第12話 町娘のナンシー(2)

 食事を終えると空腹は満たされたのだが、心は満たされなかった。胃袋に隙間があるわけではない。パンとスープだけだったとはいえ、スープは野菜が良く溶け込んでいたし具材の芋が腹にたまった。これ以上食べてしまうと苦しくなってしまうだろう。


 だというのに満足感は無い。おそらくは味が原因だ。美味しくなかったわけでもなければ、不味いと言い切るほどでもない。味というような味が無かった。使われている調味料といえばせいぜい塩だけで、その塩も僅かなもの。ほのかに塩味がするかな、という程度で泥臭い野菜の味ばかりが感じられた。


 おそらくはそのせいで、伍堂はこの食事に満足を得ることが出来なかった。母が作ってくれていた食事、エプスタイン邸にて供される食事、それらの味を思い出すと自分がいかに恵まれているのかを思い知らされるような気がする。


 何と形容すればいいのかわからない胸中に飛来してきたものに、どう対処すればいいのか分からずに伍堂は空になった器をじっと見つめた。それがおかわりを催促しているように見えたらしく、老婦人は器にスープを注ごうとしたので伍堂は慌てて断りを入れる。


「遠慮なんてしなくていいのに。そりゃ旅行するようなお金なんてないけれどさ、貧乏っていうわけじゃないからね。食べるのに困る事は無いから、気にしなくていいのに」


「えぇ、そうですとも。まだお若いですし、量が足らなかったら遠慮なさらないでくださいね」


 こうして勧められると断りづらい。しかし胃袋は既に満たされている、椀の半分ぐらいの量ならば何とか入るかもしれないだろうが、無理に食べては辛くなるだけだ。それに何より、食欲が満たされた今となってはこの味気ないスープを飲むのが辛い。


「いいえ結構です。もうお腹は一杯になりましたから、これ以上頂いたらせっかくの美味しいスープも美味しく感じられなくなってしまいそうなので」


「あらまぁ、お口にあったようで何よりです。たまたま家にあったものを煮込んだだけですが、そうやって美味しいと言って頂けるのは嬉しいことです」


 破願する老婦人を見ると、伍堂の胸がちくりと痛んだ。美味しいとは言ったが、それは本音ではない世辞である。つまるところ、思ってもいない嘘を言ったわけだ。向こうもこの伍堂の言葉を儀礼的なものとして受け取っていてくれれば楽だったのだが、表情を見る限りそういうわけではない。


 せめて嘘がばれてしまわないようにと愛想笑いを浮かべた。けれども、内側にある恐れが筋肉の動きを阻害させ引きつるのを感じる。どうしようもないバレバレの作り笑いになってしまっている自覚があった。だがナンシーも、その母もこの伍堂の奇妙な笑顔については何も思わなかったらしい。


「ところでゴドー。あなたのお友達を探すために、その友達の事を教えてよ。そうね、どんな見た目なのか、後どんなお仕事をしているのかも教えて欲しいわ。それが分かれば、どこらへんを探せばいいか分かるもの」


 スープをパンで一滴残らず拭い取りながらナンシーが尋ねて来た。彼女が伍堂の手伝いをする事を忘れていなかったこともそうだし、何よりスープの味から話題が変わった事に胸を撫で下ろす。


「そうですね、名前はライドン。あ、姓がライドンで名前はジョンです。ジョン・ライドン――」


 友人、ライドンの名前だけでなく容姿の特徴もナンシーに伝えていく。仕事についても尋ねられたので、伍堂は包み隠すことなく本当の事を正直に答えて言った。今、自分がエプスタイン卿の屋敷で世話になっていること、ライドンは騎士見習いとしてダービット・ハンゲイトの従者をやっていること。


 そういったことは本当なら知り合ったばかりの人間に話していいことではないだろう。けれども彼女、ナンシーは人を探すために必要だというのだ。初めは物盗りではないかと疑っていたが、食事をご馳走になってしまうと疑念はどこかへと飛んでしまい、そんな疑いを持っていたことすら伍堂は忘れている。


 一通り伝えられるだけの情報を出し終えた頃、ナンシーだけでなくその母もひどく浮かない表情をしていた。マズイ事を言ってしまっただろうか、気づいていないうちに失礼な事をしてしまったのか。伍堂はまだこの世界のマナーについて熟知しているわけではない、知らずのうちにタブーを犯してしまっているということは有り得る。


 しかし、伍堂が話したことといえばライドンの容姿と仕事についてだけのことである。それだけでどうやってマナー違反を犯せるというのか、もしかすると首につけているチョーカーの翻訳機能に障害が起きたのだろうか。もしそうだとすると一大事である。


 日常会話ならある程度こなせるぐらいには言語を習得している伍堂ではあるが、このチョーカーなしでスムーズなコミュニケーションを取る自身は未だ無い。暗い表情を浮かべながら顔を見合わせている母と娘の姿が、伍堂の不安を煽った。


