第11話 町娘のナンシー(1)

 ナンシーに腕を引かれながら歩いている途中、伍堂は何度も足を止めて後ろを振り返った。もしかしたらライドンが後ろに来ているかもしれない、そんな期待をしていたのだが人の波の中にライドンの姿を見つけることはできない。


 せめてナンシーが足を止めてくれたらとも思うのだが、彼女は伍堂が足を止めても振り返ろうとせずただ腕を引っ張り歩き続ける。一体、どこに連れて行くというのだろうか。人探しを手伝うと彼女は言ってくれたが、ナンシーは前しか見ていない。目的地があるらしく、真っすぐどこかへと向かっていた。


 大通りから路地へと入り、先へ先へと進む。そうするうちに街並みも、行き交う人々の雰囲気も変わってきた。石造りの建物ばかりであることは変わりないのだが、広場近くにあったものよりも背が低い。ふと見上げれば、路地を突っ切るようにして洗濯紐が通されていて、そこには濡れている洗濯物が引っかかっていた。


 通りを往く人々の格好もどこか見すぼらしく見える人たちが増えていく、道の端に落ちているゴミの数も多い。そのほとんどが野菜くずだったり、何かの骨だったりで生活感を感じさせる。そういったものを見て、伍堂は都市の住宅街にやってきていることに気づいた。


 ナンシーの足は止まらない、段々と道は細くなっていく。日陰になっている場所も多くなってきたところで、伍堂の中にある不安は少しずつ恐怖へと変化していった。


 彼女は身に着けているアクセサリを注視していた。それを思い出すと、ナンシーが物盗りのように見えてきたのだ。人の気配がそこらにあるとはいえ、もしここが彼女の縄張りのような場所だったらどうだろうか。伍堂が助けを求めて叫び声をあげたとして、その声に応えてくれる誰かはいるのだろうか。


 いないかもしれない。そうと決まったわけではないのだけれど、恐ろしい想像が浮かんでくるとゾッとした寒気が背筋に走る。このまま先に進んではいけない、伍堂は再び立ち止まる。ナンシーはやはり振り向こうとはせず、力を込めて掴む腕を引っ張った。


 だが伍堂は動かない。足を踏ん張り、てこでも動いてやるものかと立ち止まった。そこでようやく、ナンシーも立ち止まり振り返ったので思い切って彼女の手を振り払う。


「ねぇ、一体僕をどこに連れて行こうというんですか?」


 毅然とした態度を見せようとした伍堂だったが、恐れは震える声となって表れた。それを隠そうと胸を張り、腰に下げた剣を揺らして音を鳴らす。


「私の家よ。ほら見てよこの鞄、人を探すのにこんないっぱいの荷物を抱えてちゃ大変でしょう? だから家に置くの。もしかして私の事疑ってる? 心配しなくても、ちゃあんとあなたのお友達を探してあげるわ。だから安心して付いてくれば良いのよ」


 さも当然といった風に言いながら、ナンシーは鞄の口を広げて中身を伍堂に見せた。入っているのは野菜だが、そのほとんどは芋等の根菜でそれなりの重さがありそうだった。伍堂はなんと言っていいかわからなくなってしまった。


 彼女の言うことは筋が通っているように思える。広い街の中からたった一人を探そうというのだ、携帯電話みたいな連絡手段がないこの世界、探すとなると足を動かすしかないのだろう。そうなったら、重い荷物は邪魔になる。


 だからといって、はいそうですか、と信用するのは怖かった。ナンシーとは出会ったばかりで、女性ということもあり苦手意識があった。なによりも、この日陰の多い路地の雰囲気が伍堂の不安を煽ってナンシーに疑念を抱かせている。


「本当に、本当に手伝ってくれるんですね?」


「えぇもちろん。私は嘘を吐くのが嫌いなの、だって嘘は悪徳だもの。そんなことばかりしていたら、神様は罰を与えるに決まっているの。だから私は嘘を吐かない、困っている人がいたら手を差し伸べる。だから安心して付いてきなさい」


「……わかりました」


 信用したわけではなかったが伍堂が小さく頷くと、ナンシーは歩き出した。腕を掴まれてはいない、逃げ出してしまおうかと振り返ったが道がわからない。彼女に導かれるがまま来てしまったために、どこをどう行けば広場に戻れるのかさっぱりだ。


