ハロー異世界グッバイ四畳半

不立雷葉

第1話 ようこそフォールス王国へ



 こんなはずじゃなかった、こんなものではない、自分はもっと優れた力がある。


 一〇代、二〇代の若者ならば誰しも一度は思う事だろう。


 今年で一九歳になる伍堂博之もそんな青年の一人だった。


 彼もまた、自分はビッグになる人間だ、なんていうことを根拠もなく思っている。


 多くの人々はそんなことを思ってはいても、レールから外れるようなことを自分からやることはない。そしていつの間にか、自分にそんな力はない凡人だったと現実を知る。


 しかし彼は違った、どこから湧いてくるのか定かではないビッグになれる、ある種の若人特有の全能感に任せてせっかく入学した大学を一年も経たないうちに中途退学してしまったのだ。


 通っていた大学が一流大学ではなく、また第一志望でもなく、ましてや希望していた学部に入れなかったことも退学を選択する理由だったのかもしれない。


 そして挫折というほど大きくはなくとも、希望した大学に入れない、つまり自分の頭がそこまで賢くはなかったという現実を突きつけられたにも関わらず彼の全能感は消えなかった。


 親や少ない友人が止めても大学中退という大きな決断をしたというのに、そこからまた別の道を模索するということもしなかった。現実から目を背けるように、彼は自室に引きこもりニートと化した。


 そんな彼が部屋の中でやることといえばオンラインゲームが主で、架空の世界での冒険や戦いに時間を費やしていたかと思えば、動画配信サイトでゲーム実況動画を見て時間を無駄に浪費するばかりだった。


 自己を守る全能感に浸っていても、頭のどこかでは現状を打破したいという思いはある。けれど、どうしていいかわからない、というよりも知らないし知ろうともしない彼が選んだのはプロゲーマーの道。


 好きなゲームで食べていけるようになれたら最高だと思った。だからといって彼は本気でゲームに取り組もうとしなかった。


 プロゲーマーになるにはゲームを遊ぶのではなく、修行や鍛錬と呼ぶ方が相応しいプレイをしなければならないのを知りながらもやらない。そこまで必死になってプロゲーマーになってもカッコ悪いという思いがある。そしてそれが自己保身からくるものだということに彼は気づけない。


 ただそれでも多少の努力は必要という自覚はあり、始めたのが筋肉トレーニングとランニングだった。とあるプロゲーマーがその二つを行っていると知り、真似をしたのだ。


 おかげで引きこもりであるにも関わらず彼は体格も血色も良く健康そのもの。毎日行っているランニングも最初は一キロメートルだったのが、二キロ三キロと距離が延び、いつの間にか毎日一〇キロメートルは走れるようになっていた。


 彼の両親は部屋に引きこもらなくなった彼の姿を最初は喜んでいたのだが、いつしかこのトレーニングに頭を悩ませるようになってしまった。身体を動かしているわけなのだから食べる量が多い、ただでさえ多くの食事を摂る年齢だというのに食事量が増えてしまったがために食費が嵩む。


 彼は親が食費で悩んでいることを知っていた。三日に一度は、バイトでもして自分の食費ぐらいは稼げ、と小言を言われているのだ。その度に彼は、プロゲーマーになるのだ、と言って憚らない。もちろん親は心配のあまり説教を始めようとするのだが聞く耳など持つはずもなく、彼は説教の気配を感じるとあっという間に部屋の中へと閉じこもってしまう。


 親の説教に何も感じないわけではない、二人のいうことは正しいことは分かっている。プロゲーマーになるといって納得してくれない理由も分かっている。まだ一〇代のいまのうちに、アルバイトでもいいからどこかで働きに出た方が良いことも理解している。


 けれどやらないのだ。


 どうしてやらないのか、いや、やれないのかは彼自身も心の奥で理解している。つまるところ、失敗するのが怖いのだ。


 躓き、自分の能力の限界を明らかにされるのが恐ろしい。自分は歴史に名を遺す偉人になんてとてもではないがなれはしないし、富を築けるほどの能力もない。どこかの企業に勤め万年平社員で終えるのがせいぜいの凡人だという現実を突きつけられたくなかった。


