人生は二回だけ 第二話


 建物の奥へと続く地下通路は、まるで処刑場に引かれていく囚人が、看守や衛兵に付き添われて、脅えながら、泣きながら、人の世の末路に歩いていく通り道のような、飾り気をまるで必要としない、寂しげな一本道になっていた。ここは死後の世界の最終地点であり、どこへ抜けることもない行き止まりなのだ、という内臓が凍りつくような事実を、再び思い出させてくれるわけだ。こんな冷酷な道をいくら歩かされても、たった一つの優しさも希望も見い出すことは出来なかった。『この先で何を語れば、この場をうまく切り抜けられるだろう?』などと自分に都合よく考えることさえ難しい。奥の暗がりへと、さらに目を凝らすと、何の飾り気もない重々しい焦げ茶色の鉄扉が徐々に見えてきた。どうやら、先導している薄気味の悪い女性との対談は、あの特殊な部屋の内部で行われるようだ。返答に窮することがあれば、どんな処分を受けるか知れなかった。現世での恐ろしさが生々しく蘇ってくる気がした。


 しかし、その大扉のすぐ手前に、外見上は人の姿をした、素性の知れぬ生物が、身体を不自然によじり、顔を天井に向けて、見るも哀れな姿で、冷たい床の上に横たわっているのが見えた。我々の靴音が、すぐ傍らまで近づいても、その人型の魂はぴくりとも動かなかった。私の動きに対して反応もしないし、触れられるところまで寄っても、ピクリとも動かないのだ。その様子からは、まるで彫像のようでもあり、そもそも、生気を感じることの出来ない外観だけの物体であった。すでに生命体としての活動自体が完全に停止してしまい、意識も消え失せたために、旅の途中で静かにその足を止めた魂とでも表現した方が良いのだろうか。この館を統べる女性は、そんなガラクタには、まるで気を止めないとでもいうように視線すら寄こさずに踏み越えていった。その死んだ魂の節々を確認してみると、私としては、たった一人でここに放置された魂を、このまま無視して通過することは、かつて、人として長年生きていた熱い感情がこれを許さないのだった。自分のこれからの行き先でさえも、まったく予期できぬ状況にあるというのに、どこの星の生命体とも知れぬ、生気を失った魂の苦境に対して、同情してしまうとは、私はおかしくなったのだろうか?


 それがいったい、何者なのかを見定めるべく、遺体の真横に立った。見た目には、地球人と思われる魂だった。もちろん、地球人と極めてよく似た、他の惑星の生命体から運ばれてきた魂である可能性も捨てきれない。だが、私はこの魂の弱弱しい姿を最初に一目見たときに、『ああ、彼はきっと自分と同じ星を生きていたのだ』と無意識のうちに感銘を受けたものだった。私とほぼ同じように、肉体の無き半透明の姿ではあるが、すでに意識は失っていた。いったい何が原因で、不老不死のはずの魂がその動きを停止したのだろうか。身体は不自然によじれて、ぐったりとレンガ風の壁にもたれ掛かっていた。その恰好は薄い草色の作業着をまとっていて、身体が資本の労働者階級によく見られる、そのたくましい顔には、二十世紀前半頃のイギリス人労働者のような、政治にうるさく、しかも、泥臭いようなところがあった。彼はきっと至極真面目な人生を歩んできたに違いない。少なくとも、他人からしつこく詮索されるような人生ではなかったはずだ。この立派な男性が、こんな無為な世界に連れて来られ、囚われることになってしまったことには、何らかの重要な理由があるように思えた。私はしばらくの間、じっと彼の遺体を眺めていた。そこには明確な答えなどなく、静寂だけが付きまとっていた……。それから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。いや、この世界に時間の流れなどなかったはずだ。どれだけ思考を働かせようとしても、何も判明しなかった。結局のところ、悠久の時を得たとしても、その労働者の魂は身動き一つすることはなく、周囲の状況を感知して、それに対応する機能さえも、もう当の昔に失われていたという結論を出すしかなかった。彼の顔は大変な苦境に追い込まれて、暗闇の底の底まで追い詰められた、究極の苦悩のためか、相当にやつれて、歪み切ってしまっていた。一般的な世界であれば、遺体を長期間にわたって放置しても腐らないことを前提とするならば、魂が抜けた後の遺体が遺族から見捨てられ、街中の歩道の上にでも放置される可能性は多分にある。だが、ここは知能を持つ生命体が闊歩する箱庭ではない。再生か完全な消滅かの冷酷な二択によって支配されている。どちらが有益になるかもわからない。もし、ここに捨てられている彼が、この中間の世界において、すでに審問を終えた後なのであれば、魂はこの空間のルールに則って、次の人生を創り上げていくための移住先を自動的に探し始めるはずである。そして、(私もひとつの魂である以上、全ては想像になるが)濃紺に染まる、無窮の星空に向けて、新たな平穏を求める旅立ちに出るはずである。ここで単なる遺体となって放置されているのは、何らかのエラーではないかと考えられた。眼前の遺体は何らかの突発的な要因により、この空間のルールに従うことが出来ずに、ここに存在しているように思えた。彼の顔の前で手を振ってみても、当然のことながら、反応はしてはくれない。彼にも理解できる言葉を使って、小声で話しかけてみても、一言も返事をしてはくれないのだった。こんな有様では、どのくらいの長きにわたり、ここに倒れているのかさえも判断が出来ない。彼はその頭部に薄汚い作業用帽子を被っているのだが、右方の壁のレンガが欠けた部分に、ずっと寄り掛かっていたために、その帽子の一部が壁の内部にめり込んでしまっているのだった。膨大な時間の流れは、すでに不可能を現実に変え始めている。魂の残骸となったその身体は、この無慈悲な館の一部として、いずれは取り込まれていくかのように思えた。


