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 ピチピチのタイトな服は思っていた以上に恥ずかしく、私は身体のラインが浮き出ることに激しい抵抗感を覚えました。やめられるものなら、いますぐやめて帰りたいです。けれど一旦引き受けてしまったという責任があるので、それは叶いません。また、私を信じて任せてくれたセンパイや、ほかのみんなの期待にも応えたいという気持ちがありました。

 ちらりと後ろを見ると、センパイがにこやかに微笑んでいます。その笑顔を見ているだけで、身体の芯が熱くなりました。

「はーい、次のシーン行くぞー」

 私の心のうちを知ってか知らずか、部長がのほほんとした声で呼びかけます。

 前に向き直った私は、センパイからの熱い視線を背中やお尻に感じつつ、演技に集中するのでした。



 事の発端は五月の頭。私たち、映画研究サークルの全部員を芸大の空き教室に集めた部長が、教卓の前で放った一言でした。すべては、ここから始まったのです。

「諸君、俺たちはSF小説『マルドゥック・スクランブル』を原作に、映画を撮るっぞぉーっ!」

 高く突き上げられた拳。想いを乗せた熱い咆哮。しかし、それを受けた一同の反応は冷めたものでした。

「…………」

 集った面々は基本的にはノリが良く、映画を観るのも撮るのも大好きな人材ばかりだったのですけれど、そこでみんながみんな一斉に、部長に倣って拳を突き上げ「おぉーっ!」なんてことには当然なりません。そもそも、まず部員の多くが、そのSF小説を知りませんでした。私だってそうです。

「……あれ? どした?」

 温度差は明らかでしたが、どうにも部長には伝わっていないようでした。みんなの様子を伺いながら、首を傾げています。

「ちょっと」

 前側の席に座っていた私は、声に反応して振り向きました。立ち上がったのは、当サークルにおいて唯一部長に匹敵する発言力を持つ女性です。メッシュの入ったふわふわの髪は揺れていて、そして見目麗しいお顔には、非難の表情が浮かんでいました。

「なに勝手なこと言ってるの」

 彼女は、これまで数々の自主制作作品で主演女優を演じ、そのことごとくで内外の高評価を勝ち獲ってきた方です。その上、姐御肌で後輩の面倒もしっかり見てくれる、憧れのセンパイでした。現在三年生。部内唯一の四年生である部長の方がお歳も学年も上ですが、おふたりはお付き合いをしているそうなので、タメ口でオッケーなのです。

「ん? どうかしたか?」

「映画を撮ること自体はみんな賛成だろうけど、なにをやるかは話し合って決めなきゃでしょ」

 そうです、なにしろ私たちは学生です。間違ってもプロの制作陣などではありません。技量やお金の問題をさておいたとしても、サークル活動に費やせる時間だって限られているのです。本来勤しむべき学業。日々の課題。アルバイト。飲み会。あれやこれや。そんな多忙な学生生活の中で取り組むのだから、撮れる作品はよくてもせいぜい年に二、三本。なので、題材は慎重に選ばなければなりません。部長の独断で、勝手に決めるなんて許されないことなのです。

 そんな至極まっとうな意見に対し、部長は両手を広げ、芝居がかった動きで落ち着くように促します。そして仰々しく、大きく二回頷きました。なんだか見ててムカつきます。私だって二年生。一年以上このサークルにいるのですが、部長のこういった態度には、いまだに口角の辺りがぴくぴくしてしまいます。

「ああ。ひょっとしたら、お前みたいに反対する人間もいるんじゃないかと思ってたよ。しかし抜かりはない。これを見てくれ」

 センパイの「ッはぁ?」という怒りのこもった反応をスルーして、部長は足もとに用意していたいくつかの段ボール箱のうちひとつを持ち上げ、教卓に載せました。そして、開けた箱の中から文庫本を取り出します。

「納得してもらうために、原作を大量購入してきた。とりあえず完全版の『マルドゥック・スクランブル』全三巻。俺は先週、いきつけの喫茶店でマスターに薦められて読んだんだけどな。見事にハマったよ。やりがいのある題材だと思う」

