人生は二回だけ

つっちーfrom千葉

人生は二回だけ 第一話


 目が覚めたとき、私の魂はすでに現世からは遠く離れていて、言葉も時間も風も、すべてが凍りついたような、この亜空間にたどり着いていた。四方をすっかり眺めまわすほどの時間が経過しても、意識はまだ朦朧としていた。自分はこれから、この異様な世界でどう過ごすのか、まず、何をすべきなのか、その思考をうまくまとめることが出来なかった。ただ、少なくとも、このつかみどころのない世界が、地球上ではあり得ないことはすぐに悟った。


 ふと、ある寂しい気づきが胸を突いた。そうか、私はきっと死んでしまったのだ。おそらく、ここは死後の世界なのだ。地球という星に行き場所を無くしたこの肉体は、誰に迎えられることもなく、不帰の客として、ここに佇んでいるのか。どうやら、自分に定められた時間は、つつがなく終えてしまったようだ。そこまで理解できた瞬間に、狭く陰湿な病室のベッドの上で、数人の知人に見送られながら、尊い人生を終えたときのことを、ぼんやりと思い出した。ただ、本題とはあまり関係のない、その詳細については、今さら語ろうとは思わない。ここは生前に街中で賑わう酒場において、葡萄酒や肉料理を楽しみながら、多くの友人らに囲まれ『天国や地獄はあるよ、いや、やはり、ないよ』などと、思うままに語っていた死後の世界と思われた。若い頃から新興宗教に入り浸り、信仰心に溢れていた私の叔母が、この不思議な世界のことを、しきりに語っていたのを思い出す。それによると、私の生まれた地方に太古の昔から伝わる神話の中では、人間の死後の生活とは、まず冥府と現世の間に漂う、この審問の世界に落とされることから始まるのだという。


 それはまだ読み書きも出来ぬ頃から、毎日のように聴かされた話だった。あるいは、何かにつけて、やんちゃでじっとしていられない悪ガキを、なんとか更生させるために、叔母が自分の想像の中で、創り出した話だったのかもしれない。私はつまらないいたずらを働くたびに、家の裏手にある、狭く汚らしい物置まで引きずっていかれ、その中に押し込まれ、暗闇に脅え、身を震わせながら、黙ってその話を聞いていた覚えがある。


 しかし、地上においては、雲霞のごとく数え切れぬほどの人生があるというのに、あの世においては、現世での役割をすっかり終えた、一つひとつの魂に対して、神から直々に審問があるなど、あまりにも馬鹿げているように思えたし、自分の想像を遥かに越えた話でもあった。つまり、半信半疑ということなのだが。そこで、叔母をこれ以上怒らせぬために、適当な相槌を打ちながら、話半分に聞いていた。しかし、死後の話というのは、聞いているうちに、それほどの理由もなく、その叔母のゆったりとした口調までもが、まるで魔女が語る伝説のように、段々と恐ろしく感じられるようになったことを覚えている。物心ついてからは、あり得ることとあり得ないことの区別が容易につくようになり、そんな空想じみた話は、鼻から聞かなかったことにしてすぐに忘れるように努めていた。ただ、幼少の頃に感じた心の微妙な震えは、生涯にわたり、刻印として心中に残ることになる。あるいは、それが私の死に対する恐怖の芽生えだったのかもしれない。


 それが今、自分の死という現実を貫く形で、漠然としながらも、死後の世界として、目の前に展開されているのである。人間は平凡な暮らしの中で、どんなに気丈に振る舞っていても、誰もが心のどこかで、否応なしに死という概念を意識している。死刑囚のひとりとして、絶海の孤島の監獄にでもぶち込まれれば、おそらく、一番強烈に感じることが出来るのだろうが、サクラやイチョウが散っていく姿を見て、死という概念を連想する人だっている。この私だって(今はすでに思い出せぬが)生前はその声を常に意識し、その足音に脅えて、日々の生活を送っていたに違いない。しかし、実際に死の直後という瞬間を迎えてしまうと、どういうわけだろうか、それほどの恐怖の念は沸いてこなかった。心の中は不思議と靄(もや)がかかっているかのようにぼやけていた。まるで、精神全体がまどろんでいるかのように。自然とたどり着いた、この世界への恐怖と好奇心の区別もままならなかった。私についていえば、死という現象が本当に恐ろしかったのは、それを目前にした病床での一瞬一瞬の時の流れの中にあって、それがあっけなく過ぎ去ってしまい、この世界にまで来てしまった以上は、心中はとっくに諦めにまで到達していたし、この先にどんなに驚嘆すべきことが待ち受けているにせよ、すべてを受け入れる以外にはないと、覚悟も決まっていた。


 叔母に聞いた話では、我々人間の魂には、現世を生きる機会(チャンス)が二回だけ与えられている。事故や病気などの原因を経て、魂が寿命へと到達することにより、一度目の人生を終えた後に訪れるのが、この審問の世界である。ここで人間界で関わった様々な案件について、細かく尋問され、それに対して滞りなく答えて、次の世界への通行の許可を得ることにより、新しく展開される次の一生へと向かうことになる。ただ、おぼろげに覚えている限りでは、二度目に死の苦痛を味わった後には、強制的に無の世界へ移行することが決まっている。それこそが、生けるものすべてが、真に恐れている魂の消滅と無への送致という事態である。精神や肉体が消滅して、思考と行動を永遠に奪われるということになるのだろう。しかし、逆に考えれば、虚無の沈黙に陥ることなく、その狭間にある、この世界に落とされたということは、つい先ほど終えたばかりの私の人生は、まだ一回目であったということになろう。この極めて重大な問題については、まだ、どれだけ結論を急いでも納得することはできない。自分の思考や思想がまだ生きていることを実感できるということは、この肉体と精神が完全に消されてしまうまでには、まだ幾らかの時間が残されているということなのだろうか。