 そのために発達した虚構の全能感に浸り、その全能感を満たしてくれるゲームの世界へ惹かれているのだが、彼にそこまでの自覚はない。


 ただこのままではだめになってしまうという将来の不安と、自分は優秀だという仮初の全能感を抱えたままゲームをし、日課のトレーニングを行い、三度の食事を摂り、そして寝る。


 いつかはタイムリミットがやってくる、取り返しがつかなくなることに気づきながらもそこから目を逸らす毎日ばかりを過ごしていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ある日、現実から逃げるばかりの毎日を過ごしていた伍堂が目覚めると途轍もなく天井が高くなっていることに気づいた。加えてもう朝になっているはずなのに部屋が暗い。


 まだ覚醒しきらずに寝ぼけたままの頭で、早く目が覚めてしまったのだろうかと考えると枕元に置いてある目覚まし時計へと手を伸ばしたがそこにあるはずの時計はなかった。代わりに指先は冷たい石の感触を伝えてくる。


 ここで伍堂は自分が横たわっているのが自分のせんべい布団でないことに気づいた。冷たい石の感触は指先だけではなく背中全体から伝わってくる。それに掛布団の重みが無い、寝ている間に蹴飛ばしてしまったことも充分に考えられるがそれをやってしまうほど暑い季節ではなかった。


 異常な事態に脳は急速に覚醒し、慌てて上体を起こすと正面に人影があった、数は三つ。その三人はみな同じ服装、その服がローブであることに気づくには若干の時間を要した。


 彼ら三人は伍堂が身を起こしたのを見ると深々と一礼し、真ん中に立っていた中年の男性が足音を響かせながら歩み寄ってくる。慌てて左右を見渡したが目に入ったのは石の壁。どこかに出口のようなものはないかと背後もみたが、ローブ姿の三人の背後にある木製の扉以外には見当たらない。


 全力疾走をした直後のように心臓は早鐘をうち、慌てて立ち上がろうとするが足がもつれて立ち上がれない。近づいてくる中年の男性から逃げるようにずり下がるのが背いっぱいだった。


 そんな伍堂の様子を見ると中年の男性は足を止め、笑顔を浮かべ何かを口にした。低くはあるが優しい声音、英語のようなドイツ語のようなその言葉を伍堂は聞き取れなかった。


「お、おいなんだお前! こっちくんじゃねぇ!」


 震え裏返った声を出しながら両手を前に出し、近づくなと意思表示するのが精一杯。これを見ると中年男性は困ったように笑いながら懐に手を入れ、宝石のついたアクセサリを取り出すとそれを伍堂へと差し出した。


 意味が分からずに伍堂がそのアクセサリと男性の顔を引きつった顔で交互に見ていると、彼はさらに一歩近づきまたアクセサリを突き出してくる。混乱している頭でも、そのアクセサリを受け取るよう言われているのだと理解した。


 それでもすぐに受け取らずにいると、早く受け取るのだと言わんばかりにまたアクセサリが突き出される。恐る恐る、震える手を伸ばしそのアクセサリを受け取る。すると、男性は耳を指さした。受け取ったばかりのアクセサリを見てみるとイヤリングだった。これを付けろという事らしい。


「――――。」


 また男性が何かを言ったがやはり聞き取れない。ただ、なんとなくの雰囲気で急かされていることがわかる。伍堂は震える指先でイヤリングを指さし、次に自分の耳を指さすと男性は満足げに頷いた。伍堂の理解に間違いはないらしい。


 目の前の男は笑顔を浮かべたまま、後ろに控えている二人の表情は部屋が薄暗いせいで見えないものの、少なくともこの中年の言うとおりにするしかないのかもしれない。そう思った伍堂はイヤリングを耳に着けようとするものの、イヤリングを着けるのは初めてのことであり、また手の震えも収まっていなかったために何度も手の中から落としてしまう。


