第50話 豚丼哀歌
曇り空の広がる師走の日曜日。
おれは冷たい北風の吹きすさぶなか、昼食をとりに一人で食券制の店に入った。
店の入り口をくぐるなり、食べ物のいい香りにつられて腹がぐーっと鳴る。
さすが日曜の昼間というだけあって客はたくさんいた。家族連れや若い男女の集団、それにおれのような一人客もいる。
十席近くあるテーブルはほとんど埋まっており、後ろを見ると、まだあとから客がやってくる様子だ。
おれは自分の座れる席がなくならないよう気にしながら券売機の列にならんだ。
自分の番がやって来て、ラーメンにしようか、丼にしようかと、アゴを撫でながら一考したすえ、今日はがっつり丼物にしようと豚丼のボタンを押す。
カウンター向こうの厨房では、ポニーテールの少女が中華鍋を振っていた。勝ち気な瞳で忙しそうにくるくる働いていて、隣にもまた調理に夢中になった小柄な少女がいた。
従業員は五人ほどいるようで、十代の女の子が皿を片付けたり、奥でガチャガチャと音をたてて洗い物をしているのが見えた。
みんな、なかなかの美少女だ。おれは心中でほくそ笑む。それに店員は元気な子や大人しそうな子など、いろんなタイプの少女がいて、店内はさながら色とりどりの小さな花畑のようであった。
食券を出して待っていると、カウンターに湯気の立ち昇るほくほくの豚丼が現れた。視線でとらえた瞬間、歓喜がやってきて胸が踊りだすのが分かった。
おれは豚丼がのったトレーを両手で大事に持った。早く食べたい衝動を抱きつつ、空いている席を見つけ、静かに椅子を引いて腰掛ける。
隣には女子小学生くらいの子供を二人連れた若そうな夫婦がいた。反対側の席には、大学生くらいのカップルが仲睦まじく食べている。
おれは左右の席にいる人のことは意に介さず、割り箸を親指にはさんで両手を合わし、「いただきます」と小声でつぶやいた。
──丼物は熱いうちに食え。と言われている。
よっておれは、箸を割るなり豚丼を食すことに取り掛かった。これよりおれと豚丼による一対一の舞踏が始まるのである。
まずは豚のバラ肉をつまんで口に含んだ。濃厚な味が舌を満たした。つづいて甘い醤油だれの染み込むあったかいご飯をかき込む。
口いっぱいに豚肉の旨みが広がり、さらにおいしさが倍増する。
噛み締めるほどに、肉汁とタレの豊潤な風味が鼻腔を駆け抜けていく。そして自然と発する感嘆の声!
「うん。美味い!」
おれは周囲の客にはほとんど目を触れず豚丼を食べることに集中した。
食べる手が止まらなくなりそうだったが、ふと脳裏にひらめくものがあった。
……そうだ。この豚丼に、キムチを載せてみたらどうだろう……。
おれは豚キムチ丼にレベルアップした姿を想像した。すると脳裏にドラクエばりのファンファーレが鳴り響く。
判断は決された。おれは箸を止めて立ち上がり、ズボンのポケットからサイフを抜く。
豚丼をテーブルに置いたまま券売機に向かった。しかし、この行動がのちに至福の時間を奪うかたちになるとは、まだ知る由もなかった。
他客の列はさほど長くなかったので、コイン投入口に金を入れてすぐにボタンを押した。それからカウンターで品を受け取った。
おれはコブシを固めて天井をあおぐ。
よし! 目当てのアイテムをゲットしたぜ。
あとはコイツを豚丼にのせて、キムチの辛味とシャキシャキした歯ごたえを堪能しながら腹を満たすぞ!
そんな熱い決意を胸に抱きつつ、高揚感に包まれたまま、持ち場たるテーブルに小走りで戻ったときだった。
あれ?????????????????
