第23話 森の小屋で

 ゴブリン達との戦いが終わり明けた翌日のこと、伍堂達は村の外れ、昨晩に陣地を構築していた地点へと集結していた。ハンゲイトとボネットそしてライドンは当然なのだが、村人はたった一人しかいなかった。


 この村人は名をワイマンといってダダリオ村に何人かいる猟師の中でも特に年季が長く、銃の扱いに長けている上に今はゴブリンに占拠されている森についても多くの知識を持っている男なのである。


「よし皆準備はいいな?」


 ハンゲイトは集団から一歩飛び出して振り返り、全員の顔を見渡した。伍堂以外の全員が頷いたのだが、伍堂は戸惑いを浮かべながらハンゲイトをじっと見るばかり。


「どうしたゴドー? 何か用意し忘れたものでもあるのか?」


 軽く笑いかけながら問いかけたハンゲイトに対し、伍堂は首を横に振る。革の鎧はライドンに手伝ってもらいながら身に着けたし、剣は腰に佩いている。万が一のための予備としてナイフだって身につけた、水と食料も持っている。


 昨晩、寝る前に言われたものは全て用意していた。忘れているものなんて無い、準備万端と言っていいのだが伍堂には懸念していることがあるため素直に首を縦に振れなかったのだ。


「あの……本当に森の中に行くんですか?」


「お前今更になって何を言ってるんだ、昨日寝る前に理由言われて納得しただろ」


 呆れてため息を吐くライドン。彼の言うことは最もなのだが、けれどと思ってしまうのだ。


 森の中はゴブリンの本拠地となっている、昨夜にさんざんやっつけたとは根絶やしにしたわけではない。もしかするとまだかなりの数のゴブリンが森の中にいるかもしれないのだ。


 なのに五人という少人数で森の中へ入るというのは伍堂からすれば不安を感じるしかない。そんな伍堂の内心を見透かしているかのように、ボネットは眼鏡に日光を反射させながら何度も頷いていた。


「大方、この人数では足りないのではないかというところではないですか?」


「えぇその通りです。五人は幾らなんでも少なすぎるんじゃないですか、呼べばワイマンさんだけじゃなく昨日みたいに村の人たちが手伝ってくれるんじゃないんですか?」


 俯き気味になっていた顔を上げてハンゲイトを見ると、彼は腕を組んでしばし考え込む様子を見せた。


「そういえば目的を言っていなかったな。いいかゴドー、私たちの目的はゴブリンの討伐ではあるけれども先遣隊だ。彼奴等を全滅させるための本隊はまた後からやってくる、先遣隊として我々がやるべきことは本隊の到着までの間に村を守ること。そして彼らのために可能な限りの情報を収集することだ、森の中に行くのはその情報収集のためであって忌むべき種族を根絶やしにすることではない。加え、森のような入り組んだ場所に大人数で向かうのは良くない。指揮しようにも全員に目を配ることは難しくなる」


「ハンゲイトさんの言うとおりだぜゴドー、それに村の人に手伝ってもらったって銃とか農機具じゃ戦えねぇよ。森の中だ、そんなん武器にしても振り回すスペースがねぇんだよ」


 ハンゲイトに続いてライドンが言った。なるほどもっともだと、それならば村人を連れて行かないのにも納得できる。けれどもそれで不安が拭えたかといえばそうではない。


 一昨日、そして昨日とゴブリンをその手で打ち倒した伍堂ではあるが見慣れぬ忌まわしく醜い生物に対しての恐怖は胸の奥底に残っている。


「英雄様はずいぶんと心配性なのですな。人数が少なかろうと安心して欲しいもんです、このワイマンは村一番の猟師として自負しとります。あの森は猟師をやる前、子供の時分から遊び場にしとった言わば庭みたいなもんなのです。そのワイマンが案内人を務めるんです、安心なさって下さい」


 伍堂を安心させるためだろう、猟師のワイマンは笑ってそう言うと共に肩に担いだ銃剣つきのマスケットをアピールするよう揺らしてみせる。


 昨晩、自分の指揮下にいた人間にそう言われてしまっては憂いてもいられない。臆病な気持ちを振り払おうと首を勢いをつけて左右に振るだけでなく、無我夢中だったとはいえ既にゴブリンを幾体も倒したじゃないかと己に言い聞かせた。


「はい、すみませんでした。何も不安はありません、行きましょう!」


 恐れを飛ばすように声を張り上げた。ハンゲイトとボネットは満足げであり、ライドンも笑っている。そしてハンゲイトが勢いをつける為の激を飛ばし、一向は森の中へと入っていった。


