Sample,No6 【Nobody knows.】
頬を撫でる空気に、しばらくすれば訪れるであろう夜の寒々しさを思う。けれど遠く延びる街路樹は目に入る景色の全てを麗らかに、そして呑気に飾っていた。
雲のように遠くまで連なるピンク色の花びら守られて、幅の広い道路を走る車たち。何世紀も前、いつ空を飛ぶのかと言われていた四駆たちは結局それが出来るようになった今でさえ地を這いずり回っている。
仕方がない。燃料と力学が空中走行を非効率だと判断したからに過ぎない。そりゃ、納得せざるを得ない。
着慣れない制服のままに歩道を行く。
目的地はなかった。これはきっと、思春期的なあれなんだ。
高校3年生の始業式。この日ばかりは、どんな登校拒否児でも必ず出席するイベントがある。
この国における大人の証。ソーシャルフォンと国民Noの配布。17桁のそれは前13桁が通信にも使える携帯番号。後半の4桁は僕と、僕に宛がわれるであろうアイドロイドだけが知るシークレットナンバー。これは絶対に知られちゃいけないと学校でもしつこく言われていた。
受け取ったばかりの、ピカピカのシャルホを操作する。昨日まで使っていた端末からのデータ移行は済んでいた。使っていた電話番号13桁は変わってはいない。けれどこれはもう、昨日までのおもちゃのような連絡端末ではなく、自身を大人と証明する為の、いわば自分自身そのものと言える程重要なものとなっていた。
ソシャホに替わった後、新たに追加されたアイコンを押す。
BIという項目には8桁の数字が並び、ENという項目は0になっている。
これは、僕が生まれてからこれまで蓄積された国からの支給金。その総額から小中高義務教育分の学費やその他の金額、そして医療費、更に両親が僕に課した習い事等の料金を差っ引いた残りの金額。
つまり、この金額は大人になった僕が初めて自由になるお金。この国に生まれた恩恵だ。
BIは毎月支給される。勝手に増えていく。ENは経済影響力。(Economic influence)正式名称Eco-in、略してenと呼ばれ、この社会での活動によって蓄積、或いは消費される通貨だ。国から支給されるBIと同等の価値が認められている。
これだけあれば何でもできるんだろうな。まぁ、国の統計上高校3年の一年間だけでそれを使い切る人間の約4割が、自身の世代では完済できないほどの負債を背負ってしまうらしい。ある種、社会が初めて架す試金石。そう思えてならない。
そう考えると、もしかしたら、国は僕のような行動を取る人間のデータも持っているのかもしれない。であれば知りたいな。この道の先も含めて。ふと浮かんだ哀愁的な何かを鼻で笑ってから、シャルホの表示を閉じ、慎重に胸ポケットに収める。
行きたくもない学校に行き、シャルホを受け取り、僕は今、家出の真っ最中だ。
別に、どこに行きたいわけでもない。少なくとも家には帰りたくない。それだけだ。
昔から、自分はどこか、他の人間とは違う要素を持っていると思っていた。
父も母も僕には優しかった。無論それは厳しくする必要がなかったからに過ぎない。きっと両親を困らせることもなかったはずだ。父のアイドロイドでもある母は、もしかしたら僕の異常には気付いていたのかもしれないけれど。
母がアイドロイドであること。これは別段特別なことではない。むしろ人間同士の両親を持っている子どもの方が少ないんじゃないかとさえ思う。
父は、余り頼りがいのある人物ではなかった。けれど母のお陰でなんら不満はなかった。ここについては間違いないと言える。
だからこの僕の行為は完全に、僕の底から滲み出た意思だ。
誰の所為でもない。僕の意思だ。
桜の並びは途切れない。疲れは些かもなかった。思いのほか、高揚もなかったけれど。
授業に出ていない間、母は僕にこの国の歴史を学ぶように言い付け、文献にさえないようなことも教えてくれた。それに素直に従った僕は、恐らく同年代の中では過去世に詳しい方だろう。
この国は昔、今とは違って人の集まる場所と集まらない場所にばらけていたらしい。
僕の住むこの辺りも、当時は限界集落と呼ばれる老人しか住んでいないような場所で、交通の便も悪かったという。
BI、ベーシックインカムの開始がそういった地域からスタートするという告知によって、自ずと住民の大移動が始まった。AIもアイドロイドもまだまだ発展途上だったらしいが、それでも全世界のオートメーションを牽引し、一定以上の成果を収めていた当時の政権は強気だったのだろう。各自治体と水面下の準備を行い、住民の再編、国主導によるオートマチズムの超拡大、アイドロイドの公務従事を可能とする法改正等々を乱発した。当時を説明する文言には、電光石火、一気呵成なんて枕詞が必ず付いている。