 最初落とした時はそうでなかったものの、後ろに控える二人から小さな笑い声が確かに聞こえた。その声が聞こえた瞬間、今まで笑っていた中年男性の眉が吊り上がったかと思えば鬼のような形相を浮かべ、石造りの部屋の中に怒号が響く。明らかに縮こまる二人。


 怒声を放った本人はまた伍堂へと向き直ると笑顔を浮かべるが、突然の怒声に威圧されたのは伍堂も同じだった。手だけでなく全身がぶるぶると震えだし、イヤリングをつけるところではない。


 これには痺れを切らしたのか苦笑を浮かべた男性が伍堂のイヤリングを手に取ると、それを耳に着けようとする。抵抗しようとした伍堂だが、先ほどの彼が発した怒声を思い出すと動かした手は宙をさまようばかりだった。


「これでよし。さて、私の声が聞こえるようになりましたか? 聞こえているのなら頷いてくださると嬉しいですね」


 伍堂の耳にイヤリングを着けた彼は、膝を曲げ伍堂と視線の高さを合わせて口を開く。先ほどまで何を言っていたのか分からない彼の口から突然に流暢な日本語が聞こえてくると、伍堂の目は皿のように丸く頭は白くなり、つい首を縦に振る。


「それは良かった。ですが今のままではあなたの言葉は私たちには分からないのです、ですからこれを首に着けてください。そうすればお話ができるようになりますから」


 次に男性が取り出したのは小さな宝石がついたチョーカーだった。目の前の男性が耳慣れた言語を話していることに落ち着いたこともあり、伍堂は素直にそのチョーカーを受け取り自身の首へと着ける。


「これで……いいですか……?」


 恐る恐る尋ねてみれば彼は満面の笑みを浮かべて大きく頷く。そして立ち上がるとほっと胸を撫で下ろし、手が差し伸べられる。握手を求められているのだろうかと、まだ小刻みに震える手でその手を握ると引っ張られる。立て、ということらしかった。


「では互いに意思疎通が出来るようになったところで大事なことを申し上げます。いいですね?」


 よくわからないままではあったものの無言で頷く。


「私たちはあなたに危害を加える気はありません。もう一度、大事なことですからもう一度申し上げます。私たちは、あなたに、危害を、加えるつもりはありません」


 余程伝えたいらしくゆっくりと、そして低く響かせるような発音だった。一度は怒声を上げたものの、それは伍堂に対してのものではなかった。伍堂には笑顔を向け続けていたことを考えれば、彼の言葉を信じてもいいのだろう。


「は、はい……わかりました。ただ、その……ここは、えーっと……どこですか?」


「それについては後程ご説明させていただきます。ですがその前に、お互いに自己紹介をするのはどうでしょうか? これからお話するのに、互いの名前も知らない。というのでは都合が悪いですからね」


「あ、え……そう、ですね……俺、じゃない。僕は、伍堂博之……です」


「ゴドーヒロユキ様ですか、良いお名前ですね。ゴドーが姓で、ヒロユキが名だと思うのですが合っていますでしょうか?」


「え、あ、はい。そうです、伍堂がその、苗字。です……」


「ありがとうございます、ゴドー様。私の名はオーバン・クルーセルです、オーバンが名前でクルーセルが姓にあたります。職業は魔法使いをしておりましてね、ゴドー様は何をされている方ですか?」


 洋風の名前に、魔法使いをしていると聞いて伍堂は眉をひそめたが、やってきた問いのために疑問は消し飛んだ。つい背筋を正し、気を付けの姿勢を取ってしまい急激に喉が渇いていくのを感じる。


 これは様子がおかしいと思ったのかオーバンは首をかしげたが、すぐに何か思うところがあるのか柔和な笑みを浮かべ二度ほど首を大きく、ゆっくりと縦に振った。


「答えたくないのであれば無理に聞こうとは思いません。私はあなたと交友を深めたいと思いまして、話のタネにできればと思って尋ねただけですので深い意味は御座いません。あぁそうでしたそうでした、こんな薄暗い部屋で立ち話をするのも疲れますからね。ゴドー様の部屋を用意させていただいておりますので、そちらに案内させていただきたいのですが。どうでしょうか?」


