第5話 チュートリアル(2)
何度ハンゲイトの頭を目掛けて木剣を振り下ろしただろう。一〇〇辺りまでは数えていたが、以降は数えていない。幾度と無く振り続けてもハンゲイトは余裕綽々といった風に、伍堂の振るう木剣を紙一重で避けては思い出したかのように挑発の言葉を浴びせかける。
この挑発する行為はハンゲイトはおろか伍堂ですら気づくことは無かったが、多大な効果があった。彼に剣が掠りもしないことは悔しさを生み、その悔しさこそが剣を振り続ける原動力となっている。
しかし伍堂はそういった感情を今まで押し殺し続けてきた。習慣とまでなっていたため、原動力となる悔しさが生まれてもすぐに無意識は抑圧しようとする。だがハンゲイトの挑発がある。思い出したかのようなタイミングで浴びせかけられるその言葉は、抑圧され奥底に沈み消えようとする悔しさを浮上させていた。
燃料を注がれるたびに燃え上がり、その熱が伍堂の身体を動かし続けた。しかし限界はある。日々のランニングで体力に自信のある伍堂であったが、やがて腕は痺れてくる。それでも止めなかった、構えが崩れようともハンゲイトは何も言わない。ただ頭を目掛けて剣を振り下ろせと挑発し、そして避け続ける。
伍堂自身、どうしてこういうことが出来るのか不思議だった。ただ悔しいからというだけで腕が痺れ始めたにも関わらず、剣を振り続ける自分が信じられない。一太刀入れてみたい、あっと言わせたいというその気持ちだけで剣を振り続けている気がする。
そうしてやがて痺れは腕だけでなく指にまで広がる。こうなると剣を握り続けることすら難しく、木剣を振り下ろしきった瞬間に汗で剣は滑り、石畳に叩きつけられ乾いた音を響かせた。その音が伍堂の中で張り詰めていたものを断ち切ったのか、唐突にやってきたとしか感じられない重い疲労に押しつぶされる。
立ち上がろうと足腰に力を入れるが震えるだけ、せめてハンゲイトに一言言わなければと声を出そうとするも、破裂しそうなほどに脈動する胸の動きはそれすらも出来そうにない。口を開けて喉を絞っても、発せられるのは音ですらない空気の流れだった。
拍手の音が目前から聞こえる。見上げてみればそこには汗ひとつ掻いていないハンゲイトが立っており、その顔は満足げだった。彼のそんな表情を見た瞬間、彼にあっと言わせることが出来なかったにも関わらず伍堂の心は満たされていく。気づけば、頬をほころばせていた。
「立てるか?」
手が差し伸べられたので、まだ痺れ汗で塗れた手を伸ばす。ハンゲイトは伸ばしたその手を力強く掴み、引き上げてくれたのだが伍堂の足腰は限界で力が入らない。立ち上がろうとしても、その場にすとんと尻餅をついてしまう。
「申し訳ないな、初日からやりすぎてはいけないよとエプスタイン卿だけでなくパウエル殿からも言われていた。私自身も過度の鍛錬は毒になると知っていたのだけれど、すまないな君があまりにも熱心だったものだからつい夢中になってしまった。立ち上がれないだろうし、しばらくそのままでいい。なんだったら寝転んだところで構わない、激しく身体を動かしたんだ。楽な姿勢を取り、まずその肉体に休息を与えることが必要だからね」
「すみません。それではお言葉に甘えさせてもらいます」
会釈程度に頷きながら断りを入れて、そのまま大の字に寝転がった。石畳には今まで流れ落ちた伍堂の汗のために湿り気を帯びている、その上に横になったものだからか身体を火照らせている熱が床へと逃げていくようだ。
横に転がったまま高い高い天井を仰ぎ見ながら、たった今ハンゲイトに言われたことを頭の中で復唱していた。あまりにも熱心だったものだから、その言葉がどうにも腑に落ちなかった。夢中になって剣を振り続ける自分の姿は熱心に見えたとしてなんらおかしな物ではないだろう。納得がいかないのは、伍堂自身にその自覚があったからだ。
幼いころはそうでなかったはずだが、いつの間にか何かに対して全力で熱心に取り組むということをしなくなっていた自覚があるのだ。その自覚があるからこそ、熱心に剣を振り続けられたことが納得できない。どうしてなんだろう、何で自分にそれが出来たんだろうという疑問がある。
自分について考えている間にも、熱を持った筋肉は石畳により冷却され腕の痺れも取れてきたようだった。そろそろ起き上がろうかというときに、なんとなしに建物の出入り口へと顔を向けた。
