第2話 最初の夜


 何のことだかさっぱりとわからなかった。何故、歓迎されるのかというのもそうだし、そもそもフォールス王国というのが何なのかちっともわからない。


 学校の授業はそれなりに真面目に受けていたつもりだった。世界史の試験で赤点を取った覚えはない、歴史については世間一般の標準的な知識を持っているつもりだがフォールス王国などという国の名前を聞いた覚えはない。


 考えてみれば、いや、考えなくともおかしな所だらけだ。カーテンを閉め切った薄暗く心地の良い四畳半の自室で寝ていたはずなのに、目を覚ましてみれば石の壁で覆われた地下室らしき場所にいたこと。オーバンもエプスタインも欧米人の人種的特徴を持っている、素直に考えれば彼らが流暢な日本語を話していることだって疑問である。


 わからないことばかりで謎を解こうと思考を巡らそうとしても、ブレーキがかかった。考えられなくなったわけではない。考えようとすると、無駄な事をして何になる徒労に終わるに決まっているぞ、そう囁きかけてくる自分がいた。


 頭の内側に鉛を入れられたような気さえする。ここに至るまでの間に考えていなかったこと、考えようとしなかったことが次々と噴出していく。混乱を起こしそうになり、それを食い止めるために何度も何度も大きな深呼吸をした。


 止めどなく溢れてくるあれやこれを全部エプスタインにぶつけてしまおう、そうするより他に手立てはないと意を決した。しかしタイミングが悪かった。

「疲れているだろうし、私は出ていくとしよう。実を言えば今日やるべき仕事をまだ終えてはいないのだ。日が暮れた頃、召使に夕食を運ばせる。その後で頃合いを計ってオーバンを部屋に来させよう、色んな疑問はその時に彼へ尋ねるといい」


 口を開こうと息を吸い込んだ時だった。先に言われてしまったら、喉まで出かかった言葉を飲み込むしかない。部屋を出ていくエプスタインに声を掛けようと思ったが、その言葉も出てこなかった。

 ばたん。扉が音を立ててしまった。行かないでくれ、とでも言うかのように手を伸ばしたがそれで

 エプスタインが戻ってくるはずもない。どうしていいかわからず、かといって考えることもできなかった。


 真っ白な頭で瞬きすることもなく、扉へ手を伸ばしたまま固まった。どれだけの間、その姿勢でいたのかは分からない。頭はスムーズに回転してくれない。時間の感覚すら曖昧なもので、長かったような気もするし、ほんの束の間のことだったような気もする。


 疑問と不安が胸の内から脊髄を駆け上り、頭蓋の中を満たしていく。座っていることにも耐えられなくなり、重い腰を上げて酔漢のような足取りでベッドへと向かった。そしてそのまま頭から倒れこむ。


 シーツからは太陽の匂いがした。ふわりと包み込むようなベッドの柔らかさは一瞬とはいえ、伍堂に安心を与えてくれる。俯せになったまま枕を両手で掴み顔をうずめた、そこからも太陽の匂いがした。


 自然と肩から力が抜けて大きな息が口から洩れた。それと共に幾らかの不安と緊張が出て行ってくれたらしく、少しだけ頭が軽くなった気がする。


 窓からは燦々と日光が差し込む。その眩しさが、どういうわけか痛かった。明るい光から逃れるように掛布団の中に潜り込むと枕を抱いて芋虫のように体を丸める。暗い中で太陽の匂いに包まれると、四畳半に敷いてある自分の布団を思い出す。


 けれどこれはあの布団ではない。使い慣れた自分にとっては寝心地のいいせんべい布団とは違う。どくんどくん、脈打つ心臓の音がはっきりと耳に聞こえた。その音を鎮めるために胎児のように丸まり、スーハースーハー。胸をいっぱいに膨らませる深呼吸を何度も何度も行う。