 森の中はきっと暗いだろうと想像していた伍堂だったが、思っていたほどではなかった。木々は大人が一人から二人は並べるほどの間隔を空けて生えていたし、枝葉が茂ってはいても日光を完全に遮るほどではない。ところどころで張り出した根が地面を隆起させていたが、歩きづらいというほどではない。


 ハンゲイトは木々の力強く伸びた枝を見上げながら感嘆の息を吐いた。


「これはまた随分と手入れされている森だな」


「そらまあ大事な森ですからな、木は太く真っ直ぐ育ってくれねぇと建材にならないですし。木の実をいっぱい付けてくれたら俺らも食えるし、それ目当ての動物も増えて肉を狩れるんでね」


 褒められて悪い気はしないワイマンは得意げに胸を張りながら手近にあった木に手をついた。その木はまだ若い木で幹も太くなく、根もそこまで伸びていなかったのだろう。ワイマンが体重をかけただけで揺れ、どさりと何かが根元の茂みの中へと落ちてきた。


 即座に全員は飛び退くと、それぞれの武器を手に握り茂みの中へと目を凝らす。動物が倒れこんでいるようだったがそいつはぴくりとも動かない。


 数十秒経過しても動きがなく痺れを切らしたハンゲイトの指示でライドンが忍び足で近づく。彼は慎重ながらも大胆に茂みを掻き分け、落ちてきたものの正体を知ると大きく息を吐き出しながら胸をなでおろす。


「ゴブリンの死骸でしたよ、完全に死んでる。昨日、逃げたはいいけど戻る前に力尽きたんでしょうねぇ」


 近づいてみるとゴブリンの死骸は舌をだらりと伸ばし、鳥にでも食われてしまったのか目玉のない空っぽの眼窩が空を仰いでいた。ワイマンが揺らした木を仰ぎ見てみると、一本の枝にどす黒い汚れがついていた。


「ゴブリンって木の上で暮らすんですか?」


 伍堂は湧いてきた疑問を、この中では一番の知識人であろうボネットに尋ねた。すぐ答えてくれるだろうと思っていたのだが、ボネットは眉間に皺を寄せて悩んでいるように見える。


「登りはしますが暮らすというほどではないですね……ただゴドーさんが本当に尋ねたいのは、どうして木の上で死んでいたのかでしょう? それについてはさっぱり見当がつきません」


「それについては私が答えるとしよう」


 答えあぐねているボネットの肩をハンゲイトが叩く。


「こいつは安全な場所を確保しようと木の上に逃げただけだ。どんな動物でも傷ついたら隠れる、それと同じだ。もしかするとこいつと同じように木の上に逃げたまま潜んでいるやつがいるかもしれん、気をつけて進もう」


 全員がハンゲイトに同意の頷きを返し、頭上に意識を向けながら歩いていく。歩いているところは道と呼べるほどではないが、よく踏み固められて雑草もなく歩きやすい。


 それでも石ころや木の根による隆起があり、度々つまずいてしまう。そうして体感で二〇分ほど進んだころ、開けた場所に出た。そこには木で立てられた一軒の小屋があり、小屋の周りには金属片や棒切れ、動物の骨が散乱していた。


 知識のない伍堂であってもここにゴブリンが居たことがわかった。全員は警戒し、それぞれ武器を手に持ち足音を潜めながら小屋へ近づき、囲んだ。中から動く気配は感じられない、それは経験の浅い伍堂だけでなくハンゲイトやワイマンも同じらしく怪訝な顔を浮かべ唇を硬く結んでいる。


 遠くで鳴いているはずの鳥のさえずりがやけに大きく聞こえ、枝葉が擦れる音も耳のすぐ近くで鳴っているような気がするほどの静寂さが辺りを包んでいた。


 早く突入してしまいたい、気を張り詰めるのは神経を使う。けれど、もし中にゴブリンが待ち構えていたらと思うと背筋に冷たいものが伝っていく。


 きっと五分も経っていないだろうに、その数倍もの時間が経過したように思う。ハンゲイトは足音どころか身に着けた鎧の音も鳴らさずに小屋の扉の前に立つとワイマンを手招きする。


 ワイマンが一切の音を立てずに扉に近づき射撃姿勢をとると、ハンゲイトは力強く扉を蹴飛ばした。扉の蝶番は壊れ、けたたましい音を立てながら倒れる。銃声が響くのではないかと身構えた伍堂だったが、その瞬間は来なかった。