 彼女たちがそんな表情を浮かべている理由に見当をつけることも出来ない。急に黙りこくってしまった二人の姿が堪らなく心細かった。


 そんな伍堂が机の陰で拳を握り締めていると、老婦人は気持ちを落ち着かせるように大きく呼吸をし、曲がり気味だった背筋を伸ばしたかと思えば冷たい床の上に膝を付く。唐突なその動作に目を見晴らせている間にも、彼女はその額を床へとこすりつけていた。土下座である。


「そのようなやんごとなき位の方であると知らなかったとはいえ、数々の非礼なんとお詫びしたらよいか。この母はどうなっても構いませぬから、どうかこの娘……ナンシーにだけは罰を与えないでやってくださいませ。この娘は母の私が至らぬばかりに、今も苦労を背負わせてしまっているのです。私は首を刎ねられようとも構いませぬから、どうかお慈悲を……」


 突然のこの老婦人の態度に伍堂は困惑するしかない。土下座される理由も、詫びられる理由も伍堂には思い当たらない。どうしてこんなことになってしまったのか、ナンシーに尋ねようと彼女に視線を向けた。彼女は彼女で今にも泣いてしまいそうなほどに目元を赤く腫らし、唇を噛み締めて俯いてしまっている。とてもではないが聞ける雰囲気ではなかった。


「やめてください! そんな謝られるようなことなんてありませんから、お願いですから顔を上げてください」


 とにもかくにも、せめて頭を上げて欲しくてそんなことを言いながら伍堂は椅子から立ち上がり、老婦人へと近寄った。ただこれは彼女にとって逆効果であったらしく、彼女はより強くその額を床へと擦りつける。


「ナンシーさんも何かお母さんに言ってあげてください、僕はこんな風に頭を下げられるようなことなんてされた覚えはありません。困っているところに声を掛けてもらって助かりましたし、食事だってご馳走になった。頭を下げないといけないのはこっちの方なんです」


 自分でも驚くほどに矢継ぎ早でまくし立てると、ナンシーはのろのろと母の元に近寄り、肩にそっと手を掛けた。子供をあやすように手で背中をさすり、潤んだ瞳で伍堂を見上げる。


「ごめんなさい、あなたが公爵様の客人だとは思いつきもしなかったんです。そのような方が広場の真ん中で、護衛も付けずにただ立っているとは思わず……海の向こうの、その商人さんか何かだと思い込んでしまっていたのです。罰を受けるべきは私です、母は私が巻き込んでしまっただけなのです……ですから、どうか……」


 土下座をやめさせてくれるのかと安心しかかっていたが、今度はそのナンシーまでもが床に手を着き頭を下げるものだから伍堂は混乱するしかなかった。ただそんな頭でも、彼女たちの態度が急変した理由については理解できた。彼女たちは伍堂が貴族だと思い込んでいる。


 伍堂は貴族だと語らなかったが、公爵のところで世話になるような人物は常識的に考えれば平民であろうはずも無い。彼女たちからすれば、エプスタイン邸の人間のほとんどは雲上の人なのだろう。そのことを微塵も考えていなかった己を恥じながらも、どうやって彼女たちの頭を上げさせようかと悩み、伍堂は頭を抱えそうになった。


「そうです、確かに僕はあの屋敷で世話になっています。けれど僕自身は貴族なんかじゃないんです、僕もあなた方と同じ一般市民なんです。ただちょっとした事情があるだけで、だからお願いだから頭を上げて。それにナンシーさん、神様は困っている人間を助けなさいと言っているんでしょう? 僕は困っているんです、その僕を助けようとして手を差し伸べたのは褒められる事はあっても、決して罰を受けるようなことではないじゃないですか」


 こう言えば少なくともナンシーは顔を上げてくれるだろう。お願いだから土下座をまずやめてくれ、そう願いながら鼓動を抑えるよう胸に手を当てる。まくし立ててしばらくしても、ナンシーもその母も顔を上げない。時間が経つにつれて鼓動は大きく聞こえてくるようになるし、緊張から背筋に冷たい汗が流れ落ちる。


 まだ何か言わなければならないのか、次は何を言えばいいのか。どうしたら彼女たちは頭を上げてくれるのか、そのことばかりで頭が一杯になり、伍堂の目は泳ぎ始めた。長い時間が過ぎた気がした、けれども実際には数秒経ってからナンシーが恐る恐ると顔を上げる。


「悩むものに手を差し伸べよ、神様はそのように仰っています。けれど、貴族でないとゴドーさんは言いましたが……それでも地位の高い人間に変わりないと思います。それに私は、二階のある酒場に勤めているような女です。誰かに見られていたら、ご迷惑をかけてしまったに違いありません」


