第5話 源頼朝と相見える
「あ、兄上。アレじゃないですか?」
「どれだ?」
「ほら、あそこ」
そう言って、自分が指し示した小さな川の向こう岸に、未だ小さく見える人影に、長兄、
三百余騎を含む我々、千葉の軍勢が待ち続けたのは、同じ規模の兵を従え、従者とともに現れた1人の青年。
近づくにつれ、見えてくるのは、遠くからでも分かる程の彼の存在感。
だが、久方ぶりに見る彼、若、源頼朝公は、少しやつれたようにも思え、行き場のない憤りに、少しだけ自分の拳を握りしめる。
「すまない。待たせてしまったか」
そう告げた若の声は、以前と変わらず「いえ」と笑顔で答えれば「そうか」とぎこちない笑顔が返ってくる。
流人時代からの付き合いであるオレに、何を今更隠そうとしているのやら、と小さく溜め息をつくものの「
「いえ。貴方をお待たせすることになるよりもお待ちするほうが性に合います故」
にこり、と微笑んだ父上に、若は「そうか」と短く答える。
「お疲れではございませんか?」
短く問いかけた父上に、「問題ない」と答えた若に、父上は「胤頼」とオレの名前を呼ぶ。
「はい」
「頼朝公を、あちらに」
あちら、と父上が示すのは頼朝公のために用意した座で、「はい」と短く返事をしたオレは、「若、報告もありますし。少し休みましょ」と頼朝公に声をかける。
「お前は、変わらないな」
馬を降りた若が、懐かしむような表情をしながら口を開く。
「何をいまさら」
クツクツと笑いながら若を座へと案内すれば「それもそうか」と若が少し安心したような表情を浮かべる。
用意された座についた若は、振り返り見た景色に息を飲む。
それもそのはずだ。
父上が用意した千葉の軍勢は三百余騎にもなり、小さなこの村には収まりきらない人数が、父上の令により集まっている。
若についてきた兵も含めると、この一帯に、どれだけの人間が集まっているのだろうか。
「こんなに…」
「少々、減っておりますが、つい先日、下総国府と一戦を交えました故、今は警護にあたらせております」
「何、誠か」
「心配にはお呼びませんよ、頼朝殿。我が軍の戦力は、その程度ではビクともしません」
にこり、と笑いかけた父上に、若は「そうか」と小さく息をつく。
「胤頼」
「あ、義澄殿!安西殿!お久しぶりです」
ようやく父上と話し始めた若に、小さく息をつけば、聞き慣れた声に名を呼ばれ振り返れば、よく見知った顔が並んでいて、思わず名前を呼ぶ。
「下総国府を討ち取ったと聞いたぞ」
「あー、はい。けど、
「良いじゃないか。二人で討ち取ったんだろう?お前は武術よりも芸事の神に好かれているように思えるからな。少しだけ心配をしていたんだ」
グリグリ、と頭を撫でてくるのは、三浦義澄殿で、京都大番役を一緒に勤めた御仁で、歳は長兄よりも上で、父上よりも少し下だ。
先の衣笠城の合戦で、見事、勝利を収めるものの、彼はその戦で父上を亡くしている。
「義澄殿、お父上のこと、聞きました」
「そうか。だが、胤頼。気に病むことではないぞ。父上は若のため、我々のために、命をかけてくださった。それが、こうして、今日の日を迎えることで、父上の抱いた志の第一歩になる」
はは、と笑う彼に、もし自分が、戦いで父上を亡くしたら父上のために、笑っていられるだろうか、と報せを聞いた時、一瞬考えたものの、すぐにその考えは投げ捨てた。
大切なものはなくさぬよう、後悔をするくらいならば、常日頃から大切にしなさい、と小さな頃から何度も何度も長兄に言われている。
「若を主人として迎える日がきた。父上の死がオレに火をつけたと言っても、過言では無いさ」
グリグリ、と少し乱暴に撫でてくるその手に、義澄殿の揺るぎない決意を、垣間見た気がする。
「胤頼、少しいいか」
聞き慣れた声に振り向けば、父上の傍に控えていた長兄が、近づいてくる。
「これは、三浦殿、安西殿。久方ぶりです」
「おお、胤正殿、久方ぶりですな」
軽く会釈をした兄上に、義澄殿と安西殿も手をあげて答える。
「丁度良かった。お二人にも聞いていただきたく」