「彼はいったいどうしたんですか?」


 私は少し慌てて背後から女性に声をかけてみた。先ほど、私の他には魂は来ていないと聞いていたので、ここで新たな人型の魂に出会ってしまったことは大きな驚きだった。彼の振る舞いに何らかの落ち度があったのだとすれば、これからの私の未来をある程度は予期するものになるからだ。気楽な態度で審問さえ終えてしまえば、易々と次の世界に進めると思っていただけにこれは衝撃であった。


「ああ、気になさらないで下さい。それは以前ここを訪れた魂の残骸なのです」

女性は倒れている労働者を見ても、冷静な口調のままで思い出したようにそう言った。この通路を行き慣れている彼女にとっては見慣れた風景のようだった。


「彼もあなたと同じようにここを訪れた魂の一つだったのです。そうですね、あれは地球の時間でいえば三万年ほども前のことだったかしら。それとも十万年ほどかしら。とにかく、彼も今日のあなたのように、慣れない感覚に脅えながら、確かにここへ来ていました。それだって、私の感覚ではつい最近のことのように感じられるんですけど、気がつけば、もうそんなに時間が流れていたんですね」


「彼はいったいどうしたんですか? ここで何があったんですか? まるで役目を終えて枯れた花のようにすっかり萎れているではないですか。どうしてこんなことになってしまったのですか?」

私はアイルランド人の魂の残骸を指さしてそう尋ねた。


「私にもなぜこのようなことが起きたのか、詳しくはわかりませんが、その日、その人は多くの魂の中から、主によって選ばれてこの世界に呼ばれまして、私の役目で、この奥の部屋にお連れしまして、すっかり話を伺いました。それが終わりますと、そのまま次の人生に向かうために部屋を出られたのですが、いえ、話している最中は何も変わったところはありませんで、言葉は悪いですが、その身振りも口調も話す内容も、どこにでもいそうな凡庸な地球人といった感じでして、それは、大して興味深い特徴を持たないという意味ですが、そこで何かを思い出したようでして、不意に足を止められまして、おそらく前の人生で起きた悲しい事件のことなのでしょうが、うつむいてしばらく考え込んでおられましたが、結局、それを自分の気持ちの中でうまく消化することが出来ずに、魂がここで活動を停止してしまったのです」


