第13話 町娘のナンシー(3)



 家の外へと出てもナンシーは伍堂の手を離さなかった。老婦人に何も言わずに出てしまったことが気になり、後ろ髪を引かれる様に伍堂は振り返ったのだがナンシーは止まらない。彼女に対し礼を述べないままにしておけば後悔を引きずりそうで、ナンシーの腕を思い切って振り払った。


「あの……僕、おかあさんにお礼を言ってないから。せめて、それだけ言わせてもらえませんか?」


 ナンシーの表情は難しい。どうしようかと、眉間に皺を寄せながら悩んだ末にナンシーは首を横に振った。伍堂の気持ちが分からないわけではなかったが、戻るとなればナンシーも共に戻る事になる。母はまたナンシーに言葉を投げかけるだろう、そうなるとせっかくの決意がしぼんでしまいそうだったのだ。


 そんなナンシーの心中を伍堂は察することが出来なかった。伍堂のこの提案は、褒められこそすれ決して否定されるようなものではない。ナンシーが嫌だというなら、一人でも戻るべきだろう。そう思って振り返った、ナンシーの家はまだ見えている。彼女がここで待ってくれるのなら、迷うことは有り得ない。


 歩き出そうと足を上げたところで、ちょっと待てよと動きを止める。もしここでナンシーの気分を害し、彼女の心変わりを引き起こすような事にでもなったらどうしよう、と。心の天秤が二つの重さを計る、結果、伍堂は戻らない事に決めてナンシーへと向き直った。


「どうしました? 私はここで待っています、家は見えていますし迷うことは決して無いと思いますけれど……」


「友達の、ライドンの事をちょっと考えてしまって。多分ですけど、彼も僕の事を探している動き回っていると思うんです。ライドンも朝は食べずに出てきているのに、僕だけのんびりしているのは彼に申し訳が無いなと」


 嘘を吐いたわけではない。いい加減なところがあるライドンだが、伍堂を案内するという役目を背負っている以上、今頃は走り回っているはず。伍堂と年頃の変わらない彼のこと、空腹のまま歩き回っているかもしれないと想像したらそれは申し訳ない気持ちになる。


 けれども、ナンシーの家に戻らない理由ではないのだ。ナンシーの気分を害さないようにするため、結局のところ自己の利益を優先しただけに過ぎない。それを馬鹿正直に口にするわけにもいかないために、尤もらしい事を言っただけだ。その自覚があるがために、気分が沈みそうになる。なので伍堂は、口に出したことが真実なのだと思い込もうとした。


「そうですね、私の都合で連れて来てしまいました。食事だって口に合うはずなんてなかったでしょうに、申し訳ありません」


「いや、だから頭を下げないでくださいよ……」

 路地の真ん中だというのに頭を下げたナンシーに慌てて近寄り、おっかなびっくり彼女の肩に手を触れて頭を上げさせる。知っている人間なんているわけがないのだが、それでも誰かに見られていたらどうしようか。つい辺りを見渡した、幸いな事に通りを歩く人間も、窓から路地を覗く者もいなかった。


 ほっとしながらナンシーへと視線を戻すと、彼女と目が合った。ナンシーの身長は伍堂と比べて頭一つ分は小さい、そのため上目遣いで見上げられる格好となる。


 伍堂は引きこもり生活を始める以前から女性との接点が少なく、いわゆる免疫というものを持たない。彼女は何の気なしに伍堂を見上げているだけなのだが、ただそれだけで赤面してしまうには充分だった。


「あ、それで……その、探すとしてどうやるんですか? この街って、大きいし人もいっぱいですよね?」


 顔を横に向けながら後退り、ナンシーと距離を取る。彼女のことが嫌なわけではないし、少なからず好意を抱き始めているにも関わらず、伍堂は二つの手の平をナンシーへと向けてしまっていた。


「私は仕事の関係で人の顔を覚えるのは得意なんです、けどゴドーさんが聞かせてくれた友人の方に当てはまるのは私の知人にも、お客さんにもいません」


 腰に手を当て胸を張り、自信満々に言うものだから伍堂は期待して聞いてしまった。しかしすぐに、わからない、と言われていることに気づくとがっくりと肩を落として項垂れる。