 それを何度か繰り返しているうちに心は落ち着いた。真っ暗闇の中で何となしに瞼を閉じると、再び開けるのが億劫になるほど重い。


 重いのは瞼だけではなかった、全身にだるさがある。知らないうちに疲れていたということに気づいた、そのすぐ後に伍堂は寝息を立て始めていた。


 夢を見ていたのか見なかったのか、定かではない。次に目を開けた時、なんとなく心地よさがあったのでもしかしたらいい夢を見ていたのかもしれなかった。


 頭からかぶっていた布団を持ち上げて、隙間から外を覗いてみればとっぷりと日が暮れていた。部屋の中に明かりは一切なかったけれども、大きな窓から差し込む月明かりは明るく、窓の近くのものを見るのに苦労はしなかったし、廊下につながる扉の近くでも物の輪郭ぐらいは見えた。


 月の明かりとはこんなに明るいものだったのだろうか。ベッドから這い出て窓を開ける、少しだけ身体を乗り出して空を仰ぎ見た瞬間に感嘆のため息が漏れた。


 今まで見たことのないほどの星空が広がっていた。満天の星。その言葉を知ってはいたが、どんな情景を示している言葉なのかを初めて知った気がする。知っている星座はないだろうかと探してみたが、あまりの星の多さに探せそうにない。


 星の瞬きとどこまでも広がりを見せる夜空に吸い寄せられるように窓から身を乗り出した。その時に腹の奥から虫が高い声を出す。そこで我に返ったように室内へと身を戻し、考えてみれば何も口に入れていなかったことに気づいた。


 部屋の中に食べれそうなものは見当たらない。探そうにも窓際以外は物の輪郭しかわからないため、探しようもない。空っぽの腹を撫でながらベッドに腰かけ、そこから窓の外を眺める。視線はもちろん星空へと向けた。


 星座等はちっともわからないし、もしかしたら自分の知っている夜空ではないかもしれない。けれど星がたくさんあるなら、と頭の中で星の間に線を引いて勝手に星座を作り始める。そういえば小学生になるからならないかの子供のころにも、こうやってオリジナルの星座を作ったことがあったことを思い出しながら。


 久しぶりの星座作りは楽しく、空腹だったことも忘れてしまい、いつの間にか足を軽く揺らしながら唇は笑みを形作っていた。


 伍堂はこの行為を楽しいと思って行っているが、実態はといえば逃避以外の何物でもなかった。今のこの状況が現実であると認識することから、これからどうすればいいのか、現在感じている空腹から、それらから逃げている。


 薄々とそのことに感づいてはいるものの、気づいてしまわないように、星座を作ることで目を背けているだけ。とはいえ、現状の認識や将来のことからは逃げられるものの、生理的欲求である空腹からは逃げ切れるものではない。なにせ食べなければ死んでしまう。


 ぐーぐー、何度も腹の虫が鳴く。


 さすがに笑ってはいられない。食べるものが欲しい、けれど探すためにこの部屋を出てしまって良いものなのだろうか。エプスタインは夕食を運ばせると言っていた気がする。


 もしかすると眠っている間に部屋の中に運び込まれているかもしれない。ほのかな期待を抱き、足元に気を付けながらゆっくりとローテーブルの上を見てみたが何もなさそうだった。暗いせいで見えていないかもしれない、そう思って手で探ってみたがやはり何もない。書き物机があったことを思い出し、そこでも同じことをしてみたが、あったのは紙とペン。それにインクが入っていると思われる小瓶だけだった。


 部屋の外に置かれているかもしれない、寝てしまっていたのだからそうすることもあるだろう。伍堂の母親はそうしていたから、同じことをしているのかもしれない。というわけで廊下へ続く扉を開けてみたが、何も置かれていなかった。


 頭だけを覗かせて左右を眺めてみたが、何もない。部屋の中と同じく暗い廊下から見えたのは、窓と自分の部屋と同じ作りをしているらしい扉が幾つか。肩を落とし、溜息を吐いて部屋の中へと戻る。屋敷の中を歩こうとは思わなかった。


