●瓶から零れた水は僕に新たなものをもたらし ……♂

 マユはいつもどこか遠くを見るような眼差しをして、存在は虚ろで儚げだった。


 気高い、と言う言葉がよく似合う、今時珍しい類の女性で、良家のお嬢様だと言えば誰もが信じてしまいそうな優雅な物腰をしていた。

 だけれども彼女は一見それを感じさせない気さくさで周りに接し、嫌みがなかったので、異性よりは同性に人気のある人だった。

 勿論、異性にもそれなりに人気はあったようだったけれども、その醸し出す気品が原因かなかなか凡夫は近寄りがたかったようで、彼女にすり寄ってくる男は滅多にいなかった。

 無論、例外はいる。僕だ。


 品のある友人の多い朗らかな女の子、というのが一般的なマユの印象である。

 だがしかしその分、彼女はどこかとても脆かった。

 他の人間がなんとも思わないことでさえ敏感に感じ取り、察し、そして傷つく。彼女の表面には目に見えない細かな傷が至る所に付けられていた。

 それでいて、彼女は誰にもそれを気取られないよう、美しい笑みでもって数多の傷をうっすらとしたベールで覆い隠すのだ。


 硝子という表現は使い古されている。けれどもそれだけではなく、彼女のそれを例えるには硝子なんて言葉では事足りなかった。彼女の透明度は硝子よりも上回っていたし、その傷つきようは半端なく硝子より過敏で、迂闊に触れようものならばいとも簡単に手の平の中から零れ去り、風に吹かれてどこかへとさらさら飛んでいってしまいそうであったからだ。硝子はそこまで、弱くない。


 だから彼女は隠した傷が人に露呈するのを酷く嫌った。そう思えば、僕は大層嫌われていたのだと思う。会って間もないうちから僕は彼女に付いた無数の傷をうっかりと、……いや、故意に見つけ出してしまったのだから。


 その所為か、彼女は僕に対して他の誰よりも限りなく本性に近いマユを魅せてくれた。

 つまり、今にも壊れてしまいそうな限りなく冷たくて怖い、無機質で病的なマユである。それが良い意味であっても、悪い意味であっても。

 おそらくマユにとってそれは悪い意味であり、しかし僕にとっては良い意味であったのだと思う。


 少なくとも僕は、自分がマユに何も出来なかったとしても、何らマユを救うことが出来ずとも、マユが自分にだけは脆い彼女の一面を露わにしてくれたという幼稚でふざけた理由から自分自身の充足を得ることは出来たのだ。


「私、自分が嫌いなの」


 唐突にマユが言ったのは、僕らが二人、放課後の教室で日直をしていた時だった。

 マユの苗字は碓氷、僕の苗字は秋月で、二人とも出席番号は二番だった。僕は他の女子に浅田が一人いただけで新井も井上も今井もおらず、僕の前に相川がいた幸運に感謝したものだ。そんな事だから、適当な担任に僕らはクラス委員も任されることになった。

 本来なら出席番号一番の二人が任されて然るべきだが、その二人はクラスではなく生徒会選挙への立候補を余儀なくされた為、重ね重ね僕はこの幸運に感謝したものだった。


 その時黒板の掃除をしていた僕は、手を止めてマユの方へ振り返った。彼女は窓枠に肘をついてぼんやりと窓の外を眺めており、先ほどまで彼女がいた傍らの机には書きかけの日誌が広がっていた。


「正しくは名前ね。自分の名前。マユって響き、否応なしに『繭』を連想させるでしょ」


 そんなことはないと思う、と僕は反論した。言われるまでそうとは思わなかったし、言われてもそうとは思えなかった。

 彼女の名は碓氷真由子であって、確かに『マユ』の音は入っていたが、そこから『繭』を連想するなどなかなかどうしてこじつけではないかと感じたのだ。


 彼女は黙ってにこりと微笑む。その笑みがあまりに綺麗で、僕は動揺して黒板消しクリーナーのスイッチを入れた。黒板の掃除はまだ終わっていなかったが、仕方ない。静かだった教室が途端騒がしくなり、耳に付くクリーナーの音が廊下にまで響く。他のクラスの生徒はもう出払ってしまっているようだった。

 確かに彼女の視線を感じながら黒板消しを綺麗にしてしまうと、微かにむせながら僕はスイッチを切った。立ち上がって再び彼女に視線を戻す。それを待っていたかのように、マユは僕から目をそらして窓の外を見遣ってから言った。


「いいえ。……そうね、普通は連想しないかもしれない。けれど、連想してしまう事自体がそもそもの問題なの。連想してしまった人間自体が、問題。

 繭は私よ。私は繭。

 幼虫でもなく、かといって成虫でもなく、何も出来ずにじっと止まってうずくまっているもどかしい存在。

 そう、以前あなたが言っていた、モラトリアムと同じ。名前にしばられた私は、一生繭からは抜け出せないのかも、ね。

 だから私は繭が嫌い、モラトリアムと同じように。猶予なんて要らない、ひと思いにどうにかして欲しいのに」


 黙って僕はマユの言葉に耳を傾けていた。

 ああ、こう思い返せば、僕はマユに結局何一つ大切なことを言っていないのだと気づく。あれだけの時間があって、どうして僕はマユに何も言わなかったのだろうか。

 しかし、そう考えたところで時は不可逆で、戻れたところで僕にましな台詞が吐けたとも思えないのだ。


「ああ、いっそひと思いに茹でられて絹にされるっていう手もあるね。のうのうと繭のままで居続けるより、例え質が悪くてもその方が人の役に立つし。成虫になっても、私は鱗粉を振りまいて不快な思いをさせることしかできない。

 信じられる? 大人になったところで未来は暗い。むしろこの繭のまま生涯を終えた方が美しく終われるの」


「僕は、……そんなに、悲観的になる必要はないと思うけど。

 さっききみが言った通り、繭は絹になるし、それに繭は成虫になる為の準備期間だろう。嫌う理由なんて無いよ、いずれそれは終わるんだ。

 未来は暗いなんて考えすぎだろう。人間にしてみれば絹にしたいんだろうが、当事者はきっと成虫になった方が幸せだよ」


 ありったけの勇気を総動員して僕は言ってみた。それがなんら、彼女を動かす要因にはならないと知りながら。

 案の定、彼女はその愛らしい唇を歪めて言ったのだ。


「そう。だけれども、だから、自分の名前が嫌いだと言うことは、私は自分自身が嫌いなのよ」


 マユはスカートのひだを翻して僕の方を振り返った。

 彼女の口元には自嘲的な笑み。泣きそうな笑い。


 その姿を見て、やはりマユはブレザーも良いけれどセーラーの方が似合うに違いない、きっとその方が清楚な彼女にぴったりだから、と、場違いにもそんなことを思ってしまった自分を恥じた。

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