 私が知る限りでは、この中間の世界の存在理由は、すべての魂が二度目の人生に移行するための、いわば通過点である。ここに降り立ったときの私の外観は、一度目の人生を過ごしたときのそれと同様である。そして、まだ、確定されたわけではないが、性格や記憶や思考能力についても、おそらく、一度目の人生のときと同様のものを持ち得ている。まだ死の直後であるにも関わらず、生前に自分がとったはずの様々な行動の記憶は、かなり薄れてしまっていた。生前、どんな世界に生まれつき、どんな出来事に直面して、どのくらい長くその地方で暮らしていたか、そして、最終的にはどのような死に方を選んだのか、ということくらいは、なんとなく思い出せる。だが、自分の家族や友人知人の詳細な経歴、あるいは、学業や業務の中で、そういった仲間と協力して行なったことを逐一思い出していくことは、すでに難しいようだった。腹が空いたときに好んで口にした食べ物や、人間関係の選り好みや各種事件が起こったときの感情任せの単純な対処方法といったものは、生前の世界との繋がりをすべて失ったはずの、この空間においても、なぜか生きていたのだ。いわば、私の身体は脳の幾つかの組織に著しい制限がついた状態で、この世界に生かされていた、と表現しておく。


 この世界は宇宙空間と同じく、重力がまったく存在しない。そのためか、あるいは、私が実体を失ったせいなのか、身体は宙に浮いてしまいそうなくらいに軽く感じられ、足元は一歩進むために地面を離れて浮き上がり、ふわふわと漂っていた。地面を一度ぽんと蹴った足が、再び地面につくまでに、以前の世界に生きていた頃よりも、相当に時間がかかるようだった。青春時代にテレビという映像機器によって何度も鑑賞した、特撮映画におけるスローモーションのようで、あまり気持ちのよいものではなかった。もちろん、慌てて何かを行う必要は、すでに存在しないわけであり、時間の浪費については、おそらく、いくらでも許されるはずだ。それでも、多少の焦りを含んだ、もどかしい気持ちは感じるのであった。移動に時間がかかるということは、地上でもこの世界でも苛立たしいものである


 叔母に聞いた伝説の通りであれば、この審問の世界には、そもそも音という概念が存在しないはずだった。耳を澄ませても、(誰も行動を取っていないせいかもしれぬが)確かに何も聴こえてこない。落下音や第三者の足音や動物の鳴き声までも……。この状況が延々と続くのであれば、彼女の話はどこまでも正確であった。自分の肌で感じた限りでは、風や大気の揺らめきも、この世界にはないようであった。空を見上げても、濃紺の天空に無数の輝かしい天体が浮かんでいるのが見えるだけで、自分以外の生命体をこの目で捉えることは出来ない。名も知らぬ星々は、身動き一つせずに、音のない静かな夜空に整然と浮かんでいて、時々光の加減により、ちかっちかっと控えめに瞬くだけだった。あれほど際立った存在であったはずの太陽の姿も、どうやら、この世界では見ることができないようだ。どうやら、私が生前に暮らしていたはずの地球という惑星からは、相当離れたところまで飛ばされてしまったらしい。もはや、頼りにできるものは何もない。寂しさと言い知れぬ不安を感じ始めていた。


 漆黒の闇の中には半透明で佇む自分の姿だけが、ぼんやりと映し出されていた。自分の魂をここまで連れ出してきた、何ものかの存在に脅え、おそらくは、この魂の行き先を一手に握っているであろう、その支配者たちの使いが、ここへ迎えに来るのを待ちながら、しばらくの間、何も出来ずに立ち尽くしていた。少しの寂しさはあったが、壮大で美しく、魅惑的な空間に囲まれて退屈はしなかった(もちろん、永遠という考えるだけで苦痛になるほど膨大な時の中に放り込まれて、退屈という安易な概念が、今でもなお存在するのであれば、だが)。しかし、どれだけ長い時間が経過しても(この世界が無限を内包するのであれば、この時間という概念も、きわめて空虚であり、存在すら疑わしい)、この中間の世界には目立った変化がまるで見られなかった。どうやら、太陽の代わりとなり得る、目立った恒星もここにはなく、朝と夜の変わり目も容易には見られないようだった。星々から地上へと女神の涙のようにこぼれ落ちてくる微かな光によって、自分の足元だけは仄かに照らされていた。その上、意識の働きはきわめて散漫である。周囲の不思議な空間について、何らかの疑念を呼び起こしたとしても、人の世界の時間にして、三十分以上が経過しないと、解決すべき思考の分岐点が脳内に現れないのだった。これでは、常に幾つかの疑問や妄想や記憶や解決方法が、脳内にて折り重なる状態が続くことになる。たった一つの問題を解決するにあたっても、非常に不便で不愉快な思いをすることだろう。思考と想像と疑問は、いっさいしないようにする。つまり、脳の動きをいったん止めたやった方が賢明である。


 先ほど確認した通り、地球とは重力の強さがまるで異なるせいで、全力で走ったり踊ったりすることは難しいと思われる。ただ、真っ直ぐにゆっくりと歩いて行くだけなら、今の状態でも何とか出来そうだった。大胆な行動を起こすことには、かなりの不安が付きまとうが、私をここへ呼び寄せたはずの、未知の支配者からのコンタクトがまるでない以上、多少時間をかけてでも、何事かにぶち当たるまで、前進してみるしかないようである。


 目の前の光景は、小さな庭園のように穏やかなものであり、自分の視界が届く限り、どこまでも平和な風景が拡がっているのだった。まるで地球上でもそこかしこに見られるような、片田舎の田園の別荘地の風景のようだった。自分の真横にある花壇には、赤と白のバラが十数本ずつ植えられていた。その美しさとみずみずしさに興味を持って、その繊細な花びらに指で触れようとしても、指先は何の感触も伝えてはくれず、花弁を揺り動かすことすら出来なかった。この世界には、私の欲求がただバラに触れようとした、という意思が存在するだけだった。これは魂だけの存在になってしまった自分に、意識を働かせる力がまったくないせいか、それとも、ここはおそらくマイナス四十度以下で凍りついた世界なので、バラの花も、花壇に植えられた他の植物も、その例外ではないのかもしれない。