 詮索されなかったことに胸を撫で下ろしはするものの、尋ねた理由をこうも詳しく述べられると自身がニートであることを見透かされただけでなく、気を使われたことは間違いない。嬉しいという気持ちは存在するがそれは僅かで、悔しさや惨めさといった負の感情の方が遥かに大きかった。


「えーっと……ゴドー様が着ているそれは、ティーシャツとジャージというのでしたか。サイズが合うかはわかりませんが、上質な衣服も用意させていただいておりますし。少しばかり時間はかかりますが、食事も用意できますので。どうでしょう、別の部屋に行きませんか?」


 気づけば俯いてしまっていた伍堂の顔をオーバンは姿勢を低くし、下から覗き込む。相変わらず彼は笑みを浮かべるものの、その裏にある困惑を隠しきれてはいない。彼が伍堂に気を使っているのに理由があるは明らかだ。


 そして頭が明瞭になってくるとこれが夢ではないということが実感として得られ始めた。夢にしては見えるものがはっきりしているし、肌に触れるヒヤリと冷たい空気、黴の臭いといったものが夢ではないのだと告げていた。


 それに夢なら、夢の登場人物が伍堂の心を抉る言葉と態度を見せるはずがない。夢はもっと都合がよく、そうでないのなら不可思議で意味の分からない奇怪なものであるはずだと伍堂は思う。


「大丈夫ですか……? 気分が優れない、などあるのでしたら遠慮なく伝えてくださって良いのですよ?」


 いつの間にか思考するばかりになっていた伍堂は、このオーバンの一言でハッと顔を上げた。


「あ、そういうわけじゃないので……え、と。じゃあ、その。部屋に、案内してもらえますか?」


「はい、畏まりました。ではどうぞこちらへ」


 オーバンが歩き出したために伍堂も慌てて後へと続く、扉の前に立っていた二人はオーバンが歩き出すと同時に左右へと広がり道を開けた。彼ら二人の横をすれ違う時に見えた表情は、明らかに伍堂を小馬鹿にしていた。


 気分が悪くなるよりも前に、己の惨めさが先に立ち下唇を噛みながら俯きオーバンの後を続く。


「歩くのが早ければ言ってください」


 オーバンが声をかけてくれたが伍堂は顔を上げなかった。


「はい、わかりました」


 小さな声で返事をしただけ、石造りの床とオーバンの足元だけを見ながらただ何も考えないようにして歩いた。廊下を歩き、階段を歩く。オーバンが足を止めたので伍堂もまた足を止める、軋むような音が鳴り途端に周りが明るくなる。


 思わず顔を上げるが眩しさのあまりに顔を手で覆い、目が慣れたところで手を下ろした。目に入ってきたのは庭と、ヨーロッパにあるような三階建ての巨大な屋敷。屋敷の壁面には等間隔にガラス窓が並んでいる。だが扉は人が一人通れる程度の大きさの扉が一つだけ。


 これほど大きな屋敷にしては扉が粗末すぎる、ここは裏口なのだろう。感嘆のあまりに溜息が漏れる。


「見事なお屋敷でしょう? この屋敷の一室を用意させていただいておりますので」


 オーバンの顔を見れば得意げである。ということは彼の屋敷なのだろうか、凄いものだと屋敷を見上げていたのだが途端に己が矮小な存在になっている気がしてまた俯く。


「そう縮こまらずとも良いのですよ、さぁ中に入りましょう」


 またオーバンが歩き出したので後へと続いた。裏口から中へと入ると廊下には板が敷き詰められており、中へ入ろうとしたところで伍堂はようやく自分が裸足であることに気づいた。試しに足裏を覗いてみれば、石の床と裏庭の土を踏んだせいで真っ黒になっている。


「あぁ気にしなくて良いのですよ。みんな土足ですからね」


 こんな足で入っていいものだろうかと悩んでいたらオーバンに声をかけられる。言われてみれば彼は履いている革靴のまま廊下を踏んでいるし、よく見てみると板張りの廊下は土で汚れている箇所が多々ある。掃除されて薄くなっているとはいえ、靴の形がはっきりとわかる足跡もあった。