 どうしようか、思い切って戻ってしまおうか。そんなことを考えている間にもナンシーは歩みを進めて、角を曲がってしまう。それに気づいた伍堂は慌てて彼女の後を追った、物盗りかもしれないと疑ってはいるが、それ以上に知らない街、知らない通りで一人ぼっちの迷子になってしまう方が怖かった。


 角を曲がって入った先にナンシーの家はあった。集合住宅の一室で玄関の扉は酷く粗末なもの、上下共に拳が通ってしまいそうな隙間があったし、立て付けも悪く扉が傾いていた。


「ただいまお母さん、お客さんを連れてきたわ。ほらゴドー、早く入ってきなさいよ」


「おじゃまします……」


 ナンシーの手招きに誘われて、恐る恐る家の中へと入った。間口は狭いが奥行きがあり、二階へと続く階段があった。入ってすぐは台所らしく、そこの竃の前には腰の曲がった老婦人が一人いて、大きな鍋で何かを煮ていた。


「おかえりナンシー、それにいらっしゃい。あら随分と良い身なりをしてらっしゃるじゃないの。ナンシーよ、そちらのお客様はお役人でもしているのかい。腰に剣も下げてらっしゃるし、どこで知り合ったというんだい」


「さぁそんなこと私は知らないわ。だってそいつ、友達とはぐれたからって中央の広場でぼけっと突っ立ってんだもん。見てらんなくてさ、つい人探しを手伝うっていって連れてきちゃった。そんなことよりご飯できてるの? 私お腹空いちゃってさ、ゴドーも食べてく? そんな良いものは出せないけどさ」


 助けを求めたところで誰もいないのだが、ナンシーに問われると伍堂はつい左右を見渡してしまった。そうした時に、天井の隅に蜘蛛が巣を張っているのを見つけ、床の端っこ日の当たらないところで小さな虫が蠢いているのも見つけた。


 食事の誘いを断るのは普段の伍堂ならできなかっただろう。しかしナンシーのことはまだ信じていないし、虫が巣くっているような不衛生な環境下で作られた料理を口にできるほど伍堂は豪胆ではない。


 遠慮します、この一言を口にして断ろうとしたのだが、肉体というものは正直にできている。言葉を喉まで出したところで、伍堂の腹は盛大な音を奏でた。一瞬、時間が止まってナンシーと老婦人の視線が浴びせられたかと思えば、二人は大きな声を上げ、腹を抱えて笑い出す。


 生理現象なのだから仕方ないと言えば仕方の無い事なのだが、腹の虫を聴かれて平気ではいられない。伍堂の顔はあっという間に真っ赤になってしまい、隠そうとして俯いた。本当はすぐにでも出ていきたかった。


「笑ってしまってすいませんね。ふふ、けれどそんなお腹を空かせているのでしたらどうぞ食べて行ってください。大して美味しいものではありませんし、お口には合わないかと思いますが空腹を紛らわすことぐらいは出来ると思います。さぁ、こちらにおかけになって」


 老婦人の視線の先には雑な作りをした木のテーブルと、切り株をそのまま持ってきたようにしか見えない丸太で作った椅子があった。腹を鳴らしてしまった手前、断ることもできない伍堂は勧められるままに椅子へと座る。


 彼女はそれを見ると微笑み、木製の椀の中に鍋の中身を注いで伍堂の前へと置いた。椀の中に入っているのは野菜を煮たスープだった、長い時間をかけて煮込んだものらしく、葉野菜は溶けて汁と一体化していたし芋は煮崩れている。


「お母さんは謙遜しているけど、このスープったら美味しいのよ」


「あらやだこの子ったら、そんな大したものではありませんよ」


 口ではそんなことを言っているが、老婦人は料理に対して大層な自身を抱いていると見える。伍堂にスプーンとパンを乗せた皿を渡すと、顎をしゃくって早く口を付けるようにと促した。


 野菜を溶けるほど煮込んだスープは程よくとろみも付いていて、すぐさっきまで煮込まれていたために暖かな湯気を立てている。ただ調味料は使われていないのか、使われていたとしてもほんの少しなのだろう、色は薄い。


 さっそく口を付けようと、つい手を合わせそうになったが、慌てて胸の前で手を組んだ。クセでやってしまいそうになったが、食前に行う儀式を忘れてはいけない。おごそかに目を閉じて、教会に行ったこともないのに神に対して感謝の言葉を述べた。