 私が今立っている一本道は、背が高く幅の広い潅木によって、それ以外の広場と明確に仕切られていて、遥か遠くに見えている高い外壁に囲まれた、大きな漆黒の館まで、ジグザクになりながらも続いているようだった。この不思議な風景がここを訪れる者たちにとって、何を意味しているにせよ、何らかの大胆な行動を起こす前に、まずは自分の肉体がその能力を完全に失いつつあり、今現在、どのような状態にあるのか、ということと、自分の精神活動を今後どのような目的を持って活動させていくのか、ということを、考えなければならなかった。しばらくの間、道の上に立ち止まって思案したあげく、取り合えずは、あの意味ありげな館までは、どうあっても行かなければならないと、そう結論を出すことにした。何しろ、この中間の世界が持つ領域はきわめて狭く、周囲を見回してみても、視界に見える中では、これからの活動に何らかの意味をもたらしそうなものは、あの無気味な館以外には、ほとんど考えられなかった。私が無気味だと表現したのは、黒い館の外観の雰囲気が、まるで幽霊や吸血蝙蝠でも飛び出して来そうなほど陰欝に見えたからだ。すでに魂を失った後の世界において、亡霊や凶悪な生物に襲われたところで、今さら何を失うことがあるのか、という手厳しい意見もあるだろう。とにかく、私がこの世界で最初に感じた不安とも呼べる心の動揺は、あの黒壁の館からもたらされる、きわめて重苦しい空気に起因していたのである。しかし、館の扉まで歩んで行くことが自分の義務であるにせよ、ないにせよ、それを行動に移さないうちは、この死後の世界において、平穏に生きる権利を与えられそうになかった。ここは魂の存在しない世界のはずだが、庭園や館があるということは、それを眺めることで楽しませるために、独りか、あるいは複数の存在が生活していることを意味している。館の中には、どんな神秘的な存在が待ち受けているのだろう。その人物から放たれる問いかけに誤った答えを示したならば、次に待つ平和な世界ではなく、煉獄へと突き落とされるのかもしれない。だが、どんな手厳しい質問がそこで待っているにせよ、兎にも角にも、正直に答えてしまえば、少なくとも、次の世界への展望は開けると思っていた。『自分を誤らなければ、大丈夫』叔母はそう主張していたように覚えている。


 私は宙に浮かぶような軽い感覚に苦労しながらも、ゆっくりとたどたどしく一歩ずつ道の真ん中を歩いた。意識はすでに遥か前方へと先走っているので、次第に、なかなか前に進んでいかない自分の身体をもどかしく感じてきた。しばらく歩いていると、暗がりの中、道の向こうからやせ細った黒い猫が、こっちへ向かって歩いて来るのが見えた。この世界で出会った初めての生き物である。ただ、私にはこの猫が自分の存在に興味を持っているようには見えなかった。『よく来たな。この先は、わたしが案内をしよう』正義の味方が未開の地を旅する物語では、猫は道の途上で味方となり、必ずそう喋るはずだが、死後に出会った黒猫は驚くほど寡黙であった。その猫は腹がすいているのか、何か獲物でも探すように、視線を下に向け、ふらふらと落ち着きもなく歩いていた。この世界は何者かによって、創造され、支配されていて、その何者かが私に対して、わざわざ、この猫を差し向けたとは考えにくかった。猫の動きもこちらと同様に緩慢であり、視線を合わせようとすらしないのだから。私は一時動きを止めて、通り過ぎる様を黙って見ていたのだが、その猫はこちらには何の意識も興味も示さず、ただ、この道に沿って、ひたすら前に進むという意志だけを持っているようにも感じられたのだ。


 その猫は私が触れられる位置まで来ると、突然、ニャアンと一つ鳴き声を発して、その場で立ち止まった。顔はようやくこちらを見上げて、『なぜ、ここに人間の魂がいるのだ』と不思議そうに首を傾げるのだった。おそらく、ここは人間の支配する世界ではないから、創造主に飼われている猫が、訪問者を目的地まで案内していく、という地球上での想像は、まったく通用しないのではないだろうか。黒猫は立ち止まったまま、耳の裏を前足でひたすらに掻きむしっていた。生前飽きるほど観察してきたものと、まったく同じように見えるが、こんな猫にも、実際は何らかの意味があるのかもしれない。ひょっとすると、彼はこの世界において何をすべきかを指し示すための案内人なのかもしれない。私は試しに、このつかみ切れぬ世界のことを尋ねるべく館の方を指さしてみたが、猫は不思議そうに、その小さな顔を一度そちらに向けただけで、やはり、来訪者である私には何の興味もないのか、少しの間を置いてから、そのまま背を向けて歩み去ってしまった。


 私はかなりの時間をかけながら道なりに進み、ようやく館の門前までたどり着くことが出来た。もし、この世界のどこかに、私の魂を呼び寄せた存在が本当にいるとするならば、この世界に逢着してからすでに数時間が経過しているのに、未だにどこにも行きあたることができない私を見かねて、すでに、呆れかえっているのかもしれない。それにしても、初めてこの世界を訪れて彷徨う健気な魂に対して、案内人を差し向けるくらいの優しさはあっても良さそうなものだと考えるようになった。『なぜ、到着するまで、こんなに遅くなったのか?』という問いかけくらいは、かけられそうなものだ。私自身がこの世界において、どういう意味を持つのかすら、定かではない。とにかく、すべてが謎に包まれた黒い館の前に、ようやくたどり着いたわけだ。私よりも遥かに背の高い、真っ黒な鋼鉄製の門扉は、すべての来訪を拒むように、しっかりと閉じられていて、数人がかりで強引に押していったとしても、容易には開きそうになかった。私はコンコンと二回門を叩く振りをした。実際には、私の肉体はどこにも存在しないわけで、前世の時のように、この指の先が物体に触れることは叶わないわけである。しかしながら、死後の世界において、何の権限も持っていない私としては、とにかく、そういう懸命なる行動を取るしかなかったわけなのだ。実体のない無色透明な魂だけで行動している身なので、この冷たく硬そうな門に触った手応えというものは、全く感じられなかった。


「もしもし、どなたかいらっしゃいますか」


 私はもどかしくなってきて、いったい、何ものに呼び掛けているのかも、わからないまま、そう口に出したつもりであった。しかし、唇はパクパクと虚しく空回りしてしまうだけで、実際には何の言葉にもならず、その反応を求める台詞は、ただ自分の心の中に響いただけだった。


