第8話 エプスタイン卿の街(2)
街に出かける日が決まったのは翌日の朝のことだった。朝食の席に着くやいなや、挨拶もそこらにパウエルが伍堂にそう言ったのである。その時のハンゲイトの顔といえばどういうわけだかやる気に満ち溢れ、ご自慢の髭を撫で付けていた。
その日程を知らされてから一週間後に伍堂はライドンの案内で街に出ることとなった。楽しみに思うところなのかもしれないが、舞い上がるようなことはあまり無かった。それよりも、屋敷の外に出るという不安のほうが大きくどこか落ち着かない。
パウエルとハンゲイトの二人は、そんな伍堂のうかない表情に気づきはしたものの尋ねようとはしなかった。いつものように三人で神に形式だけの感謝を述べて、朝食が始まる。伍堂が曇った顔をしているものだから、誰も話題を提供しようとしない。
「あの……街って、どんなところなんですか?」
料理の盛られた皿ばかりを見ていた視線を上げて伍堂は尋ねた。ほんの一瞬とはいえ、二人の食器を動かす手の動きが止まったことを伍堂は見逃さない。途端に顔が赤くなりそうなほどの羞恥に襲われた。
ついしてしまったとはいえ、伍堂の質問はおかしなものである。伍堂は考える、もし自分が同じ質問をされたらどうするのだろう。何も答えられないではないか、こんな珍妙なことを尋ねてきた人間を笑うかもしれない。ということは、自分はこの二人に笑われるのだろう。
息が詰まりそうになる。パウエルとハンゲイトは食事を進めながらも、どこか遠くを見るようにして考えていた。笑われないだけマシではあるが、今度は余計な手を煩わせてしまったという申し訳なさがやってくる。
「どんなところかと問われても漠然とした問いに答えるのは難しい。ただエプスタイン卿の治める、あの我々の街は王都よりも豊かかもしれないと自負している。後々教えようと考えていたのだが、少しばかり地理の話をしようか。本格的にやるつもりはないから食べながら聞くといい」
恐る恐る顔を上げた伍堂は、パウエルに向かってすみませんと謝った。パウエルはその必要は無いとばかりに首を振り、ドレッシングがたっぷりついたサラダを口に運ぶ。
「王都はここより北に行った場所にある。そしてここより南には、この王国の交易拠点の一つであるシオという港湾都市がある。そしてこのエプスタインの街は、この二つの都市の中間点にあるわけだが、それがどういうことかわかるかな?」
「えーっと……そのシオの街に入ったモノは、王都よりもまずここに来る。ですか?」
「そうだとも。シオに入ってきた情報や物品はその多くが王都へと向かう、当然、間にあるこの街を通る。王都には決して及ばないものではあるが、この街も大きいからね。シオから入ったものは王都に行かず、ここで消費されることも多い。なので珍しい品が欲しい王都の商人は買い付け人を寄越していたりもするね」
「凄いところ……なんですね」
「別段凄くも何とも無いと思うがね、たまたま物が集まりやすいというだけのことだよ。ただそういう場所だからね、色んな人間がいる。善人も悪人もいる。ゴドー君ぐらいの年頃であれば刺激的な街じゃあないかと私は思うよ、だからこそ……なぁハンゲイト、やはりライドンに案内させるというのはやめにしないか?」
「パウエル殿ともあろうお方が何を言うかと思えば。気持ちは分からなくもないですが、既にライドンにも案内するよう伝えて本人もやる気になっています。それに何より、ライドンを案内人とするのはゴドー君の意思で、その意思を尊重すべきだと言い出したのは他でもないパウエル殿でしょうに」
既に決定されているとはいえパウエルは未だ伍堂とライドンが連れたって出かけることに納得がいかないようである。かといって伍堂がライドンに案内して欲しいと言った以上は、それを尊重しなければならない。ハンゲイトに言われてしまったパウエルの浮かべる表情は苦々しいものだ。
そんなパウエルを見ていると、伍堂は先日の発言を撤回してパウエルに頼むべきなのではないかという気さえしてくる。ただここでパウエルに頼みなおしたところでそれは却下されるだろうし、本心だと思ってもくれないだろうからまともに聞いてくれるとも思えない。
