第24話 屋敷への帰還(1)


 森の探索を終えたその晩は何も起こらなかった。その次の晩も、その次もゴブリンの襲撃は起こらなかった。ゴブリン討伐の先遣隊として派遣された伍堂達が森の中へと入っていくこともなかった。


 その何もない日々の間、伍堂を除いた三人は村の周囲を武装させた村人を引き連れて警邏していたが、伍堂はその任務を与えられなかったのである。


 では伍堂がその間で何をしていたのかというと訓練に明け暮れていたのだった。ボネットの提案でこの機会に伍堂に銃の扱いを覚えてもらおうというのである。


 まだ剣だって満足に扱えるわけでない伍堂は拒否したかったのだが、銃剣を発案したのだから覚えるべきだと言われてしまった。これを言われてしまうと拒むわけにはいかず、村一番の猟師であるワイマンを師として銃の訓練をしていた。


 銃の知識はあっても触ったことなどもちろんないため、最初はおっかなびっくりだったがやってみるとこれが案外楽しかった。引き金を引いてもすぐに弾が発射されるわけでないことだけでなく、受け止めなければならない反動が強かったことに驚きながらも銃の訓練は苦にならない。


 伍堂の腕が悪いのか、それとも銃の工作精度に起因するものなのかはわからないが思うように的に当てることはできなかった。一〇発撃って五発当たるかどうかといったところだったが、ワイマンは伍堂の射撃の腕を過剰ではないかというほどに褒め称えるものだから恥ずかしさを感じるほどだった。


 そうして何も起きず、ただ銃の訓練だけを行う日々が一週間ほど過ぎた頃になってスタイン市から本隊がやってきた。先遣隊は彼らと入れ替わりで帰還することになっていたのだが、ハンゲイトとボネットの二人はしばらくの間残ることになった。


 スタイン市への帰路についたのは伍堂とライドンの二人だけで、来たときと同じように馬車に揺られたのだが道中で会話らしい会話はなかった。それというのも伍堂だけでなくライドンも疲れていたため、酷く揺れる馬車の荷台に乗っている間はほとんど寝ていたのである。


 途中で一泊し、馬車に揺られて帰ってきたエプスタイン邸は懐かしいものに見えた。この屋敷は伍堂の家ではないし、過ごした期間だってそう長くはなかった。


 なのに郷愁が湧き上がることを不思議に思いながら、伍堂はライドンと共に馬車を降りて疲れた体を引きずるように歩きながら屋敷の門を潜り、広い庭を抜けて扉へと向かう。


 出立する前と屋敷の様子に変わったところは感じられなかったのだが、伍堂はある違和感を感じてドアノブを掴んだ所で立ち止まる。後ろにいるライドンを振り返ってみたが彼は何も感じていないらしく、早く開けろと仕草で示すのだった。


「こういう時ってさ、出迎えってないものなの?」


 違和感の招待を口に出して尋ねたが、帰ってきたのは深い深い溜息だ。


 なにもそこまでと言いたくなるほどの大仰な動きで溜息を吐かれたものだから、気心が知れているライドンが相手であっても伍堂はつい唇を尖らせる。


「あるわけがないだろう。俺たちはただの先遣隊だ、本命は入れ替わりの本隊だよ。本隊が帰ってきたらあるかもしれないけど、俺らみたいなのをわざわざ出迎えるわけないって」


 ため息の理由を聞かされ、なるほどと納得がいった。頭のどこかで自分が主役のような気がしていたのだが、そんなことあるわけがない。そもそも主役なんてものがいるはずがないのだし、仮に主役がいるというのならそれは今も本隊と共に行動しているハンゲイトだろう。


 ちょっとゴブリンの様子を見てきただけの伍堂とライドンに盛大な出迎えなんてあるはずがないのだ。


 少し悲しくなりながらもドアノブを掴み直したのだが、胸の違和感が消えないことに気づいた伍堂はまた振り返る。ライドンを見たのではない、庭を見たのである。


 今まで注意していたわけではないので定かではないのだが、日が昇っている間はこの庭には常に誰かがいたように思えるのだ。


 直接会ったことはないのだが、エプスタイン公爵夫人や娘のパトリシアが歩いているところはよく見かけたし、彼女たちがいないときは大体において庭師が草木の手入れを行っていた。なのだが今はそのどちらも見かけない。