 伍堂としては常識となっている行為をしたわけだが、ナンシーとその母は祈りを捧げた伍堂を見て目をパチクリとしばたたかせた。神に対して感謝をするのならば、どんな言葉であろうと構わないと思っていたのだが、思い込みだったのだろうか。それとも実は間違えてはならない正式な文句が存在するのだろうかと不安に駆られる。


 ハンゲイトから聞かされた熱狂的な信者の話を思い出し、背筋に冷や汗が流れ落ちた。


「ねぇゴドー……あなたって随分と育ちが良いのね。私もご飯の時は神様に感謝はするけれども、それは心の中でだけであなたみたいに口にはしないわ」


 ナンシーのこの言葉に老婦人も賛同していた、思わず胸を撫で下ろす。ほっと一息吐いて安心すると、スープの匂いを強く鼻に感じる。さっそくスプーンで一掬いして音をたてないようにして飲んでみた。


「美味しいでしょ、美味しいよね?」


 首を縦に振ることはできなかった。そんな予感はしていたが、このスープは味が無い。全くないわけではないが、調味料の類は一切入っていないに違いない。舌の上に感じるのは青臭い葉野菜の味と、土の匂いがする芋のぼそぼそとした舌ざわりだった。


 エプスタイン邸で食べている食事とは天と地ほどの差がある。不味いとまではいかないが、食欲を促進するような美味しさはない。目を輝かせているナンシーと、胸を張っているその母の姿に気づいてしまうと本音など言えるわけがなかった。


 かといってお世辞を述べたところで顔に出てしまいそうなので、伍堂は無言でまたスープに口を付ける。それを彼女らは好意的なものとして捉えてくれたようで満足げだった。鼻から息を吐き出し、肩の力を抜く。


 味の感想を言った方が良いのだろうか、けれど何を言っても嘘になってしまうし、顔にも出てしまいそうだ。嬉しそうに自分のスープを飲んでいるナンシーを見ていると、酷い罪悪感があった。どんな表情を浮かべてしまっているか分からないし、そこから内を少しでも探られないようにしようと俯き気味になりながら与えられたパンを掴んだ。


 手にしてみて驚いたのはその硬さだ、エプスタイン邸で供されているパンのように柔らかくない。手で千切るのも一苦労で、これを咀嚼するのは骨が折れそうである。これをそのまま食べるのだろうか、何かにつけて食べるのだろうか。


 テーブルの上にあるのはスープだけで、他に料理はなくジャムやバターの類も見当たらない。どうやって食べるのか分からず、かといってそれを目の前にいるナンシーに尋ねるような度胸も伍堂には無かった。どうしようかと考えながらつまんでいるパンを持て余し、ナンシーの様子を伺っていた。


「あなたどうしたの? もしかして、このパンをどうやって食べたらいいか分からないっていうんじゃないでしょうね?」


 視線に気づいたナンシーが尋ねてきた。彼女の言う通りなのだが、伍堂は正直に言うことができない。口に出せないだけならまだしも、首を振ることすらせずにただ黙りこくっていた。


「ゴドーってさ、何というのか分からないのだけれど変わった顔つきしてるよね。あ、もしかしてあなた……余所の国の人だったりするの?」


 これにも何と言っていいかわからない。日本から来ました、といったところで彼女がわかるはずはない。その通りです、と答えれば次はどこの国から来たか聞かれるに決まっている。この世界にフォールス王国以外の国があるのは知っているが、それがどこにあるか何という名前なのかすらも伍堂は知らない。


 答えられないからと言って黙っているわけにもいかないのだろう。ナンシーの好奇心に満ちた瞳がじっと伍堂を見つめていた。


「そうだねぇ、ナンシーの言う通りだ。ゴドーさんはこの辺じゃあ、あまり見ることのない顔をしてらっしゃる、私もどちらから来なすったのか知りたいねぇ」


 老婦人は屈みこみ竃の火の様子を眺めながらも、ナンシーと同じく伍堂の出身が気になってしきりに振り返っていた。


「東にある海の向こうから来ました……」


 逃げられないと観念した伍堂は小さくそう呟いた。国の名前を聞かれたらどうしよう、どんな場所か聞かれたらどうしよう、なんてごまかしたらいいのだろう。そんなことばかりで頭が一杯になっていく。