「パウエル殿の抱く不安は湧き上がって当然のもの、同じものは私だってある。なので夕食後の話でも言ったように、この一週間で護身は出来るように鍛えると言ったではないですか」
任せろと言わんばかりにハンゲイトは胸を大きく突き出すと、そこを拳で叩く。ドンと音が鳴った。
これを見たパウエルは気がかりが減ったらしく表情も和らいだ。ただこのハンゲイトの発言に伍堂は動揺を隠すことが出来ない。一週間で伍堂に護身術を仕込む、そうハンゲイトは言っている。
護身の技術を身につけることに驚いてはいない、稽古をするということはそういうことなのだろうと思っているからだ。だがそれを一週間で身につけなければならないということと、街に行くだけでそんな技術が必要になる、特に後者に関しての衝撃は大きい。
もちろん日本にだって治安の悪い街はいくらでもあるし、数えるほどではあるが伍堂も行ったことはある。けれども、護身術が必要になるような場面なんてなかったし、それが必要だといわれたこともない。エプスタインの街に対して楽しいというイメージは今の今まで抱いていた、しかし今やそのイメージは霧消してしまっていた。
「そんな顔をしなくとも良い、何事に対しても備えというものは必要なものだ。ライドンはあの街で遊んでいるからな、私たちが知らないこともよく知っている。だからそんな心配は無用だよ、君に護身が出来るぐらい戦闘技術を一週間で身につけてもらうというのはね、私やパウエル殿の心の平穏のためだ」
ハンゲイトが安心させようとしてくれているのは分かるのだが、不安は既に伍堂の心に根付いてしまっていた。腕っ節がないと危険な街、それが伍堂の中にあるイメージである。加え、一週間で護身術をマスターしなければならないという思いまで生まれていた。
頑張らなければと、そんな必要も無いのに伍堂は緊張を覚える。胃が縮んで窮屈になってしまったのか、満腹感が突然にやって来た。残そうなんて考えは微塵も浮かばず、身体作りのため栄養と、今日一日動くためのエネルギーを補充するという気持ちだけで小さくなった胃に食物を押し込んでいく。
そんな風に食事をしても楽しいわけがなく、味を感じられるわけでもない。この後に控える稽古のことを考えると、無理に食べてはいけないのかもしれないが、食事を残すということは伍堂にとって悪徳である。やってはいけないことなのだ。
パウエルとハンゲイトの二人は伍堂の様子がどこかおかしい事に気づきはしたものの、伍堂がどうしてそのようになっているのか想像できないようである。二人して顔を見合わせていたが、相談するでなくただ伍堂に向け案ずるような視線を送りながら食事を続けた。
伍堂は食べ終えると即座に席を立った。居ても立ってもいられず、二人に声をかけると足早に部屋へと戻る。食事をしている間に清掃がされた室内には、爽やかな香の匂いが漂っていた。その香りを一杯に吸い込むとベッドへと倒れこみ、枕に顔を埋める。
枕のカバーも新しいものに交換されていた。嗅ぎたかった自分の体臭ではなく、仄かな石鹸の香りがあった。その匂いを感じた瞬間に伍堂は息を止め、枕から顔を離すと窓を開け放ち新鮮な外の空気を部屋の中に取り入れる。どうしてそんなことをするのか、自分でも理解できていなかった。
落ち着かなかったのだ。じっとしていることが出来なかった、平静を取り戻したいのだが一週間後のこと、これからの稽古のことを考えると気が気でない。せめてもうすぐ始まる訓練までには落ち着きを取り戻したい。ソファに座り、息を吐き出し深く吸う。それでもダメだった。
立ち止まると得体の知れない不安が奥底から襲い掛かってくる、それから逃げるには動き続けるしかなかった。部屋の中をぐるぐる、ぐるぐる。円を描いて歩いた。幾分か気が楽にはなるが、内からの不安は伍堂の後ろ髪を引き続ける。
扉が叩かれる、迎えの女中がやって来た。せめて稽古が始まるまでには、と頑張ってみたのだがその伍堂の努力は徒労に終わった。沈んだ気分のまま訓練場へと向かう、いつものように柔軟運動を行い、声を出す。この二週間の間、毎日やっていたせいなのか、心の状態はどうあれ身体は決まった動作を事も無げに行ってくれたし、張りのある声を腹から出すことも出来た。