 公爵夫人とその娘がいないことは何となく察しが付いている伍堂だったが、庭師もいないというのはさてどうしたことなのだろうか。疑問に思い思考を巡らせてはみるが考えても答えは出ないし、ライドンも早く開けろとしきりに催促していた。


 帰ってきたときは何と言えばいいのだろう、礼儀作法というものはあるはずなのだけれど伍堂はそれを教えられていない。教えられていないからといってやらなくていいという道理があるとも思えない。


 これは困ったどうしよう、と悩んでいる後ろからまた催促される。仕方なしに扉を開けたところで、ライドンに聞けば良かったのだと気づいたがもう遅かった。


 扉を開けば聞きなれた銃声が響く、驚くと同時に戦いに順応し始めた体は腰の剣へと伸びる。だが柄に手をかけることは無かった。


 いつの間に帰ってきたのか、扉を開ければそこには銃を持ったブライアン・エプスタインがいたのである。彼が手にする銃の先端からは青い煙が立ち上っており、今の音は彼が鳴らしたのだとわかった。


 そのエプスタインの両隣には二人の男が立っている。一人はパウエルなのだが、もう一人は初めて見る顔だ。伍堂より少し年上に見える青年で、どことなくだがエプスタインの面影を感じさせる。この青年は伍堂の顔を見るやいなや敵意すら感じるほどの視線で伍堂を睨みつけた。


 初対面の相手にそんな目で見られたものだからたじろいでしまう伍堂だったが、ゴブリンの戦いで少しは胆力が付いていたのだろう。


「伍堂博之、今戻りました」


 すぐに姿勢を正してエプスタインへ一礼する。頭を下げたところで、これで良かったのだろうかといつものように不安が襲ってきた。


「うんうん、よく帰ってきてくれたなゴドー。しかしパウエルよ、君に教育を頼んで正解だった。まさか一ヶ月経ったかどうかというのに、ここまで成長するとは想像できなかったよ」


 パチパチと手を鳴らしながらエプスタインは満面の笑みを浮かべていた。


 間違っていなかったのだと安堵しながら顔を上げて、隣のライドンを見た。彼は今の伍堂の行動を信じられないものを見た、とでも言いたげに唖然としていたがすぐに公爵の前だということを思い出すと、伍堂と同じように頭を下げる。


「はは良い良い、二人とも頭を上げろ。特にゴドーには息子を紹介しておきたいからね」


 エプスタインに言われて頭を上げると、エプスタインは伍堂が初めて会う青年へと視線を向けた。青年は視線を向けられると一歩前に進み出て、慇懃に一礼してみせるもどことなく警戒されているような気がした。


「お初にお目にかかります、私の名はハリス・エプスタイン。今までは王都で勤めておりましたが、この度に家へと戻ることになりました。ゴドーさんのことは父から良く聞いておりますよ、ハンゲイトからの手紙も読ませていただきましたがダダリオ村では大層活躍なされたようで。よろしくお願いします」


 ハリスの言葉は丁寧そのものなのだが、言葉の端々に棘を感じるだけでなく嫌味を言われているようだった。彼は伍堂に対し見下すような視線を向けているのだが、エプスタインは嗜める様子もない。


 どう対応していいか分からずにいると、ハリスが手を差し伸べた。握手を求めているのはわかったのでそれに応じたのだが、彼の握力は非常に強い。握手とは呼べないほどに締め付けてきた。


