◇愚かな山羊は虚ろに現実を見据えて ……♀
どんな文脈であっただろうか。今となってはそれも思い出せない。
おそらく他愛のない会話の隙間に何気なく放り込まれた質問だったから、さほど重要な問題ではなかったのだろう。
だから私は冗談でも言って軽く流してしまうべきだったのかもしれない。けれど何故かつい、生来の素直さが災いして私は馬鹿正直に答えてしまった。
モラトリアムについて尋ねられた時、モラトリアムは嫌いだ、と答えたら随分と妙な顔をされてしまったのだ。
そんなにおかしな事を私は言ったろうか。
実際、自分はモラトリアムが嫌いだった。嫌いというよりは、自分にそぐわないと感じていたのだ。
自分の立ち位置が定まらないふわふわした微妙な期間。猶予期間があったところで、私は碌な事をしないに違いない。そんな猶予が与えられるくらいならば、さっさと世界なり社会なりの歯車に組み込まれて巨大な無機質の一部として使い倒されていく方が幾分まともに思えたのだ。
これが捻くれた若者らしからぬ思想だということは承知している、だけれども憲法で思想の自由は保障されていることだし、他人にとやかく言われる筋合いはないはずだった。
しかし考えてみれば、あの人はおそらく私に真面目な解答を要求していたわけではなかっただろうし、きっと軽口でも叩いてくるのだろうと予想していたのであって、そう思えばあの人がやけに奇妙な表情をしていたのも頷ける。
そうして私は楽しい会話をふいにしてしまったのだ。それだけははっきりと覚えている。
折角の時間だったのだ。夕暮れ時で、窓から見える景色も晴れ晴れとしていた。それなのに私が投げかけてしまった所為で、暗雲があの人の顔に立ちこめたのだ。その後、どうやって部屋を後にしたかは良く覚えていない。失態だった。
話を終えた後の、寂しげなあの人の顔が妙に記憶に残っている。
あの人は、いつもどこか別の場所を見ていた。実際に別の場所を見ているというわけではない、彼の眼差しはどこかここではないところにいつも向けられているのだ。
あの人はまるで貴族のような人だった。
貴族といっても、日本の貴族では勿論なくて、中世に生きた西洋のそれだ。本物の貴族を見たことなんか当然なかったけれども、あの人の様子、雰囲気、纏う空気、そんなものが何故かそれを想起させたのだった。
どことなく優雅で、気品がある。というと単純に育ちの良い子息なのかと想像してしまうだろうが、考えてみて欲しい。十代終わりの年齢とはいえ、なかなかそんな重厚な品を纏った学生などいやしない。
だからといってあの人は別に言葉遣いが丁寧とかそういうわけでもなく、言動はおろか思考も嗜好もごく普通の今時の若者そのものだった。
ただ、私には、その背後になんだか惚れ惚れしてしまう得体の知れない要素が潜んでいるように思えてならないのだ。そして稀にその高貴な片鱗を覗かせるのである。
だから結局これは、私の贔屓目なのかも知れなかった。けれども仕方がない。そう思ってしまう分にはどうしようもないのだから。
その一方で、誰にも悟られぬようひっそりとあの人が呼び出すのが、彼のとてつもなく深い闇である。
それは時折、会話の端々で顔を出した。不可侵だ、と直感で私は知って、それが尚更あの人を美しく彩ってしまっているのに気づく。
あれはきっと、彼にとって必要でいて亡くしてしまいたい、けれども忘れたくはないというジレンマを抱えたものなのだ。……私の、勝手な想像なのだけれども。
あの闇が無意識のうちに一層人を惹き付けてしまうのだとあの人は知らない。
彼がその闇を静かに羽織るのは、普通の人なら見過ごしてしまうほんの一瞬の事である。しかしその時に魅せる彼の深い淀みを湛えた瞳は、どこか私を捉えて放さなかった。
そう、私は自分の失態であの人を凍り付かせてしまったにもかかわらず、その時の彼の表情がとても印象的でやたら綺麗だと思ってしまったのだ、不謹慎にも。
闇が姿を現すのは、日常の中のほんの僅かに過ぎない。だけれども、その闇が故の虚無、暗い影は常に彼の周りに存在していた。
そう。ひどく陳腐でけばけばしい表現ではあったが、あの人には「孤独な王子様」という形容が一番的を射ているように思う。何かの手違いで時代を間違えて現代に生まれ落ちてしまった、悲しい人。
私と話している一方で、あの人は私の知らない世界を見つめている。その視線は私に注がれながら、私ではないどこか遠くの何かを見ていた。焦点は私に合っていたのだろうし、あの人の網膜に映し出されているのは確かに私なのだろうけれども、違うのだ。
何も見ていないのかもしれない、何か見ているのかもしれない。けれどもそれは全くもって不明瞭で判然としなかった。どうあがいても本当のことなど見当も付かない。あの人が何を見て何を考えて何を思っているのかなんて、私には到底窺い知ることなど出来ないのだ。
それは当たり前のようでいて、実際当たり前のことで、その当たり前がひどく私を悲しくさせた。
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