 首を伸ばして覗き込むと、その本が箱いっぱいに詰め込まれていました。一体いくらかかったのでしょう。

「こいつを読んで、創作意欲に刺激を受けなかった者のみ石を投げよ」

 冗談めいた、しかし挑発的な物言いでした。侮られたものです。他サークルの人間から、熱しやすく暴発しやすいと揶揄される我々といえど、空気を読まないワンマン部長の掌で転がされるほど単純ではありません。

 しかし、熱意は十分に伝わりました。センパイさえも押し黙っています。わざわざ自費で用意してくれたものをむげに扱うわけにもいかず、みんな鼻を鳴らしたり、頭をぼぉりぼぉり掻いたりしながら、三冊の本を受け取って帰っていくのでした。


 そして翌週。再び私たちは空き教室に集合をかけられました。ちなみに部室は一応ありますが、荷物が多すぎて、ほとんど物置小屋と化しています。

「それじゃあ、いまから配役その他を決めていくけど、いいかなーっユゥコピー?」

オッケーでーっすアイコピー!」

 こんな具合なのでした。

 部長の思惑どおり、わずか数日で見事に転がされてしまった部員たち。公式アンソロジーを含めたマルドゥック・シリーズの既刊すべてを読み終えて、劇場版DVDをレンタルあるいは購入し、絶版となってしまった漫画版を苦心し集めてまわし読み、そして「ヴェロシティのコミカライズはどうなっている?」なんて真顔で語り合う、そんな新しい精鋭部隊の目覚めです。ほぼ全員が声を張り上げ、もはや一丸となって臨む所存のようでした。そのノリのよさと影響の受けやすさ、正直引きます。

「じゃあ、まず主人公は君ね」

 最前列で、実は拳をひときわ高く突き上げていた私の肩に手を置いて、部長が言いました。私は「ヒャ?」とちょっとした奇声を出しながら腕を下ろします。そして、びっくりしつつも、やや傷ついた胸の内を明かすのです。

「たしかに私は小柄な方ですが、いくらなんでも手のひらサイズじゃありません。あと銃とか服とか、変身するのは無理があります」

 それを受けた部長は驚いたように、

「そっちじゃないよ! 撮るのはスクランブルって言っただろ。君が演じる主人公は、ルーン=バロット!」

 そう告げたのです。うっかりです。最後に読んだのがアノニマスだったので、ウフコックの印象が強かったのでしょうか。

 どうあれ私は慌てました。

「む、無理です無理です! なんで私なんですか」

「見た目が一番幼くて、肌も白いしな。髪はちょっと短いけど、ウィッグ付ければ問題ない」

「だからって……! 女優ならセンパイだって、ほかの人だっているのに、差し置いて主演なんてできませんっ」

 そうです、このサークルには鉄板の主演女優、影では女王様とすら囁かれるセンパイが存在しているのです。あのお方を差し置き、私などが主役なんてやってられません。私はアレです、いっそのことレア・ザ・ヘアとか演じてみたいですね。だってパンクでカッコいいじゃあありませんか。そして仲間であることを利用して近づき、フレッシュのおっぱいを好きなだけ揉みしだくのです。

「もしかして、私のこと言ってる?」

 センパイが苦笑しながら、ふわふわの綿菓子みたいな髪を揺らして歩み寄ってきます。モデル顔負けなスタイルのせいもあってか、ただ歩いているだけで辺りに花が咲きそうです。センパイは私に顔を近づけて、やさしく諭すように言いました。

「いくらなんでも、私にバロットは無理よ。イメージに合わないじゃん」

 さらに、私の背中に手をまわして、やさしく撫でさするのです。やわらかくって、あたたかい手のひら。なんだか、頭がほわほわしてきます。

「見てみたいなあ。あなたの、激しいアクション」

 センパイは耳もとで囁き、息を吹きかけ、ついには私の腰に腕をまわそうとしました。しかし部長の咳払いに阻まれて、名残惜しそうに離れます。背中の感触と、鼻腔に残った甘い匂いが痛烈でした。しばらく、心臓の高鳴りがおさまりそうにありません。心身ともに火照った私の隙を突くように、部長が言います。

「じゃあ、そういうことでいいよな。反対意見もなさそうだし」

 まわりを見れば、ほかのみんなも口を挟む気はないようでした。ある人は深く頷き、またある人は親指を立てて激励してきます。

 そもそも、部長とセンパイが同調しているのに反論できる人間なんて、このサークルにはいないのです。皆無です。当事者の私でさえもが、そうでした。ううぅ、どうしましょう。