 顔をしかめそうなほどの痛みだが、ハリスはエプスタインの息子だという。痛みに耐え、引きつりそうになりながらも伍堂は笑みを浮かべる


「ゴブリン退治から戻ってきて早々で悪いのですが、私と一緒に庭の散策などどうでしょう? 今後、顔を突き合わせることも多いでしょうから交友を深めませんか?」


 二人の手が離れたところでハリスが誘う。ハリスがどういう役職の人間なのか伍堂は知らないが、疲れていようとも彼の誘いを断れるわけがない。


「おいおいハリス、気持ちはわかるが彼は戻ってきたばかりだぞ。休ませてやりたまえよ」


 伍堂の気持ちを汲み取ったのかどうなのかは分からないが、エプスタインの助け舟のような言葉である。しかしその助け舟があっても伍堂はハリスの誘いを断れなかった。


「あ、そうですね。こちらこそよろしくお願いします」


 パウエルがそっと伍堂に近づき、断っても良いのだと耳打ちをしてくれたが首を横に振る。二人のやりとりが聞こえていたわけではないのだろうが、ハリスはにやりと笑って見せた。


「ではゴドーさん、早速いきましょう。腰の剣はライドンにでも預ければよろしいでしょう」


 伍堂の隣をすりぬけてハリスは扉を開けた、風が草木の香りと共に邸内へと流れ込む。


 言われるがままに伍堂はライドンに剣を預け、一足先に庭へと出たハリスの後に続いた。そんな伍堂をライドンは不安そうに見ていたのだが、大丈夫だと言うように笑い返す。


 そうして外に出て扉が閉まった時に気づいたのだが、ハリスは腰に剣を佩いていた。実用性の低い、華美な装飾が施された細身の物ではあるが剣であることに変わりはない。


 伍堂から剣を取り上げておきながら自らは剣を手にしたままのハリスに不信感を抱きはしたが、口には出さない。仏頂面を浮かべながら歩くハリスの一歩後に伍堂が続く。


 自分から散歩に誘い出したにも関わらずハリスは唇を真一文字に結んだままだった。庭に美しく咲く花を見ても、重苦しい沈黙の中でそれらを見ても色がないように感じてしまう。


 あまりにもハリスが口を開かないのでこちらから話題を出そうかと思いはするのだが、疲労もあってか適切な話題を見つけることができない。話のネタになりそうなものはそこかしこにある、天気の話をしたっていいのだしハリスに王都でどんなことをしていたのかを聞いたっていいのかもしれない。


 けれどそれらは適切なのだろうか。ハリスは伍堂のことを良く思っていないのは明らかだ、そんな彼に今浮かんだような話題で話しかけても一笑に付されるか無視されるかのどちらかしかない気がしたのだ。


 ハリスから何か話してくれないだろうか、いつまで沈黙に耐えられるだろうかと思い始めるとハリスが足を止めた。そこは庭の一角に建てられた東屋で、ハリスは東屋の中にあるベンチに腰を下ろすと睨み付けるようにして伍堂を見上げる。


「父上の手前、さっきは尋ねることはしなかった。ゴドー、お前は一体何ができる?」


 眉間に皺を寄せながら投げつけられた問いに伍堂は何も言うことができなかった。


 特技と呼べるようなものは何一つとして身に着けていない、ある程度人並みのことは出来るだろうがそれが何だというのだろうか。


 ダダリオ村でゴブリンを両断しましたとでも言えばいいのだろうか。けれどそれが誇れることなのだろうか、日本でなら剣をある程度扱えるだけで人に誇れる特技になっただろう。しかしこの世界では違うはずだ。


「ほら見ろ、結局お前ら別の世界から来た連中はそうなんだよ。父上だけじゃない、ハンゲイトやパウエルがお前らみたいなやつをどうして重宝するのか私には理解できない。口先だけや意気込みだけは良いが、結局何もできずに死にやがる。お前らにどれだけの金が掛かっているかわかっているのかと私は問いたいね」


 口調そのものは静かだがハリスの言葉には今にも爆発しそうなほどの怒りがあった。


 普段ならその怒りに対して萎縮してしまう伍堂だったのだが、ハリスの言葉の中にどうしても気になるところがあって萎縮なんてどこへやら、気づけばハリスへと詰め寄っていた。