「この世界でも、そんなことが起こりうるんですか? 魂は何者にも妨害を受けない、絶対に変化することのない、神聖な状態ではないんですか?」

私は驚いてそう尋ねた。


「理屈ではそうなのですが、ここを訪れる魂ももちろん、長い時間が経過する中で、無数におりまして、人間としての一生を終えるも、ここへ呼ばれるも、すべては主の判断によって決められるのですが、その無数の魂がすべて順調に次の世界へと導かれるかと聞かれますと、なかなかそれは難しいようでして、言うまでもなく、魂には思いつく限り無限の可能性がありますからね。何しろ、この世界では次の人間へと生まれ変わる過程の状態で活動しますからね。それは生まれたての赤子のように、加工する前の粘土のように繊細な部分があるようでして、中には、主の想像をも越えるような行動をとられる魂もございます。もちろん、主はすべての魂の来世への移動を完全に保証しているわけではありませんし、そのような想像だにしない手違いが起こることも、主の壮大な考えの範疇の一つのようですが、それにしましても、魂がここで突然活動を停止してしまったという今回の出来事は、主にとっても珍しい事態のようでして、私の記憶にも、魂が通過点であるこの世界を無事に出られなかった案件というのは、後にも先にもこの一件しか無いように思われるのですが、この魂がこうなりました直後に、すぐに主に報告致しまして、命令を仰ぎましたところ、もう私にも手の施しようがない、致し方ないので、そのままの姿で魂を保存しておいてくれと言うことでしたので、その通りにしてあります」


 私はそれを聞いてすっかり同情してしまい、もう一度労働者の方へ視線を向けた。

「それにしても、これは悲しい事件です。次の世界へ移動出来なかったということは、この魂にしてみれば、人生を一個損してしまったということではないですか。なぜ、そんなことが起きたのでしょう。あなたはこの世界の管理者でしょう? いわば、この世界で起きたすべてのことに責任を持たねばならない立場です。何か、思い当たることはないのですか?」

 私は労働者の遺体をそのままにしておけないので、何とかしたいと思い、女性にそう尋ねてみた。


「何度も申しますが、魂というのは無数に存在いたしまして、そのすべてが主の実験と申しますか、さらに良い魂を創造していくための過程の創作物ですから、ここで一つの魂が活動を停止されたとしても、主の偉大なる他の仕事についてはさして支障はありませんし、まあ、こういう言い方はないかもしれませんが、こういう状態に陥ったことで、この魂は忘れ難い失敗作として、主の記憶に残られたでしょうし、試行中の作品として、何の足跡も残さずに毎日のように消されていく、他の膨大な量の魂に比べれば、光栄なことだと思います。主はこの魂のような事例が他に発生しないために、今現在も対策を考えられていることでしょうし、それはことによると、地球のような惑星に住む人間世界に深い影響を及ぼすような改革へと繋がるかもしれません。この倒れられた魂は、これからも無限に創造されていく未来の魂たちの先駆けとなったということで、何も悲しむ必要はないばかりか、この魂の側から考えれば、これは非常に光栄で、喜ばしい結果と言えるかもしれません。もちろん、一介の魂である私にとりましては、この結果は喜びでも悲しみでもありませんのでね。新たな生を受けるもここで朽ちるも、どちらにしても、魂活動の一つの結果としてそれを見守っていくだけでして、記憶を遡ってまで、あなたに彼との会話の詳細まで申し上げる必要がありますかどうか……」


「どういう偶然かわかりませんか、彼はどうやら地球人のようなのです。あなたは先ほど、生命のある星は無数にあると言われましたが、地球人としての人生を終えてここへ来て、同じ地球人と出会える可能性がどれほど低いかお分かりでしょうか? この運命的な出会いは、私にこの哀れな人の一生のことも学んでいけと誰かが言ってくれているのかもしれません」


「この世界まで来られてしまった以上は、あなたの意志を感じ取ることが出来る存在は、もはや私と主の二人しかいないわけです。私はもちろん、主にとりましても、すでに死んだ身の上のあなたが、ここで何かを学ばれることが、偉大なる創造主によって行われる、新世界の創造にあたって何らかの意味を為すことは決してないと思います。あなたは死後の世界を通過中の魂の一つに過ぎませんし、例えるなら、あなたが地球という箱庭で生きる中で、ふとした気まぐれによって歩み寄った街を行き過ぎていく、自分とは無関係の通行人たちの心を、決して知ろうとはしなかったように、あなたとこの倒れた魂との出会いは、私や主にとりまして全く興味のない問題です。しかし、あなたは主の呼び出されたお客でもあります。この失われた魂のことを知りたいとおっしゃるのでしたら、少し話して差し上げても構いません」


