第2話 父の盃に浮かぶもの
「父上は、若、頼朝公の元へ参陣した日のことを、覚えておいでですか?」
盃についだ酒の水面を見つめながら父へと問いかける。
私の問いかけに、父上は、「ああ」と小さく答える。
「忘れるものか。時は治承4(1180)年の、夏のことだったな」
そうはっきりと答えた父上に、一口だけ酒に口をつけたあと、「ええ」と短く答え、言葉を続ける。
「………あの時から、父上は、若のお心まで支え続けていたのですね」
盃に沈んでいた視線と思考を、父上へ向ければ、父上は目元を緩めながら、庭先を見やる。
そして、そこに居る彼の背を見て、父上は、盃の酒を、口へ運ぶ。
「はて、どうだろうか。私は、若が進む道の手助けをしているだけに過ぎないと思うが」
父、千葉
この時の若はまだ元服も迎えぬ13の歳だった。
流刑の地、伊豆国で、若は安定した青年期を過ごすものの、治承4(1180)年、若の運命は動き出す。
後白河法皇の皇子である
この時、若の叔父上、源
だが、この令旨を受け、平氏が諸国の源氏追討を企ていることが、若の耳にも入る。
己自身の身の危険を感じた若は、諸国の源氏同様、己の身を守るため平氏討伐の挙兵を決意。
この頃、すでに若の側近として傍に居た安達盛長を使者とし、父、義朝の時代から縁のある坂東の豪族達にも、協力を呼びかける。
その後、伊豆を制圧した若は相模国土肥郷へ向かい、途中、三浦軍と合流をする計画であったが、三浦軍が大雨による河川の増水により渡河ができず、三浦軍の合流が無いまま、治承4(1180)年8月、若は、平家に加担した大庭景観らが率いる三千余騎の平氏軍と、相模国足柄郡の石橋山で相対することとなる。
この時の、若の軍勢は三百騎と少なく、三千余騎の軍を相手に、若の軍は敗北。生き残った僅かな従者、
そして、その年の暑い夏の日。
若、源頼朝公の運命とともに、我が千葉一族の運命もまた、静かにけれど、確実に動き始めた。
「では、若は、無事に安房へはたどり着いたのですね」
「ええ」
「若はご無事で?」
「かすり傷程度ですので心配には及びません。ですが、戦力をかなり失い…」
「そう…ですか…
「…大、丈夫です…」
顔を真っ青にしている客人に、到底、大丈夫そうには見えないが…と心底思うものの、時間は待ってはくれない。
早急の要件だということは、ここにいる誰よりも、彼が一番分かっている。
コクン、と頷いた彼を見て、城の主が居る戸の傍に膝をつく。
「……父上」
「入ってきなさい」
城の主によく似た少し若い声の持ち主が、入室を促す。
「よく参られた、盛長どの」
既に座につき、先に渡していた書状を開かぬままに、そう告げたこの城の主、下総国千葉庄の千葉介
先程、城を訪れた際に、手短に要件は伝えている。
もう数えるほどの者しか残っておらず、主を守るためならば、千葉常胤公から色良い返事を貰うまで、何度でも諦めずに、盛長はこの城に通うつもりでいたが、主の言葉で書かれた書状が、あの手によって開かれる気配が一向に見えぬ事に、段々と内心に焦りを感じ始める。
「藤九郎盛長殿、でしたな」
「はっ」
低く、重みのある声に名を呼ばれ、短く答えた盛長に、「まずは、顔をおあげなさい」と常胤は告げる。
「…しかしっ」
驚き焦ったように答えた盛長に、常胤は「盛長殿」ともう一度、盛長の名を呼ぶ。
「大切な話しなのであれば、貴方の顔も、判断要素の一つになりますぞ」
諌めるような言い方では無く、諭すような話し方に、盛長は恐る恐る顔をあげる。
話しには聞いてはいたが、ところどころに交じる白髪や髭が千葉常胤公の精悍な顔つきをより強調しているようにも思え、がっしりとした体躯は、彼が未だ、戦場を駆けていることを物語っている。
主、源頼朝公の若々しい華やかな雰囲気とは違い、千葉常胤公は、簡単には割れぬ一枚岩のようにどっしりと構えた雰囲気を纏っており、それが彼の外見とも相まって、とても重々しく近寄りがたさすら感じた盛長は、思わず小さく息をのむ。
「そうか」
顔をあげた盛長を見て、
その言葉に、希望が薄れたように感じた盛長は、衝撃を受けたような表情を浮かべる。
千葉常胤の傍らに控え、盛長と城の主とのやり取りを静かに見守っていた千葉常胤が長男、千葉
「父上、話だけでも聞かれてはいかがでしょうか」
先程と同様、この城の主、父、千葉常胤によく似た少し若い声を持つ胤正の言葉に、盛長は、少しの希望を見出したのか、ほんの少しだけ表情い明るさが戻る。
「そうですよ父上!せめて話だけでも……!」
胤正の声に続き、願いを乞うように声をあげたのは、胤正同様に常胤の傍に控えていた千葉常胤が六男の千葉
盛長とともに室内に入ったあと、父、常胤と兄、胤正の近くへ控えていた胤頼は、盛長よりも、より近い場所から、父へ懇願をするような視線を送る。
そんな二人の息子の視線を無下には出来ず、チラ、と胤正、胤頼へと常胤は視線を投げる。
じい、と自分を見つめる我が子の視線に、父は小さく一息をつく。
「お前たち、そのような目で父を見るのは止めなさい」
「ですが、父上…!」
「何も聞かない、とは言ってはいないだろうに」
「では……!」
ぱああッとわかりやすく表情を明るくした六男、胤頼を見て、常胤は小さく息をつく。
「話の大筋は理解した。だが、まずは……胤正、胤頼」
「はい」
父、常胤の、自分たちの名を静かに呼ぶ声に、息子二人は自然と背筋が伸びる。
父の問いかけにまず先に答えたのは、胤正であったが、兄よりも早く、父の意を汲んだ胤頼の瞳の色が変わる。
「皆を、長たちを呼んで来なさい」
「……はい!」
ダッ、と立ち上がり勢いよく駆け出した胤頼を見た常胤は、咎めることなく、手元の書状へ、そして、来訪者、盛長へと視線を動かす。
「盛長どの」
「はい」
「詳細を伺うのは、それからでも構わないですかな?」
「………聞いていただけるのであれば幾らでもお待ちします……!」
まるで床に埋もれてしまったかのように、額を擦り付けながら言う盛長に、「顔をおあげなさい」と父は穏やかに声をかけ、胤頼の戻りを、ただ、ただ静かに待ち続けた。
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