 裸足であることに恥ずかしさを感じながらも、またオーバンの後を続いて板張りの廊下を歩く、階段を上る、廊下を歩く。そして立ち止まり、扉があけられ中へと通されたところでようやく伍堂は顔を上げた。


 その部屋の窓も大きく日光が燦々と注がれ、その窓のそばには大人が三人は横になっても余裕がありそうなほどの大きなベッドには天蓋がついていた。部屋の真ん中あたりには絨毯が敷かれ、その絨毯の上にローテーブルと四人掛けと思われる大きさのソファが二脚、テーブルをはさんで置かれている。


 他にも天井にまで達しそうな高さの衣装棚に、鏡台や書き物机。生活するにあたって必要そうな家具が揃えられており、そのどれもが精巧な装飾が施されており高級ホテルの一室のようだった。


「さぁ中に入りましょう、この部屋が用意させていただいた部屋ですから。ご自由にくつろいでください」


 どうしてよいかわからずに扉の前で棒立ちになっていると、オーバンが中へと入っていったので呆気にとられたままその後へ続いていく。オーバンはそのまま衣装棚の前に立つと、観音開きのその戸を開けた。中にはぎっしりと、色とりどりサイズもさまざまな服が吊るされている。


「これならゴドー様に似合うかもしれませんね」


 そう言ってオーバンが衣装棚から取り出したのは白いシャツ、茶色の革ベストと革ズボン。それら一式を受け取る。


「人前で着替えるのも嫌でしょうし、私は一度席を外します。こちらに靴と靴下が入っておりますので、好きなものを身に着けるとよろしいでしょう。それでは」


 衣装棚の一番下にある引き出しが開けられる。そこには多様なサイズの靴と靴下が収納されており、伍堂がそれを眺めている間にオーバンは部屋の外へと出て行った。


 豪奢な家具の置かれた広い部屋。そこに一人きりにされてしまうとどうしてよいものかわからない、そもそも置かれている状況がわからない。


 夢ではないような気もするし、そうでないような気もする。よくわからないまま、受け取った服をベッドの上へと広げてみる。革のベストとズボンは特にこれといった特徴は見当たらなかったが、白いシャツは衣類に詳しくない伍堂でも上質なものだとわかるものだった。


 肌触りはなめらかで、おそらく絹で作られているのだろう。襟元と袖口にはフリルで装飾が施されており、伍堂にはそれが貴族っぽく映る。着替えるよう言われたこともあり、渡された服に着替え脱いだ服はなんとなくベッドの上へと折りたたんで置くことにした。


 引き出しの中を漁ってみればちょうど伍堂の足に合う革靴と靴下があったのでそれを履くことにする。少し驚いたのは靴下にはゴムがついておらず、紐で縛らなければならないことだった。そのことを不思議に思いながら服を着替え終わった後、鏡台の前に立ち自分の姿を映してみる。


 首元にはチョーカーしかつけていないが、ネクタイを締めるようなポーズをとってみる。しっくりとこない、絹のシャツは着心地が良いのだが革のベストと革のズボンは履きなれていないこともあってか硬く感じられた。そのせいなのか、鏡に映る伍堂の姿はどこか不格好で服に着られているように見えたのだ。


 服を着替えてしまえば手持ち無沙汰になってしまう。理由はなくとも時間を確認しようと時計を探したが、それらしいものは何もない。大まかな時刻だけでも計れやしないかと窓に近寄り、空を仰ぐ。青空には羊雲が浮かび、太陽はほぼ真上にあるらしく窓からは見えない。


 空から視線を下げていけば、そこには広大な庭園が広がっていた。中心部には丸い池があり、その畔には二つの人影があった。遠目にもわかるほど裾の広いスカートを履いているのでおそらく女性なのだろう、大きいほうの人影は日傘を差しており小さいほうの人影は池の中を覗き込んでいる。親子なのだろうなと思いつつ、他にも視線を向けてみるが人の姿はない。