テーブル上に変化があった。頭の中で疑問符がいくつも乱れ飛んだ。
ない。ないないないないないないないないッ!! さっきまで食べていたおれの豚丼がない! ついでに飲みかけのお冷が入ったコップもない!
なんてコトだ! テーブルは台ふきんで拭かれた形跡を残して、綺麗に片付けられているじゃないか!
なんで? いったいぜんたい、どこへ行っちまったんだ愛しき我が豚丼よ! まさか豚肉は養豚場に、白米は田んぼに戻ったわけではあるまいに。
おれは手からキムチの小皿を落としそうになった。いや、キムチどころではない。予想外の有様にヒザから崩れ落ちそうになったのだ。
がっくりうなだれテーブルに手をついた。背中に影を帯びて石像のように静止した。隣のテーブルの家族連れがこっちを見ているのに気づいた。
主人らしき人が、遠慮がちにラーメンをすすった。
目が合い、すぐにそらした刹那、淡々とした声音が流れてきた。
「丼。さっき店員さんが片付けてましたよ」
「……!」
知りたくなかった情報だが、教えてくれた事実におれは心の中で礼を言う。
食べ物を奪われたショックにより、うまく口を開けなかったのだ。
しかし、なんてせっかちな店員だろう。撤去するならまず確認くらいとってほしい。
席を空けているあいだに、食べかけの物を勝手に片付けるなんてあんまりだ。五分くらいの隙におれの豚丼をかっさらうなんてひどい!
今頃、おれの愛する豚丼は、カウンター奥のゴミ箱へ無残にも捨てられているだろう。幼き頃、精魂込めて組んでいたプラモを暴れていたきょうだいに踏み潰されたことを思い出した。
だが何を言ってもあとの祭りだ。
仕方なくおれは、無言のまま椅子に腰かけた。新たに箸を割って、小皿のキムチをぽそぽそと食べはじめた。
わびしい気持ちにさいなまれ、背を丸めている自分がいた。それでもおれは赤い白菜のかけらを箸でつまんで口に放り込む。
短くポリポリ噛むごとに、悲しみと後悔の波が押し寄せてくる。
あぁ……。欲をかいて豚キムチ丼に昇華しようなどと考えるんじゃなかった。
さきほど席を立つ際、店員に一言断り、「これまだ食べるんで置いておいてください」と、告げておけばよかった。
などと思いながら、なにげなく横を見る。
事情を知っているカップルがおれを眺めている。まるで哀れなものを見るように、または愉快な珍獣でも観賞するみたく口元をほころばせている。
クソぁ! 見せモンじゃねーぞっ!!
心中で高らかに叫んだ。今置かれた状況に、だんだんと腹が立ってくる。
ほどなくしておれは箸を止めた。すっくと立ち上がった。椅子が大きな摩擦音をたてた。
よし! 豚丼を無断でさらった店員に、一言抗議してやる!