 他にどんな部屋があるのか等、興味はある。しかし自分の家ではない、他人の家だ。この部屋を自由にしていいと言うのだから、多少の冒険をしたところで咎められないかもしれない。けれどはっきりとその許可を得ているわけではない以上、委縮してしまい部屋の外から出られなかった。


 結局ソファへと座り、食事を運ばせるというエプスタインの言葉を信じて待つしかない。一度空腹を意識してしまったためか、気を紛らわせるために他のことを考えようとしても、頭はすぐ空っぽの胃袋へと向かってしまう。


 また星空でも眺めようという気にもなれない。どうしたものかと悩んでいるところにノックの音が響く。これはもしやと、慌てて立ち上がると返事もせずに扉をあけ放つ。そこには給仕服を着た一人の老婆が立っていた。彼女の傍らには台車があり、その上には料理の盛られた皿と明かりを放つランタンが置かれている。


 彼女は唐突に開け放たれた扉にたじろいだ様子を見せたが、すぐに佇まいを正すと慇懃な礼を行った。


「ゴドー様にお食事をお持ちいたしました。お部屋の中まで運ばせて頂いてもよろしいでしょうか?」


 無機質で事務的な抑揚のない口調だった。顔にも表情らしい表情は浮かんでおらず、ロボットのような印象を受ける。その雰囲気に圧されるように伍堂は部屋の中へと戻りながら頷く。それを見るや否や、老婆は台車を押しながら部屋の中へ入ってくるとあっという間にでローテーブルの上に皿とランタンを並べていく。


 老婆とは到底思えない機敏な動きに見とれている間に彼女は配膳を終えるとすぐに部屋から出て行ってしまう。素早い動きだった、なんていう感想を抱きながらソファに座る。ランタンには既に明かりがともされており、おかげでテーブルの上に並べられた料理だけでなく部屋の中もよく見えた。


 待望していた料理がやってきたわけではあるが、空腹にも関わらず伍堂の興味は料理ではなくランタンへと向いている。何の変哲もないランタンではあるが、伍堂にはそれが珍妙な物に見えているのだ。


 ランタン自体が珍しいということもあるが、ランタンを知らなかったわけではないし実物を触ったこともある。気になったのは明かりを放っている光源だった。火ではなさそうだった、目を細めてもよく見えないが光を放っているのは石のようだ。電気、というわけでもないように思える。試しに手を近づけてみたが熱は感じない。


 土台にツマミがあることに気づき試しに回してみると光が小さくなる。反対の方向に回してみれば明るくなる。光量を調節するツマミだった。明るくしたり暗くしてみたりしながらじっとランタンの明かりを見ていたが、光源の正体にはてんで見当がつかない。


 光り方は白熱電球に近いように思えるのだが、そうだとするなら近づけた時に熱を感じるはずだ。発光ダイオードかもしれないが、果たしてここにそんなものが存在し得るのだろうか。


「わからないなぁ……」


 独り言を零しながら視線を料理へと移す。ソースのかかったステーキ、根菜がたっぷりと入ったスープ、鮮やかな緑色をした葉野菜のサラダ、丸いパンには柔らかそうなバターが添えられている。特に目新しさも珍しさも感じられないメニューだった。


 照明の加減のせいかもしれないがスープは色が薄い気がするし、パンを割ってみると断面は白くなく茶色っぽく見える。どれから食べようかと悩んだがここはメインディッシュであろうステーキから食べることに決め、ナイフで一口大に切った後フォークで口に運び、噛み締めたその瞬間に伍堂は思わず顔をしかめ、口内の肉を吐き出しそうになる。


