●救うこと叶わなかった牡羊は生贄に ……♂
その日、マユは窓によじ登り、既に暗くなった空をじっと見上げていた。
僕とマユはクラス委員の仕事で、放課後残って作業をしていたのだ。終わって担任に報告を終えた時には、すっかり辺りは暗くなっていた。もう十二月なのだ。大分寒くなり、帰り際僕もマユも制服の上にコートを羽織った。
教室に戻ったところで、マユは僕が鞄に荷物を詰め込んでいるのを横目にがらりと窓を開け、そこに座った。
上はコートがあるといえど、そこは女子高生、足は生足のままで見ているこちらが寒々しい。他の女子に比べスカート丈はさほど短い方ではなかったが、しかし男の僕にしてみればそれは随分と冷えそうで、ついでに官能的だった。女の子は冷やすと良くないと聞くが、それでいて積極的に寒気を呼び込もうというその精神は理解し難い。
「何を見ているんだ」
支度が終わった僕はマユに話しかけた。そろそろ下校時刻、校門を出なければいけない。マユは既に帰り支度を済ませていたようだったが、冬だわ暗いわでどのみち下校時刻を早めるに越したことはない。
冬は嫌だ。例外として雪は好きだったけれども。
雪は綺麗で儚いからいい。それでいて生き物を殺める力も持っている冷たい毒。
まるで雪はマユのようで、それを思って尚更僕は雪が好きだった。
「新月を見てる」
視線はそのままでマユはぼんやり答える。僕はマユと机二つ分隔てた窓の辺りに歩み寄り、その空を眺めた。
成る程、うっすらと線のようになった微かな月が見える。僕は月といえば十五夜くらいしかまともに見る機会もなかったので、普段と印象の違うその月を感心して見遣った。
月は人を狂わす。
けれど僕を狂わせるのは月ではない。
「新月を右肩越しに見ると、願いが叶う。そういう御伽噺めいた伝承があるの」
その言葉にマユを見れば、確かにマユは右肩越しに新月を眺めていた。真似して同じようにやってみて、その後で自分はそういう類のジンクスを全く信じない人種であるということを今更ながら思い出した。
だがしかし、マユがやっていたのだから、仕方がない。
「そういうの、信じてる?」
「あんまり。私もなんとなく。どちらかといえば感傷」
気だるげにマユは首を振った。細いマユの首筋がこちらからよく見える。
彼女の首筋はあまりに細くて、僕はどことなく心細くなる。その為だかは知らないが、マユが感傷だと言ったにも関わらず、間抜けな僕は試しに聞いてみた。
「願いとか、あるの?」
「私の、願い?」
ふふ、と彼女は笑って言った。
「聞きたいの? 秋月くん」
「……少し」
かなり、と言いたいのを抑えて、僕は三分の一の本音を告げた。マユは空から僕にその瞳の対象を変え、綺麗な眼差しで僕にぽつりと告げた。
「願い。……新月に、なることかな」
「新月」
「うん」
しばらくマユは、再び新月に視線を移してそれを眺めていた。話しかけてはいけないような気がして、僕は黙る。
尋ねたいことは沢山あったけれども、そうすると今のこの神聖で透明な時間が失われる気がして、そして実際それは失われてしまうだろうと判って、同じようにして新月を見上げた。
願う必要など無かった、とその時は思っていた。
なにしろ僕にとってのマユは、既に新月だったのだ。
マユは僕の願いそのものだった。
やがてマユは窓の縁から降りると、いつも他の人に見せているのと変わらない、朗らかな笑顔でもって言った。
「さあ、帰ろう。駅までは送っていってね、日が短いからもう随分暗いし。流石に、犯罪に巻き込まれて、惨めな最期を遂げる気にはならないもの」
ここは田舎町、少々大げさだ、と少し笑みを浮かべて、けれど心の内では勿論マユを駅まで完璧に送り届けるつもりでいた僕は、鞄を引っかけると必死で笑みを隠そうとしながら二人揃って教室を後にした。電気を消した教室は、少し前の時期の同じ時刻では考えられないほど、暗い。
思えばこの時、僕は気づけば良かったのだ。だけど、なにせあんまりマユが可愛くて、会話が楽しかったから。
その時マユが、僕には傷だらけの自分を隠す偽物の笑顔を浮かべる必要など無かったことに。
何故なら。傲慢かもしれないけれど。
ここにはマユと僕しかいなかった。
知られたくないマユの傷を知っている僕にまで、笑顔でそれを覆い隠す必要は無い。既に知られてしまっているからだ。それ、なのに。
マユは、僕にも隠し始めたのだ。
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