そんなパラダイムシフトばりの改革には、裏で宇宙人が絡んでいたなんて、そんなとんでも仮説が残っているほどのものだったらしい。無論宇宙人なんて今でも見つかってはいないけれど、この国がそれを契機として急速に発展したのは間違いない。
いや、それよりも重要だったのは国営のVRフィールドの構築かな。少なくとも僕はそう思っている。この国がまだ陰鬱とした労働社会だった時、国民総技術者を目指して構築された仮想空間。今でも利用されているものだが、これは元々、プログラムやコンピュータ言語の知識のない人間でも感覚的にその構築を行える仕組みを目指したものだった。
ああしたい、こうしたいという想像力を原動力とし、仮想空間内の補助を受けプログラムを構築する。当時これに熱中したのがちょうど僕と同じ年代の子どもたちだ。そして目論見は成功し、その先に今のような技術の発展があった。そこは間違いないと思っている。
この世界は、当時の子供たちの想像力が造り上げたものだ。
そして今、僕はその事実を、欠片として誇らしく思えていない。
当然だ。今の僕には、何も出来ないからだ。
熱があった。誰もが競い合うように活動していた。そんな世界を目の当たりにして、僕は今の社会を、とてもつまらないものと思っていた。思っている、の、かもしれない。
このどこまでも続く道路と桜が、遥か昔のまま、生い茂る山道であったなら。
多くの住宅が並ぶ街並みが、過去の画像で見たお茶畑であったなら。
僕はきっとそこを走り回り、虫を追うだけの無知な子どもでいられたのだろう。
けれど今、僕は名実ともに大人となり、自らの権利を利用することさえ許可されてしまった。
この国の過去に触れ、発展途上であったことを羨ましく思っている僕は、それに相応しい存在なのだろうか。
その時であればきっと、僕にも何かが出来たのではないかと。
僕も一人の人間として、自分にしか出来ないことが出来たのではないかと。
その、程度だ。僕が家出した理由は。
むしゃくしゃしてやった。それでもいい。間違いではない。
変な笑いが込み上がってくる。遠慮なく、声に出してみた。
隣の行政区に続くであろうこの道を歩く人間は他にはいない。見晴らしの良いところだから、遠くには緑色の山と、その手前に住宅地が見える。過去のビジュアル資料で見たことのある、中規模都市の光景によく似ている。
きっと、どこまで歩いてもこんな景色なんだろう。森林には野生の動物たちがいる。アイドロイド達は僕らの為に自然の保護も担ってくれている。彼らの行動原理は全て僕らの為。一時は瀕死とまで言われた地球は、もう数百年生き永らえることが約束されているらしい。もちろんそれは人間の成果だ。人間が作り出した、有能な隣人の成果だ。
家で待っているであろう僕のアイドロイドはどんな顔をしているのだろう。ふと、そんなことが頭を過る。初対面での好感度は99%良いらしいが、恋愛なんてしたことのない僕にはそのビジュアルが到底想像つかない。
女性型か男性型か、それさえも僕の深層心理に根付いているという。だからどっちが来てもおかしくない。無論、それこそ自分の気付いていなかった嗜好に気付いてしまう結果にもなりかねないが、僕の知る過去とは違い、そんなことで偏見や差別が生まれるような社会でもない。ありのままを、あるがままに受け入れてしまえる社会がある。
なぜなら、全員が満足しているのだ。他人を否定する必要も、ましてや肯定してあげる必要もない。そんなものは前時代的な発想に過ぎない。むしろ、過去に執着をもって学びでもしなければそんな発想にさえ至らないだろう。
諦観にも似た感情に視線を伸ばす。遠く、進行方向に一戸の掘建て小屋を見つけた。
思いがけず得られた目的地。けれど、そこに至るまでの情熱を燃やし切る間もなく辿り着く。
少しだけ、つまらないと思ってしまう。その目的地がただのバス停であったことも落胆の一因。
更に言えば、先客がいたことも残念で仕方がなかった。淡いベージュのワンピースと紺色のカーディガンに身を包みベンチに佇む彼女は、はっきりと僕を一瞥した。一瞥し、興味もなさげに手元の本に目を落とした。長い黒髪はそんな微かな仕草にも呼応して彼女の肩を撫で、ややきつめな形をした目は細く、細やかに、文字を追っているようだった。
そんな僕の旅路に唐突に現れた人物は、何とも興味を引く題目の文庫本を読んでいた。
【アンドロイドは電気羊の夢を見るか?】
古典とも呼べるSF作品。確か、作者の名前は何某・何とか・ディック?だったか?