「そのまま、気の向いたように、しゃべってもらって構いませんからね」


どこからか、突然そういう返事が響いてきた。どうやら、この音のない世界では、心に思ったことが、聴覚器官を介さず、そのまま、この世界全体へと響き渡っていく仕組みになっているようだ。ここに住むものは、皆、同じ意識を共有するということになるのだろうか。


「意識も定かでは無いと思いますが、あなたの魂は、この世界へ到着したばかりなのです。まだ、中間の世界で生活することに慣れていないでしょう? おそらく、順応するまで相応の時間がかかるはずです。ここでも人間界と同じように、他の生命体との意志の疎通はとれますから、どうぞ、そのまま、感じたことを心に思ってみてくださいね。それだけで、結構です」


 門の内側の敷地のどこかから、そういう言葉が響いてきた。人間の世界の感覚でいえば、それは上品な女性の声のように感じられた。私という者に対して、ある程度の敬意を表しているようにも感じられた。この孤独の世界においては、その言葉は、温かいお湯を身体中にかけられたように、優しく心に響いてきた。この世界では面と向かって対話しなくても、互いの意志を伝えられると言いたいのだろうか。


「こんばんは、あなたがこの世界の主人ですか。実は、ここが中間の世界という名で呼ばれていることは知っていました。私は一度目の人生を重い病気という要因によって、何とか終えた者です。死んだ途端に意識が肉体と乖離してこの世界へと飛ばされてきました。ここでは何を目的に生活して、どのように意志をもって行動すればよいのでしょう?」


 私は取り合えずそのように切り出してみた。まず、この世界の管理者の意志を聞いて、自分の魂だけをなぜここへ呼び出したのか、いったい、何をさせたいのか、それを聞き出してやってから、自分の要望を告げようと思ったのだ。要望といっても、『早く、この世界を通過して、二回目の人生を開始して欲しい』ということだけなのだが。


「長い間、人間の世界に行っておられたので、すでに忘れてしまわれたかもしれませんが、もし、ご自身が肉体を得る前の魂であった際のことを、わずかでも思い出せましたら、この館の内部へ進んでいくための合言葉を仰ってくださいね。それを言って頂けると、その門は封印が解かれ、自動的に開くようになっています」


「オープンMG」


 私はたった今、心に閃いたばかりの、その言葉を自然と心に念じてみた。すると、扉はゆっくりと音も立てずに内側に開いた。今となっては、元々開いていたのではないかとさえ感じるようになった。屋敷に近づくにつれ、信じがたいことばかりが、続けて起こっているようにも思われた。だが、感情を失くしてしまった私には、すでに驚く権利さえもないのだ。


「なるほど、こう念ずれば、この堅い扉は容易に開くわけだ。しかし、脳と肉体を備えて、まだ人間界に生きていた頃、この合言葉をすっかり忘れていたこと、そして、再びこの世界に戻ってくると、すぐに合言葉として思い出せたことは、考えてみるほどに不思議ですね。いったい、どういうわけでしょう? 私は以前にも、この屋敷の前に来たことがあるのでしょうか?」


 自分の意思を届ける相手の姿は、まだ、どこにも見当たらなかったので、私は誰にともなく、果てしない天空に向かってそう尋ねてみた。


「そうですね、あなたが知性を持つ肉体の一つとして認められ、人間界への一度目の旅に出られている間、その合言葉は決して思い出せないようにしておきました。人間界においては、中間の世界での決め言葉など、一切必要ないはずですのでね。あなたをこの無限の星空から、地球というひとつの惑星へと送り出してから、再び、魂だけの姿になって、ここに戻って来られるまでの期間は、この世界に住む者の感覚ですと、ほんの一瞬なんですが、長い冒険に出られていたあなたにとっては……、そうですね、箒星が空に三万回ほども眩くほどに、長い長い悠久の期間に感じられたはずです。それは人間として生きる資格を与えられた者にとっては、不思議な感覚にはあたりませんのでね。さあ、どうぞ、お通りください」


 私はそう促されるままに、豪奢な門の内側へと踏み込んだ。石の階段を三段も上がると館の扉はすぐそこにあった。


「それにしても、今夜は星がきれいですね。見渡す限り、右も左も、すべて色とりどりの天体の海ではないですか。人々が皆、欲望に忠実に生きる地球においては、いつでも手に触れられる、くだらない物への執着ばかりで、何の欲求も持たずに長時間にわたりこうやって佇んで、天空を見上げるなど笑い話に過ぎませんでした。文明の世に生まれた私には、こんなに美しい光景を見たことはなかったのです」


 私は扉の内側にいる何者かに向けてそう話してみた。自分が高い知性をもつ星に暮らしていたことを告げようと思った。


「門をくぐることを躊躇されていたのは、天空の景色に感嘆されていたからですか? 申し訳ありませんが、人として生まれたことのない私には、美しいという概念が、そもそも、わかりませんのでね。なるほど、土の上に生きる地球人の目には、星々に囲まれたこの景色は、目新しいということでしょうかね。普段の生活がほとんどが地上で行われていますと、色鮮やかな流れ星の舞う天空というのは、思いの外遠い存在なのかもしれません。ただ、天体とか宇宙とかいう概念すらも、実のところ、私には分かりません。それは人の世界において創られた言葉でしてね。人間界では、どうやら宇宙も星々も銀河すらも、生命と共存する存在と結び付けられるようですが、私にとっては、無数の星の光もただの一つの光景に過ぎませんのでね。この天体の集まりは、壮大な箱庭のごくごく一部だと思うように致しております。これ以上の説明は不要と思います。では、扉の中にお入り下さい。この館の中でお待ちしています」