「何かありましたか?兄上」
首を傾げながら問いかけた自分に「何も起きていないよ」と長兄は笑顔で答える。
「我が軍には伝えてありますが、このあと、近くにある寺院に立ち寄ってから出立をしようと考えておりますが、いかがでしょうか」
「祈願ですね」
「ああ。それに、両軍の皆が息災であるように、とも願いをこめねば」
そう言って、集まった兵達を見やる長兄に、「ああ。違いないな」と義澄殿と安西殿も大きく頷く。
「頼朝殿」
父上の、低く、けれど通る声が、若の名を呼ぶ。
その声に自分はもちろんのこと、長兄も、義澄殿、安西殿までもが振り返れば、名を呼ばれた若が、真っ直ぐに父上を見ている。
「なんだ」
「戦において、遅れをとらないことは、勝利への一歩ともなるでしょう」
「そう、だな」
勝利、という言葉に、若の表情がほんの少しだけ歪む。
兵達からは距離があるため、読み取ることはできないが、若達に近い自分たちが気がつくには十分過ぎる距離で、義澄殿は「若…」と小さく声を零す。
あの様子では、先の敗戦の傷は、まだ癒えてはいないのだろう。
北条方の政子様への文も十分には出来ていないと盛長殿も言っていた。
冷徹に、冷酷に判断を下すこともあるが、若の心根は優しい。
父上を亡くした彼の心の傷を癒やすには時間も、温もりも足りてはいないだろう。
けれど、そうそう簡単に人の心を癒やす術など、自分には持ち合わせておらず、遣る瀬無い気持ちにただ手をぐっと握りしめる。
「頼朝殿」
そんな若を見て、父上は、もう一度、彼の名を呼ぶ。
その声は先程と変わらない。
けれど、父上の表情は、まるで、自分たちを見る時のように柔らかなもので、その表情を見た若が、ほんの少しだけ、小さく口を動かした、ように見えた。
「此度の戦、まずは、一人でも多く貴方が心から信頼できる者たちを、集めることから、始めようではありませんか」
「千葉殿…」
「我が祖は、遠い昔、恩に報いるために清和源氏の嫡宗が声をあげ、立ち上がるのならば、ただちに参陣し従うと
父上の問いかけに、「いや…そうか?」と若が小さく首を傾げる。
「ええ。そうでなければ、今日のこの日、このように人が集まるとは、思えませんぞ?」
ふふ、と穏やかに笑いながら言う父上に、若は「言い過ぎだろう」とほんの少し照れたような表情を浮かべる。
「千葉殿…いや、
きり、とした表情へ切り替えた若に、父上は、満足そうな表情をしながら、「何でございましょう?」と変わらず穏やかに答える。
「此度の戦い、共に戦ってくれるか。俺は、まだ、やらねばならぬことがある」
真っ直ぐに前を向いた若の瞳には、もう迷いは見当たらない。
「喜んで、お供致します。ですが、頼朝殿」
にっこり、と笑った父上に、若は小さく首を傾げる。
「なんだ?」
「私は、此度だけではなく、この先も貴方と共にあるつもりですぞ」
「誠か」
「ええ。貴方はきっと、近い将来に、この国を収める。私はその助けとなりたい。そう考えております。それはきっと、私だけではなく、胤頼も、胤正も、同じでしょう」
そう言った父上が、オレと長兄を見て、微笑えむ。
「…父上だけの、手柄にすればいいのに」
その視線を受け、小さく呟いたオレに、「父上は、そういう人だろう?」と長兄が笑う。
「胤頼、胤正」
「は」
「はい」
若に名を呼ばれ、近づいたオレ達に「顔をあげてくれ」と若の苦笑いが混じった声が聞こえる。
「これから先、常胤殿を、俺の傍に置く。お前たち二人もだ」
「承知、致しました」
長兄の瞳が、ほんの少しだけ潤んだように見える。
ちらり、と義澄殿達を見やれば、彼らも嬉しそうな表情を浮かべており、父上は、真っ直ぐにオレ達と若を見つめている。
今日のこの日を忘れまいと、記憶に焼き付けているのだろう、と父上の姿を見ながら、オレもまた、父上と同じように、記憶に焼き付けようと、じっと、若や父上を見つめた。
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