読んだことはないが粗筋くらいなら知っている。今とは違い、アンドロイドと人間の境が明確でない世界の話だったという知識がある。
立ち止まってそれを見ていた僕は、再度彼女からの一瞥を受ける。一瞥というよりは、見咎めるに近い鋭さ。生じる動揺を隠しつつ、つい何となくバス停で次発の時間なんかを確認しちゃったりなんかした後に、意を決して、彼女の左に座る。
怪訝に目尻による左の瞳。その微かに青みがかった黒に身体を強張らせた後、頑張って笑いかける。目を逸らされた。文庫だけに注がれる視線。
「それ、古典だよね。珍しいね?」
彼女の目が止まる。再度睨まれる。ため息一つ。本が、閉じられる。指で挟んでいる。
「…貴方、左から、来たわよね。この道の先の、街の、人?」
一つ一つ、確認をするような言葉。
「うん、そうだよ。この先にある街から来た…」
最後の、はっきりとした発音に意思を感じていた。
「人間、だよ。」
「…あ、っそう。ならいいんだけど。」
小さく漏れた息を僕は見逃さなかった。再度本を開く彼女に質問を向ける。
「もしかして、君も家出?」
そんな不可解とも言われかねない問い。けれど反応は早かった。指をしおりにすることも忘れ、大きな目をして僕に向く彼女。
その視線はまじまじと僕を探っているようだった。それがくすぐったくて、どうにも笑いそうになってしまう。一頻り僕の見聞に満足し切ったのか、幼くも悪戯っぽい笑顔を見せる彼女。
「…分かった。あんたも3年ね?」
「ご明察。」
「私のアイドロイドじゃないのね?」
「好みの顔してる?」
「いえ、全然?」
「僕もそうだ。」
微かに笑い合う。吹いた風に桜が散り、彼女の手元を通り過ぎる。
「珍しいものを読んでるね。」
「ええ、知ってるの?」
先ほどまでの頑なさはやや解れ、微かな親しみ程度は見出せそうな表情。
「うん、粗筋程度だけど。歴史が好きなんだ。」
「珍しいわね。昔のことなんて、無視したがる人の方が多いのに。」
「そうかな?文学作品も含めて、僕は過去に敬意を評するよ。」
「奇特ね。そんな人、周りにはいなかったわ。」
「僕もそうさ。だから家出した。」
「目的地もなく?」
「そう。君も?」
「ええ、この道の先に、何かあったらいいなって思って。」
「それなら同じだね。この道の先に、何かがあればいいなって思ってた。」
「なら、そのまま右に向かうのはおススメよ?オートマチズムに満ちて、アイドロイドが微笑みかける、そんな夢のように快適な街があるわ。」
「そうなんだ。それは楽しみだ。まるで僕の故郷とそっくりだ。」
「あらそう?」
「ああ、そうさ。」
そういって、先ほどよりも大きく笑い合う。
「君はなんで、ここにいるの?」
バス停。別段、バスを使わなければならない距離じゃない。僕でも歩けるくらいだ。
時刻表を見ておいて良かった。つい今しがたバスが通り過ぎたことを知らなければ、この質問は出来なかったと思う。
「そう、ね。強いて言うなら、疲れたから、かな。」
「なるほど。それで、休憩後はどうするの?」
その問いに、まっすぐと僕を見る。束の間見詰め合った後、どちらともなく笑顔が浮かぶ。
「そうね。貴方と反対に向かうわ。」
「なるほどね。同志ではないんだね。」
「ええ、そうよ。貴方が本当に人間であっても、それを確かめる術はないもの。」
「必要なら、どんなレバーでも握るけど?」
「残念ね。そんなのがあれば、私も家出なんてしなくて済んだのに。もっとも、私の家のアイドロイドは共感も感情移入もお手の物だったけどね。」
その優しく吐き捨てるような言葉は、不思議と返したくなる魅力に満ちていた。喉が緩み、気持ちが和らぐような気さえしていた。
「アイドロイドが嫌い?」
「不躾ね?ええ、嫌いよ。人の真似をしているようにしか見えない。」
「そうかな。彼らは彼らなりに、人と自分の境をはっきりさせているように見えるけど。」
「ええ、そうね。だからこそ、人じゃないことが気になって仕方ない。心を許した瞬間に、それが多くの計算の上で成り立った結果でしかないと思ってしまう。」
「そこに悪意が見当たらなくても?」
「見当たらなくても。私は人が良いわ。人と一緒にいたい。」