気持ちはどうあれ、この様子なら何とかなりそうだ。いつものように、木剣を握って素振りをやる。そうだとばかり思っていたが、ハンゲイトは木剣を用意していなかった。剣はどうしたのかと尋ねても、彼は必要が無いと言い切った。
「帯剣していたとしても、街中で剣を抜くのはご法度だ。そういう時、頼りになるのは肉体だけとなる。今まで格闘術も君に教えているが、より本格的に格闘というものを教えようと思う。実戦形式でまずは行こう、さぁ殴ってこい」
いつでも来るがよいとハンゲイトが両腕を広げたので、伍堂は拳を握り締めて構えを取った。最初は稽古であったとしても人に暴力を振るうことに抵抗があったのだが、毎日行っていると薄れてくる。それにハンゲイトなら伍堂が何を繰り出そうと、必ず受け止めてくれる安心感もあった。
足を滑らせ距離を詰める。ハンゲイトは腕を広げたままじっと伍堂の目を見ていた。奥底まで見透かすような鋭い視線に圧力を感じる、見られているだけなのに伍堂は縛られているような気さえした。
その圧力を吹き飛ばすように腹から声を出した。そして踏み込むと同時に、左のジャブを打ち込む。狙ったのは下顎、そこに直撃すれば人間は一撃で倒れる、そうハンゲイトから教わっていたからだ。
ハンゲイトは微動だにせず、意味ありげな笑いを浮かべたのが見えた。彼は何か考えを持っている、そう思った時にはもう伍堂の体は宙を舞っていた。どのようにして投げられたのか、その術理を理解できずに一瞬にして混乱へと陥る。ただそれは頭だけで、伍堂の肉体は実に冷静であった。
空中へと投げ飛ばされていながらも、肉体は自然に力を抜き着地と同時に受身を取ると転がると、即座に立ち上がって構えを取り直してた。落下したダメージはあるので、どこかぎこちなさは残っている。
伍堂は混乱しながらも、受身を取れたことに驚きを感じていた。立ち上がろうと思って立ち上がったわけではない、受身を取ろうと意識したわけでもない。この二週間の間毎日行っていた訓練の中で、伍堂の肉体は緊急時の動きというものを学び、習得していたのだ。
「しこたま腰を打ち付けて起き上がれないだろうと思っていたが、受身を取るだけでなく立ち上がるか。教師として実に嬉しい、素直にそれは賞賛に値する」
拍手の音が訓練場に反響する。褒められているのだが、伍堂にはハンゲイトの言葉は届いていなかった。ハンゲイトが言った様に、伍堂も床に叩きつけられると思ったのだ。しかし現実は違った、受身を取り立ち上がった。そんなことが自分に出来ると思っていなかった。
「では続けよう。おそらく、ゴドー君が身につけなければならないのはこれだ」
ハンゲイトが構えたのが見えた、即座に身構える。一瞬で距離が詰まり、ハンゲイトの拳が顔面へと接近したのがはっきりと見えていた。顔を傾けながら状態を反らせば避けられる軌道だ、心臓を高鳴らせ汗を飛び散らせながらそのように動く。
脚に衝撃が来た。太ももから割れるような音がする、視線を下げればハンゲイトの足が伍堂の肉体へと食い込んでいた。痛みのあまりに脂汗が流れ、その場に崩れ落ちた。ハンゲイトの動きは見えていたのに、彼が蹴りを放つとは思わなかった。興奮と痛みに、ぜいぜいと息が乱れる。
「さてゴドー君。私は君に、今のような下段への蹴りに対する防御というのも教えている。またはっきり言って、私はまだ君に対して手加減をしている状態であり、今の蹴りも君が戦い方を理解していたのであれば充分に防御できるものを放った。にも関わらず、君は防御が出来ずまともに私の蹴りを食らい膝を付いた。何故か分かるか?」
痛む太ももを撫でながら立ち上がる。脚がどうにかなってしまったような痛みを感じた気がしたが、少し呼吸を整えれば痛むのは表面だけで、骨がどうにかなっているわけではなさそうだ。その脚の痛みを振り払うよう、息を吐き出すと伍堂は首を横に振る。
