それだけでなく、銃剣を発案してくれたじゃないか。初陣とは思えない活躍だ、胸を張りたまえ」


「けれど僕はただ必死で、やらなきゃと思ってやっただけで。それに銃剣だって僕が考えたものじゃないんです、あれは僕のいた世界であったものですし」


「そうか。それでもな、銃剣はともかくとしてゴブリンとの戦いにおいて功績を挙げたのは事実だ。私としては褒美を与えたいのだが、欲しいものはあるか?」


「欲しいものって言われても……僕はそれだけのことはしてませんし、それに欲しいものなんてなにも……ないですよ」


 食事をする手が止まった。申し出事態は嬉しいが、伍堂は褒章が貰えるようなことをしたつもりはない。それにもしあったとしても、欲しいものはなにも無かった。


 全くないわけではない、欲しいものと聞かれて浮かんだのはパソコンやゲーム機だったのだ。この世界にそんなものがあるはずがない。


「貰えるものがあるのならば貰えば良いと思うんだけどね。ゴドーが要らないといっても褒美は出させてもらうがね、さっきもいったが活躍したと認められているんだ。そうして功績を挙げた者に褒美を与えないわけにはいかないからな」


「そう言われても、僕はそれだけのことはしてませんし……欲しいものも、思いつきませんし」


 やや身を乗り出してくるエプスタインだったが、そう言われたところで欲しいものが無いことに変わりはない。無理に捻り出すことは出来るかもしれないが、かといってそれは無礼ではないのだろうか。


「参考になるかはわからないが、領主に褒美が貰えるとなると武器、特に剣を欲しがる者が多いな。以前、ハンゲイトに褒美を与えるとなった時に彼も剣を欲しがっていた。パウエルは魔術に使うからと希少な宝石を望んでいたことがある、これを聞いてどう思う?」


 聞かれたところでエプスタインのこれは提案だということは理解できている。領主として何か褒美を与えないといけないことは分かるし、あまり時間もないのだろう。けれど伍堂としては、欲しい物を尋ねたのであれば待って欲しいというのが本音だった。


 ここは剣が欲しいです、と答えるのがベターなのだろうが困ったことに剣はダダリオ村に行く直前に既に貰っている。そのために剣が欲しいと答えることができない、宝石が欲しいと答えるのにも抵抗がある。


 伍堂は魔法を使うわけではないのに宝石を貰っても、金を要求しているのとほとんど同じ意味になってしまうではと思ってしまうのだ。


 エプスタインも困っているらしく腕組みをして唇を固く結び、小さく唸っているように見えた。何か欲しい物を言わねばならない、けれど思い浮かばない。


 食事も喉を通らないほど悩み、悩んでいるとエプスタインが手を叩いた。良案を思いついたのか、その目は輝いている。


「そうだゴドー、銃はどうだ! もしかしたらパウエルから聞いているかもしれないが、実は新しい銃を開発しているところでね。それがもうすぐ完成する。その新式銃を与えたいと思ったんだが、さぁどうだ!」


 名案だと自負しているらしい。ローテーブルの上に両手をついて顔を近づけるエプスタインの鼻息は荒く、伍堂は思わず後ろに下がる。その勢いが良すぎたらしい、ソファが音を立てて動いた。


「おっと失礼したね、興奮してしまったよ。しかし、自分で言うのも何だがかなりの良案だと思わないか、ん?」


 気圧されてしまった伍堂を見て後ろに下がってくれたエプスタインだったが、向かってくる圧そのものは変わらない。自信たっぷり、断られるなんてことを考えもしていない彼の姿はひどく眩しいものに映る。


 伍堂は欲しいと言えるものがないので、銃を貰ったところで構わないところなのだが、それで良いのだろうかとつい問うてしまい返事に詰まる。


 俯き、小さく唸った。悩んでいるわけではない、ただすぐ返答できなかったために悩んでいる素振りをしただけだった。頭のてっぺんにエプスタインの視線を感じる。


「はい。では、その新型の銃を頂きたいと思います」


 出来るだけゆっくりと顔を上げ、エプスタインの目を真っ直ぐ見て伍堂は言った。途端、エプスタインはさらに輝いた。その眩さは直視できないもので、伍堂は食事を摂る振りをしてそれとなく目を逸らす。


「うんうん、では新型銃を褒美として与えよう。たださっきも言ったようにまだ完成していない上に、作っているのはシオの街にある工房なものでね。しばらく時間がかかってしまうんだが、それは構わないね?」