 ハンゲイトが大きな溜息を吐くと共に肩の力を抜いた。それを合図に全員の緊張がほぐれ、伍堂の肩からも力が抜けた。大きな運動をしたわけでもないのに酷く疲れた気がしたし、額には玉のような汗が浮かんでいる。


 その汗を手の甲で拭って皆とそろって小屋の中を覗いた。獣の臭いを何倍も濃くした強烈な臭気が中から漂っており目にしみてきそうなほどで、つい目を逸らす。


「ひでぇ使いかたしやがって……俺らの小屋なのによぉ」


 悪臭に顔を顰めながらもワイマンの額には青筋が浮かび、呟いた言葉には明らかな怒気がある。想像ではあるのだが、この小屋はダダリオ村の猟師たちが休憩のために建てた小屋なのだろう。だとすれば相応の愛着を抱いていることだし、怒りで頭を沸騰させるのも仕方のない話だ。


 改めて中を覗くとそこはひどい散らかりようだった。床のそこかしこに黒く変色した肉がこびりついた骨が転がっている。その床の上に転がる骨はどこかで見覚えのある形状で、それ以上考えると恐怖に支配されてしまいそうなで思考を停止させた。


 ゴブリンがいないことは明らかだったが、それでも警戒を解かず慎重に小屋の中へと足を踏み入れる。ぎしりぎしりと床が軋んだ。


 中に入って気づいたことだが、小屋の奥にある窓の傍に長方形のテーブルがあるのだが、そこだけ雰囲気が違う。何がどう違うのかすぐには判別つかなかったのだが、しばらくして気づいた。テーブルの上だけが綺麗なのだ。


 床には骨が散らばり、壁にも血のような染みがついているのだがそのテーブルには汚れがない。それに気づいたのは伍堂だけではない、ライドン以外の全員が気づき互いに顔を見合わせる。だがライドンだけはその理由がわからずに不思議そうに小屋の中を見渡し続けていた。


 もしや罠なのではと警戒したために誰も近づきはしなかったのだが、わかっていないライドンは皆の視線がテーブルに集中していることに気づくと躊躇いなくそこに向かい、テーブルの上に置かれていた何かを手にとって首を傾げる。


「ゴブリンって……文字なんて使えましたっけ?」


「連中にそんな知能はありませんよ、何かあったんですか?」


 ボネットが尋ね返すとライドンは手にしたものを皆に見えるようにした。それは一枚の羊皮紙で、図形と幾つかの文字が書かれている。

 ハンゲイトとボネットの二人はすぐライドンに近寄り、食い入るように羊皮紙を眺めたが小さく唸り声のような音を喉から出す。何が書いてあるかわからないらしい。


「村の周辺地図だということはわかるが、これはなんだ……? 文字らしいが我々のものとは違うな、隣国のものでも海向こうのネアトリアのものでもない。わかるかボネット?」


「いえ、私にもわかりません。象形文字のように思うのですが、見た記憶は……あ、いや。似たような文字をどこかで見ましたね、けれどどこだったか……うーむ……」


 博識なボネットにすら分からないものが伍堂にわかるはずはないのだが、どのようなものなのか好奇心が刺激される。自分のような知識のないものがという一種の後ろめたさはあったが、思い切って見せてくれるよう頼むと快く紙を渡してくれた。


「あっ……!」


 渡された紙を見て思わず声が出た。


 というのもそこに書かれた文字というのは日本語だったのである。紙に書かれているのはハンゲイトが言ったようにダダリオ村の地図で、どこに何の建物があるのか日本語で注釈がつけられている。


 それだけでなく、村を襲撃する場合はどの方向から攻めるのかという指示が平仮名によって書かれていた。紙の隅には署名なのだろうか、四谷とある。


 これがただの地図ではなく命令書であることはすぐに理解できていた伍堂だったが、慣れ親しんだ日本語を異世界の地で目にした安心からつい頬が緩む。


「おいゴドー、変な声を出してどうしたんだ?」


「え、あっ。すみません……えっと、これ日本語ですね。僕の世界、じゃなかった。国で使っている言語です、四谷って人が書いたみたいですね、ここに書いてあるのが名前だと思い出す」


 紙をハンゲイトに見えるように向け、署名のある場所を指差した。途端、ハンゲイトは口を半開きにして顔を青ざめさせる。おかしなその反応にどうしていいかわからず、ボネットに伺うような視線を向けてみたが彼もまた血の気が引いていた。