 そう言ってから、女性の身体は動きを止めた。そう、数分もの間、瞬き一つしなくなってしまった。呼吸をしているようにも見えなかった。この静寂は、過去の記憶の中から何かを探しているようだった。なるほど、この目の前の女性の姿をした魂が、地球人の姿を借りているというのはどうやら本当で、彼女は明らかに人間とは違った生命体で、この不自然な行動から推察すれば、人間の身体を演じるということにまったく慣れていないようだった。


「お待たせしました。失礼しましたね、何しろ、三万年以上昔のことですので、情報を探すのにも少し時間がかかってしまいました」

「私を待たせたことなら、別に構いませんよ。それで、彼は何者です?」


「そうでしたね。彼はあなたのご指摘の通り、地球人として生きておられた方で、イギリスという国で鉄鋼を加工するための工場を営まれていたようです。ぶ厚い鉄の塊を細長く引き伸ばしまして、滑らかな鉄の板にしまして、それを丁寧に箱に詰めていき、他の工場に納入するのが仕事だったようです。彼は野心家でしたので、以前に勤めていた会社から数年で独立しまして、それから数年の内は経営も順調でして、事業を少しずつ拡張しながら、良く気の合う妻を持ち、そのうちに子供も出来まして、まあ、今までに無数の人間の生涯を見てきた私には、ありきたりの人生のように思えますが、彼の言葉を借りますと、それは非常に幸福な時期だったそうで、工場の長として資産家でもありましたし、休日ごとに家族を連れて遠方まで旅行をしていたそうで、他人にも羨まれる人生だったようです。しかし、世は大不況の時代に入りまして、彼の事業も以前のようにはうまく行かなくなったようです。身内の会社の倒産で負債を背負わされたり、銀行から融資を断られたりしましてね。それでも、彼はへこたれずに新製品の開発に乗り出しまして、本人は溺れる者はの心境などと申しておりましたが、すでに後戻りは出来なかったようでして、当時としては画期的な発明に成功したようですが、そのアイデアを自分の一番信頼していた部下に持ち逃げされてしまい、工場はとうとう抵当に入ってしまいました。そればかりか、大事にしていた妻はアルコール中毒から発狂してしまい、彼はなおさら追い詰められることになりました。自身も精神の病気になり、緑内障にもかかって仕事も手につかなくなり、医者にも相談しましたが、解決はせず、良くない薬も使っていたようです。死の直前のこの時期に、彼が相当に追い詰められていたことは疑い無いようです。


 ある夜、彼は自分の一人息子を郊外の親戚の家に送り届けて、自分は妻と一緒に工場に残り、妻を睡眠薬で眠りにつかせてから仮眠室の内部に大量の灯油を撒いて火を放ったということでして、彼は妻と一緒にそこで焼死することになりました。遺書などは発見されませんでしたが、その国の記録上では、明らかな自殺ということで処理されており、突如として崩れてしまった、彼の人生に同情する人も多くいたようです。ところが、どこまで本当かわかりませんが、死んだ直後の彼の言葉を借りますと、それはすべて正気の内に行われたということでして、この死後の世界に来ても全く後悔はしていないと強気に言い張っておりました。最後まで順風満帆だったとか、予定通りに進んだ人生だったとか、私の質問にも心を乱すことなく答えておりまして、ここへ来る他の正常な魂と比較しましても、変わったところは見受けられませんでした。


 ところが、面会を終えて、一歩扉の外へ出た途端に崩れ落ちるように倒れられましてね、その後はあなたも見た通りです。ええ、ずっとあのままなのです。一歩も動きませんね。その原因は今もわかっておりません。ただ、面会の最中に一言だけ、『そう言えば、自分の一人息子はどうなったのだろうか』などと、思い出したように申されまして、まあ、彼の話ですと、自殺の直前にも息子にだけは気丈なところを見せていたようでして、まあ、考えてみますと、自殺の直前に『パパとママはこれから死ぬんだ』などと息子に告げていく父親もないと思うのですが、それにしても、息子に真実を告げずに死んだことを思い出して、それが原因で魂が活動を止めてしまったとすれば、私としましても、地球人というのは何と気の弱い生物かと、そう評価を下さずにはいられません。自分の人生はすでに終わったのですから、今さら息子がどう思って生活していようと難しい問題ではないと、思うのです」