「今、お前らって言いましたけど……どういうことなんです?」


 薄々気づいていたことではあったのだ。屋敷で接する人間の誰もが伍堂のいた世界、日本についてある程度の知識があるように思えたし、ダダリオ村の森で見た日本語で記された手紙のこともある。あの手紙を見たときのハンゲイトの態度は普通ではなかった。


 そしてこのハリスの発言が決定打となって、伍堂の中にあった疑念は確信へと変わる。


「どういうこともなにも父上から……いや、パウエルやハンゲイトからも聞いていないのか?」


「何も聞いていません。ただエプスタイン公爵は僕に英雄になって欲しいと言っていました、その魔王が復活する予兆があるからだと……」


 ふむ、と小さく声を漏らしてハリスは身を小さくしている伍堂を見上げた。


 先ほどまでのハリスは警戒心どころか敵意を露にしていたのだが、それらは鳴りを潜めている。今、彼が表層に出しているのは疑念だった。伍堂が本当のことを言っているのかどうか、見定めようとしているのだろう。


「お前の表情を見ている限り嘘を吐いているようにも思えないな。どうして父上がお前の前に四人もの人間を召喚したことを黙っているのか、魔王が復活する等という嘘を吐いたのかが見当がつかんな」


「やっぱり……魔王がいるというのは嘘だったんですか?」


「あぁ嘘だとも。そのような御伽噺があるにはあるんだが、魔王がいたなんて証拠はない。筋道立てて話してやると、大昔に魔王が現れて英雄が幾日も渡って戦い続け、最終的に倒したという話はある。これが御伽噺だという根拠はだな、英雄に冠する物品が何一つとして残っていないんだよ。魔王の物品が残っていないのはまだ理解できるが、それを打ち倒した英雄の武具が残っていないのはおかしいだろう。丁重に保管されて然るべきだからな。こういった理由で魔王なんてものはいなかったと断言してやるし、いもしないやつが復活なんて出来るはずがないからな」


 ではどうしてエプスタインがそんな嘘を吐いたのか、伍堂の中に疑心が生まれる。


「しかしお前は今やっぱりと言ったな? 直接そういった話はされていなくとも、疑問に思うようなことがあったのではないのか? ほら、話せ」


 話せといわれてもすぐに話す伍堂ではなかった。


 今は感じていないがハリスは伍堂に対しついさっきまで敵意を剥き出しにしていたのだ、エプスタインに嘘を吐かれていたとわかった今、ハリスに対して正直になろうとは思えない。


 中々話し出そうとしない伍堂にハリスはいらだち始め、つま先で東屋の床板を叩いた。それでも伍堂が話そうとしないと見れば、ハリスは床板を叩くのをやめて深い深い溜息を吐く。


「話す気がないのであればそれはそれで良いとも、私も最初からお前が話してくれるとは思っていなかった。ただこれだけは伝えておく、私は父上にどうしてお前にそんな嘘を吐いたり隠し事をする必要があったのかを問いただす。答えてくれるかはわからん、ただ答えを貰ったとしてもそれをお前に教える気はない」


 ハリスはゆっくりと立ち上がり、伍堂に背を向けて東屋から出て行こうとする。


 どうすべきかと逡巡した伍堂だったが、思い切るとハリスの背中に向けて声をかけた。彼はそれを待っていたのだろうか、ぴたりと足を止めて振り返る。


「僕が話したら……ハリスさんがもし答えを貰ったら、教えてもらえますか?」


「それはわからんな。ただお前が私に話さなければ、答えを得ても教えることは有り得ないとだけ言っておいてやる」


 話すべきか話さざるべきか、思い悩み唾を飲み込む。ハリスは顔だけを伍堂に向けたままじっと待っていた。


「わかりました、じゃあ聞いてください――」


 そうして伍堂はゆっくりと、時には詰りながらも話し始める。


 ダダリオ村の森で見たことを、日本語が記されていた地図のことを、その地図にあった四谷という名前のことを、ボネットが魔王の存在を否定したことも、日本語を見たときのハンゲイトの反応も、自分の見た全てを感じたことをありのままに伝えた。


