第4話 母の心情
その夜は、もうあたりも暗いこともあり、盛長は私達の屋敷に泊まった。
遅くまで酒を酌み交わしたあと、盛長は朝早くに邸を立ち、頼朝公が待つ場所へとその足で向かった。
「さて、これから忙しくなるな」
「あら、貴方が忙しいのはいつものことでしょう?」
「母上、楽しそうですね…?」
盛長の出立を見送ったと父の自室に知らせに行けば、母が父に茶を淹れているところで、「入ってきなさいな」と母の柔らかい声に導かれ父の自室へ足を踏み入れる。
母の淹れた茶を美味そうに飲み父が放った一言に、何やら母上は楽しそうな表情を浮かべているように思え問いかければ、「あら、そんな風に見えるかしら?」と母は小さく笑う。
「また手間をかける」
そう短く言った父に、母は「いいえ」と静かに微笑んで、空になった父の湯呑みに、茶を注ぐ。
「
「はい、何でしょう、母上」
「貴方も、飲んで行きなさいな」
「え…?」
コトリ、と置かれた湯呑みと、母の顔を交互に見れば、母はただニコリと優しく微笑むだけで、何も言わない。
けれど、その表情は、先程、自分が楽しそうだと思った笑顔と変わりはないように見えたのだが、母の指先が、ほんの少しだけ震えていることに気がつく。
バッ、と母の顔を見れば、やはり笑顔であることには変わりはなくて。けれど、楽しそうに見える、見せているだけなのだと気付いた時、「胤正」と母が自分の名前を呼ぶ。
「貴方の器、茶柱が、立っているわねぇ」
「え…あ、そう、ですね」
母の言葉通り、湯呑みの中には、茶柱が1本、ぷかりと浮いている。
「貴方にも、良いことがあるわ」
「母上」
「それだけで、良いのよ」
にこり、と微笑んだ母の笑顔が、これ以上、なにも言うなと言っているように思え、思わず口を噤む。
「美味い」と父の小さな声だけが、室内に響いた。
「父上」
「
「今、宜しいですか?」
「構わんよ。入ってきなさい」
「はい」
ひょこ、と顔を覗かせる我が子を見た父の顔が少し柔らかい表情へと変わる。
「あ、兄上もいらしたのですか」
「ああ、だが、私は席を外そう」
そう言って腰を浮かせた私に、「兄上にも聞いて欲しいんですけど…」と胤頼の声がかかり、チラ、と父を見やれば「だそうだ」と父上が小さく微笑む。
「居ても構わないのか?」
「ええ。むしろ兄上にも意見を聞きたくて」
「そうか。では、そうしようか」
すとん、と元いた場所へと座り直せば、胤頼がするりと腰を下ろす。
「此度の挙兵のことか?」
父上の問いかけに、「はい」と胤頼が力強く頷く。
「さきほど、盛長から聞いたのですが、まだ、
「そうか…広常は判断に慎重な人間でもあるしなぁ…」
ふむ、と小さく頷いた父上に、胤頼は「父上」と不安そうな表情を浮かべながら父に声をかける。
「広常叔父は賛同しないのでしょうか…。我々は広常叔父の家来では無いですし、必ずしも広常叔父と意見を合わせなければいけないわけでも無い。けれど、広常叔父が賛同してくだされば、兵力の拡大が見込めます」
「叔父上には、和田殿が向かっているのだろう?」
胤頼の言葉にそう問いかけた私に、「はい」と弟は短く答え頷く。
「なぁ、胤頼」
「…何でしょう、父上」
「広常も、何か考えがあるのやも知れん」
「……はい」
「広常がいつまでも迷わぬように、こちらが道を切り開けば良い話だろう。今は、一日でも早く頼朝殿の元に馳せ参じることを第一に考えようではないか」
そう言った父上の言葉に、胤頼はまだほんの少し吹っ切れないような様子で小さく頷く。
「お前の心配性なところは胤正にそっくりだなぁ。
ふふと笑いながら言う父上に、末弟と同じ年の自分の息子を思い出すものの、父上の言う通り、息子 成胤はどうも突っ走ってしまう傾向がある。それは確かなことで、この先、人生経験を積めば、多少なりと収まるものだと思っている。けれど、その前に一点修正したい箇所がある。
「父上、私は自分がそんなに心配性だとは思っていないのですが…」