 そんなとき、ずっと座っていたショートヘアーの女子部員が手を挙げました。同学年で、割と仲良しのクール系女子です。

「でも、本当に映像にして大丈夫なんですか? そもそもの原作に、倫理規程に触れるような描写が多々ありましたけど」

 ここに来てようやく、冷静な指摘が入ります。そう、そのとおりです。マルドゥック・シリーズは映像化するにあたって、問題視されそうな描写や設定が多々存在するのです。再現できるできないに関わらず、その点をもっとよく吟味すべきでしょう。だいたい、まずヒロインの肩書きが元少女娼婦ってのがヤバいです。こんな危険物を日本国内で実写撮りしようなんて人間は、失礼な話、ちょっとどうかしてると思います。

 水をかけられ、静まる室内。それでも、一度灯った火を完全に消すまでには至りませんでした。

「そこはそれ! なんとかなァる! そうだよな、お前ら!」

「うおおおぉぉ!」

 男性陣、特に役者よりの部員たちが、部長とともに勢いに任せて叫びます。道具係や衣装係、CG班など、裏方担当の方々の表情は微妙でしたが、それでもはっきり苦言を呈するほどではないようです。先日部長が言っていたとおり、やりがいはあると考えているのかもしれません。また、人望あるセンパイも同意していることが、やっぱり大きいのでしょう。

 こうなっては、意見した女子も私も、腹を括るしかないようです。目が合いました。お互いに苦笑いを交わします。

「さあ、やろうぜみんな! 文字数は……じゃない、時間は限られているんだから!」

 なんだかおかしなことを部長が口走りましたが、私たちはかまわず、再び拳を天へと突き上げます。

「おぉーっ!」

 すっかり気持ちは前向きです。

 こうして、苦難必至の映画作りが始まりました。


 部員一丸となって、話し合いは進みます。

「それじゃあ俺、ボイルドね! 監督兼、敵役。ワイルドなところがぴったりだし」

 いつも押し切るスタンスに定評のある部長でしたが、このときばかりは部員全員からの断固たる反対に遭いました。あえなく、ミディアム・ザ・フィンガーネイル役へと落ち着くことに。センパイから冷淡に、「この意見を通したら別れる」と宣告されたのが効いたのかもしれません。


 気づけば、もう月が変わりそうです。時間は驚くほど早く経過していきます。

「ウフコックはどうします? どっかからハムスター借りて着色します?」

「虐待だろそれー。CGでいいんじゃね? 専攻してるやつ、何人もいるんだし。機材はまた学校から借りてさ」

「でもぜんぶそうすると、素人芸じゃカクカクしちゃいますし、違和感出ますよ」

「あ、ヒヨコ。ヒヨコ使ったらどうスか? 色はまあ、仕方ないからそのままにして。全身黄色だから、ハムよりかはマシでしょ。誰かのアフレコで、しゃべるヒヨコ。オリジナル要素ってことで。どうです?」

「採用ーっ!」


 ついには撮影が始まりました。実力派なセンパイはと言えば、今回男性役に徹しています。ドクター・イースターの白衣とまだら髪なのに、色気たっぷりなご様子です。

「そこ、ドクターとバロットで変な空気を出さない!」

「なによぉ。撮影前なんだから、関係ないじゃん。なんの問題があるの」

「……役作りに影響とか出るかもしれないだろ! とにかくやめろ、離れろ。ああぁ、バロットの耳をかじるな、跡がつく」

 されるがままになっていた私は、センパイの愛撫から解放され、大きく息をきました。センパイは後撮りでシェル役も演じる予定なので、いまから気が気じゃありません。果たして私は、貞操を守りきれるのでしょうか。

 そうこうしているうち、部長とセンパイの言い合いは、痴話喧嘩にまで発展しました。正直、よそでやってほしいです。しかしながら私自身が喧嘩の一因なので、口には出せません。