「人なら誰でもいいの?」
「そうかもね。貴方以外なら歓迎かも。」
彼女の白い肌が、少しだけ紅潮しているように思えた。だから、そんな悪態にも笑顔を返せた。
語らいが心地よかった。例えその終わりに、お互い逆の道を行くとしても、今しばらくは楽しみたいと思っていた。
バス停が仄かに灯る。もう、そんな時間か。
「ここってさ、昔は山だったんだよ。知ってた?」
「そうなの?」
大きく見開かれた目が素直な驚きを感じさせる。少しだけ、これはきっと、嬉しい、って感触なんだろうか。説明し難い感情と、補足の説明が共に溢れる。
「そう。遠くに見えるあの山まで、今の季節なら緑以外の色はなかった。特産品はお茶の葉、一部では煙草の葉も育ててたらしいよ。けれど年々生産者も少なくなって、住民もいなくなって、一度は無人になって地図から消えたこともある。国の再編がなければ、この道も、桜も、存在していなかったはずだよ。」
「想像、出来ないわね。こんなに綺麗で整った、この国の縮図みたいな景色なのに。」
既に文庫は彼女の手から離れ、傍らに置かれていた。遠くの眺める彼女の横顔。僕の視線が自分に向かっていることに気付いたのか、左に座る僕に身体を向けるように、右の人差し指が本の表紙を差す。
正面から彼女を見る。その青みのある黒い瞳がよく似合う白い額の下、切れ長の目を細め、薄い唇を微かに開き、内緒を呟くように息を吐いた。
「この本で脱走したアンドロイドが元々どこにいたか、知ってる?」
「確か、火星、だったっけ?」
「そう。火星から脱走して人の世界に紛れたアンドロイドと、それを追う賞金稼ぎのお話。1900年代に綴られた杞憂に反して私たち人間は人間として尊重されているし、アイドロイドが人間に紛れることはない。むしろアイドロイド自身がその辺をとっても気にしてるようにも見えるわ。」
「確かにね。アイドロイドはアイドロイドだ。地球でも火星でも、同じように存在しているはずだよね?」
その言葉に、彼女の表情が一層笑みに染まった。それは悪戯よりも強く、濃い色をしているようにも思えた。
「私はね、9歳まで火星にいたの。火星、行ったことある?」
火星。人類にとっての2次殖民地として開拓が進められている場所。けれどそれはこの国ではなく、諸外国主導のものとばかり思っていた。
「いや、ないよ。火星に行ったことのある人に会ったのも初めてだ。」
「でしょうね。この目の色はその名残。火星は人種の別もなく、人はみんな同じ色の目をしているの。不思議でしょ?」
「確かに。何か理由があるの?」
「いえ、それは知らないわ。けど私の目の色が変わったのは火星に行ってから。それは間違いないみたい。この国の住人だって証明に使われた赤ん坊の時の写真で、私の目は黒かったから。」
「いろいろ、複雑な事情があるみたいだね。」
「ええ、そうよ。その辺は端折るけど、いろいろあって、火星から地球に降り立って、私は人とアイドロイドの見分けがつかなくて困ったの。火星にいたときは、目を見れば分かったから。」
「火星では見分ける必要があったの?」
「いいえ、なかったわ。みんな優しくて、仲も良かった。人種も生まれの差もなく、多くのアイドロイドは私たちの円滑油として重要な役割を果たしていた。」
「君の言いたいことが分からないな。アイドロイドが嫌いって話じゃなかったっけ?」
「ええ、嫌いよ。地球に来てからね、向けられる親切が、アイドロイドのものなのか、人のものなのか、それが分からなくなってしまったの。それを確認するのが、とっても怖いの。この気持ち、わかる?」
「いいや、きっと僕には分からない。それにそれは、分け隔てるべきものではないと思う。」
「貴方は珍しいくらいに人間的で、嫌味なくらい素直なのね。」
そう言って、彼女は僕に向けていた姿勢を正面に直す。
いつのまにか、周囲は暗くなりつつあった。周囲の明るさはバス停と、いつの間にか灯っていた街灯。ベンチの上の時計を見れば、間もなく、右から左へと向かうバスが来る時間。
「ねぇ、一つだけ聞いていい?」
こちらを見ることもなく、彼女が呟く。
「もちろん。素直な僕には遠慮なく。」