「東の海の向こうっていうと……ネアトリア! あなたネアトリアから来たの!? ねぇ聞かせてよ、どんなところなの!? シオの街から来た商人さんから聞いたことがあるの、ネアトリアの騎士って飛竜に乗るって。それは本当なのかしら?」


 興奮して目を見開いたナンシーは机の上に両手を置いて、今にも乗り越えてきそうな勢いだ。彼女の母もこれには大いに興味があると見え、腰のエプロンで手を拭いながら立ち上がると伍堂が口を開くのを待っていた。


 これは困った、ネアトリアという国の名前は今初めて聞いたのだ。どんな国なのかさっぱり分からない。出まかせを言ってしまおうか、そんなことが頭をよぎったがどこでボロを出してしまうかわからない。


「違う、違うんです。ネアトリアじゃないんです、そのもっと先。ずっと、ずーっとさらに東に行くと日本っていう国があるんです。僕はそこから来ました」


 何か言わなければならない、焦るあまりに口走ってしまう。ネアトリアとかいう国の先に何があるかなんて知らない。突っ込まれたらどうしたらいいのか、心臓の音が大きい、胸が破れそうだ。


「まぁニホンなんて国があるのね! 私たちネアトリアより東に国があるだなんて初めて知ったわ! ねぇそのニホンはどんなところなの? 教えて頂戴よ」


 またも言葉に詰まる。生まれ育った土地のことだ、語ろうと思えば幾らだって語れるだろう。しかしその話をして良いものなのだろうか、踏ん切りが付かない。理由は分からない、パウエルに言い含められているわけでもない、とにかく根拠は無いのだけれども日本の話をしてはいけない気がしていた。


 頭のどこかで正体を知られてはならない、そう考えているのであるが伍堂は自身のその思考に気づいていない。返答に窮したまま口をつぐんでいると、ジリジリとナンシーは距離を詰めてきていた。彼女の母も、心なしか近づいてきている気がする。


 喋るわけには行かない、けれど彼女たちの注目はそこに集まっていた。どうにかして誤魔化さなくてはならない、せめて話題の矛先を変えることが出来ればいいのだが。


「あ、いやそんなことよりナンシーさんは友達を探すの、手伝ってくれるんですよね?」


 咄嗟に出てきたこの言葉を聴いた途端、ナンシーは口を覆った。そして恥ずかしくなってきたのか、両手で顔を隠すと伍堂に対して背を向けてしまう。


「ごめんなさいね、言い訳みたいだけれど忘れたわけじゃあないのよ。ただね、私はスタイン市以外の街に行ったことがないの。王都にも、シオの街にも。やってくる商人さんから話を聞くことはあっても、行けないの。だからつい、気になってしまったの」


 意気消沈してしまったわけではないだろうが、肩を落とすナンシーの姿を見ると悪い事をしてしまった気がしてくる。街から出たことが無いという彼女の気持ちを、伍堂は想像することが出来ない。それでも、ナンシーにとってスタイン市以外の話を聞くのは特別なことなのだろう。


 そう思ってしまうと、伍堂は彼女に掛ける言葉を見つけられず老婦人にちらりと視線を向けた。


「すみませんねぇ……。私もなのですが、スタイン市を離れたことが無いのですよ。私の子の中でもナンシーは特に、余所に興味を持ってまして」


「いえそんな、謝られるようなことではないんじゃないかと。あの、旅行とかはされないのですか?」


「もうゴドーったら、あなた世間知らずなのね。ネアトリアのさらに向こうから来てるあなたには分からないのは仕方の無いことかもしれないけれど、そんなお金は私たちじゃ稼げないのよ」


 伍堂からしてみれば何気ない質問だったのだが、ナンシーの一種の逆鱗に触れてしまったらしい。彼女は頬を膨らませ、声を荒げてまくし立てる。そう激しい剣幕ではなかったのだが、こうやって年頃の女性からまくし立てられた経験の少ない伍堂にとっては脅威を感じるに充分だった。


 ただナンシーもそこまで怒ったわけではなかった、慌てた伍堂は謝りを入れるとすぐにいつもの調子に戻る。そうして彼女は自分のパンを千切ると、それをスープに浸しふやかしてから口へと放り込んだ。なるほど、この硬いパンはそうやって食べるのかと、妙なところで伍堂は関心を覚えた。

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