 女性の声はたしかに心に響き、再び、そう呼ばれたわけだが、私にはこの世界の内部へと進んでいく決心がなかなかつかなかった。それは、ここから先へと進んでしまえば、否応なしに自分にとっての次の世界、つまり、それは二度目の人生であり、さらに言い換えれば、『最後の人生』へと踏み込むことになるからだ。意識や記憶の消滅という究極の畏怖へと近づいていくために、わざわざ前進していく気にはなれないものだ。私にはまだ、つい先ほど目の前で展開されていた、最初の人生への名残があった。非情に貴重であった一度目の人生を懐かしむ気持ちがあった。生前の記憶を万遍なく消されてしまうことへの恐怖感も、この時点では、かなり強く感じていたのだ。しばらくの間、踏ん切りがつかず、扉の外で足踏みをしていることにした。自分が不安に感じていることを相手方に直接伝えたいとも思った。多くの時間が流れたように感じた。黒い館の内側からは、中に入ってくることを催促するような台詞はまるで聞こえてこなかった。なるほど、中にいる女性(声)は、そもそも、時の流れという概念を感じていないのかもしれない。地球に生きてきて、時間というもっとも根本的なものの存在を知っている私にとっては、今躊躇した時間は二十分にも三十分にも感じられたわけだ。しかし、この中間の世界とやらに住んでいる生物たちにとっては、私の次の行動へのゆったりとした動きも、前に行われたやり取りから、ほんの瞬きほどの間隔において、そのすべてが行われているように感じられるのかもしれない。


 しかし、私の行動のすべてが彼女に見張られている以上、ここでぐずぐずしていても仕方がない。万が一『おられないようですね。では、次の方(客)どうぞ』などという展開になってしまったら、目も当てられない。チャンスは一度きり。進むも引くも、自分でどうこう出来る状態ではないし、記憶や判断力すらも定かではない世界において、これ以上の足止めを食うのはごめんだ。たとえ何を聞かれても、プラス材料になることはなさそうだが、ここは覚悟を決めるしかない。私は腹を据えて審問の館の中へと進むことにした。


 扉の内側には、すぐに二畳ほどある古めかしい洋風の玄関があって、その先には、人型の女性の姿があった。その姿は幻影のように揺らめいている。これはどうしたことだ。生を終えて、異世界に来た以上、当然ながら、そこに棲む住人も見慣れない生物であろうと想像していた。しかし、私を出迎えたのは、ブロンドの長く美しい髪に肌が白く鼻の高い、地球においても散々見かけたようなタイプの美女であった。女性は薄ピンクの絹の上着に長いスカートを履いていた。背は私と同じくらいで、外見において、こちらに悪い印象を抱かせることは一切なかった。女性の顔はずっと穏やかに微笑んでいて、この先において、どんな険悪な対話が展開されたとしても、おそらく、一切の変化はないだろう。


「この世界でも、人間は、いや生物というものは、そういうカジュアルな姿で、生活しているのですか?」


 私はいくらか不思議に思ってそう尋ねた。これが地球に生きていた頃であったら、すでに恐怖のために後ずさりしているだろう。人は自分たちの変種が、この世界のどこかに存在するであろうという仮定を創るだけで(例えば、火星人や雪男などだが)自分たち本来の姿とは、およそかけ離れた外見においてのみ、そういった亜種の姿を表現してきた。天才漫画家や芸術家ですら、その域を出なかった。『別の惑星や亜空間に生きるものですら、外見は自分たちと同じ型紙で出来ている』という発想を持つのはきわめて難しい。もちろん、この私だって、彼らと同程度の想像力しか持っていなかったわけだ。幼い頃に自然と刷り込まれた知識というのは何年もの教育を受けても覆すのは難しいものだ。少なくとも、地球の外を周回する惑星や、マグマの底に棲む生命体などは、例え存在したとしても、とても見るに堪えない、おぞましい外観をしているに違いない、と考えていたわけだ。その思考の延長線上で語れば、死後の世界に居を置く生物が、その外見において、生前に住んでいた星とまったく同じであろうとは、到底考えられなかったのだ。しかし、判断力や認識力は、この世界に漂う、ぼんやりとした瘴気によって、その調子がひどく崩されている。この世界が、自分の魂が生前に暮らしていたα宇宙と同じ空間に属していると仮定するならば、異星人が地球人とまったく同じ姿で生活していたり、さらには、『自らもひとつの新しい種としてできる限り繁栄していこう』という意思を持って活動している、という偶然があったとしても、そこには何ら不思議はないのである。確率としては、この目玉が飛び出るほどに低いであろうが、とにかく、自分が想像するに足る、すべての事象は、このまだ見ぬ(どこか遠くの……、あるいは無限の)世界においては、当然のように、起こり得るのだから……。


 それにしても、顔かたちや体型までが地球人とほぼ同じとは、いくら何でも、偶然の一致が過ぎるような気もした。確率という概念は、こんな奇跡的な偶然の発生を、いったい、どこまで許すのであろうか。この宇宙空間に存在する、多種多様な星々の上に生まれくる、それこそ無数の生命体たちは、そのどれもが似たような思考や進化を重ねることで、同じような恰好に落ち着くことを望むのであろうか。神(主)の好みが、このタイプに集約されているのか。それとも、一時は引き寄せられることで生まれたのと思い込んでいた、ここでの不思議な出会いは、そもそも、単なる偶然に過ぎないのか。あるいは、この世界の歪んだ性質が、私の来訪に合わせる形で、前世での常識に慣らされた、こちらの心理をいたずらに困惑させぬように、周到に準備されていた、というなのであろうか。ふん、いくら高い知性を持つとえばってみたところで、こちらは所詮作り物のひとつということなのか。ずいぶんと侮られたものである。生前であれば、権力によって押し付けられた、『完全なる理解へなど、到底たどり着けぬ現実』でさえも、生活を維持するためにすべて飲み込み、苦痛を押し殺して夜の酒場へと繰り出し、健康には決して良くはないアルコールをたらふく飲めば、理不尽に抱え込んだ不安は、時間の経過によりすべて消えて、疑念も忘れられたはずだ。