 池の他にも花壇や広葉樹、東屋まで立てられており伍堂の目には観光地のように見えた。オーバンはこの建物を屋敷といっていたがホテルとしか思えない。と、話しているときのオーバンの顔を浮かべながらそんなことを思っていると違和感があることに気づいた。


 この違和感は何だろうか。明らかに欧米的な名前なのに流暢な日本語を喋っていることか。もちろんそれも違和感だ、おかしいと感じており今のこの状況が夢ではないかと考える理由の一つである。しかし今しがた気づいたばかりのこの違和感はまた別のもの、言葉に関係しているところまでは分かるがそれ以上正体に近づけそうになかった。


 答えに辿り着けない気がしながらも庭を眺め、親子らしい人影をじっと眺めていたがそのうちに落ち着かなくなった。窓から離れて本棚へと近寄る、言葉が通じるのなら本を読むことができるかもしれない、そう思ったのだ。


 しかし背表紙に書かれている文字は記号にしか見えない。アルファベットに似ている気もするが、まったくの別物であるような気もする。首をかしげながらたまたま目についた一冊を本棚から取り出してみたが、それはただの箱だった。


 中に本が入っているのかもしれないと角度を変えて眺めてみたが、開けられそうな箇所は見つからない。中に入っているものを傷つけないように気を付けながら、耳を澄ませて小さく振ってみたが中に物が入っているというわけでもなさそうだ。


 手にした本を本棚に直し、また別の本を手に取るがそれもやはりただの箱。では次の本、ということを一〇回近く繰り返してみたがどれも同じだった。本はまだまだ棚に並べられていたが、一〇近い数をチェックしてみてどれも箱だったのなら、まだ見ていない本もただの箱に違いない。


 しかし伍堂にはそんな本のように見せかけた箱を並べる理由というものが皆目見当がつかなかった。こうなってしまうと何もすることが思い当たらない、出て行ったオーバンは、また戻ってくるような事を言っていたのでそれを待つことにしてソファへと座る。


 最初は背筋を伸ばして座っていたのだが、すぐに背中を曲げた俯き気味のいつもの姿勢へと変わる。視線は埃一つないローテーブルへと落ちる。


 今の状況を整理しようとしたが、考えるのも面倒くさかった。少し転寝でもしようかと背もたれに体を預けて目を閉じてみるが、緊張しているのか眠気は欠片もない。それでも目を閉じ続けていると、自然と耳に意識が集中する。


 風の音、木々のざわめき、小鳥のさえずり、人の足音。それらの音が耳に入ってくるが、話声がしないのが不思議だった。この屋敷の大きさはよくわからない、中に入ってこの部屋に来るまでの間オーバンの足しか見ていなかった。しかし、庭に池を作っているほどの屋敷が小さいわけがない。


 そしてそれだけの規模ともなれば住んでいるのが家族だけとは考えづらい。より耳に意識を集中してみたが、それでも聞こえない。


 静かな落ち着いた時間。ゆっくりと流れる時間とは裏腹に伍堂の心臓は高く高く鳴り響いている。これは夢なのだろうか、夢だったらいいのに。もし夢でないのならどうすればいいのだろうか。


 それだけではない、今考えたり思い出す必要のない過去の出来事が連鎖的に幾つも記憶の底から浮上し伍堂を責め立てる。動いてもいないのに脈打つ胸の鼓動が確かに感じられ、喉を締められるような錯覚すらある。


 何か他のことを考えて気を紛らわせたいと思っても、自己を嫌悪する自身の言葉が内側からあふれ出す。両手で頭を抱えながら首を左右に振りはしても、そんなことで湧き上がる自己嫌悪は消えない。


 気づけば体を丸め歯を食いしばり、襲ってくる内側からの不安に耐え続けるだけとなる。そこに響くノックの音。頭を押さえる手を緩め顔を上げてじっと扉を見る。返事はしない。


 トントン。また小気味良い音がする、声を出そうとしたが咄嗟に喉が動かなかった。なら扉を開けに行こうと立ち上がったところで、またトントンとノックの音。


「いないのかな? もしいるのなら返事をしてほしいね」


 オーバンの声ではなかった。男性の低い声だが彼よりも野太い声がする。てっきりオーバンが戻ってきたとばかり思い込んでいただけに、ソファの前に立ったところで動きを止めてしまうが代わりに喉が動いてくれた。