すぐさま足を進めていき、両手でバン! とカウンターを叩く。
「あのですね! さっき、あの、さっき、向こうの」
ちょうど集まっていた少女たちの視線が一斉に集まった。どうやら客が突然やってきて何事かと思ったらしい。
おれは言葉を詰まらせたがふたたび声を発する。
「テーブル片付けたの誰ですか??」
視線は集まったが、おれが何を訴えているのか、いまいち理解されていない様子。少女は一様にポカンとした顔になっている。
だからテーブルに指を向けた。
「あそこに食べかけの豚丼があったでしょう? それ片付けたの誰なんですか」
大人しそうな一人の店員が、おぼんを置いて、自分がそうだと言うふうに短く手を挙げた。
ロングヘアの涼しげな瞳をした少女だった。
彼女は上目遣いでこっちを見、そしてシュンと視線を下ろした。小さな手がエプロンをぎゅっと握っていて、心を痛めている様子が感じとれた。
自省の意は伝わるも、おれの脳裏の天秤はまだ豚丼に重きを置いている。
どう出ようか逡巡していたら、グループの中の勝ち気な少女が堂々たる足どりで出てきた。それから腰に手をすえて口を開く。
「なにか問題ありましたか?」
「えっ?」
あるに決まってるだろう! 問題があるからわざわざ席を外して抗議に来たのだ。
……でもそんなことは口には出さない。荒っぽく出ると仕返しが怖い。女の団結力は訓練された軍隊の波状攻撃並みに強力なことを経験上知りえている。
代わりにおれはイラ立ちをおさえて、こう言った。
「いや、勝手に持っていかれても困るんですけど」
「勝手にって、あんた席にいなかったじゃん」
「あのね……」
おれはなぜ離席したのかその理由に手振りを交えて説明した。
説明し終わるや否や、小柄だがもう一人の気の強そうな少女がカウンターに肘をかけた。手をひらひらさせて呆れたように横目を流した。
「追加注文があるなら、席を立たずにうちらに声かければいいでしょ」
「なっ!」
鈴を振るような無駄に可愛い声だった。もしも今のシチュエーションがエロい場面ならさぞ萌えただろうが、今はそんな悠長なことを思っている場合ではない。
「でも聞いてください。食券を買わなきゃ注文が通らないと思ったんですよ」
「はぁ? 知らないんですかお客さん」
言うに、あとから注文するならば、券売機を使わなくても応じてくれるらしい。
続いて、神秘的なオーラをまとった上背の姉風情な少女が、静々と言葉をつむぐ。
「片づけを拒否したい場合は、まだ食事中ってことで、箸をひらいて器の上に置いておくのがマナーです」
「は?」
そんな決まりがあるのかよ!
箸をひらいて置いておく? 食券制の店にそういったアピールの方法があるなんて知らない。
だがスマホで検索してみると、確かにそういう作法があることを知った。
おれはなすすべもなく棒立ちになってしまう。気の強い少女はめんどくさい客をあしらうような態度を誇示していた。
「今度からは、そのハゲ隠しにかぶったカツラとか手荷物とかなんでもいいから置いといて、一時的に離れてるだけって意思表示しといてよね」
「いやいや。ちゃんとした店では客が退店するまで絶対に片付けないでしょうに。それにおれはヅラなんて被っていませんよ」
「今いそがしいんで、言いたい事あるなら店が終わってからにしてよ!」
少女は眉間にしわを集め、とっとと出て行けといわんばかりの態度で背中を見せた。そして一同解散というふうに手振りを入れる。皆それぞれ持ち場に帰っていく。
見送るように呆然としていると、耳朶に店内の喧騒が戻ってきた。そして脳中でこう思った。
この店は、ちゃんとした店ではなかったということだろうか。客の回転率を上げるために食器を早めに片付けたかったのかも知れないな。
少女複数対一人のやりとりは多勢に無勢……。
あまりしつこいとイカレたクレーマーだと思われ、通報されそうなのでこれ以上立ち入るのはやめた。
もう何も言い返せず、がっくり疲れたおれは、口を閉じてきびすを返した。
肩を落とし、元気をうしなった歩調で自分の席にもどる。
テーブルに置き去りにしていたキムチの小皿を手に取った。残りのぶんを箸で一気に口へと流し込んだ。
黙々と噛みながら、店員の顔も見ずに小皿をカウンターに返した。
店を出たおれはポケットに手を入れ、身を縮めたまま寂しく午後の歩道を進んだ。
冷たい風が足に絡まるように吹き去っていく。
結局のところ、どうすればこの事態を回避できたのだろう。そしてどんな選択肢をとれば楽しい食事の時間を過ごせたのか。
……この一件以来、もうこの店には食べに行っていない。
なぜならおれが、いや、この私が自身の権力を使って閉店させたからだ。もちろん従業員は全員解雇した。
チェーン店の会長たる私に与えた仕打ち──。これは妥当な戒めだと思っている。
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