「え、兄上は心配性だと思いますけど…」
「胤頼まで言うか」
「えー、だって」
反論した私に、末弟が驚いたような表情と言葉に、溜め息をつけば、父上はまた、ふふ、と小さく笑う。
「兄と話して元気が出たようだな、胤頼」
「ち、父上っ」
柔らかな表情をしながら言った父上に、胤頼はほんの少しだけ頬を赤くしながら焦った声を出し、そんな末弟の様子に嬉しくなり、つい頬が緩めば「兄上まで…」と胤頼がまた少し頬を赤くしながら、はぁ、と小さく息をつく。
「胤頼」
ふいに、父上が少し堅い声で、胤頼の名を呼ぶ。
「広常が遅参するようであれば怒鳴りつければ良いこと。まずは、自分が今できる精一杯のことをしておきなさい」
「…っはい!」
父上の言葉に「準備してきますっ!」とバッと立ち上がった胤頼に、父上は目尻を下げながら柔らかく微笑む。
ダッ、と駆けて部屋を出ていった、と思えば、直後、タタタッと戻ってくる足音が聞こえ、何かあったのだろうか、と廊下を見やれば、入ってきた時と同様に、ひょこ、と顔を覗かせた末弟と目が合う。
「兄上、聞いてくれてありがとうございました!父上も!」
それだけを言い、また駆けていった足音に、ぱちり、と瞬きを繰り返せば、父上はただ、ふふ、と小さく、楽しそうに笑っていた。
治承4年(1180年)9月17日
この日に、頼朝公との面会を決めた私達は、盛長との話し合いのあと、バタバタと準備に追われ、気がつけば出立の日が間近に迫っていた。
「父上!兄上!」
細かな話し合いをしていた私と父上の姿を見つけ、私達を呼んだのは、末弟の
「どうした?」
手を止めて、胤頼に向き合った父に、胤頼が「一つ、お話があります」と切り出した胤頼の声色に、父上の表情が変わる。
「言ってみなさい」
「はい。今、我が国の兵は、平家に従う者が多い。わたし達、千葉が今、こうして一族で国境を出て、若のところへ行けば、あちら側に攻め入る機会を無駄に与えるだけです」
「違いないな」
「ええ。ですので、若が伊豆国目代であった山木兼隆を討ったように、わたし達も下総国府を討ち取ってから、若の元へ向かいたいのですが」
胤頼の言うこと、それはつまり、今ある「下総権介」という地位を捨てて、源氏再興に全てを賭けることを意味している。
「そうだな。では…
「はいっ」
盛長が来たあの日に、その決意をしているであろう父上の判断は、とても早く、胤頼の提案を迷うことなく受け入れ、近くにいた私の息子、父上からすれば嫡孫の成胤の名を呼ぶ。
「総大将は成胤、後見人を胤頼に命ずる。お前たち、従者を連れてすぐに向かいなさい」
「…はいっ!」
常日頃から、父上に尊敬の念を持つ息子、成胤は、嬉しそうな表情を浮かべ、胤頼もまた、そんな成胤の意を汲んでかほんの少しだけ嬉しそうな表情を浮かべるものの、すぐにキリ、と引き締めた表情へと切り替える。
「直ぐに父上のところへ合流致します。行って参ります」
「ああ。任せたぞ、二人とも」
「はいっ!」
父上の言葉に、精一杯の声で答えたのは、成胤で、胤頼は、静かに頷き、部屋を出ていく。
「宜しいのですか?あの二人で」
「構わん。成胤の武術と、胤頼の戦略。合わされば勝てぬ戦では無いだろう」
静かにそう言った父上の瞳は揺るぎの無いもので、父上が信じるのであれば、私は従うまでだと、一人静かに息子と末弟の勝利を願った。
その後、下総国府の目代館へ向かった胤頼と成胤の兵数十名は、目代の兵の多さに苦戦をするものの、作戦を練り直し、北風を強さを利用した成胤が、館に火を放つ。目代館内が混乱した隙を利用し、胤頼が兵を率いて、目代を討ち取った。
目代を討ち取られた事を知った千田庄領家判官代、平清盛の姉婿である藤原
報せを受けた父上の軍勢が到着し、押されかけていた千葉の戦況は一変し、見事、勝利を収め、親政を生け捕りにしたのであった。
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