「あ、いえ。ちゃんと中にいます」


 ノックの音はしなかった。去っていくような足音も聞こえない。声が小さかったのだろうか、裏返って奇声を発してしまったのではないか。新たな不安に襲われ始めた伍堂の目に回転するドアノブが見えた。


 勢いよく扉が開け放たれ入ってきたのは大柄な男性。彼の来ている黒いジャケットには大きな金ボタンと飾り紐、左胸の辺りには幾つかの勲章らしき飾りがついており軍服のように見えた。


 耳が隠れる程度に伸びた髪は整髪料を使って後ろに撫でつけられつやつやと輝いている。肩幅も広く豊かな口髭と濃い眉毛、顔の堀も深い。


 一目見ただけで伍堂はつい後退ってしまいそうなほど圧倒されてしまった。見た目に威圧されたわけではない、彼の全身からはオーラのようなものが放たれているような気がしてそれに圧されたのだ。


「やー初めまして。オーバンから聞いている、ゴドーヒロユキ君だね。私はブライアン・エスプタイン。この屋敷の主だ」


 友好の意を示しているつもりなのか、彼は両腕を大きく広げながら伍堂とローテーブルを挟んだ向かい側に立つと片手を差し伸べてきた。太い指に血管の浮き上がった手はいかにも力強さに溢れておりついたじろいでしまう。


「ん? どうした、君たちにも握手の習慣はあるのだろう。まずは握手をしようじゃあないか、ついでに君の口から名前を聞かせて欲しいね」


「す、すみません……。伍堂博之、といいます……」


 相手の、エスプタインの顔から視線をそらさずに小さく頭を下げ差し出された手を握る。途端に強く握られ顔をしかめると、彼は悪戯っぽく笑ってみせてからその手を離した。どちらともなく向かい合った状態でソファへと腰かけた。


 会話は始まらない。エプスタインはやや足を広げて座り、組んだ手に顎を載せ膝の上に肘をつき、前傾姿勢を取りながら楽し気に口元を緩め、真摯な視線で伍堂を見ている。頭のてっぺんから足のつま先まで、全身をくまなく観察するような視線。


 そのような目で見られていることについ伍堂は背筋を伸ばして姿勢を正す。緊張から背骨に沿うように汗が一筋流れていくのを肌に感じた。エプスタインに聞こえているわけがないのは分かっていても、胸を波立たせそうなほどの心臓の鼓動が部屋に響き渡っているのではないかと不安になる。


 何を言えばよいのかわからず、かといってエプスタインは口を開くそぶりもない。じっと伍堂の姿を、瞬きすらも惜しむようにただただ眺めていた。最初は背筋を伸ばしていたものの、ただひたすらに視線を向けられるうちに伸びていた背は曲がり、顔を俯ける。脚はぴたりと閉じたまま、手を組み待った。何を待っているのかはわからない、エプスタインが口を開くのを待っているのか、彼が去るのを待っているのか、それともただ時間が過ぎるのを待っているのか。わからなかった、ただそれでも、伍堂は自身が押しつぶされそうな重圧に耐えながら、ただ待っていた。


「ふむ……」


 口を開いたのか、それとも息を漏らしただけなのか。向かいのソファから音かもしれないような声が聞こえると肩をびくりと震わせながら顔を上げる。それを見たエプスタインは慌てて口を押えて、短く息を、ぷすっと吐き出した。


 笑われたことが恥ずかしく、今すぐ穴を掘りたい衝動を、俯き、下唇を噛んで抑え込む。


「いや笑ってしまってすまないね、初めての人と会う時はどうしても緊張してしまってね。笑いのツボ、と言えばいいのかな。そのおかしいと思う感性がだね、どこか普段とは違うところへ行ってしまう。何という事の無い事で笑う様になってしまう、いや申し訳ない」