 ナンシーが勤めている二階のある酒場というのは、酒場であると同時に売春宿でもある飲食店のことを指している。しかし伍堂はこの二階のある酒場、という単語を今はじめて聞いた。パウエルから語学を学んでいるといっても、今ナンシーが使ったようなスラングの類は教えられていない。


 そして伍堂がその言葉を耳にして想像したのは、広い宴会スペースを保持している居酒屋であった。なので伍堂はナンシーがウェイトレスであると同時に売春婦であるという告白を聞いても、大きな居酒屋で店員をやっているのだとしか思えなかった。


「それがどうしたっていうんですか、居酒屋の仕事だって立派だって僕は思いますよ。だからお二人とも顔を上げてください。僕はこの街が初めてで、右も左も分からないのに友人とはぐれてしまったんです。ずっとこの街で住んでる方に手伝ってもらえるなら心強いんですよ、だから、ねぇ……お願いします」


 二人が一向に頭を下げようとしないものだから、ついに伍堂は立ったままであるが頭を下げた。途端にナンシーも、その母も床から飛び上がる。伍堂の頭を上げようとして手が伸びるが、身体に触れるわけにも行かず四つの手は当ても無く宙を彷徨うばかりだった。


「だからお願いします……手伝ってください」


 今度はナンシーでなく伍堂の目が赤くなり始めていた。もしここで、理由が何であれナンシーの協力が得られないとなったら伍堂はどうすればよいか分からない。広場から動いていないのならまだしも、この家から人探しを再スタートとなれば何の手立ても無いのだ。


 縋るように、頭を下げたまま何度も何度も、お願いしますと呟いていた。こうなると困るのはナンシーとその母である、彼女たちからすれば卑しい身分である自分達と、貴族で無いといえ目上の地位にいるであろう伍堂が共にいるだけで問題なのだ。老婦人の本音としては、穏便に出て行ってもらいたいところだった。


 ナンシーも伍堂の事を知ったときは、母と意見を同じくしていた。けれど今は違う、相手が天上の人間であろうとも困り果てているのならば力を尽くすべきだとなっていた。彼女は蔑まれる仕事に従事している女ではあるが、信心深いのだ。


「わかりましたゴドーさん。どこまで力になれるかは分かりませんが、このナンシー・スパンゲンはあなたのお手伝いをさせていただきます。ゴドーさんの地位のことを考えれば、ご迷惑になるかもしれません。けれど誰であれ、理由がどうあれ助けを求めている人を見捨てるのは神の意思に反しますから。ですからどうか、顔をお上げになってください」


 老婦人は開けた口がふさがらなかった。自分と同じ意見だとばかり思っていた愛娘の、このまさかの発言に頭の中が真っ白になってしまった。そんな母の様子を知ってか知らずか、ナンシーは伍堂の両手を取ると自分の手で包み込んだ。


 このナンシーの手の暖かさを感じた伍堂が顔を上げると、彼女の穏やかな笑みが見える。どうしようもなく困り果てていた伍堂の目には、彼女のその笑みが聖母のように見えた。


「ありがとうございますナンシーさん。ただ一つ言わせてもらえば、伍堂さん、なんて呼ばなくていいです。僕は貴族でもなんでもない、平民なんです。だから呼び捨てにしてください」


「いいえ。あなたがそう仰っても、そういうわけにはいきません。それがしきたりなんです、でも確約します。私は必ずあなたのご友人を探します、ですから安心してください」


 ありがとう、と感謝の言葉を述べながら伍堂は何度か彼女に対して頭を下げた。手の甲から伝わるナンシーの温もりが伍堂に落ち着きを与え、心臓の鼓動も穏やかなものへと変わっていく。安心すると同時にちょっとした疲労も出てきたのか、少しばかり肩の辺りが重いような気がした。


「お待ちナンシー!」


 ずっと穏やかだった老婦人が声を張り上げた。今までの彼女の様子からは想像できぬその声に、伍堂の肩はびくりと跳ね上がる。老婦人は険しい視線でナンシーを睨みつけ、口元を動かしていたがそこから言葉は出てこない。


 母はナンシーに言いたいことがたくさんあった。出しゃばった真似をするな、身分を考えろ、等等。だが伍堂の居る前では、その視線が気になってしまい言えない。それでも娘であるナンシーには、彼女が何を考えているのか、言わんとしているのかが手に取るように分かっていた。


 老婦人が何を思っているか理解できていても、ナンシーはそれに従う気がない。伍堂の手を握りながら母へと向けて力強い視線を送る。無言の会話が二人の間で交わされた、それがどのようなものであったのか伍堂には知る由も無い。


「行きましょうゴドーさん」


 短く、はっきりとナンシーは告げた。伍堂の手を握ったまま、家の外へと飛び出す。老婦人は出て行く二人の背中を眺めながら深いため息を吐き、椅子へと座ると天上に居る神へ向けて祈りをささげた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る