「あの、どうしたんですか?」


 恐る恐る尋ねたが二人ともなんでもないと口を揃えるだけだった。さっきの反応を無かったことにしようとしているのか、取り繕うように二人は笑って見せるのだが変わらず顔を青くしたままだったし目が笑っていない。


 どうしたというのだろうか、自分が変なことをしたのか、タブーとされている行為を知らず知らずしてしまったのか。そんな気がしてしまうのだが、二人の様子はそういうわけではなさそうである。


 二人がこういった反応を見せる理由を知りたくてライドンに目配せしてみたが、肩をすくめられただけに終わった。


「差し出がましい真似して申し訳ねぇんですが、俺にもその紙に何書いてるのか教えてもらえないですかね? やっぱ村の話ですから、気になっちまうんです。っても俺は学校とか通ったことねぇから、字なんてのは自分の名前を書ける程度で読めなんてしやしねぇんですけどね」


 ワイマンの腰は低いが彼の言うことはもっともだ。ゴブリンに襲われた村の住人としては、ゴブリンの拠点に存在していた紙の内容を知りたいと思うのは当然のことだし、内容を知る権利があると伍堂は思う。


 手紙の中身を伝えるのはハンゲイトあるいはボネットがやるべき仕事なのだろうが、その二人は背中を向けて肩を寄せ合い他の三人に聞こえないよう小声でやりとりをしていてワイマンが尋ねてきたことに気づいていない様子である。


 ワイマンもといダダリオ村は知る権利があると思っている伍堂だ、教えて差し支えなんてあるはずがないと思い込んでいたこともある。


 なので伍堂は躊躇いを感じることなく、紙に書かれているのがダダリオ村周辺の簡易地図であるという事実だけでなく、ゴブリンがそれを使用していたのではないかという憶測までをも伝えた。


 しかしそれは良くない事だった。ワイマンは伍堂から話を聞くと歯の根が合わないほどに震えだし、何を思ったのか小屋の外へ向けて飛び出そうとする。呆気に取られてしまった伍堂を尻目にライドンはワイマンに後ろから組み付き転がし、床の上に押さえつけた。


「だめだぁ……早くにげねぇと、噂はほんとだったんだぁ……」


 組み倒されてしまうとワイマンは大人しくなったように見えたが、平静ではない。明らかに怯え、身を守るように両手で頭を覆って震えている。


 具体的に何が原因で彼がそうなってしまったのかわからない伍堂だが、怯えさせてしまったのは自分だということは明らかだ。ライドンは起き上がり、苦虫を噛み潰したような顔で伍堂を見ていた。


「責める気はないが今の発言は問題と言わざるを得ないな。そんなつもりが無かったのは理解してやるが、知らせないほうが良いということだって世の中にはある。村の人間にその推測を伝えれば恐慌するのは目に見えていただろう」


 呆れ、失望、落胆。ハンゲイトはそういったものを渾然一体にした視線を伍堂へと送る。


 すぐ謝罪の言葉を口に出そうとしたが、彼の表情を見る限りそういった問題ではなさそうだ。それでも謝らずにはいられずに、小さくではあるがすみませんと口に出した。


「魔王だ、魔王が蘇ったんだ……俺らは終わりだ……」


 ワイマンが震えながら呟いた魔王という単語は伍堂の脳髄を刺激する。それがどうしてか、考えようとすると共にエプスタインに言われた事を思い出していた。


 連日の訓練と勉強で記憶の隅に押し流してしまっていたが、伍堂がこの世界にやって来た時にエプスタインは言っていたのだ。国内では魔王復活の兆しが現れており、それに対抗する英雄として伍堂を召喚したのだと。


 あの時は現実感もなかったし、自身が置かれた状況に対応できていなかった。それが理由でエプスタインの言葉の意味や重みといったものを伍堂は実感できなかったのだが、今この瞬間になって課せられていたものの存在と、その重圧とに気づく。


 そしてやってくるのは逃避欲求だった。けれども今更逃げられない、逃げ場なんてない。理由がどうあれ、エプスタイン邸の人々には良くしてもらっているのだ。それを裏切るような真似をするのは恐ろしい。