 酷くしょっぱい。ソースではなく、肉そのものに付けられた塩味がきつい。何とか飲み込んだ後、口の中の塩気を消そうとスープを啜った。これは肉の濃い味付けとは正反対で酷く味が薄い。何かを煮込んだらしく味は一応ついているのだが、ほとんど味を感じられなかった。具の根菜はよく似こまれていたのか、しっかり噛まなくても口の中でぽろぽろと崩れて、若干とはいえ土の味がする。


 まさかと思いながらサラダを食べてみれば、口の中に青臭さが広がっていく。お世辞にも美味しいとは言えない、はっきり言って不味い。空腹だったはずなのに食欲が失せていく。


 残したい食べたくない、そんな気持ちが鎌首をもたげてくるがこの部屋に食べるものは無い。それにこれは人からのもらい物なのだ、それを食べずに残すというのは失礼にあたる。できるだけ味わうことのないように咀嚼する回数を減らした食べ方は食事、というよりも作業に近かった。


 ただ美味しいとはいえない料理の中でも、水だけは美味しく、小学生のころにキャンプで飲んだ清水を彷彿とさせた。


 栄養を摂取する作業には一時間近い時間を要した。食べ終わるころにはどの料理も冷めてしまい、肉は当初より硬く、スープは白湯のようだった。それらを全て胃袋に収め、腹を押さえながらソファへともたれかかる。


 睡眠と食事、二つの欲求が満たされたせいか気持ちは落ち着いている。頭の中もクリアになり、色々と考え事が出来そうだ。そこで伍堂が思ったのは、自身が今落ち着き払っていることだ。夢を見ているわけでないことは感づいており、多分現実なのだろうと認識している。


 目覚めてみればどこかの地下室らしきところで、そして今はヨーロッパにいる貴族が住んでいそうな屋敷の一室にいるわけだ。エプスタインはゴドーを召喚した、と言っていた。そんな魔法があればいいなと願っているが、現実には存在しないことを思い知らされている。


 けれど、そうでもなければ説明がつかないのではないか。最初に会ったオーバンが初め何を言っているのか分からなかったが、渡されたイヤリングを着けると喋っていることがわかるようになった。そのオーバンも伍堂の言葉を理解していない様子を見せていたが、チョーカーを着けると理解できていた。


 多分ではあるけれども、今も身に着けている二つのアクセサリは自動翻訳機に違いない。イヤリングにもチョーカーにもコンピュータが入っているようには見えないし、マイクやスピーカーといったものもついていない。見た目は宝石のついたアクセサリでしかなかった。なのに自動翻訳ができるということは、魔法の力に違いないのだ。


 そう思うと深夜に放送されているアニメの主人公にでもなったような気がして胸が躍ってくる。もしかしたら自分にも彼らのような冒険、そしてヒロインが待っているのかもしれない。


 口元が緩んでいたことに気づくと両手で頬を叩いて気を引き締めた。そのまま頬を手で押さえたまま小さく笑い声が漏れる。誰もいない部屋で一人、そんなことをした自分がおかしかった。いつも部屋にいてゲームをしていてもやらないことなのに、きっと楽しんでいるのだろう。


 そんな気分でいるとエプスタインが戻ってくるのが待ち遠しい。空になった食器は重ねてローテーブルの端へと追いやる。部屋の外に出そうかと考えはしたが、それはなんだかはしたないしマナー違反のような気がしたのだ。


 音が鳴らない程度につま先で床を叩きながら待っているとノックの音がした。立ち上がり返事をすると勢いよく扉が開け放たれ、ゆったりとしたガウンのような服を着たエプスタインと食事を持ってきた老メイドが入ってくる。メイドは重ねられた皿を見た瞬間に少し驚いたようであったが、すぐに無機質な顔をすると手早く食器を片付け、酒のボトルと銀のグラスを置いていくと退室する。