 連日の緊張と疲労。肉体の酷使。精神の摩耗。そんな状態だと、良識派の私だって暴走することもあるのです。

「……どうしたの、それ」

 こちらから話しかけた相手は、撮影準備に取りかかる直前、部長に意見していたクール系女子の友達です。ただし、いまは彼女本来の様相をしていません。

「すごいでしょ。同じ学科に、特殊メイクに凝ってる子がいてさ。フレッシュなら、あんまり動かないからゴテゴテした造形でもギリでイケるって……てか、あんまり近づかないで。変に触ったら、崩れちゃうかもだし」

 たわわに実ったおっぱいを全身に移植した異形の怪物。夢にまで見た、フレッシュ・ザ・パイクがそこにいました。

「ふ、ふふっ、フレッシュ。見事なフレッシュだねソレ。フレッシュじゃないの。フレッシュ……。すごいな。質感とか、どうなってるんだろ。私のフレッシュ」

「ど、どした?」

「ふ、ふしゅ。フレッシュ。動かないで。少しだけ。すぐ済むからじっとしてて」

「ヒィ⁉︎」

「ちょっと! 落ち着きなさい。特に、バロットの衣装を着たままではやめなさい。離れて見てると、ヒロインが太っちょの大男を襲ってるみたいよ」

「でもセンパイ、フレッシュが。私のフレッシュのおっぱいがそこにあるんです。ちょっとひと揉みすれば、満足できると思うんです」

「どういう性癖なの!」

「さきっちょだけでいいから!」

「だれか助けて!」

 気づいたときには、私は男女含む数人の部員たちに取り押さえられていました。そして翌日の緊急部内会議にて、私はフレッシュ接近禁止命令を出されます。友達は一週間、口を聞いてくれませんでした。ハンセイシテイマス。


 不幸な事故のあとでも、撮影はつづきます。

 部長の演技はお世辞抜きに大変お上手なのですが、彼にしかわからない、妙なこだわりがあるようです。度重なるリテイクに、今日もセンパイが怒ります。

「いいかげんにしてよ! あんたの登場シーンばかり撮り直してちゃキリがないでしょ! なにが気に入らないっての? いまさら配役は変えさせないわよ」

「いや、それはもういい。いまはミディアムだって大好きさ。ただ、もっと彼の、どろどろしたいやらしさを表現したいっていうか」

「時間がないって言ってたのはあんたでしょ!」

「ミディアム大事だろ! あいつはなぁ、仲間の仇を取るために、たったひとりの猟犬になってもあきらめず――」

「そんな粘着質なダメ男だから、鮫に大事なところを吐き捨てられるのよ!」

「それ漫画版の話だろ⁉︎」

 取っ組み合いが始まる前に、おふたりを引き剝がさねばならないので毎回大変です。


 気づけばもう数ヶ月。それだけ長くやっていれば、時には根幹に関わるような大きな失敗も発覚します。

「……ヒヨコ使おうって言ったの、だれだっけか」

「たしか道具係の二年……」

「それで最近、顔見せないんだ」

「部長命令だ。引きずってでも、やつをここへ連れて来い!」

「でも、部長自らOK出してましたよね?」

「…………だれかを責めるな。止めなかった己を責めろ」

「……あぁ。ウフコックの出るシーン、いまからぜんぶ撮り直しかぁ」

 コケッ。コッココッ。コケッ、コッコー!

 芸大の敷地内に、ニワトリの元気な鳴き声が響き渡ります。

 ちなみに道具係の彼は、故郷行きの新幹線に乗り込む直前、数名の男子部員に捕獲されました。


 今日は裁判です。それと言うのも、部長が撮影開始前に購入していた文庫本の支払いが、なんと部費で賄われていたことが判明したのです。

 部長は空き教室の真ん中で正座を強いられ、部員全員に囲まれています。プレッシャーに気圧されて、さすがに口数が減っているようです。ちなみに今回の裁判に限り、弁護人は存在しません。

「これだけの額を……なんの相談もなしに、使い込んでたっていうの?」

 センパイが怒りを押し殺した、ふるえる声でつぶやきました。無理もありません。なにしろ五十人近くもいる部員たち。その一人一人に文庫三冊を手渡せば、単純計算で軽く二桁オーバーしちゃいます。

 追従するように、私たちも口々に不平を漏らしました。

「信じられません」

「もし俺らが受け取ってなかったら、ただの妄執的なファンじゃねえか」

「え。コレ、あたしらで出さなきゃなんないワケ?」

「しょうがないだろ、でなきゃ予算たりないし」

「サイアクー」

 無理やり手渡されたに等しいものに、実は自分たちのお金が使われていたと知ったのです。物の良し悪し、その是非に関わらず、こんなのどうしたって不満が爆発してしまいます。