「ですが、役人がよく遊びに来る店を何軒か知っています。そこには私の友人が働いていますから、そのお店で尋ねてみようと思います。必ず、とは言い切れませんけれどライドンさんでしたか。その方を知っている人がいると思います」


 どうやって探すのか、その方法を聞かされると希望が見えてくる。ただ、そんなやり方でライドンと再会できるのだろうか。伍堂が思うに、彼は彼で伍堂のことを探し回っているに違いないのだ。店などに顔を出しているとは思えない。


 なので彼女の提案したこのやり方を却下したかった。しかし、出来ない。好意で助けてくれている彼女の案を否定するのは申し訳なかった。ただそれ以上に、伍堂にはナンシーに反論する度胸が無かったのだ。


「わかりました。それじゃあ、そのお店まで案内してもらえますか?」


 伍堂が頷くとナンシーもまた頷き歩き出した。


 その後に続くことができなかった。立ち止まったまま俯き、言えない自分に対して唇を噛んだ。顔を上げてナンシーの背を見た。このまま別れてしまおうか、なんて考えが浮かんでくる。広場まで戻ってしまえば、街を出て屋敷に変えることは多分出来るのだ。肝心の広場にだって、ナンシーの家に戻って老婦人に聞けば道を教えてくれるか、もしかしたら案内してくれるかもしれない。


 けれどナンシーはどうなるだろう。伍堂が付いて来ていないことに気づいたらどうするのだろうか。きっと困惑するだろう、それからどうなるだろう。わからなかった。良い気分になることが決してないことは確かだ。


 振り返ってしまいたかったが、顔を上げた。ナンシーは伍堂が止まっていることに気づいていない。どうしようか、彼女の家に戻ってしまおうか。そんなことを考えながらも、伍堂は足を動かしてナンシーの後を追い始めた。


 唐突に、過去の記憶が蘇る。どれも嫌な物ばかりで苛まされる。顔を上げ続けている気力が無く、また俯いてナンシーの脚だけを見ながら歩いた。街の真ん中に近づいてくるに連れて、人の声が聞こえるようになってきた。


 途切れ途切れにしか聞こえない有象無象の声は、何と言っているのか分からない。なのに伍堂には、それらの声が全て自分に向けられた悪意ある中傷にしか聞こえなかった。嫌な記憶が次々と湧き上がってくる。


 視界の中にナンシーだけでなく、通りを往く誰かの足も入ってくる。革靴や木靴にサンダル、中には裸足で歩いている者もいた。履物のバリエーションが思いのほか豊かなことに気づくと、嫌な記憶は出てこなくなった。


 湧き上がるものが無くなると不思議なもので、ほんの少しとはいえ気力が回復してくる。顔を上げてみれば、ナンシーの家があった区画とはまた違う景色があった。


 石造りの建物ばかりなのは変わらずだが、道幅は広く通りを歩く人の数もそれなりにある。建物はどれも住宅というわけではなさそうで、どこも玄関口は広めで木製の看板を掲げていた。ただどの看板も店の名前を出してはいない、というよりも文字を書いていない。


 食べ物の絵や、液体に満たされた杯、胸や尻を強調した女性の絵が描かれていた。何の店なのだろうかと気にしていると、生ごみの臭いに混じってはいたが酒の匂いがすることに気づく。なるほど、どうやらこの通りにある店は居酒屋らしい。


 食べ物や杯の絵は、その店が何を営んでいるのか表わしているもののようだ。となると、女性の看板を掲げているのは何の店なのだろうか。女性が接待してくれる、キャバレーのような店を表しているのだろうか。


 面白いと思うと同時に不安がやってくる。伍堂の中には、居酒屋の多い場所は治安が悪いという印象があった。居酒屋で飲食を楽しむ趣味がなく、こういった場所で遊んだ経験が少ないがためによりそういった印象を強めていた。