『お前の主張は、よくわかった。そういうことなら、明日からは従順にさせてもらう』


 角が頭部から三本も生えた、奇妙な構造のトカゲくらいに、おかしな性格の男と出会っても、自分の母親の戒めすらも消し飛ぶくらいに酒を飲んで飲んで、その上で握手を交わせば、次の日からは嫌な仕事を受け合える同士になれた。つまらない偏見やどす黒い嫉妬になど悩まされることは無かったであろう。ただ、私の脳が死という非情な概念を通過したことにより、すでに正常な判断さえもできぬ状態にある以上、この予期することの出来なかったシチュエーションは、言うまでもなく初体験のものであり、万が一、想定もしていない異様な質問を浴びてしまった場合は、いくらかは有望に思える大量の回答の中から、もっとも、適切に思える回答をくじ引きのごとく適当に導き出すことさえ、難しく思えたのだ。脳が一部の活動を失うとはそういうことだ。


「いえ、普段はこのような気取らない格好は致しておりません。私の魂は地球に住む人間たちのように、胴体に顔面と手足二本がそれぞれ付随しているというような、分かりやすく、行動する上で便利な形態をしておりませんからね。この中間の世界においては、魂というものは、いわゆる意志の力だけが存在しています。例え、私のような管理者であっても、知性と感情と行動力を合わせ持つことは許されません。意志は主から命ぜられた義務を遂行するためだけに、自らの外観を思うままに創作して、この世界を訪問する魂を出来るだけ効率よく尋問が進むように操ろうと試みます。あなた方の世界でいうならば『なるべくスムーズに自動的に』です。余計な思慮を交えて、何らかの別の判断を下すことも許されません。ですから、普段のままの姿(この特殊な世界に訪問者が長期間に渡り呼ばれず、誰も訪れない時間帯における姿。つまり、原初の姿)でおりますと、どんな魂も、まだお亡くなりになられたばかりであり、人間の身体に宿されていた頃に有していた記憶や特徴からは、完全に脱し切れていないわけですから、今のあなたの目には、私のこの姿が、まるで映らないはずなのです。自分と同じ外見を有している生物のみを理解して、そして、それを仲間として語りあえるように知性が設計された人の目には、私の無色透明な魂を、その視界に正確に捉えられるようには出来ておりませんからね。


 あなたの来訪に合わせて、わざわざ、このような人間らしい姿に変化してみせたのは、来客そのものが実に久しぶりであり、しかも、地球から来られる魂ひとつのみであったからです。私の外見が本来あるがままの異形なものですと、これは当然のことですが、あなたの目には正しく認識できないもの、不自然なものに映ってしまいます。その異形の姿を見てしまいますと、この審問において、本来、こちら側が得られるべき情報を、(畏怖や不安感や動揺によって)ほとんど得ることができず、魂の混乱に陥る可能性もあります。この世界における最大の目的は、来訪者との実直な対話であり、訪問者を驚かせることは、マイナスになることしかなく、決してこちらの本意ではありません。訪問者である魂たちに、いっさいの心的動揺を与えぬように、館の外には、見覚えのある庭園を一時的に造り上げ、今は、あえて地球人女性のような姿に自分の外見を変化させているわけです。私の姿が無色透明で、まったく視界に映らなかったり、畏怖の余り、思わず後ずさりされてしまうほどに異形であったりしますと、おそらくは純朴であるはずのあなたの心中には、不快感や恐怖感の方が全面に沸いてしまいます。その状態では、これからの重要な面談が、きわめてやりにくくなってしまうことになると判断したわけです。大変な動揺をされている中で、正しい告白や判断が出来るとは思いません。それともう一つ、先ほど、我々のことを生物とおっしゃいましたが、この中間の世界には、生物と呼べるようなものは、何一つ棲んでおりません。この箱庭の中に意志を持って漂っているものは、正式には私の魂一つだけですのでね。宇宙空間の亜種として空間と空間の狭間を漂う、『生命を一時的に維持管理するために創生された』この漂泊の世界が、あなたの目にはどのように映ったとしましても、私以外の生物らしきものは、すべて見せかけだけの飾りなのです」


「なるほど、貴女の言われる通り、今の時間軸に限っていえば、この世界には私の他に、生を終えたばかりの魂は訪問していないようですね。もし、この広大な宇宙において、『死を迎えたすべての人間の魂は、この空間を訪問する』という定義があるとするならば、面積だけでいえばきわめて狭い、この中間の世界は、地上から追いやられ、使い捨てられた魂たちで、あっという間に埋め尽くされてしまうでしょうからね。すべての魂の待機地点となるためには、この世界はきわめて狭く、その重大な機能が成り立ちません。言わせて頂ければ、設定そのものに無理があるわけです。無数の魂を無数の空間の狭間で循環させようとするならば、入り口と出口の間口の広さは常に同等でなければならないからです。しかし、天空に拡がる億千万という星々の中から、その生命を終えたばかりの訪問者として、この私という魂だけが選ばれたということは、この私の生前の体験だけに何か特別な用件があるということでしょうか?」


 広大な宇宙空間に散らばって存在している生命体の中で、私の魂だけが、なぜか、ここに呼ばれたのだという奇跡ともいえる事実に、当然、戸惑ってはいるのだが、少しくすぐったいような、小躍りしたくなるような、表現しきれぬ感覚も覚えた。だが、魂として再び自意識を得ることが出来たこの段階では、あまり浮かれ過ぎずに、なるべく平静を保つことにした。自らの僥倖は他人に知られてしまうと目減りする気がするし、人間は運周りの良いときほど冷静になれるものだ。ただ、相手方の真意が量れないということもある。何しろ、声をかけてきたのは、神のしもべともいえる存在である。ここまで来て、『礼儀がよろしくないから、貴公の魂は扱いかねる』などと難癖をつけられては、たまらない。目の前や心の奥にちらついている『無』の存在は、単なる人質としては途方もなく大きい。洒落では済まされない。ただ、今のところ、一人の来客として、これだけ丁重に扱われている以上、おそらくは、この先においても、それほど酷い目には遭わないような気がしていた。つまり、この世界に棲む存在にとっては、価値あるひとつの魂として、ここに招かれたのだろう、と前向きに考えることにした。少しでも気を抜けば、たなびいて消え去りそうな意識の中で、辛うじてそんなことを考えていた。