 それを見届けるてからエプスタインが座り、それから伍堂も腰を落ち着けた。


「食事はどうだったかな? 君が今まで食していたものとは毛色が多分に違っていただろうから、口に合わなかったかもしれないと気になっていてね」


「……あー、えっと美味しかったです」


 素直にすぐ美味しかったといえば良かったと後悔していると、部屋の中に朗らかなエプスタインの笑い声が響いた。


「君は嘘が吐けない性質らしいね。結構結構、実に結構なことだ。今の妙な間がそうじゃなかったと言っているよ。さて本当はどうだったのかな? 君が私たちが普段食しているものを食べてどんなことを感じたのか知りたくってね」


「えっとそう、ですね……ご馳走になりながら言うのは申し訳ないんですけど……」


「いやいや良いんだ良いんだ。気にせず感想を教えてくれたまえ」


「じゃあ……肉はすごくしょっぱかったし、スープは味が薄いし……サラダも青臭かったです。あ、けどお水は美味しかったですし、パンも食べられました」


「肉が塩辛かったか、いやこれはすまないね。料理番にメインとなる肉の味付けは香辛料を奮発するように伝えたのだけれど、どうやらそれは良くなかったか。普段はそこまでしょっぱくないはずだから、次からは肉も美味しく食べてもらえるかと思う。うちの料理番は腕がいいからね、焼き加減は最良の状態で出していたはずだ」


「すみません……しょっぱさばかり気になってしまって、焼き加減まで気にしてなかったです」


「ハハ、そうかそうか。なら次は焼き加減も少しで良いから気にして欲しいかな、私の雇っている料理番はねこの国で五指に入る腕の持ち主だと言っても過言じゃないほどの腕だからね。ところで酒は飲める口だろうかね? 荘園で採れる葡萄の中でも特に上等なものを使って醸造させたものだ、一口飲めば病みつきになる味だと自負している」


 銀のグラスにボトルから酒が注がれ突き出される。手に取り香りを嗅いでみれば芳醇な甘い香りが鼻腔を撫で、特に酒が好きでもないのに涎が溢れ出しそうだった。試しに一口飲んでみると酸味や渋みといったものはさほどなく、舌の上にフルーティな味わいが広がっていく。アルコール度数もさほど高くはないようでジュースのように飲めてしまいそうだ。


「気に入ってくれたようでなによりだ。食事もして落ち着いているだろうし本題に入りたい。ゴドー君は物語の登場人物のように、自分がいわゆる異世界にやって来たということを実感しているだろうか?」


 数瞬の間、答えるのに躊躇したが結局は無言で頷いた。


「なら良かった。君を呼び出した私が言うなと思われるのを承知の上ではあるが、異世界に召喚されるなどという突拍子もないことを俄かには信じられないだろうからね。気になっていた」


 酒を飲みながら話すエプスタインの声は徐々に低くなり、表情からも笑みが消えていく。それと共に威圧感が増していき、彼の身体が一回りほど大きくなっているような錯覚すら覚える。


「ただ実感してくれているのは嬉しいことだ。今日は時間を用意することができたが、これからは君とこうして二人で話せる時間を作るのは大変になる。私に聞きたいことがあるのなら遠慮せずに聞いてほしいのだが、わからないことだらけだろう。そもそも何を訊ねれば良いのかすらわからない状態だと思う。なのでこれは知っておく必要があるだろう、ということを私から話すがそれでもいいかな。どうだろうか」


「わかりました……。それで、お願いします」


「うむ、そうだな。では――」


 しばらく間をおいてエプスタインが話し始めたのは簡単な歴史の説明と自己紹介だった。


 伍堂が今いる国の名はフォールト王国といい建国してから三〇〇年余りの歴史があり、何度か争いはあったものの国の存亡に関わるというほどのものではなかったらしい。そしてエプスタインはこの王国の貴族であり、公爵として大規模な自身の領地をもち統治しているだけでなく、国全体の軍務を司りまた外交を行うこともあるという。それが理由で伍堂と話す時間も作るのが難しいということだった。