「それは、あなたが人情というものを知らない魂だから言えることですよ」

私はすぐさま強く反発した。考えてみれば、自分の中にもこの男性への同情心がそれほどあったわけではないのだが、目の前にいる女性のような、コンピューターのような面白げのない考え方しかできない魂には、人情味ある地球人ここにありというところを見せておきたいという気持ちが働いたのかもしれない。


「話を聞いたところでは、この男性は相当にプライドが高かったようです。あなたにはわからない言葉でしょうが、理解できますか? 見栄を張るってやつですよ。ここへ来て、異世界の住人を前にして自分の人生を紹介するとなったときに、彼は自分の人生を最後に崩れ落ちた悲しい人生だったなどと紹介したくなかったんですよ。審問者であるあなたに、自分も幸せな人間だったと紹介したかったんです。まあ、言い方次第ですが、その点では彼は嘘をついていたわけです。


 ところが、審問を終えた途端に地上に残してきた自分の息子のことを思い出してしまった。これは彼の心を大きく揺さぶったはずですよ。何しろ、地球上で生きているほとんどの人間は、彼の死も一つの事件として片付けてしまい、数年もすれば、誰ひとりとして彼のことを覚えてはいないわけです。さんざん世を変えてみせた英雄でさえ、死んで二十年もすれば、ただ墓標を残すのみですからね。しかし、残された彼の息子さんだけは自分の父親は事業に失敗して自殺したんだという辛い思いを一生抱えながら生きなければならないわけです。彼はそのことに思い至り、そうか、自分を殺してみせることですべてを精算し、やり残したことのなかった人生だったが、ただ一人、息子にだけは悲しい思い出を残してしまったと気がついたんですよ。そして、彼はいたたまれなくなり、そのショックの余り、魂が活動を停止してしまったんです。私が思うところでは、彼の魂が止まってしまった原因はきっとそこにあるんです」


 この間、女性は口を挟むことなく、静かに私の話を聞いていたが、彼女の頭脳に、地球人である私の話を理解するのには、少しの時間がかかるようでしばらく返事をすることはなかった。元々、この女性の姿をしている魂は、この世界を統べる何者かに操られた案内人のような存在であり、そんな無機質な存在に、地球人の心を理解させるのは無理があったかもしれない。


「おっしゃることは、何とか理解して差し上げたいのですが、やはりそれはこの死後の世界では通用しない考えでして、何と言いましたか、自尊心とおっしゃいましたか、そのような複雑な感情は、この凍りついた世界に生まれた私には、どんなに思考を重ねましても到底理解出来ないようです。主は今ここにはおられませんが、主に尋ねてみましたところで、地球人などをそんなに複雑に、高等に創った記憶はないとおっしゃるかもしれませんね。


 それは自分を良く見せようという感情なんでしょうが、そんなものを抱えていたら、他人と出会うたびに、他人と話すたびに嘘をつくことになるわけです。事実、彼はここでも嘘をついたわけです。地球人という生命体は生きていく中で何回嘘をつくおつもりですか? この中間の世界に呼ばれることは非常に稀なことでして、まあ、あなたにとっては失礼な見解になるかもしれませんが、地球人などという人口の少ない種族が、よその天体には地球の何十倍もの生物を抱えている星がたくさんありますのでね、地球人がここに呼ばれる確率というのは、まあ、正確な統計を取ったわけではありませんが、非常に低いわけでして、わざわざ選んで下さった主に感謝する気持ちで、すべてを正直に吐露する気持ちがあってもいいようなものです。


 ところが、その男性は自分の人生のことすら、そのプライドとかいうおかしな感情のためにねじ曲げて偽って発言したわけです。ここまで来て、間もなく記憶も抹消されますので、前世のことは完全に忘れるわけですからね。そのような状態になってまで、見栄のために嘘をつく種族というのは、私には理解出来ませんね。他の箱庭に住む生命体の皆さんは嘘などつきませんし、もっと堂々としておられますよ。だいたい、審問官に嘘などついたところで誰も得をしませんし、救われませんし、必要性が見当たりませんね」


 女性はそこまで言ってしばらく返事を待ち、私が何も返答しないのを確認すると、ようやく荘厳に佇む奥の大きな扉を開いてみせた。

「さあ、中にお入り下さい。今回の訪問の本題はあなたの人生にあるんです」

彼女はそう言って、部屋の中に踏み込み、扉を開け放したままにして私を迎え入れた。

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