「あまねく星々に生まれくる生命体の中で、あなただけを特別にここへお呼びした理由を、これからお話していきますので、取り合えずは屋敷の中にお進み下さい」


 女性は慣れた言い回しでそう告げてくると、私に背中を向けて、そのまま、廊下の奥の暗がりへと進んでいった。素っ気のない態度を見せられると、自分の存在価値に対して、また自信が持てなくなってしまう。私は仕方なしに、促されるまま、その後に続いた。この先でどんな展開が待っているのかの説明が、ほとんど為されていないため、自分の今後について、まったく先の見えない状況であり、決して気分の良いものではない。悪い方に考えていけば、凶器や処刑道具がいつ飛び出してきてもおかしくないわけだ。


 館の内部の見た目は、地球でいえば、中世紀の西欧の貴族の館のような、気品あるたたずまいであり、木製の古めかしい造りになっていた。奥に見える黒い棚には、派手な模様の花瓶などがいくつも置かれていて、カーネーションや白ユリなどの色鮮やかな花が数種類生けてある。まあ、案内人の女性の外見も、どこか地球人のそれを模倣しているので、この館の内部の造りさえも、私の来訪に合わせて、短時間のうちに整えられたのかもしれない。例えば、元の世界が岩と砂地しかない不毛な大地であったとしても、例えば、魔術によって一瞬にして外観を大きく変えてしまう特別な力は当然備えているのだろう。しかし、私の来訪に合わせて、わざわざ対話するための場を整えてくれたということは、一介のつまらない市民であった自分が、この世界を統べる何者かに、ある程度は信頼され、その上で歓迎されていると、そう考えても良さそうだった。この先に豪華な居間があれば、ケーキと紅茶くらいは出てきそうなものである。そう楽観的に考えていくことで、すでに死後という暗い事実にも関わらず、再び芽生えて育ちつつあった不安感を何とか拭い去ろうとした。


 玄関から十数歩も中に進んだところに、まったく飾り気のない格子模様の螺旋階段が配置されていて、上から覗いてみると、それはこの屋敷の地下深くへと延々と続いているのだった。地下に終わりはなく、どこまで進んだとしても、ただ闇の中である。前を行く女性の手元において、ほのかにきらめくランプの灯りだけが、我々が歩む上での最大の頼りであり、細長い廊下は何の気配も感じられず、陰鬱で薄暗かった。その隅の壁際には、小さな丸いテーブルが置かれていて、その上には明らかに異世界の創作物と思われる、八本足で角の生えたカエルの亜種のような、けったいな形をした怪物の彫刻が飾られていて、私の興味を強くひいた。この館に住む何者かが、この怪物に興味を抱いて、一瞬のうちに創作して、ここに飾ったと仮定すると、もしかして、この世界にも芸術という概念はあるのだろうか。歩いていくうちに湧いた不要な思念は考えては消え、記憶がほとんど存在しない世界の中では、地面で瞬時に溶ける粉雪ほどの価値も無いのだ。


 私はまだ、この世界で軽快に活動することには慣れていなかった。人の肉体ではなく、行動が不自由な魂として歩んでいくと、歩む速度や発見や観察などがどうしても遅れるのだった。前を行く女性は、こちらが少しずつ遅れていて、二人の距離が開いていっていることには、まるで気づかない様子であり、あるいは私が戸惑っていることに半ば気づいてはいるが、それを大したことではないと考えているのか、後ろに配慮することはなく、どんどんと先に進んでいってしまった。


 螺旋階段の途中の壁には、金縁の額に囲まれた、高さ四メートルほどもある、大きな絵画が飾られていた。そこに描かれているのは、どこの星のものとも知れぬ、深海を描いた絵だが、地球に棲むものとは見た目からして違う、奇妙な形態をした深海魚や海蛇や貝や真っ赤な珊瑚などに、巨大なタコのような化け物が襲いかかり、多数の足を巻き付けて、ひと飲みにしているという不思議な絵柄だった。これは彼女の趣味によって飾られているものなのだろうか? そうだとすると、あえて、人間の絵画を模倣したことになる。統治者かそれとも創造主か、未だ存在の知れぬ何ものかによって描かれたものなのだろうか? 私としては、その不気味な絵画自体に興味を惹かれたわけではなかったが、あまりに速すぎる彼女の足を止める目的もあって、「これは、どういった趣旨の絵ですか?」と、うまく進んでいけない自分の焦りを感じ取られないように、さりげない口調で話しかけてみた。


「お目に付きましたか。それは運命という名のついた絵です。私には芸術という概念の理解は難しく、人間が描いた絵画などに、それほど興味は惹かれないのですが、その絵に関しては、どうやら、この審問の館が亜空間上に生み落とされた、まさにその瞬間に、主によって持ち込まれた作品のようですね。何しろ、館を建てた後に創作したのでは、余りにも額縁の図体が大きすぎて、入り口の扉からでは、館の内部に入れられませんからね。私のように視界に映り込むものによってでは、どんなに大きな衝撃を与えられたとしても、いっさいの心の反応を得られない魂にとっては、芸術品によって館の内部を装飾することなど、そもそも、必要ありません。ただ、永遠とさえ表現できるような長大な時間の中を、独り身で過ごしていても、寂しくはないようにと、主のお気遣いから、生まれたのかもしれませんね」


 彼女はそう答えながらも、少し足を止めてくれたので、私はそのすぐ近くまで歩み寄ることが出来た。彼女に追いつくことが出来ないままに、この未知なる空間の中で迷い迷って、私が行方不明になったとしても、この感情の生まれない世界の中では、同情も憐憫も存在しないのであろうが、仮にそうだとすると、同情によって引き起こされたと仮定できる、今のような行動は、どのような意識の作用によって、引き起こされたのであろうか。


「なるほど、これが運命というものですか……。思えば、私が志し半ばにして地球を去ることになったのも運命、いや、それ以前に、自分という意識を持つに至るこの魂が、地球という星を選んで生まれることになったのも、ひとつの運命というわけなんですが、私とあなたが、この未知なる世界で出会えたのも運命です。人の生きていく道筋を糸と糸で結ぶのが運命です。運命という概念は、この世界にもあるんですか?」