「分からないのであればまずは理屈を説明しよう。私の目をじっと見ていろ、いいか。絶対に私の目から視線を離すんじゃないぞ、絶対にだ」
ハンゲイトが構えを取り直す、伍堂もまた構えを取り相対する。脚の痛みはしばらく引きそうにないが、痛いだけで動かすことに問題は無い。言われたとおり、ハンゲイトの目を見る。
彼の矢じりのような視線と伍堂の視線がぶつかり合う、また気圧され視線を逸らしたくなったが声を出す。視線の呪縛を解き、何が来ても対応できるよう踵を若干浮かせた。ハンゲイトが接近する、拳が顔面へと近づくが伍堂はその拳を見ない。言われたとおり、ハンゲイトの目から視線を離さない。
すると気づいたのである。ハンゲイトは伍堂の顔を見ていなかった、彼の瞳が捉えているのは、腹部。それに気づいた瞬間、伍堂は腕で鳩尾を守っていた。腕に鈍い痛みがやってくる、ハンゲイトが後ろへ退いた。かと思えばすぐに接近、彼の右足が浮き上がり蹴りを繰り出そうとしていた。
じっと瞳を見る、写っているのは伍堂の顔面だった、それもこめかみを狙っている。膝を曲げて腰を落とすと頭上にハンゲイトの裏拳が通過していく。避けた事に安堵はしない、次またいつ攻撃が来るか分からない。なので伍堂は気を緩めることなく、ハンゲイトの目を見ていた。彼の目は伍堂を見ていた、そこに浮かぶのは驚愕である。
理由は分からないが、千載一遇の好奇であることに変わりない。機会が訪れた事を確信した伍堂は、脚のバネを使い飛び上がるように体を伸ばしながらハンゲイトの顎を目掛けてアッパーを放つ。当たると確信していたが、繰り出した拳はハンゲイトの手の平で受け止められていた。
拳を引こうとするが、がっちりと掴まれてしまっており逃げることが出来ない。この時も伍堂はハンゲイトの目をじっと見ていた、彼のこめかみから汗が一筋伝い落ちるのが視界の隅に入っていた。
「これから言うことは賞賛だ、良く聞いてくれ。君は私の想像の上を行った。私の教えたとおり、瞳から目を離さない君なら、繰り出した裏拳を避けるあるいは受け止めるだろうとは思っていた。しかしその避け方というのが私の想像していないものだった、不覚を取ったといっていい。私は焦った、それを君は見逃さなかった。君の拳は私に届かなかった、だがしかし思い返して欲しい。君の拳、あるいは剣が私の肌に触れたのはこれが初めてだ。よくやったゴドー!」
まさかそこから褒められると思ってもおらず、聞く準備が伍堂には出来ていなかった。興奮の冷め切らない頭では、ハンゲイトの言葉を上手く処理できずに呆けながら相槌を打つことしかできない。伍堂が褒められているという実感を得たのは、髪が乱れるほどに激しく頭を撫でられてからだった。
子供に対してするような褒め方は恥ずかしい。この場には伍堂とハンゲイトの二人しか居ない、誰にも見られてはいない。ハンゲイトは無邪気にただ嬉しいからそうしているだけで、伍堂を馬鹿にしているわけでもない。
褒められるのは嬉しい、しかもこののような褒め方をされたのは何年ぶりだろうか。ふと、ハンゲイトの手の平が幼い頃頭を撫でてくれた父親の手の平と重なるような気がした。胸の奥から熱いものが溢れ出す、その正体は分からないが苦しいものではない。
「ありがとう、ございます……」
溢れ出すもののせいで伍堂の声は震えていた、今の顔をハンゲイトに見られたくなくて顔を俯ける。視界が僅かながらぼやけていた、嬉しくて涙を流したのはこれが初めてかもしれない。
ずっと下を向いているわけにも行かない、服の袖で涙を拭い鼻をすする。顔を上げるとそこにはハンゲイトの顔がある、頭上から手が離れた。どちらともなく距離を取るとまた相対する。
「よし、今日はこの実戦形式を続けることにする。来い!」
「はい! お願いします」
腹の底から声を出す。この時に出た声は、いつもと違いどこまで響いていきそうな軽やかさがあった。そのことにハンゲイトは気づいていたのだが、当の伍堂は自分の声が普段の調子と違っていることに気づかなかった。
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