 首を横に振れるはずもなく、パンを千切りながら頷くしかない。ただそれだけなのに喜びを露にするエプスタインを見ているだけなのに、伍堂は自身が酷く小さな存在に思えてしまうのだった。


 向かいに座り、今後の予定を考えているのか伍堂に聞こえない程の独り言を呟くエプスタインを視界に入れてしまわないように気をつけながら黙々と食事を続ける。


 食べはじめのころは味があったのに、今は味を感じない。腹が満たされてきたからなのか、それとも緊張によるものなのか。満腹が近づいたからだと思いたい伍堂だった。


「あぁそうだ時にゴドー。好みの女性のタイプを教えてもらえないか?」


「え? そんなものを知ってどうするんですか?」


 唐突なその質問に不快を覚えた伍堂は気持ちそのままを表情に出してしまう。しまった、と思って慌てて作り笑いをしてみせたが既に遅い。


 伍堂がそんな顔をするとは夢にも思ってなかったのだろう、エプスタインの口は僅かに開き、目は丸くなっていた。さっきの表情を無かったことにしようと、伍堂は繰り返す。


「好みの女性のタイプだなんて、そんなものを聞いてどうしようというのですか?」


「ん? あ、あぁそうだな。今度ちょっとしたパーティを開こうと考えていてね、それに君も出席して欲しいんだ。ただ我々の風習として男は社交の場に女性を、婚約者や配偶者を連れてゆくのが慣わしなのだけれどもまだそんな相手はいないだろう?」


 頷くしかないのだが、女性と付き合った経験がないことを指摘されているような気がしてしまい、伍堂の顔は暗くなる。


「そんな顔をしなくて良い、もちろん婚約者や配偶者がいない男は珍しくない。そういう場合は同伴してくれる女性を手配するようになっているのさ。で、どうせだったら好みのタイプの方が良いだろうと思ってね。社交の場に付き合ってくれる独身女性というのは早いうちから探しておかないと見つかりづらいものだからね」


「はぁ……けれどそれって、その――」


 女性蔑視ではないのですか、伍堂はそう言おうとしたのだが喉で止まった。


 エプスタインの言動からそう感じたのは間違いないのだが、では今の発言のどこに差別的な言動があったのか指摘しようにもその箇所が見当たらない。


「そんな中途半端なところで止められたら気になってしまうな、何を言おうとしたのか続けたまえ」


 催促されたからといってすぐに話せるわけではない。もし言ってしまえば反抗と受け取られはしないだろうかと疑問が浮かぶ。


 どうやって誤魔化そうかと考えている間にも、エプスタインは言おうとしたことが気になるらしく少しずつ体を前に出していく。


「それ、女性差別じゃないんですか……? なんというか、女の人をアクセサリにしてるっていうか」


「君は不思議なことを言うね、どこが女性差別。女性に悪いことをしているというんだい、婚約者や妻は配偶者を引き立てるのが当然だ。呼ばれる独身女性だって相応の対価は支払われるのだし、有力者との出会いの場が与えられる。何も悪いことなどしていないじゃあないか」


 反論しようと考えたが出来そうになかった、エプスタインの言うことに納得してしまうところがあったのだ。けれども、それでも女性差別であることは間違いないだろうと伍堂は思うのだがそれを表現するための言葉を生み出せない。


「話を戻そうじゃないか。好みのタイプだよ、教えてくれないかな?」


 そうは言われてもここでタイプを伝えることは差別に加担してしまうことになるのではないかと思うと答えられない。伏せ目になりながら瞳だけを動かしてエプスタインの表情を伺う。


 伍堂が何も答えないせいだろうか、どういう女性を呼ぶのが良いか思案しているようで顎に手を当てて、目線は天井へと向いていた。


「言うのは流石に恥ずかしいか、息子にも以前聞いたことがあるのだけれどあいつも恥ずかしがって答えてくれんかったからな。そういうものなのだろう、なに私に任せておくといい。悪いようにはしないし、後はゆっくり食事を楽しんで英気を養ってくれたまえ」


 伍堂の返事を待たずしてソファを立ち、部屋を後にしようとするエプスタインの背中に向けて手を伸ばしたが静止の声は出なかった。彼は振り返ることなく出て行ってしまい、扉の音が静かな部屋の中にむなしく響く。


 伸ばした手を下ろし、食事を再開する。話している間にすっかり冷めてしまった料理は美味しいと感じることができない。このままでいいのだろうか、意識的に考えないようにしていたことが蓋の隙間から溢れ出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る