 そしてこのフォールス王国は今危難に瀕しているという。今のところ目立った被害は起きていないものの、エプスタインの領地から数日西へ行ったところにある山地を中心に作物の不作が広がっているだけでなく、怪物の増加が起きているとのことだった。なんでもこの現象は伝説に謳われる魔王が現れる予兆であるらしく、市井の人々は不安を胸に抱き、それが原因で政情不安になりつつあるらしい。


 そこで彼らが思い至ったのが異世界の人間を召喚することだった。海を渡り東にある大陸には、異世界から来た英雄が人々を救ったという伝説があり、それをヒントに伍堂を呼んだということだった。


 しかし伍堂はただの凡人である。何かやれそうだ、という気持ちはあるものの英雄と呼ばれるだけの能力はないと断言できる。もし人より優れていると自慢できることがあるとすれば、毎日鍛えていた筋肉ぐらいだろう。ただそれも、目の前にいるエプスタインの体格を見ていると自慢できるものではなさそうである。


 ビッグになってやるのだ、という想いを胸に秘めてはいても英雄だなどという過度の期待を寄せられては困る。恥ずかしさのために言いづらかったが、黙っていては大変なことになるだろうと率直に伍堂は自分がそこまでの人間ではないことを口にした。


 それを聞いたエプスタインは一切驚く様子を見せなかった。


「だから君を鍛えようと思う」


 この言葉を聞くと反射的に無駄だと口を突いて出てしまった。しかしエプスタインは聞く耳を一切持たなかった。


 彼が言うには、今は何もできなくとも異世界の人間は秘められた力を持っているという。鍛えさえすれば、その秘められた力が開花するとエプスタインは信じているのだ。


 これには困った。期待されるのは嬉しいがもしそれに応えられなかった時のことを考えると安易に肯定することはできない。しかし彼は伍堂を鍛えてくれるという、訓練を積めばエプスタインが思っているような力が発現することはなくとも、隠された才能が現れるのではないかと全能感が囁いている。


「それなら……多分」


 安心したように胸を撫で下ろし、そして笑顔を浮かべるエプスタインを見ると胸が痛んだ。


 曖昧な物言いをしたことに申し訳なさがあった。出来ると断言できなかった、もしそれを言ってしまえば彼の期待に応えられなかった時の逃げ場がなくなってしまう。


 もちろん今のこの曖昧な返事でも、その時は逃げられないだろうことは分かっていた。それなら出来るとはっきり言ってしまえば良いのだが、臆病な自尊心はそれを許さない。


「あー、話は変わるのだが。君は恋人はいるのだろうか?」


 僅かではあるが彼のこの問いは心にくるものがある。女性と付き合った経験がないどころか、まともに会話したこともない。それが一種の劣等感となっているがために、まともに返事が出来ずに俯くだけだった。


 この伍堂の反応にはエプスタインも困ったらしい、間を持たせるためにグラスを傾けていた。


「答えづらい問いかけをしてしまったらしいな、申し訳ない。恋人の有無を聞きたいわけではなかったのだ。ここには私と君、男しかいないわけだから包み隠さず答えて欲しい」


 じっと伍堂をみながらエプスタインは身を乗り出し顔を近づけてくる。そのただならぬ様子に体が強張る。何を聞かれるのだろうか、その不安からくる緊張で背筋が伸びる。


「女は好きか?」


 神妙な面持ちから繰り出されるような質問ではなかった。


 ただあまりにも真面目な顔をして聞かれたものだから真面目に答えなくてはならない、そうなると女性が好きというのはどういう意味なのだろうか、ということを伍堂は考え始めてしまう。一般的に考えるのなら、女性といやらしい、つまりは性的な行為を行うことが好きなのかを訊ねられていると考えるのが妥当だろう。


 しかしそのような話は居酒屋で酔っ払いがするような話であって、顔も赤くない貴族が真面目に身を乗り出すようなものではないと思う。となると別の意味があるはずだ、というところに行きつくのだがそのさきがさっぱりと予想がつかない。