「ふふふ…貴方の言うようにね、この景色が緑ばっかりの頃だったなら、私はアイドロイドと仲良くなることが出来たのかしら。」
それは、とても難しい質問に思えた。
彼女の想うその頃、社会は今ほどアイドロイドに依存してはいなかった。本当に機械的な、物質的なものを利用する程度の認識だった。労働しか求められてはおらず、人の介添えたる役目はなかった。
そこに優しさなどはなかっただろう。人との境も今以上に明確だっただろう。だからと言って、それが彼女の求めるものと言えるのだろうか。
今の世界が情緒に薄いことには気付いていた。現代の方が明らかに恵まれているにも関わらず、過去に馳せる羨望はその熱狂や使命感に向けられていた。今に望めない、不完全なものに向いていた。
けれど、きっと今が過去だとしても、想いは更なる過去に向かっていたのかもしれない。いずれ今が過去と呼ばれるとき、未来というその時の今から羨望を受けるのかもしれない。
未来で何を失くすのか、今しかないものが何のか。当然、僕には分からないのだけれど。
首を傾げるようにして僕を見る彼女。揺れる髪が、その肩を滑り落ちる。透き通るような、どこまでも純粋な感情を向けられていると、何故かそう思えた。
だからだろう。僕は、思いのままに応えようと、そう思った。
「それでも僕らは、今日という日に違う世界を見に行こうとしてたんじゃないかな?」
彼女の驚きは分かり易い。切れ長の目が大きくなる。やがてそれは再度細く、楽しそうな笑みに変わる。
「あはは、それは間違いないわね。きっと、どうせ悩んでる。それが人間だもの。」
「そう、歴史もそう言ってるよ。一人で悩んでも仕方ない、ともね。」
「それって自分に言ってる?」
「違うよ。君にも言ってる。」
遠くから重いエンジン音が聞こえてきた。目を向けた先、街路樹の間に、大型のバスの姿を垣間見る。
「バスが来るよ。乗る?きっと、この先の街まで行けるけど?」
「貴方はどうするの?」
「うーん…そう、だね。僕は、乗るよ。この小屋から出て、左の先にある街に行く。」
「そ。なら、私は乗らないわ。約束だもの。貴方が去った後、右の先にある街に行くわ。」
「そう。少し残念だ。」
「奇遇ね。私もよ。こんなに人と話したのは、多分、この星では初めて。」
僕らの前で、大きな息を吐きながらバスが停まる。中を覗く限り、広い車内には誰も乗ってはいないようだった。
僕らを見る運転手に手を挙げる。乗車の意思表示をしたのは、もちろん僕だけ。
立ち上がり、一歩歩いて振り替える。彼女と目が合った。
「いつか、火星に行ってみたいな。」
それは彼女の目を大きくするほどの言葉ではなかったらしい。
その代わりとでも言うように、嬉しそうな微笑みが返される。
「きっといいところよ。私もいずれ、戻ろうと思ってる。」
「その時は是非、火星の歴史を教えてほしいな。」
「ええ、楽しみにしてていいわ。私もちょうど、興味を持ったところだし」
バスに乗る。余韻を満たす間もなく扉は締まり、少しだけ悩んだが、彼女に手を振ってみた。座ったままの彼女は、躊躇うように、けれど同じように右手を振ってくれた。
動き出すバス。小屋の壁に遮られ、その姿はすぐに見えなくなる。
ふかふかとした座椅子に身体を預け、僕は何故、バスに乗ったのかと考えていた。
彼女との邂逅が僕の思春期的な何かを解決したということはない。それだけは絶対にない。
けれど少しだけ、更に言えば生まれて初めての、自ら得た目的意識を感じていた。
過去を羨み、今の世では何も出来ないなんて陰鬱な感情は、少しだけ晴れていた。
揺れる車内、シャルホを操作し通販サイトにアクセスする。
フィリップ・K・ディックの【アンドロイドは電気羊の夢を見るか?】
今注文すれば到着は明日か。ダウンロード版ならすぐだろうが文庫版で欲しかった。
これは、うん、気分だ。気分でしかない。
決算はBIで。小さな金額だが、今まで蓄えられてきた数字はしっかりと変化する。
これを僕の、第一歩としよう。
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