後編
サラはそれから目に見えて落ち込むようになった。ただぼんやりと壁の一点だけを眺めることが増えた。
皮肉なことに、私の手首には骨が段々戻る時間が長くなるようだった。
「ねぇ…マチルダ」
サラは焦点の合わない瞳で私を見つめた。
「私、もうこんな所にいたくない。薬を飲まされて胃は痛くなるし、熱い風呂の後は冷水、それに…男女のセックステープまで見せられてきたわ」
私は見たこともないマチルダを思い浮かべようとする。
かつてサラが私の手首の骨をちゃんと見つけてくれたように、私も彼女にとっての骨を見つけてあげなければならないと思った。
そうしないと、大変なことになるような気がした。
「大丈夫よ、あなたはまともだもの。すぐに退院できるわ」
サラはあまり信じていなさそうに、頷いた。
そしてたった一言、低い声で呟く。
「ねぇ、まともって何かしら」
それから間も無く、サラは自殺未遂をした。
先生はサラを隔離して、本当に彼女を病人にしてしまった。思いがけずサラの顔を見ることができたのは、彼女が私を呼んだからだった。
「サラ、マチルダが哀しむわ…」
私はパサついたサラの髪を撫でた。頰が枯れた大地のように広がって、頬骨が目立っていた。
「…マチルダはね、もっと遠い病院に行くんだって。私たち、本当に二度と会えないかもしれないわ……」
サラはそこで泣き出した。
先生が狙い澄ましたように扉を開けて、注射を打った。
私を押しのけて振り返る。
「サラは安静だ、もう戻りなさい」
「待って、先生。マーサと話していた方が落ち着くんです…もう少しだけ」
私は先生を見上げた。
その背後に巨大な社会が見えてくる。
倫理や規範というものはまるで雄牛のようだ。大きな足で闊歩して、私やサラを踏み潰そうとしている。
「少しだけだよ」
尊大に言い放って、社会は出て行った。
「ねぇ、何かがおかしいわ。サラ、早くここから逃げないと、本当におかしくなってしまうわ」
「私ね、考えてみたの…」
「なにを?」
サラは私から顔を逸らして、窓の外を眺めた。
「私たちをまともじゃないって言うものから逃げるには、もう死ぬしかないんじゃないかって」
「そんなの、おかしいわ」
「…そうかしら、私にはそれが一番正しいように思えてくるわ」
サラは力のない瞳で笑った。生きる気力というものを残酷に削いでいった医学はサラがこんな風になるなんて、知っていたのだろうか。
「大丈夫、一人じゃないわ。私の手首には骨がないのよ。もう多分、ずっと死ぬまでないわ。だから、私も死ぬまでここにいるしかなくなる。ずっとサラの側にいるわ…マチルダの代わりにはなれないけれど」
サラはまた泣き出した。先生が扉のすぐ向こうにいるかもしれないと思った。
サラは湖のように涙を流して泣き続けた。
「あなたって、優しいわ」
サラが唇を震わせて言った。
「マーサ、握手しましょう」
私は素直に手を差し伸べた。
「大丈夫、ちゃんと骨があるわ。あなたは多分、もう少しで退院できるわ。おめでとう」
そう言ってサラは向こうを向いたきり、何も話そうとはしなかった。
そのすぐ後に先生が入ってきて、私は今度こそ追い出された。
現実が私を嗤う。
手首には骨がある。世の中には正常なものと、異常なものがある。
精神病院の中では、異常であることが普通で、正常になることが普通じゃない。
だから、追い出される。
私たちの存在はこんなにも単純だと、現実が嗤いに来る。
サラとは会えないまま、私は骨の戻った手首を抱えて、病院を後にした。
サラがどうなったのか、手紙を病院に出すことすら家族からは禁じられて何もできなかった。
サラはまともだったのに、まともではなくなってしまったのだ。
私たちの存在はこんなにも単純だったと、何かが嗤う。
秋が終わるころ、駅の人ごみの群れの中にあの痛んだ髪を見つけた。
無数の人並みの中で、干し草のようにそれは揺れていた。あれから10年ほど経っていたのに私はそれがサラのものだと確信した。
人ごみをかき分けて進む。思い切り彼女の薄い肩を掴むと、驚いて振り返られる。
「マーサ…」
掠れた声でサラは呟いた。彼女は喪服を着ていた。そして、泣いた後のようだった。あの頃よりもさらに小さく、彼女は幼い少女のようになっていた。
「サラ、生きてたのね」
私は何かが救われたように感じる。
でもそれは大きな間違いだった。
「…生きてないわ」
サラはあの時のように、弱々しく微笑んだ。
「マチルダが死んだ時、私も死んだのよ。だから、今話してるのは抜け殻なの」
私は何が彼女たちを追い込んだのだろうと思った。
不実なセックスなら、私の方が沢山している。なんの生産性も安らぎもない行いを病というなら、それは私の方にこそ投げつけられるべきものだった。
「そうだったの…」
私はまだ見たこともないマチルダと、目の前のサラのために泣いた。
二人の不幸を思って泣いた。
「マーサは相変わらず優しいのね」
「そんなことないわ」
サラは力のない瞳で私を見た。
そして、彼女の教えを確かめるように唇を動かした。
「正しき者の唇は、叡智を陳べ…其の舌は 正義を物語る……幸いなるかな 試練に耐え得る者よ。マーサ、さようなら」
「サラ…」
私の呼びかけにサラは応えることはなかった。
彼女は吸い付けられるように、滑って来る列車の懐に飛び込んだ。
そして、一瞬だけ私の方を見て笑った。
私は目を逸らさず、大きな車輪が社会が間違いなく愛し合った二人を轢き殺す様を見つめた。
無数の人間が膨らんでホームに溢れ出す前に、私は駅を後にした。
「主よ 聖なる炎よ、憐れみ給え」
ここでは畏れを知らない戦士のように振る舞うしかない。その手で全てを終わらせたくなる瞬間がある。
それは決して悪いことには思えなかった。
雑踏の隙間から、サラの若い声が聞こえて来るような気がする。
オイディプスも、アガメムノーンもメデイアだって、異性愛から生まれる悲劇よ。…でもそれはまともなんだわ。私たちは殺しも、憎みも、狂いもしないのに、病気なのよ。
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