 謝罪をしてはいるものの、彼は頭を下げるでもなく、朗らかにアッハッハと声をあげて笑う。はぁ、なんていう気のない返事をしながら見るエプスタインの表情は、伍堂にはとても眩しくそして遠いものに見えた。


 レスポンスしなければと思いはするものの、なんと反応すればよいかてんで分からない。そういえば、声を発してコミュニケーションを取るのは久しぶりだった。まったく人づきあいがなかったわけではなかったが、全てインターネットを介したキーボードのタイプによるものだった。


 そんなことを思い出していると、エプスタインはおどけたように両手を広げ、緩く首をかしげながら伍堂の反応を待っている。口元はにこやか、大きく丸い瞳は度量の広さを感じられた。


「え、えぇ……そうですね。僕も、そういうところありますから、わかります……」


 意を決して発したものの気の利いたことは言えなかった。相手は両親ほどの年齢ではなさそうだが年上の人間だ、わかります、なんて言ったのは失礼だったかもしれない。


 言ったそばからそんな不安を覚えたものの、エプスタインの大きな笑い声がその不安を吹き飛ばした。


「うんうん、そうだ。そうだよね、あるよねそういうことは」


 大きく頷く彼の姿を見ると、緊張していた身体から力が抜けて肩が下がった。つい気を緩ませてしまい、ほっと溜息を吐いてしまう。慌てて謝ったところ、エプスタインは首を横に振りながら笑ってくれた。


「気にしなくていいとも。つい今しがた私は飛んでしまった感性のせいとはいえ君を笑ってしまったからね、これでおあいこというやつだ。それに肩の力を抜いてくれた方が私としては嬉しいのさ、ほらゴドー君、また肩に力が入っているぞ」


「あ、いえ。これはどうも……その、すみません」


 指を差して指摘され、また上がっていた肩を下げようとするのだが、またやってきた緊張のせいで上手くできない。そもそも意識的にやるようなものでないことは分かっているのだが、目上から指摘されてしまうとやらねばならないと思ってしまう。


「緊張しなくたっていいのだよ。というのもだ、この屋敷は私の屋敷であると同時に今日から君の家にもなる。この部屋は君の、自由にして良い部屋だ。いきなりくつろげ、というのが難しい話だというのは承知してはいる。けれど家というのはだね、落ち着いて休める場所だろうと私は思うのさ。異論はあるかな?」


 ローテーブルを乗り越えるのではないだろうか、という勢いで身体を近づけられ、大きな瞳で顔を見られると同意するしかなかった。


「そうだろう、そうだろうとも。私は君と色々話したいことがあるのだけれども、それは後にしよう。私ばかり話してしまうことになるだろうからね、そうなっては会話とは言えない。君からも色んな話、といっても難しいだろうから質問でもいい。そういったものはないかな?」


「いえ……特に、これといっては……ありません」


「ないことはないだろう。しかし私は無理に質問をさせようとは思わない、君と私は初めて会ったばかりだからね。聞きづらいことだってあるだろう、ただ一つだけ君が尋ねたいであろう問いの答えを私は持っている。それは私も君に早く知って、実感してほしい事柄だ。よって尋ねられてはいないが答えさせてもらおう、これは夢じゃあない」


「はぁ……そう、ですか」


「なんだい随分と気のない返事じゃないか。私はもっと驚くと予想していたのだけれどね、君の目からすれば私は夢の中の人物に見えていると思っていたからね。それとも……夢ではない、と既に気づいていたのかな?」


 今もまだ現実だと信じているわけではない。夢ではないような気はしているのだが、現実だとするなら荒唐無稽に過ぎる。なんともどちらつかずであり、はい、とも、いいえ、とも答えづらかった。


「すぐに答えないところを見るに、答えを出しあぐねているのかな。しかし言っておくよ、これは夢じゃなくて現実だ。ゴドー、君はね、異世界に召喚されたのだ。と、そうだった。君にこれを言っておかねばならなかったことがある、さぁて準備をしておくれ」


 無言で頷いて姿勢を正した。両手を広げているエプスタインの姿は楽しそうに見えた。


「ようこそ! フォールス王国へ、我々は君を歓迎する!」

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