「あいや。そう真面目に考えられても困るのだけどね、女の子とエッチなことをしたいかどうか。するのが好きかどうかと聞いただけだからね。それ以上の深い意味なんてない、男二人の会話だからと強調しただろう?」


「それはまぁ……興味がないと言えば嘘になってしまいます」


「英雄になれば当然だが、何も英雄と呼べるほどにならなくとも力を持っていることを見せつければ、どんな女もよりどりみどりだ。国一番と呼ばれるような美女であろうと自分のモノにすることだって夢ではなくなる」


「はぁ……そう、ですか……」


「随分と釣れない返事をするね。美しい女性を目にすれば自分の女にしたい、と思うのは男なら誰もが持っている当たり前の欲求ではないか」


「そういうわけではないのですが、ただ……」


「ただ?」


「ただ、強くなったところで僕みたいなのがモテるとは思えなくて。女の子と話したこともそんなにないし、顔もカッコいいわけではないので……」


「なぁにそんなことか。私だって若い頃は女性と話したことなんてなかったとも、学び舎は男だらけだったしね。気になる女性が出来ても上手に口説くことなんてできず、話しかけたはいいものの言葉につまって会話にならない、なんてことはざらにあった。けれど、私が力を付けてくると女性の方からくるようになってね、そうなってくると不思議と話せるようになったものさ。それに君は自分が醜いと思っているようだが、私はそんなことはないと思うね。恰好良いとは正直思えないが、君の顔立ちというのはこの国ではそう見かけないものだ、格好いいとも格好悪いとも言えない。異国情緒を感じさせる顔立ちだと思うね。それにそういう顔というのは、好奇心のある積極的な女性には人気が出るものだよ」


 うんうんと頷きながら聞いているうちに伍堂は彼の真意を悟った。


 彼は伍堂を励まそうとしているのだ。酒を飲みながら身振りや手ぶりを交え、声の調子も明るいエプスタインだがその眼だけは笑っていない。所々で伍堂の表情を伺っている。


 この国における公爵と、伍堂の知る公爵とが仮に同じ地位であるとするのならばエプスタインはとんでもない大物ということになる。各省庁のトップあるいは経済界で重要な位置にある経営者、もしくはそれ以上だろう。それほどの人物が伍堂に対して気を使っている。


 伍堂は自身がまだ凡人だということを知っているが、彼は伍堂が凡人であるとは思ってもいないに違いない。そうでなければ、今このような場が設けられるはずがないのだ。


「どうした? 随分と身を縮こまらせているようだが、気に障るようなことを言ってしまったかな?

 それとも緊張しているのだろうか? もしそうなら酒を飲むといい、飲み過ぎは体に良くないが適量の酒は体も心も柔軟にしてくれる」


 ボトルを近づけられたので慌ててグラスを空にすると、そこにワインが注がれる。


 萎縮している様を見せてしまったのが申し訳なく思う。かといって気の利いた言葉を言えるわけでもなく、はにかんだ笑みを浮かべるだけだった。


「そういうわけではないです……ただその――。いえ、なんでもありません」


 僕はただの、何もできない引きこもりです。


 口をついて出そうになったがワインと共に飲み込んだ。今ここでそれを言ったところでどうなるというのだろう、それにエプスタインが今それを知ったらどうなるのだろうか。元のあの居心地の良い閉鎖空間に帰してくれるのだろうか。


 そうだったら良いのだがそんな保障があるわけないし、彼が掌返しをしたらと思うと口にできるはずもない。ただそれは意識の表層に浮かんできた理由であって、深層はまた別だった。