「いや、俺はみんなのためにもなると思って」

「ひとりの身勝手な思いつきで、みんなが苦労することだってあるんスよ!」

 少し前に袋叩きの目に遭ったばかりの、道具係の彼が叫びました。一同からの冷たい視線には気づいていません。彼は彼で、部長とは別の意味で問題児です。あと、例のニワトリは大家さんの許しを得て、彼がアパートの裏庭で飼うことになりました。

 やや場の温度の下がったタイミングで、センパイが言います。

「まあ、こうしてても仕方ないか。みんな、金曜までに三冊分の合計金額持ってきて。間に合わない人は、応相談。いいわね?」

 納得いかないまでも、ここが落としどころでしょう。みんな渋々頷きました。だって部長個人での支払いは難しいと、わかりきっていますから。彼が普段から自分のアルバイト代を部費につぎ込んでいることを、私たちも知ってはいたのです。

 すべては、よりよい物を作るため。


 ガン・アクション。

 襲来する敵。標的=私/迎え撃つ。

 閃光バン閃光バン閃光バン

 モデルガンの冷えた銃身と身体の熱のコントラストに、身震いしてしまいそうです。最初は恥ずかしかった衣装も、いまではすっかり馴染んでしまいました。

 しかし、物足りなさも感じています。

「部長。やはり新たにバロットとフレッシュの邂逅シーンも入れた方がいいのではないでしょうか」

「却下」


 不思議です。私たちのいる大学は総合芸術大学なのです。芸能、演劇、演出、コンピューター・グラフィックス。各学科の授業で嫌というほどやらされている作業を、みんな嬉々として実践しています。いかに技能が秀でていようと、普通はもうちょっと、サークルでくらいは手を抜きたがる人がいるものではないでしょうか。映研には一年以上在籍していますが、ふいにそれが気になりました。

「あなただって、そうじゃない」

 ついに連れ込まれてしまったセンパイの部屋で、彼女がその疑問に答えます。

「本当なら、断ったってよかったのに。衣装だって、初めの頃はあんなに恥ずかしがって……。でも、ずっと本気でやってる」

 そう言っている途中、センパイはよだれの溢れた口もとをティッシュで拭いていましたが、気にしないことにしました。

「それは……ご指名でしたし、引き受けた責任もありますし」

「ないわよ、責任なんて」

 まるで突き放すような口調でした。

「私たちは、あくまで素人。学生のお遊び企画なんだから、もっと気楽にやってもいいはずなのよ。でも、みんな全力で取り組んでる。積極的に各々の技術を活かそうとしてる。なんでだか、わかる?」

 少しだけ考えて、答えます。

「……部長の、影響でしょうか」

 毎回、部長の強引な手腕や勢いに呑まれる私たち。しかしその先には、いつも必ず、楽しくて仕方ない瞬間がありました。それはまるで生きがいを手にしたような感覚で、抗いがたい熱情が全身を駆け巡っていくのです。

 センパイは、ふふふっと声に出して笑います。

「たぶん正解。不思議よね。だれもが彼のリーダーシップに不満を持ってる。なのに気づけば、ついていっちゃうんだから」

 彼女は少し寂しそうな目をして言いました。喧嘩するほど仲がいい! なんて楽観してましたが、おふたりの仲は、うまくいっていないのでしょうか?