 しどろもどろで、緊張と興奮で舌を噛んだりどもることもあったがハリスはまたベンチに座ると伍堂の話に静かに耳を傾け続ける。


「これで全部です……」


 これだけ長く多くのことを喋ったのはいつ以来だったか、もしかするとこんなに話をしたのは初めてのことかもしれない。ただ喋るだけだというのに体力をかなり使ったようだった、口の中も渇いている。


「なるほど、わかった」


 俯き気味に話を聞いていたハリスだったが、伍堂が話し終えると顔を上げて小さくそう言った。


 ハリスと伍堂の視線が交わされる。ハリスは何か言いたそうにしているように見えたのだが、まだ頭の中で内容を整理しているのか唇はきつく結ばれたままだった。


 せめて答えを教えてくれるのかどうかだけでも言ってくれれば言いのだが、ハリスはもったいぶっているのかそれすら言おうとはしない。


 彼は自分を謀ったのだろうか。ハリスは、いやハリスもまた嘘を吐いたのだろうか。二人の間にまた重苦しい沈黙が漂い始めたが、長くは続かなかった。


 淑やかな少女の声が沈黙を晴らす。


「あらお兄様、いつの間に帰ってらしたんですの? それにそちらの方は噂のゴドーさんですわよね?」


 声のしたほうを見れば豪奢なドレスを身に纏い、日傘を差した可憐な少女の姿があった。まだ一〇代の前半らしくあどけなさがあるが、スカートの裾を摘みながら微笑を浮かべ挨拶をする彼女の姿は淑女のそれである。


 急な美少女の来訪に伍堂があっけに取られているとハリスは慌てて立ち上がり、二人の間に立ちふさがる。伍堂の視界の中に少女の姿を入れたくないようだった。


「何をしているパトリシア! 婦女子が親戚でもない男の前にみだりに姿を現すものではない! お前にはエリックという婚約者もいるだろう、いい加減に礼儀作法を覚えなさい!」


 ハリスの表情は見えないが取り乱しているのは明らかだった。


 聞こえてきたパトリシアという名前には聞き覚えがある、以前にハンゲイトがエプスタインにそのような名前の娘がいると言っていなかっただろうか。他にも何かを聞いていた気はするのだが思い出せない。


 ただ伍堂の頭の中にあったのは、エプスタインの娘に挨拶をしなければ失礼にあたるということだった。


 名前ぐらいは名乗るべきだと思うのだがハリスは徹底的に伍堂にパトリシアの姿を見せまいとする。話しかけるのはタブーということなのだろうか、それでもと思うところがなくはないのだが挨拶が必要であるのならばハリスがこんな態度に出ない気もしたので伍堂はそっと距離を置くことにした。


「礼儀作法と言いますけれどもどうして私がゴドーさんとお会いしてはいけないのでしょうか。英雄になるために呼ばれた方なのでしょう、それでしたら公爵の娘である私が挨拶をしてはならない道理がどこにあるのでしょう。お父様にも尋ねましたが納得できる答えは仰ってくれませんでした、お兄様もしてはならないというのでしたら私が納得できる答えを提示してくださいませんこと」


「それは昔から言われているだろう、そういうしきたりだ。いいか、余程の特別なことがない限り婦女子は血縁でもない男の前に姿を見せるのはふしだらだと教わっているだろうに」


「私が尋ねていますのはそういうことではありませんわ、ふしだらだとされるのはどうしてか? と尋ねております。それに特別な事がない限りはと言われましたね、ゴドーさんとお話しするのは特別なことではないのですか。ゴドーさんは客人でもありましょう? お客様には会釈程度とはいえ挨拶は致します、なのに今それが許されないというのは変な事だとお兄様はお思いにならないのですか」


「それはだな……」


 ハリスは言葉に詰まった。二人の表情は見えないが、感情的になっているハリスに対してパトリシアは冷静そのものである。このまま論争を続けたところでハリスがパトリシアを打ち負かす姿を想像することができない。


 ただハリスがどうして伍堂とパトリシアの間に立ちはだかるのか理由はわかった。その理由がどこからやってきたものなのかは分からないまでも、良しとされないのであれば顔を合わせないほうが良いに違いない。