 何も言わなくなってしまった伍堂だったが、エプスタインは微笑を浮かべながらくつろぎ、たまにグラスを傾ける。何も語りかけられないのは楽であると同時に苦痛でもある。


 ぽつりぽつりと話しかけられても、伍堂は一言二言の相槌程度の返事をするだけで会話を発展させることができなかった。それでもエプスタインは席を立とうともせず、今日は天気が良かった、だとか街に有名な芸人の一座がやってきているだとか、そういう他愛もない世間話をし続ける。


 伍堂は相槌をするのがやっとだったが、それが何度も続くうちに肩の力が抜けてくる。そうなると酒を舐める回数も増えて、アルコールが回れば気も大きくなる。ワインで気が大きくなったせいか、相槌以外の返事もできるようになり、エプスタインの舌も饒舌なものへと変わる。


 喋っているのはほとんどエプスタインとはいえ会話が盛り上がり始め、やがて彼が語り始めた昔話が佳境に入ろうとしたところで遠くから重厚な鐘の音が鳴り響いた。


 突然の物音に伍堂は肩を震わせたが、この鐘の音は日常的に鳴っているものらしくエプスタインには驚いた様子が一切なく嘆息を吐いていた。


「やれやれ随分と遅くまで話し込んでしまったようだ。そろそろ寝ないと明日に差し支える、君ぐらいの年の頃はそれこそ朝が来るまで遊んでいても平気だったのだけれどね」


「いえ、こちらこそ遅くまでお付き合いいただきありがとうございます」


「そう畏まらなくてもいいさ。これから長い付き合いになるんだからね、といっても私は明日から王都に出向かねばならなくてね。少なくとも一か月はこちらに戻ってこれそうにないんだ、すまない」

 これを聞いた途端、リラックスしていた伍堂の肩がまた上がった。


「君のことはバッド・パウエルという者に任せてある。明日になれば彼が来るだろうから、頼るといい。魔法使いなんだが、その魔法使いの鑑のような男で非常に博識だ。この国のことを知らない君の教育係となるようにも言ってある、知りたいことがあれば今からでもまとめておくといいかもしれない。彼なら懇切丁寧に教授してくれるはずだ」


「えっと、あの。オーバンさん、でしたっけ。その方は……?」


「あぁオーバンか、彼はそうだな……うーむ。どうして彼が良いのか聞いても良いかな」


「オーバンさんが良いというよりか、まだ顔を知っている方が……気が楽、なので」


「あぁそうかそういうことか。すまないがオーバンは無理だ、本当は今も彼と一緒にここに来ようかと思っていたのだけれどね、君の召喚に想像以上の魔力を使ってしまったらしく寝込んでいる。医者の見立てでは一か月は寝かせておくようにということだったよ」


 急速に口の中が渇いていく気がした。アルコールで身体が水を欲しているわけではない。なんてことを自分はしてしまったのだろうか、という罪悪感からである。


 もちろん伍堂がここに来たのは自身の意思ではない。エプスタイン達が呼んだのだから、罪の意識なんていうものを感じる必要などどこにもないのは理解している。ただ感情の方がそうはいかない。


 自分のような引きこもりのために、一人の人間が一か月も床に臥す羽目になってしまった。伍堂にはそう感じられてしまって仕方がなかったのだ。


「召喚魔法というのは元々多くの力を使うものだから君が気に病む必要は無い。それよりも、明日からは色んな出会いが君を待っている。そんな風に俯く暇があるのなら、横になって休みなさい。体力がいくらあっても足りなくなるぐらい目まぐるしい日々が君を待っているのだからね」


 立ち上がったエプスタインは伍堂の肩を励ますように強く叩くと部屋を出て行った。


 一人になるとただでさえ広い部屋がさらに広くなったように感じられ、静寂がひしひしと忍び寄る。それらの不安を煽り立てる要素から逃げ出すようにベッドへと横になると芋虫のように丸くなった。


 昼間に寝ていたこともあり眠気は来ない。それでも湧き上がってくるものを締め出そうと目を閉じていると、身体を包み込む柔らかなベッドは伍堂を安らかな眠りへと誘ったのだった。

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