「なんだかんだで、センパイが助け舟を入れてるおかげだと思います」

 そう言うと、センパイは目を丸くしました。そして薄く微笑みます。

「どうかな。そうなのかもね」

 そうつぶやいて立ち上がり、いよいよ私の隣に座りました。さらに手を取り、詰め寄ってきます。

「でも、いま私が一番興味を持ってるのは、あなたよ」

 ごくりと唾を飲み込みます。また、例の甘い囁きです。耳の奥が痺れてきました。期待と恐怖で、汗が噴き出てくるのを感じます。

「……部長と、付き合ってるんですよね?」

 私の最後の抵抗をせせら笑うように、センパイは迫ってきます。

「彼のことは好きよ? 愛してる。でも、日本料理を愛する美食家は雛料理バロットを食べちゃいけないなんて、そんなバカな決まりはないでしょう?」

 私はやっぱり、なすがまま。頷くことも、首を振ることもできませんでした。雛料理より、猫を前にしたネズミと表現した方がピッタリかもしれません。

「それに。女同士なら、浮気にはならないわよ」

 その考えが正しいのかどうかはわかりません。ともかく、やわらかい手の感触と甘い声に理性をとろとろに溶かされた私は、ついに彼女の唇へと吸い寄せられていき――

「たーすけにきたぞぉー!」

 部屋の外から、そんな声が聞こえました。つづいてインターホンが鳴り、さらにはドアをドンドンと叩く音が響きます。なにより部長の張り上げた大声は、ドア越しでもよく届くのでした。

「ここ開けろーっ! 後輩……それも主演女優に手を出すんじゃねえ!」

 センパイが心底忌々しげに舌打ちします。

「チィッ、勘のいいやつ」

 夢から醒めた心持ちの私は、なんだか残念なような、ほっとしたような気になりました。


 協調。暴走。裏切り。懲罰。裁判。恋愛。愛欲。我欲。部員一同のさまざまな想いが、時にぶつかり、時に弾けていきました。そしてとうとう、長きに渡る撮影期間に終止符が打たれようとしていたのです。

 しかしそれは、『マルドゥック・スクランブル』を完全に撮り終えたからという理由ではありませんでした。

「部長、大変です! もう文字数制限……じゃない、部長の卒業がそこまで迫っています!」

 なんだかおかしなことを部員のひとりが口走りましたが、私たちはそこにはツッコミません。「くっ、なんてことだ。もっと色々できると思ったのに……」

 そう。問題は単純にして絶対の敵、時間です。持てる力を注いできた私たちでしたが、これについてはどうにもできません。なにしろ撮影は、物語全篇のうち、三分の一程度にしか届いていないのです。

「……やむを得ん。文庫本一巻分までを撮り終えたら、編集作業に移れ!」

 センパイでさえ異論を唱えることもできず、爪を噛んでいます。ほかのみんなも似たようなものです。ニワトリを飼っている道具係は、床を蹴って悪態をつきました。たぶんウフコックのヒヨコ問題がなければ、もうちょっと進捗はマシでしたが、そこはもういいでしょう。

 ともかく苦渋の決断です。しかし仕方ありません。これは部長含む、私たち全員の致命的なミスなのです。

 作品を手がけるときは、しっかりと筋道を立てて、その上で理詰めで取り組むことが重要なのです。テーマ、構成、キャラクター、舞台設定。しっかり理解と把握をし、構築していく必要があります。間違っても「おッ。これ面白いんじゃね?」なんてノリだけで、行き当たりばったりで動いてはいけません。ただ楽しければいい、じゃ何事も為せません。あとあと後悔します。本当です。大変なんです。

 部長も就職活動などをせねばならなかったでしょうに、撮影期間中、一切そんな素振りは見えませんでした。厳しいことを言わせてもらうなら、好きなことばかりしている人間はダメになる、という典型です。この先、一体どうしていくのでしょう。

 私の心配をよそに、部長はカラッとした声で言います。

「あっ、そうだ。じゃあ俺、会社興して、このつづき撮るわ。初めに思ってた以上に出来がいいし。いや、まず先に映像送って、出版社と接触なんかしてみるか。つうか、君らみんな就職して、ウチの専属にならない? イエスのやつ挙手」

 その場にいた部員たちは、最初はざわついていたものの、おもむろに手を挙げ始めます。結果、なんと支持率百パーセント。少し前に修羅場を迎えていた、センパイまでもが挙手していました。

 いやいや世の中そんなに甘くないでしょう、思いつきでなに言ってるんですか。お給料すら、ちゃんと出るのか疑問です。みんな、なんで賛成してるんですか。いくらなんでも舐めすぎです。

 ひときわピーンと指先を伸ばしながら、私はそんなことを考えていたのでした。


 ……どうやら、まさかの「俺たちの戦いはこれからだ」エンドで、今後も撮影はつづいていくようです。

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‪もし映研サークルの部長が冲方作品金字塔『マルドゥック・スクランブル』を読んだら‬ 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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