伍堂をここに連れてきたパウエルの姿は無い。気づかないうちに出て行ったものと思われる。ただ伍堂の興味を惹いたのはそれではない、出入り口にある柱の影に誰かが隠れていた。パウエルではない、その誰かは完全に隠れきることが出来ておらず衣服の端、具体的に言えたフリルのついたスカートが覗いていたのだ。
起き上がりつつハンゲイトに目配せして、覗いているスカートを指差した。ハンゲイトはそれを見ると、どういうわけか片手で手を覆いながら近づくように手招きする。スカートに気を向けながらハンゲイトに近づくといきなりその逞しい腕に引き寄せられた。
「いいか、声を潜めるんだ。決してあのスカートの主に気取られてはいけない、いいね?」
人差し指に口を当てながら耳元に低く静かな声で言われると、わけがわからないでもまずは従うほかが無い。ハンゲイトの腕から開放され、スカートの主に気づかれないよう視線を外しながら小声でその正体を尋ねた。
「エプスタイン公爵には娘が一人いてね、名前をパトリシアというんだ。あそこに隠れているのはそのパトリシアお嬢様に違いない」
「え、じゃあ挨拶とかしたほうが良いんじゃないですか?」
「それはそうなんだがね、公爵の娘となるとその挨拶にも手順を踏む必要がある。面倒なことだけれどね。もちろんゴドー君もパトリシアお嬢様に挨拶をしてもらわねければならないから、ちょっとした機会を準備しているところなんだ。しかしまぁなんだ……お嬢様にも困ったものだ」
本気で悩み始めたと見えハンゲイトは腕を組みながら明らかに眉をしかめている。陰に隠れながらもその雰囲気を察したのか、柱の陰にスカートが引っ込んでしまった。それを見たハンゲイトは安堵の息を吐く。
「行ってくれたらしい……やれやれ、困ったものだな」
「別に入ってこられても困らないんじゃないですか?」
「そうはいかんよ。行儀の問題だ、パトリシアお嬢様も今年で一四になる。早ければ来年、結婚することになるかもしれないというのに、こんな汗臭い訓練場にやってくるようではエプスタイン家に仕えている身としては困るんだ」
言われたところでそれの何が困るのかが分からない。公爵といえば貴族でありその娘ともなれば、何かのしきたりといったものに縛られるのが常なのだろうかと想像し、そしてパトリシアはその鎖に縛られるの良しとしないのだろう。
どんな娘なのだろうか。一四といえば中学二年生あるいは三年生、まだまだ幼さの残る時期である。少女趣味を持っているわけではない伍堂だが、エプスタインの娘はどんな顔をしているのだろうかと好奇心が湧き、じっとスカートの消えた柱の影を見ていた。
「さて、そのうち昼の鐘が鳴る。自室に戻って休むといい、昼食は部屋に用意されているはずだ。あぁ、あとそうだ。夕方になればパウエルが君に授業をする、それまでは自由にするといい。屋敷の中を見て回りたいのであれば案内人を用意するけれども、私としては食べたら寝ることをおすすめするよ」
稽古を付けてくれたことに礼を言い、石造りの訓練場から出て行こうとしたところであることに気づいた。自室に戻ろうにもその場所が分からない、思えば人の後をついて回っていただけだったので屋敷の構造をまったく把握できていない。
恥ずかしさを感じながらも率直にこのことをハンゲイトに伝えると、彼は女中を呼びつけてくれた。その女中の案内で道を覚えようと努めながら自室へと戻る。中へと入るとハンゲイトが言っていた通り、昼食がローテーブルの上へと置かれていた。
それだけではない。ベッドメイキングも済まされていたし、整えられたベッドの上には着替えと大き目のタオルが用意されている。多量の汗を吸い込んだために変色してしまった服は早速、臭いはじめていたためにこれは嬉しかった。
昼食の前に着替えようとするのだが、なぜか女中は部屋から出ようとしない。この女中は既に中年に差し掛かっているのだが、幾つであろうとも血の繋がらない女性に肌を見られるのは抵抗がある。出て行って欲しいことを伝えるが、拒否された。
何でも伍堂の着替えを手伝うことも彼女の仕事のひとつらしい。無機的な声でそう言われてしまうと、強く言い返せない。おそらく彼女は伍堂の裸を見たところで何とも思わないに違いない、しかし見られる伍堂としてはたまったものではない。出て行け、と荒げた声で言えば出て行ってくれるような気もするのだがそんな度胸は無かった。
どうしたものか、ハンゲイトあるいはパウエル、オーバンだっていい。もし彼らがこの場に同席していたのなら助けを求めることが出来たのだがいない。悩みながら部屋を眺め渡し、そうだと思いついたことがある。
「水を持ってきてくれませんか? 身体を動かして喉が渇いてしまったので、水をたくさん飲みたいんです」