「やれやれ、ゴドーさんにワイマンさん。はっきりと言っておきますけれどね、魔王なんてものはいませんよ」


「ど、どういうことですかい……?」


 ボネットの突然の発言にワイマンの震えは止まり、彼は立ち上がった。しかし恐怖が取り払われたわけではなく、足と目は未だに震えている。


「いないんですよそんなものは。良いですか、巷では魔王が復活するなんて噂がまことしやかに囁かれておりますけれど、私たちの国にも隣国にも過去に魔王と呼称される存在がいたなんて記録はありません」


「け、けど西の方じゃ不作が続いてるっていうし……俺らのとこでも採れる量は減ってるんでさ。動物だって、数が減ってきて――」


「いいえ、魔王のせいではありません」


 まだ言葉を続けようとしていたワイマンだったが、ボネットはぴしゃりとそれを止めた。


「作物の不作、不猟といったものと魔王には因果関係というものは存在しません。関係がないのです、不作や豊作といったものはですね周期的に入れ替わるもなのです。それは過去の記録を紐解いていけば明らかなことで、断じて魔王などというもののせいではない。あんな噂は世迷いごと以外の何者でもありません」


 普段は穏やかなボネットなのだが語気が荒い。伍堂の目には、彼が苛立ちを隠そうとしているように見えた。何に対して苛立っているのか定かではないが、伍堂が手にしている日本語が書かれた紙が関係しているのは明らかだ。


 どうしてこの世界で日本語が存在しているのか気になるし、四谷という人物が気になる。雰囲気から察するにハンゲイトとボネットの二人は何かを知っていると思われるのだが、今それを聞くのは躊躇われた。


 ボネットがワイマンに理路整然と魔王がいないことを語っている姿を見ながら、ライドンにこっそりと近づいて耳打ちする。


「ボネットさんは魔王がいないって言ってるけど、本当なのかい?」


 ライドンは伍堂の顔を見ると呆れた表情を浮かべ、鼻から大きく息を吐き出した。


「いないっていうしか無いじゃねぇか……俺らが魔王は本当にいる、なんて認めた時のことを考えてもみろよ。あの猟師、自慢のヘフナー工房のマスケットで自分の頭撃ちかねないぞ」


 言われてその通りだと気づかされた。今、ワイマンはボネットの巧みな弁論により魔王の存在について懐疑的になってきたためか落ち着きを取り戻している。


 もし恐慌状態に陥っていた彼をそのままにしていたらどうなっただろう。ライドンが言ったようなことは無かっただろうけれども、彼だけでなくダダリオ村全体を混乱させてしまう結果になったかもしれない。


 そういったことを予想できなかった自分に恥を感じた伍堂はつい俯く。ハンゲイトはそんな伍堂の肩に手を置くと、日本語が書かれた紙を奪い取った。


「良く聞けゴドー。全部を忘れろとは言わない、だがその紙にゴドーの世界の言語が記されていたことは忘れろ。良いな?」


 どうして、と問いたくはあったがハンゲイトの眼差しは真剣なもので声も低く重いものだった。その有無を言わせぬ気迫に押されてしまった伍堂は何も言えず、ただただ頷くしかできない。


 ハンゲイトは伍堂と視線を交わしたままその肩を叩く。そして背を向け、よく通る声でこう言った。


「この紙はゴブリンについて新たな情報を得る手がかりとなるかもしれん。だが、この場に知識を持つものは残念ながらいない。しかしスタイン市には詳しい者がいるのだ。早急にこの紙を彼のもとに届けねければならん、戻るぞ」


 他の場所も見たほうがいいのではないかと意見したくはあったが、ハンゲイトは話を聞いてくれそうな雰囲気ではない。どことなくではあるが、伍堂には彼が焦っているようにも見えた。


 小屋を出ればすぐにボネットは屋敷の周囲に粘度のある透明な液体を撒き、呪文を唱えた。何が、とはっきりと言えないのだがそれだけで小屋の雰囲気が少し変わった気がする。


 どんな魔法をかけたのか教えてくれるのではないかと期待していたのだが、ボネットから教えてくれる気配はない。かといって聞ける様子でもなかった。


 隊長であるハンゲイトはボネットが魔法をかけている間もどこか落ち着かない様子で村のある方角へしきりに目を向けるせいで、全体もどこか浮き足立ち始めている。特にワイマンと伍堂は挙動不審と受け取られるほどの頻度で首を回し、周囲に視線を巡らせた。


 ハンゲイトはボネットから準備が出来たことを告げられると、一同に号令を発して村への帰途に着く。帰るからだろうか、それとも別の理由によるものか。歩む速度は行きよりも速かった。

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