 自分の生まれた惑星以外で初めて出会った存在に対して、自分なりの親しみを込めて、気の利いた台詞を贈ったつもりだったが、それでも、この世界を仕切る女性の顔には、私の愛情に対する喜びの感情が浮かび上がることは決してないのだった。


「ええ、私の多くはない知識の中にも、運命という言葉はあります。実は、この世界も創造主が、我々が認識できぬほどの遠い昔において、試みにお創りになられた箱庭の一つに過ぎません。先ほど、あなたはこの世界の大地に立ち、空を仰ぎ見て、たくさんの天体が見えたと仰られました。もちろん、あの中には生物の棲んでいる箱庭も無数にあるわけです。この領域の外にも、つまり、我々の視界が無限の領域まで届くと仮定して、そのどこまでも通る我が目で確認できる、星々の海の世界の、いわゆる外側の区分にも、こことほぼ同じような箱庭は無数にあるのです。主は創造の始めにおいて、自分の住まわれている領域内に無数の箱庭を創作して、それを少しずつ成長させながら所持していらっしゃったわけです。それら無限の海原を、すべて運命という仕組みにおいて、相互に結び付けて、管理されております。全ての生命は強く引く糸と無関係と思われる細い糸によって自分の判断や意思さえもがんじがらめにされ、その活動のすべては、主の思いのままといえます。


 我が偉大なる主に言わせますと、どんなちっぽけな生命体にも、等しく運命が与えられるというのが、実は一番公平な考え方のようでして、知性の有無に関わらず、糸に縛られていない生命体は現在までのところありません。この中間の世界にも、無数にある箱庭の中から、自分の世界での貴重な役割を無事に終えて、その上で、何らかの理由をもって選ばれた魂が時々参られます。しかし、つい先ほど終えたばかりの人生での境遇に対して、不平不満を唱える魂は中々ありませんね。どの世界から参られた魂も、人生が長いか、それとも短いかの差こそあれ、自分は一つの魂として、取り敢えず、運命という灯りを授けられたのだ、ということに満足しているようです。生前は、どんな細かいいさかいに対しても、いちいち不平を漏らしていた気の荒い魂たちも、最大の覚悟をもって迎えるに至った、一つの死という峠を通り抜けますと、自分が主の温かい手によって生み出された時のことをようやく思い出すからでしょうか、とても謙虚で、しかも落ち着いた心持ちになるようです。この空虚とも思える世界において生きている魂としても、その辺りはまったく同様でして、私としても、自分の宿命がいつ終わりを迎えるかはわかりませんが、何の不満も後悔もございません。たった一つの魂しか生まれなかったこの世界も、いつか生まれていつかは消える、その貴重なる運命を授けられて創作された、幸せな箱庭の一つには違いありません」


 私たちは地下の薄暗い廊下を肩を並べて歩きながら話を続けた。


「なるほど、地球にも人が進化する過程において、あれこれと試行錯誤をしながら創造した小説や映画などというものがありまして、いや、これは中間の世界においては、少し無用な知識かもしれませんが、ぜひ、聞いて頂きたいのです。その物語の中で、『運命によって定められた幸運だから、あるいは不幸だから、どうしたこうした……』なんていう話が結構あるんです。『運命』などという大仰な言葉をテーマにして、ストーリーを創っていけば、大衆は騙されやすく、結構儲かるらしいんです。劇作家とは上手いことを考えるものですね。なるほど、ああいうのは聖職者の世迷い言葉ではなくて、本当に存在するわけですね」


 私は如何ともし難い不安感から、なんとか話を続けなくては、という幼稚な思いに駆られて、そんな意味のない言葉を口走っていた。生前に呑み仲間の女性をその帰路において口説こうとするときに同じような対応をとったことが何度かあったが、それが良い結果に結びついたことは一度もなかったはずだ。


「各々に運命が定められていませんと、主のような完璧な知性をお持ちの方でも、さすがに魂の管理が煩わしいようです。あなたもご存知のようですが、天空に浮かぶ星と申しますか、私どもの言葉では、その一つひとつを箱庭と申しますが、そこであなた方の魂が実体を持って、人という型紙をもって生きる権利は、二回しか与えられませんのでね。それが多いのか少ないのかの判断については、わたくしには出来ませんが、一回目に港から船で旅立ち、大海原での旅をすっかり満喫して、二回の人生航路が終わった魂につきましては、この世から速やかに消していかねばなりません。今のあなたに、どこまで想像が届くかはわかりませんが、魂というものは、この星の海の中に無数に存在していまして、その無数の魂が毎日生まれては、各々に定められた時間を生きて、そして、満足か不満足か分かりませんが、次々と死んでいきますので、偉大なる主としましても、その循環作業には、多少の手間を取られるようですね」


 その不自然な女性は、そこで不意に私の方を振り返った。その青い冷たい瞳が私の魂の内部を隅々まで凝視していた。このとき、この女が私の存在に対して、まったく関心や興味を持ち合わせていないことが確認できたのだ。


「ところで、あなたの魂がここへお見えになられたのは、これが最初でしたか? それとも人生を二度終えたところだったかしら?」


 もともと感情を感じさせない彼女の冷徹な声が、さらに冷たくなったように感じられた。生を持たないモノを見つめているのだから、当然ではあるのだが。


「冗談じゃない、私はまだ一度目の訪問ですよ。先ほども言いましたよね? 私はまだ一度きりしか死んでいないのです。疑問点があるならば、どこか情報のある部門に問い合わせて調べてもらっても結構です」


 この女性が主とやらから、この世界を取り仕切る上での権限を、どれほど強力に与えられているのかは現在のところ分からなかったが、一度目か、否か、これを間違えられてしまい、貴重なる魂(運命)が消滅させられてしまうと、大変なことになってしまうので、私は大慌てで反論しなければならなかった。


「そうですよね。ここへ来られる方は、一度目の人生が終えたところ、つまり、生命と生命の渡る途中の方が多いのです。ごく稀に、二度目の訪問をされる方もおられます。二度目は消滅と同義ですが、ほんの僅かな休息は得られます。彼らは決して脅えたりせず、この世界での過ごしかたについても、いくぶん慣れておられるようですけどね……」

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