 立ち並ぶ店構えに興味を引かれていると、自然に歩く速度は遅くなる。そのことに気づいて慌てて前を向いた、そこにナンシーの背中は無い。背筋にぞっとした怖気が走った。人にぶつからないよう気をつけながらも足早に前へと進む、けれどナンシーの姿は見えなかった。


 気づかないうちに置いて行かれてしまったのか、それともどこかで曲がったために見失ってしまったのか。どうしようか、道のどまんなかで立ち止まり目を大きく開きながら左右を見渡す。往来を行く男女は伍堂に不審な目を向けていた、いつもならそういった視線には敏感な伍堂だが、それどころではないために気づかない。


 焦り、激しい運動なんてしていないのに呼吸が荒くなり始めた。知らない街の、鳴れない空気が漂う場所で独りぼっちになってしまった。その場に座り込みたくなる。


「ゴドーさん! こっち、こっち!」


 ナンシーの声が聞こえた。どこだどこだと首を振るが、焦っていることもあってどこから呼ばれているのかさっぱりわからない。口の中の渇きを感じていると、また声がした。間違いなく、ナンシーは伍堂を視界の中に入れている。


 胸を大きく上下させて深呼吸、気持ちを落ち着けてまた左右を見渡した。


 すると、店と店の間にある路地とも呼べないような狭い隙間みたいな通路から手招きしているナンシーの姿を見つける。彼女の姿を見つけた瞬間に安堵の息を吐き、それと共に肩が落ちそうだった。道行く人に気をつけながら彼女の元に走り寄る。


 途端、生ごみの臭いが鼻を突く。ナンシーの背後に広がる隙間の暗がりを覗いてみれば幾つか樽が置かれているのが見えた。どうやらそれらはゴミ箱として使われているらしい、樽の辺りから強い腐臭が漂っていた。


「この先にお店あるんですか……?」


 通過するだけであってもそんな臭いの漂う場所を行くのは嫌だった。感情を露にしながら臭いを感じないように鼻をつまみ、暗がりを指差す。ナンシーだって腐臭を感じているはずなのに、彼女はそれを気にした風も無い。さも当然だというように頷いた。


 本音としては、この道を行くのは嫌だ。はっきり口に出すことはしないが、その気持ちを隠そうとはしない。ただそんな態度を見せられてしまえば、顔を顰めながらも承諾するしかなかった。


「客としていくわけではないですから、表からは入りづらいんですよ。臭いが気になるでしょうけど、大丈夫。すぐ鼻が馬鹿になってわからなくなりますよ」


 気を使って言ってくれたのは分かるが、そんなことを言われても何の気休めにもならない。拒絶など出来るはずなく、ナンシーと共に暗がりへと入っていく。路地とも呼べない細道は風通しも悪いらしく、臭いが篭り湿気もある。下を見れば土がむき出しになっていて、地面は湿り気を帯びていた。


 一〇歩も歩いたかどうかというところで不意にナンシーが立ち止まる。こんなすぐに止まると思っていなかったために、つい彼女の背中へとぶつかりそうになった。きっと目的に着いたのだろう、ナンシーの視線の先には小さな扉があった。大人一人が身を縮こまらせたら何とか潜れそうな小さな扉だ。店の裏口に違いない。


 ナンシーがその戸を叩いた。しかし反応が無い、彼女は首をかしげながらもまた叩く。けれども何の返事も無いので、段々と叩く力が強くなって、響く音も大きくなった。立て付けがよろしくないのか、ナンシーがドンドン叩くたびに扉は揺れている。


「はいはい、聞こえてるよ。なんだいなんだい、一体どちらさんなんだい?」


 このままでは扉が外れてしまうんじゃないだろうか、そんなことを思い始めた頃、扉の向こうから声がして足音が近づいてきた。軋む音と共に扉が開かれると、中からふくよかな女性が姿を覗かせた。肌艶は良いのだが、その顔には皺があり四〇代ぐらいに見えた。


 盛りは過ぎているだろうにこの女性は肩を大きく露出させるだけでなく、胸元も大きく開けた服を着て女性らしさを強調させていた。伍堂のストライクゾーンから大きく離れている女なのだが、そんな格好をされていると目のやり場に困ってしまい顔だけでなく体も横へと向ける。