 二人が言い争っている間に息を潜めてこっそり去ろうとしたのだが、気配を察知したハリスは伍堂を呼び止めた。


「どうしても妹がお前に話したくて仕方がないらしい。本来ならとてもではないが認められんが、可愛い妹の頼みだけあって無下にはできん。すまんが付き合ってくれ、そしてそのことは父上だけでなくパウエルやハンゲイト、あぁ当然ながらライドンにも内密にするように」


 なら交換条件に答えを教えてくれ、そう言いたくなった。しかしハリスは誰がどう見てもそれとわかる困り顔で、嫌なやつだとは思っていてもそんな顔をされながら頼まれると無条件に承諾するしかない。


 ハリスは胸を撫で下ろすとそっと横に退いた。改めて目にするパトリシアの姿は目鼻立ちは整ってはいるものの美人というほどではない。


 けれども立ち振る舞いには貴賓さが溢れ、浮かべる笑みには高貴さと親しみやすさが同居している。香水を付けているのか、そよ風が吹くと清潔さを連想させる香りが鼻をくすぐった。


 年下は趣味ではなく対象外な伍堂ではあったが、きゅっと胸が締め付けられるような気がするほどで女性に免疫がない事もあり、自分で顔が赤くなっていることが自覚できる。


 貴族の女性とはみなこうなのであろうか。もしそうだとするのなら、なるほど。みだりに男性の前に現れてはならないという理由にも納得がいく。


「では改めまして、私の名はパトリシア・エプスタインと申します。お分かりかと思いますが、エプスタイン公爵の娘でありハリス・エプスタインの妹であります。以前よりゴドーさんのお話は父から伺っておりまして、常々ご挨拶したいと機会を待っていたのです。しきたりもありますし、顔を合わせる機会はあまり無いとは思いますが同じ屋敷で暮す者として何卒よろしくお願いいたします」


 言葉が出てこない。喉の辺りまで出掛かっているのだが、そこから先まで来てくれないのだ。


 頑張って声を出そうと、せめて自分の名前ぐらいは言おうとするのだが、あ、だとか、う、だとか声にならない音ばかりが漏れる。


 自分が情けなくなり、羞恥から顔がさらに赤くなる。


 けれどもパトリシアはそんな伍堂を馬鹿にすることはない。にこり、と柔らかな微笑を浮かべながらおもむろに近づくと伍堂の手をそっと手に取り柔らかく包むのだった。彼女の肌はきめ細かく滑らかで、絹のような感触がある。


 ちらりと横目でハリスを伺えば苛立っていた。しかしそれは伍堂ではない、彼の目はパトリシアを見ていたのだが当のパトリシアは気にした風すらない。


「お名前を教えてくださらない?」


「は、はい……伍堂博之、です……よ、よろしくお願いします」


 喉からようやく出てきた声は裏返っていたが、パトリシアは陽光のような笑みを浮かべる。そんな彼女の表情を見ると胸が締め付けられ、鼓動が大きくなる。


 伍堂の手を柔らかく包む彼女の手をつい握り返そうとするが、それよりも早くにするりと彼女は手を引いた。どこか名残惜しい、ハリスが小さく息を吐いたのが聞こえる。


「はい、よろしくお願い致します。大事な話をしていたところでしたのにお邪魔してしまいすみませんでした、それでは私は庭の散歩に戻るとします」


 日傘を差しなおしてパトリシアは東屋を出たのだが、そこから散歩と歩かぬうちに彼女は振り返った。


「そうそうゴドーさんにお兄様、わかってらっしゃると思いますけれども私とゴドーさんが顔を合わせたことは皆には内緒にしておいてくださいね」


 唇の前に人差し指を立てウインクしてみせる彼女の姿は一〇代の少女そのものだった。パトリシアはまたすぐに歩き始めてしまったが、その歩き方にもやはり気品があり伍堂はつい見とれてしまうだけでなく、早鐘を打っている胸を手で押さえるのだった。

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