愛想笑いを浮かべながらこう言うと、女中は慌てた様子で出て行ってしまう。この分だとすぐに水を持って戻ってきそうだった、用意されたタオルで手早く汗をふき取ると服を着替える。急ぎすぎたため、全ての汗をふき取ることができなかったせいでシャツが肌に張り付いてきたが裸を見られるよりかはよっぽどマシだ。
ソファに座りローテーブルに置かれた昼食と向かい合う。さぞや豪華なものではないだろうかと期待していたところがあったのだが、意外なことに肉と野菜を挟んだサンドイッチだった。それとデザートなのか、レモンのような柑橘類を輪切りにし砂糖を振りかけたものが並んでいる。
手を合わせ、パウエルから言われていることもあり神に祈りをささげていると女中が水を運んできた。そのことに対して礼を述べるも彼女は出て行こうとしない、壁際に立ったままじっとしている。
気にしないようにしながらサンドイッチを手に取りはしたが、無理だった。彼女も何かを食べているのなら気にもならないが、ただ黙っていられたのでは空腹であれど食事が進まない。
「あの、どうしてそこに立っているんですか?」
「ゴドー様の世話をするよう仰せつかっております」
にべも無い返事だった。落ち着いて食事を取るためにも出て行って欲しい、これをそのまま口にしたのだが彼女は出て行こうとしない。ではどうすれば出て行ってくれるのかと問えば、食事を終えるまでだという。
彼女の言う世話とは、伍堂が食事するにあたり水や足りない調味料などがあった場合にそれを配膳することだとも言った。となれば、食器を下げるまでは出て行かないに違いない。落ち着いた食事をするというささやかな望みは叶えられそうも無かった。
そういえば朝食の時、この時は食堂ではあったが女中たちが壁際に並んでいた。いっそのこと、これはそういう文化なのだと諦めてしまったほうが良いのだろうか。そうすれば気にすることはなくなりそうだが、やれる自信は無い。
こういうものは時間が経つに連れて慣れるもの、そういうものだと思うことにして神への祈りをやり直す。文句は適当に神に感謝するような言葉を並べた、ちらりと女中に視線を送ってみるが彼女は機械のような無表情だった。
朝食が賑やかだったせいかこの昼食は寂しく感じられる。一人きりではなく女中がいるとはいうが、話し相手になってくれそうな雰囲気は無い。試しに声をかけても素っ気の無い返事しか返ってこないし、眉ひとつとて動かすことが無かった。
サンドイッチに挟まれている肉の燻製は硬かったが、噛み締めるほどに味が染み出す。水は冷えていなかったが清涼で、喉を過ぎた途端に身体の隅々までいきわたるようだった。砂糖をまぶした柑橘の甘酸っぱさは疲労を飛ばしてくれた。
肉の硬さには不満があるものの、朝食に出たオムレツのように非の打ち所を一切感じさせない味で、種類こそ少ないものの量があり満足のいく昼食といえよう。それでも伍堂にはどこか物足りなかった、口に合わなかったわけでも量が足りなかったわけでもない。一人の食事は、漫然と栄養を補給する作業のように思えてしまったのだ。
食べ終えた後、空っぽの食器に向けて手を合わせて女中へと視線を向けると、やはり機敏な動作でそれらを手の上に積み重ね部屋を出て行った。ようやく人心地が付いたと溜息を吐き出す。
さてどうしようか、自室として与えられたこの部屋に一人で帰ることが出来なかったことを考えると屋敷の探索をしたほうが良いような気がする。そうだそれが良い、思い立ったが吉日だとばかりに立ち上がるとそうはさせるかとやってきたものがあった。
睡魔である。激しい運動をした後に食事をしたせいか、疲労した肉体は速やかなる休息を要求していた。ベッドに目を向けると、その柔らかさが思い出され誘われているような気さえする。この誘惑に身を任せるのは間違った選択ではない、けれども屋敷の探索を行うというのもまた間違ってはいない。
一人で部屋へ帰ることが出来なかった恥ずかしさを思い出すと、屋敷を探索するのが最良のように思われた。なら案内をしてくれる人を探すために部屋を出ようとしたのだが、そんな伍堂の意思とは裏腹に足はベッドへと向かっている。
肉体の生み出す欲求の強さに意思は勝てない。ベッドへと倒れこむと日差しの香りがするシーツが柔らかく伍堂の身体を包み込む、心地よさを感じた次の瞬間にはもう寝息を立て始めていた。
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