「裏口をドンドン叩くから誰だと思ったら、ナンシーじゃないか。うちの店で働いてくれ……ん、そっちの男は誰だい? あんたの客? うちの二階を借りたいとか、そういうことかい?」


「こんにちは女将さん、そういうわけじゃないの。こっちの人はゴドーっていって、エプスタイン様の客人らしいの。彼が人を探しててね、女将さんに聞いたらもしかして、と思って」


「はぁそうかい。エプスタイン様のとこのお客さんねぇ……」


 好奇心を露に女将は伍堂の全身を見渡しながら扉から出てくると、ナンシーの体を押しのけてすぐ傍まで近づいてくる。顎に手を当てながら、つま先から頭のてっぺんまで、値踏みするかのような視線を向けられると落ち着けるはずも無い。


 居心地が悪くそわそわと体が揺れてしまう。女将はうんうんと頷くと、伍堂の背中を強く叩いた。思わず声が漏れ、姿勢を崩して石造りの壁に手をついた。


「探してやるのは構わないけどね、あんたがどこの誰か。そんでもって誰を探してるのか、正直に話してくれなくっちゃあね。話してくれるんだろうね?」


 女将に体を向けて、こくりと頷く。そうして伍堂は名前を名乗り、これまでの敬意を言われたとおり正直に話した。腕を組みながら、首を縦に振って相槌を打つ女将の姿は丸い体型をしていることもあって何だか心強い。


 必要になるかもしれない情報なので、ライドンのことも伝えた。そうして全てを話し終えたが、すぐに返事は返ってこなかった。女将は視線をしばし上に向け、考えているような様子を見せた後で手を叩いた。乾いた威勢のいい音が狭く汚い路地によく響く。


「なるほど、事情は分かったよ。うちにはエプスタイン様の屋敷に出入りする客も多いからね、店のやつにも聞いてみようじゃないか。ちょいとばかり時間が掛かるから、店の中で待ってな。今は空いてるし、飲み物ぐらいはご馳走してあげようじゃないか」


「いえ、そんな結構ですよ。申し訳ないですし……」


 勢い良く首を左右に振って断るのだが、女将は人のよさそうな笑みを浮かべながら伍堂の背を叩く。さっきと同じで力は強い、ただ今回はそうされるのが分かっていたので姿勢を崩しはしなかった。


「なぁに構わないよ。それに悪いって思うんだったら、友達と一緒にうちで遊んでお金を落としていっておくれ。そうしてくれるのが私は一番、嬉しいんだよ」


「女将さんも言ってくれてますし、そうしましょう。人の好意は素直に受け取るものだと思います」


「でしたら……すみません、よろしくお願いします。」


 ナンシーにまで言われてしえば意固地になるわけにもいかない。女将の提案を受け入れて、中へと入る事にした。裏口からは入れなかった。今後、客としてくるかもしれない伍堂に店の裏側を見せたくないらしい。女将へと案内されて、表から店の中へと入った。扉につけられた鈴が軽やかな音色を奏でる。


 初めて入った二階のある酒場の中は、思ったよりも明るかった。見上げてみれば天井には大きな採光用の窓があって、そこから日の光が降り注ぐ。内装は想像していた酒場そのもので、違うところいえば二回へと続く階段が目立つところにあって、その階段の前に受付らしい場所がある点だ。


 もう一つ言えば女性の店員がやたらと多いところが伍堂の気に掛かる。ここは売春宿としても機能している酒場なので、従業員が女性だらけなのは当然のことなのだが、普通の居酒屋だと思っている伍堂には奇異なものに写った。


 女将に案内され、隅の目立たなさそうなテーブルへと着席する。座った椅子はナンシーの家にあったものよりかは上等なものだったが、エプスタイン邸の椅子と比べれば粗雑なものだ。慣れ親しんでいる椅子よりも座り心地が悪く、慣れない場所にいるために落ち着かない。


 別の店とはいえ同じ形態の店で働いているナンシーは座るや否や、大きく背を伸ばしてくつろぎ始める。伍堂は店内を見渡していた、女性従業員たちも見慣れない顔立ちの伍堂のことが気になるらしく視線があった。


