「綾乃、ごはんできてるわよ」

 さっきからママが何度も部屋の扉を叩いている。

「いらない、食欲ない」

 顔を枕に押し付けているから、声がくぐもる。でも、ママには聞こえたようだ。必死で噛み殺している泣き声もきっと。ママは小さくため息をつくと、下に降りていった。

 恋が、失恋がこんなにも苦しいものなんて知らなかった。勝算ないことなんて最初から分かっていたはずなのに、涙があとからあとから溢れ出る。

 目を閉じると、無邪気な笑顔、低く優しい声、ぬくもり、ほっとさせる空気……。隼のすべてがまざまざと脳裏に浮かぶ。そしてまた、鼻の奥がツーンとする。

 ごろりと寝返りをうつと、手に何かが当たるのを感じた。何度も見返して、端々がよれよれになった、黒革の手帳。

 アヤはゆっくり身を起こすと、壁に寄り掛かった。帰宅してすぐベッドに身を投げたから、シャツもブレザーも、スカートのプリーツもしわくちゃだ。明朝アイロンをかけないと。頭の片隅でぼうっと考えながら、手帳を開く。ぺらぺらと捲って愕然とした。

 最初のいじめっ子以外の顔が思い出せないのだ。

 名前も、日付も、場所も、状況も、すべてを詳らかに書いてあるのに、相手の男子がどんな人で、どんな表情でアヤに告白したのか、まったく覚えていなかった。

 ページを捲り続けてると、筆圧の強い殴り書きに辿り着いた。楼坂隼の3文字をそっと撫でる。

「あ……」

 撫でているうちに、アヤは自分と隼の違いに気づいた。

 アヤはただ、「告白される」ことだけを目的にしていた。告白前に相手のことをチェックして、自分に釣り合わないと思ったら、その瞬間に過去の出来事にして、断りの言葉だけを考えていた。「告白され」たことに満足して、相手をおざなりにしていたのだ。

 だけど、隼は違う。

 結果としては一緒だけど、隼はちゃんとアヤの目を見て、アヤの言葉に耳を傾けていた。相手を受け止めた上で、自分の気持ちをはっきり伝えていたのだ。

「なにこれ、アヤ、サイテーじゃん……」

 ぽつんとつぶやく。隼にもし、アヤがやったような対応をされていたらと思うと、耐えられなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 ぽとり。隼の文字の上に雫が落ちる。それに続くようにひとつ、またひとつと文字をにじませていく。最後の一滴が零れ落ちた時には、そこに何が書かれていたか判別できないほど、手帳はぼろぼろになっていた。

「お腹空いた……」

 これ以上体から水分出ないんじゃないか、といぐらい泣いたら空腹を覚える。当たり前のように起こる生理現象に思わず苦笑する。

「何があるかな、夕飯の残りがあるといいけど」

 掛け時計を見たら、午前1時を過ぎている。アヤは物音を立てないように、そっとドアノブを回した。と、何かに足がぶつかって、カチャリと高い音が鳴る。部屋の灯りを頼りに見ると、お盆があって、大皿が置いてあった。シリコン製のカバーで覆われている。

 お盆を持って回れ右。ローテーブルの上のファッション誌を適当にどかせてそこに置いた。カバーを外すと、部屋いっぱいにいい匂いが広がった。アヤの大好きなクリームシチュー。

「……美味しい」

 保温効果が薄れ、少し冷めてはいたけれど、確かにアヤの大好きなママの味。なみなみと注がれた皿は、ものの5分で空になった。片付けようと皿を持ち上げた時、紙片に指が触れる。4つ折りになったメモ用紙には、「元気出してネ」の言葉とともに、へたくそな絵が描かれていた。

「なにこれ、ネコ? イヌ?」

 変な生き物と目が合う。アヤの口元はいつしかほころんでいた。

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