 客だと思っているのか、彼女たちは伍堂と視線が合うとウインクをしてみせる。女性からそのような態度を取られるのは初めてだし、彼女たちのその行為がサービスで行われているとは露とも知らない伍堂は心臓を高鳴らせ、顔を真っ赤にしてしまう。


「はぁい、女将さんの知り合いみたいだけれど彼女連れだなんてやるじゃない。これは女将さんからの一杯、ゆっくりしていってね」


 一人の店員が伍堂とナンシーの前に、ワインが並々と注がれた杯を置いた。彼女の声は甘ったるく、男に媚びるようなものだった。その声を聴いた瞬間に伍堂は緊張から背筋をぴんと伸ばす、気の利いた言葉を言わなければならないのではないか。そんなことを思ってみても、咄嗟に出てくるはずも無い。


 伍堂が身を硬くしながら悩んでいる間に、店員は投げキッスを送ると踵を返して別のテーブルへと向かっていった。その背中を見送りながらも、伍堂の背筋は伸びたままで強張った肩の筋肉が動かせない。


「ゴドーさん……もしかして、こういう場所は初めてだったりするんですか?」


 ナンシーの問いに答えを返そうとしても、喉が上手く動かせずに発声できない。仕方なく首を振って肯定を示したが、声が出せなかった恥ずかしさからそのまま俯いてしまう。上目遣いでナンシーの表情を窺ってみると、困り顔を浮かべていた。


「え、えぇっとですね……女性が多く働く場所ですから、落ち着かないと思いますけど。その、基本的には楽しい場所ですから。女将さんも手伝ってくれますし、今はお酒を楽しみましょう?」


 笑顔を浮かべるナンシーだったが、その笑顔は誰が見てもそうと分かる作り笑いだ。気を使わせてしまうことに対して罪悪感を感じてしまい、堂々とした態度を取って見せようと杯を手に取り一気に煽った。酒は得意でもないし好きでもない、ただエプスタイン邸での食事にワインは良く出てくるために飲みなれてはいる。


 しかし、咽てしまう。慌てたナンシーが背を擦り、従業員たちの視線が一挙に集まり小さな笑いが起きた。目を赤くしながらも口元を押さえ、呼吸を落ち着かせながら杯の中を見た。そこに入っているのは赤ワインだ、おかしな色はしていない。香りを嗅いでみたが、ワインの匂いがしている。


 飲んだときに酷い酸味と渋みがあったのだ。エプスタイン邸で飲みなれているワインにだって、酸味と渋みはあった。しかしこのワインのそれは、エプスタイン邸のものと比にならない強さがある。顔を上げて、内装を見渡した。清潔さには気をつけているようだったが、公衆衛生の発達した日本に生まれ育った伍堂からすればまだ足りない。


 エプスタイン邸の凄さ、ブライアン・エプスタイン公爵の力がどれだけのものなのかを実感する。酸味のきついワインを飲んだばかりだというのに、口の中が乾いていくようだった。


「大丈夫ですか?」


 不安げに聞いてくるナンシーに対し、力の無い笑顔を浮かべる。


「はい、大丈夫です。ワインは飲みなれていないので、少し驚いただけですから。そんなことより、せっかく女将さんが用意してくれたんですしナンシーさんも一緒に飲みましょう」


 釈然としない様子だったが、伍堂に言われては断りきれない。渋々と席に戻ったナンシーと杯をあわせ、乾杯を行いまたワインに口をつける。酸味が強いこと自体は、そういう酒なのだと割り切ってしまえばさして気になるほどでもなかった。けれど口直しが欲しい。


 女将に頼もうかと思って視線を彷徨わせたが、見える範囲にはいなかった。もちろん、他の店員に頼むという手はある。けれども伍堂は客として来ていると思ってないため、他の店員に声を掛けるのは躊躇われてしまう。酸味を忘れさせてくれるつまみが欲しい、そう思いながらナンシーと向かい合ってちびちびとワインを舐めた。

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